私は君に食べられたかった/3.BEAT
見つからない。キィ、と音が鳴ると同時に赤い箱が開く。中身は?肘当て。違う、今欲しいのは注射器だ。ため息を押し殺すと、クリーチャー・ピアソンは仕方なしに肘当てを拾ってとぼとぼと歩き始めた。欲しいものが決まっている時に限って、いつも違うものが出るのは荘園の主人が与える試練だろうか。箱を開ければハンターに場所を知られてしまうのだから、もう少し温情をかけてほしいと嘆かずにはいられない。とは言え、ハンターは自前の道具一つきりでどうにかするよう義務付けられていると考えてみれば、温情があるにはあるのだろう。
今日の舞台は聖心病院だ。ここは来るたびに頭が絞られるような痛みを覚える。もっと恐怖を覚えるのはホワイトサンド精神病院だった。自分が大事にしていたものが他の人間の手で変えさせられてゆく姿を目の当たりにするのを、一体何度経験すれば良いのだろう?あの『家』が自分の手を離れてしまって以来、クリーチャーは建物がある地区そのものから足を遠ざけていた。新聞の記事でちらほら見かけても頭の中で黒く塗り潰したし、噂も何もかも届かない場所に行こうと雑踏の中にまぎれもした。
だと言うのに、もう一度再建しようと志す自分の目の前にあるこの現実はなんだろう?全ては舞台設定だ、そんなことくらいはよくわかっている。住民はいない。壁も窓も荒れ果ててボロ小屋と化した。わざとらしいくらいにおぞましい実験や治療の痕跡が散らばる。お前が運命から手綱を離したからこんな惨事が引き起こされたのだとでも言うように。
中心部から離れて不気味な彫像の前に立つ。こんな悪趣味なものを作り出したのが病院の経営者だとしたら、クリーチャーよりもよほど人の心、それこそ愛なんて一雫もないように思われた。カラスが舞わないうちに暗号機に触れよう。仲間と合流できるかどうかよりも、まずはそこからだ。完全に沈黙した暗号機は手付かずで、少しずつ眠りを覚まさせる作業は楽しい。
作業に没頭している最中、じ、と視線を感じて彫像に目をやり、クリーチャーは首を傾げた。先ほどこの彫像の顔は右を向いていたように思う。なぜ今はこちらを見ているのだろう?
恐怖を貼り付けたような表情が不気味で目をそらし、クリーチャーは嫌な汗がじっとりと滲み出るのをも無視した。大丈夫。はめた肘当てを見ると、不思議と心が落ち着く。あんな彫像よりもよほど熱心な眼差しが思い出される。あの暖かさは愛なのか。やはり自分には未知のものだった。
ナワーブ・サベダーはいつだって見ているだけ、さりげなく手伝ったり、馬鹿話をしたりするだけだが、眼差しは常に熱を帯びていた。まるでバルクの監視カメラが作動している時のようにどこからか見られていることを強く感じる。もし、視線が手に取れるように形を持ったならば、クリーチャーの体は穴だらけになっていただろう。どうしてこれまで気づかなかったのか、つくづく不思議だった。そもそもクリーチャーは誰かにじろじろと見られることが嫌いだというのに。人とは、存外鈍感なものである。過度な鋭敏さはかえって酷だ。
神経質といえば、ナワーブは暗号機の通信音に対して冷や汗をかいていたように思う。その気持ちを理解することも共有することもできないが、彼と組む時はできるだけ一緒に解読するように努めていた。慈善家としての優しさと言うよりも、どうすればより効率的に勝てるのかを考えた上での判断である。
神秘的な音が響き、どこかに棺桶が立てられたことがわかる。イソップ・カールの顔をまともに見た記憶はないが、彼ならば、とどこかで期待した。期待?誰かに期待するなどいつぶりだろう。とっくのとうに捨て置いたはずの感情は、この荘園でいつの間にか地面から這い出た。
祈りが通じたのか、クリーチャーのための棺桶になったことが通知される。良い仕事ぶりだ。暗号機が高く歌うようになる。もうすぐ答えがわかるだなんて、わかりやすくて良いものだ。ふらつく頭で暗号機の部品を抜き取る。と、わずかに引っかかり、ばらけた部品がバチンと大きな音を立てて弾けた。
「チッ」
病院のちょうど対角線の場所にハンターの姿がちらつく。女性を賛美して止まないカヴィン・アユソならば諸手を挙げて喜ぶだろう美智子だ。クリーチャーが普段から扱う懐中電灯は彼女と相性が良いためなんとかここまで逃げだせたのだが、次もうまくいくとは限らない。焦らずにその場を離れてチャットを飛ばす。解読に集中して。
「どこだ」
他の皆はどこだろう。解読が進んでいるらしいことだけは薄々察せられるが、見事にすれ違っているらしく影すら見つけられない。月と太陽は基本的に出会わないのだとイライ・クラークが星空を背景に話してくれたことを思い出す。
月は太陽の光で輝いているのだとも。月ですら太陽の光が届くのかと驚いたものだ。今はわずかな光すら見えない。ヒュオーン、と泣きわめくような音に背筋が震える。そうだ、そこにいるのだ。さっと振り向けば、美智子の美しく光のない真っ暗な目と目が合う。
瞬間移動で来たのだろうことだけはわかった。塀を乗り越えて一撃目をやり過ごし、血の跡を垂らしながら走る。普段であればここで懐中電灯を取り出して目くらましをするところだが、あいにく手元にあるのは肘当てだ。するりと手を滑らせてスイッチを入れる。実際のところ、この道具を使うのは初めてだった。彼はどうやって使っていたろう。確か壁に向かってぶつかって、と汗を滲ませながら壁に肘を当てる。ビュン、と世界が飛んだ。
チャットを打ちながら建物の中へ、地下に通じる道のりは幸いここにはないと横目で確認する。古いトイレがある小部屋に入り込み、あるはずのない下水の匂いで軽くえずいた。板の後ろに身を寄せようとしたが再び風を切る音がする。東洋の鬼の仮面がそこにはあった。だめだ、時間がちっとも稼げていない。
解読できている暗号機は二台だけ、既にウィラ・ナイエルが飛ばされている。残されたのは解読を任せているイソップと、既に銃を使ってしまったマーサ・べハムフィールだけだ。マーサ自身も怪我を負っているから、二人が出会えなければ最悪の事態だろう。
もつれそうになる足で小部屋を飛び出し、もう一回壁に肘を思い切り当てる。ビュン!目まぐるしくて自分を見失ってしまいそうだ、ナワーブはよくぞ平気で扱えるものだとクリーチャーは感心した。自然と笑いがこみ上げてくる。恐怖が隣り合わせだというのに妙に心強い。暗号機の解読がまた一台、終わった。美智子がこちらを放り出して解読が終わった方へと飛んでいく。悪くない判断だ、とクリーチャーはようやく一息ついた。
「ありがとうな」
手近な箱を開け、ようやく注射器を見つけ出す。まだ使える肘当てを外して置いていくと、クリーチャーは慈しむようにそれを撫でた。自分がここまで粘り強くやれたのは、ただこの道具の素晴らしさによるものではない。心が、何よりもがっしりと支えられたのだ。会って礼を言うことはないが、今の気持ちを忘れることはないだろう。ずれた帽子をかぶり直し、クリーチャーはようやくまともに立ち上がった。
心臓がどきどきと鼓動する。ゲームはまだこれからなのだ。
>4.DEFEATに続く