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胸いっぱいの花を


 戦争が終わったのは、つい数年前のことだった。世界のどこかではいつでも戦争が起きているので、自分が身近に感じて――生活に影を落とすという意味での戦争が終わった日と言った方が正しいかもしれない。クリーチャー・ピアソンは兵役に繰り出されなかったことに心の底から感謝していた。正確な身分証を持たなかったことは、彼に様々な苦労をもたらしたが、同時に恩恵も与えてくれたのである。配給品のやりくりが面倒だったことは今でもよく覚えている。彼以外も、周りに住む人間は皆混迷の只中にあった。どこにも自分を保証してくれるものがなかったのだ。誰も、まるで影のようにそこにあるものを認識していない。お化けになったかのように、人々の記憶と記録から抜け落ちたまま、未だクリーチャーは社会から浮き上がっている。

日常に戻るには準備運動が必要だったから、いきなり生活が豊かになることはなかったが、心のどこかは開放感に満ちていた。戦争で親を失った子供たちを哀れに思う人間も増えてくるだろう。余裕が生まれてくれば金額も増えるに違いない。素晴らしい!五体満足の方が労働力という意味では便利だからだ。金はいくらあっても足りない。生きるためには、死ぬよりも多くの費用がかかるのだ。

だが、クリーチャーに訪れたのは思いもよらぬ商売敵だった。大人になれたにもかかわらず、日常に戻れなくなってしまった退役軍人たちの群、改めて判明した戦没者の家族、寡婦、もろもろどっさりだ。ただ子供であるだけでは、哀れみを請うには物足りなかった。思えば、随分前の戦争の記念日も制定され、分かりやすい被害者たちは安寧を確約されたのである。常に爪弾きにされるのは周縁のものに他ならない。ならば目にも鮮やかに損ねて見せよう、失って見せよう、可哀想だと思う権利を皆に配ろう!かくてクリーチャーは奔走し、与えられるべきものたちに目を向けさせたのだ。記念日を制定するよりもよほどささやかで、実に効果的な手法である。

 結果は?ご存知の通りだ。街中の雑踏から遠く離れた荘園の地にたどり着いたクリーチャーは、もらった赤いヒナゲシの花を触りながら鼻で笑う。王室の方は見事な青で作るらしいが、ここ荘園ではただの紅白のヒナゲシのみである。なぜこの花なのかを知る人間も大しておるまい。かく言うクリーチャーも、この花が選ばれたきっかけの、なんとかという詩の内容までは知らなかった。戦没者の募金詐欺を働いた際に散々作ったものだから、この紙細工の作り方はよくわかる。厚色紙から切り出した花びらを組み合わせ、緑の葉っぱと貼り付ける。裏側にはピン、これで簡単なブローチの出来上がりだ。子供達の首に募金箱を下げ、袋いっぱいのヒナゲシの花を持たせる。通りを歩いてポピーデーだよ!と叫んで募金を募れば瞬く間に集金できると言う仕組みだ。幅広い意味では皆戦争の犠牲者なので変わりはないし、紙細工のヒナゲシも本家並みに出来は良い。よって、かつてのクリーチャーは全く正々堂々とやってのけたのだった。花は渡すばかりでもらうは金ばかり。それが当たり前だと思っていたのだが、荘園に来て無償の花を下げ渡されるとはまた皮肉な話である。

 今日は平和の記念日です、ゲームの後には優秀者に花をさしあげましょう。荘園の主人からの新たな催しのお誘いは、変わらぬ児戯だった。そもそも殴られ嘲る命がけの勝負に平和も何もあったものではないのだが、ゲームを中止するという発想には至らないらしい。やはり荘園の主人という人物は捻くれている。たかが紙の花、募金を募る相手もいない飾り物よりも金が欲しいと思ったが、偶然にも手にしたのはクリーチャーだった。残念そうなため息をつくパトリシア・ドーヴァルの気が知れない。あげようか、と言うのは簡単だったが、結局何も言わずにおいた。高みにあるものが、下に向かって手を差し伸べることは善意であれ無意識であれ、時として相手を傷つけるものだからだ。ましてや今回は優秀者かどうかを競った結果である。クリーチャーでなければあるいはうまく振る舞えただろうが、うまい考えは思いつけない。ただ、損得を脇に置いて心を表すならば、ちょうどこんなものだろうかとは思う。

