箱の中
手先が、器用だ。イソップ・カールは客観的に自身を推し量っていた。指先は滑らかに動き、数ミリ単位で意のままに操ることができる。職業柄必要とされた能力であり、天与の才でもある。子供の頃は何に役立つものか理解していなかったが、師について初めて人生の意義を知った。
イソップが指先で語り合う相手は、いつだって静かである。死体は口を開かない。余計なことは言わず、死んだままでそこに横たわる。傷つけて仕舞えば二度と治らぬため、直す作業は繊細さが求められた。さながら生き人形のようだと評されるまでに偽の骨と肉とを与え、縫い合わせて美しく顔を飾って蘇らせる。華々しい死への門出だ。
死んだ人間は幽霊になると云う人もいたが、最後の審判の時まで起き上がることはない。死にきれなかった可哀想な人間だけが、時折足掻こうとする。イソップは慈悲深くも彼らを親切心から助けてやることもした。きっとあの世で(そんなものが存在するか不明だが)感謝してくれていることだろう。
自分は人々が満足いく形で幽門を潜るための手を持っている。そしてその道具もまた、自分の望みに応えてくれるものでなければならないのだ。
「開かないな……」
時は進んで現在、イソップは荘園の自室で不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。ただでさえ下がりがちな眉がいよいよ傾斜角を増す。一眼見れば悩みの深さは知れよう。ガチャガチャと音を立てながら慎重に慎重を重ねて青年が弄っているのは、ゲームで大活躍する相棒の棺桶が詰まった不思議な鞄である。
人間一人が入る棺桶は、少なくともイソップの身長程度にはなければならない。おまけに荘園の主人が自分に渡した棺桶は特別仕様で、中には身代わり人形が入っている。死化粧のセットも入っているため、荘園の外でもぜひ活用させて欲しい素晴らしい逸品だった。自分はずっとこんな道具が欲しかったのだ、と今でもイソップは荘園の主人に感謝している。
だが、道具は所詮道具。どんなに心を傾けようとも、壊れることはあるらしい。明日のゲームに向けて念の為確認をしようと鍵を開けにかかっているのだが、うんともすんとも言わないのだ。ただパッチン錠を開けるだけで良いはずが、どこかで噛んでしまっているらしくて僅かに揺らすことしかできない。ゲーム当日に判明しなくて本当によかった。
問題はここからである。さてどうやって修理しよう?鞄の中身は無事だろうか。にっちもさっちも行かない状況はイソップの脳裏を想像の世界へと羽ばたかせ、暗い沼へと押しやっていく。身代わり人形は窮屈に折り畳まれたままだろうか。最後に納棺した人間は誰だったかと記憶をたどり、行き当たったのはクリーチャー・ピアソンだった。
自称『慈善家』という胡散臭い肩書きを持った男は、イソップの中で数少ない安心要素だった。あれは他人との距離の計り方を良く知っている。ごく稀に暴発する感情さえも自分には降り注がない。気持ちの良い放置というものがあることを、イソップは久方ぶりに知った。彼が作るアップルダンプリングは数少ない好物でもあった。
「あの時は、結局使わないままだった」
棺桶を立てたにもかかわらず、クリーチャーのチェイスが冴え渡ったおかげで、全員五体満足の状態でゲートを潜り抜けたのである。イソップの能力は、可能であれば使わないで済むに越したことはない保険であり、賭けだ。それでも尚惜しさが滲むのは、イソップが荘園での生活に慣れ親しんだ結果と言えよう。
納棺をしたまま不使用の場合、身代わり人形は何らかの手によって回収され、何食わぬ顔で再び鞄に収まっている。だが、仮にうまく回収されずに中に残っていたとしたら?この中にクリーチャー・ピアソンの予備の体、本物よりもずっとあるべき姿が残ったままだとすれば、異常が起きたことも理解できる。
ふと、イソップの中に好奇心とでも言うべきものが湧き起こった。身代わり人形の特徴は、『イソップが望んだ時に本人を蘇生させる』というものである。いかなる人間であろうとも、自分の棺桶は扱えない。もし、この中に人形が残ったままならば、ここで呼び起こしてしまった時に何が起こるだろう?荘園の主人がかけた魔法が、ゲームの外にも持ち込めると証明されれば、晴れて外の世界に戻った時にも大いに役立つに違いない。
「蘇生を」
しますか?そんな問いかけが聞こえたような気がした。本来であれば安らかに眠り、納まり、二度と苦しむことのないよう願うことなどあるだろうか。生死は一度だけで十分だ。外の世界で自分が使うことなどあるまい。
束の間の誘惑に駆られた自分に後ろめたさを覚えて咳払いをすると、イソップはそうっと鞄に耳を近づけた。何か音がする。コンコン、コツコツ、カリカリ、ゴン、ゴン、ゴンッ
「っ」
慌てて飛び退ると、イソップは鞄から一挙に遠ざかった。叫ばなかったのは単に身に染み付いた商売柄である。まるで、まるで中にいる誰かが出ようとする音だ。否、間違いなく誰かが中にいて脱出を試みていると断言できる。イソップは、ゾッとするこの音を耳にしたことがあった。
「……静かにしてください」
死者は静かであらねばならない。騒ぐことのない、穏やかな凪いだ海のように。鞄が震え、暴れ出すかのように動き始めた。
『今すぐ蘇生しますか?』
再び悪魔が誘いかける。イソップは深く息を吸い込み――あるべき自分を取り戻した。
「ん?」
「どうしたの、ピアソンさん」
ゲームの真っ最中に固まったクリーチャーに、ナワーブは妙な胸騒ぎを覚えた。お祭り騒ぎのような協力狩とは言え、クリーチャーは着実に勝ちを狙ってゆく慎重な人間でもある。悪い言い方をすれば打算的で狡猾だが、ナワーブは純粋にそのしぶとさを慕っていた。そんな彼が、箱開けの最中に手を止めることがあるだろうか。
「いや、」
首を振ると、再び手が動き出す。滑らかでしなやかに動く指先は、いつ見ても心地が良い。器用さは他人にも伝染し、一瞬コツを掴んだような気になって箱開けが早くなるのだから、指先の魔術師と称しても良いだろう。本来ならば立ち去って構わないのだが、ナワーブは何とはなしに彼の手つきを眺めていた。箱から出てきたのはマジックステッキが一本切り。クリーチャーは表情を変えずにベルトにさした。
「誰かに呼ばれたような気がしただけさ」
目つきがとろりと溶けたかと思うと、一瞬にして光を取り戻す。本来の、生き抜こうと足掻く人間の姿だ。話は終わりとばかりに暗号機に向かうクリーチャーの背中が妙にぼやけて見える。疲れているのだろうか。
今日も生き抜くことは忙しい。ため息をこぼすと、ナワーブは自分を見つけた赤い光に背を向けた。
〆.