『お帰りなさい。よくやったね。頑張ったね、大丈夫?痛かった?無理をしないで。ああ、本当に良かった!』

どんな風に言おう。褒め称えよう?思えば、誰もが戦争に出かけたようなものだ。無事に帰ってきたならば、何も一番活躍せずとも勲章をくれてやりたい。ましてや花、罪のない花ならばいくらでも与えたって良いだろう。花をいじるのをやめると、平和とは何かを考えながら台所に向かった。まだ、午後のゲームもある。やりようはあるはずだ。




 午後のゲームは随分と白熱した。ナワーブ・サベダーは肘当てを使いすぎてヒリヒリする腕をさすりながらの帰還を果たし、ポーチを這い上がって扉を開ける。試合はボロボロ、かろうじて逃げだせたフィオナ・ジルマンが今日の優秀者に与えられるポピーの花を誇らしげに胸に飾った。子供っぽい思いかもしれないが、本当はナワーブこそがその栄光に預かりたかっただけに悔しい。午前中にはクリーチャーが手に入れたのだと聞いていたのだから尚更だ。俺も頑張ったんだよ、とわかりやすく誇示したい。そうすれば、少し恥ずかしがり屋の愛しい人も自分に優しくしやすいだろう。

手に入れられなかったものを考えるのは時間の無駄だ。次の催しではもっと頑張って、うまいこと利用する。今日の試合の反省点を考える方がよほど身のためだ。読み合いでいける、と思った瞬間は少し遅かったし、信号からハンターの位置を推測する連携がうまく取れなかったような気もしている。組んだ面々と少し話さなければならないだろう。ああしかし疲れた!

「いい匂い」

シャワーを浴びようと足を動かしたところで、ナワーブは香ばしく、懐かしい甘さ(多分これはデーツだ)を嗅ぎ取り足を止めた。間違いない、と厨房へと向かう気持ちが急く。自分にとってはポピーより余程大好きな花が待っていたら、その顔を見られたとしたらなんて心が安らぐことだろう。厨房の扉を開けば過たず、クリーチャーの薄い背中がオーブンから何かを取り出す仕草をしているところだった。匂いの源はここにある。

「ピアソンさん、ただいま」
「おかえり」

ちらっとクリーチャーの目が自分の全身を見やったことに気がつき、ナワーブは少なからず落ち込んだ。気を取り直して、テーブルに載せられた茶色い物体の方を覗き見る。何かのケーキだろうが、いまだ眠りから冷めない姿は全容が知れなかった。

「もう少し冷めるまで待っててくれ。冷めたらお茶にしよう」
「……もしかして、これって俺のため?」

ほぼ願望に過ぎないものをぶつけると、クリーチャーはいつものようにふ、と半目で笑って見せた。皮肉げな、幼いものを見る目つきは嫌いではないが、今のナワーブにはぐさりと刺さる。へしゃげた気持ちには優しさの方がありがたい。

「他のみんなの分も焼いたが、これは君の分だよ。ゲーム、お疲れさん」
「ピアソンさん、大好き」
「知ってる」

さらりと返すクリーチャーの耳は赤い。つられるようにして頬を染めて、ナワーブはすでに皿に並べられた一群が有ることに気づいて目をやった。パウンドケーキらしきものには一面の黒い小さな粒々が詰まっていて、塗られたジャムやクリーム、練り込まれた果物はどれも違うらしい。クリーチャーはがさつな乱暴者のように思われがちだが、手先が器用でいくらでも精緻な振る舞いができる。ただ、意識をしようとしないだけなのだ。茶の支度をし始めたクリーチャーが、そうっとケーキの上に手をかざして温度を確かめる。ちょっとした動作は彼が生きていることをたまらなく実感させて、ナワーブはうっとりした。

「ポピーシードケーキだ。今日はポピー・デーだからな」

君のはデーツ入りだ、と甘い声がする。なるほど、花は手に入らなくても自分にはいつか、の可能性があるのだった。来年には身体中にポピーの花を咲かせよう。誇らしげに毎日でも彼の手を取ろう。ヤカンが沸騰したことを知らせて、ナワーブは鼻歌交じりに手を洗った。


〆.