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約束の始まり


 河岸はなんの事件もなく長閑だった。元よりこの川は水位が低く、ただ鼻歌のように楽しそうなせせらぎを響かせるばかりなのである。たんぽぽが揺れ、蝶が番いとなって舞飛んでいた。范無咎の体が流れ着いたのは、そんな生まれ育った街からはるかに下流の川べりである。

 当初は自分がやけに濡れているだとか膨れているような気がするだとか色々あったのだが、どうにも記憶が曖昧でいけない。おまけにここから移動することができないのだ。こんなにも自分の足は長く身軽だというのに妙な話で、何度立ち上がってもズリズリと河岸に戻ってしまうもどかしさに辟易してしまう。

何日経っても腹が空かず、そもそも何故ここに来たのだろうと唸った頃、ようやっと他人に声をかけられたのであった。

「新顔のようだな。私は河伯(川の神様)だ」

あまり偉くはないのだが、と言う自称神様は大層頼りない風貌だった。親戚に一人はいそうな男だな、と范無咎が勝手な感想を抱いていると、河伯は君は死んだのだよと困り顔で話し始めた。死んだ?何故?自分は約束を守ったではないか。何の約束だった……約束と言えば謝必安とのものに決まっている。そうだ、あれは突然の大雨で川が、干上がっていると見まごうほどだった川が自分を押し包んだのではないか?

「謝必安!」

突然全てを思い出し、范無咎は手足をバタバタとさせた。こんな川べりで這いずり回っている場合ではない。なんでもものをよく考えているようで無頓着な幼馴染を本当に考えてやれるのは自分だけだ。自分が流される直前、確かに謝必安の嘆きを聞いたような気さえする。あんな声を出させるべきではなかった。彼はきっと勘違いをしているだろう。

「残念だが、水死した者は、代わりを見つけない限りはどこへも行けはしないのだよ。しかし朗報がある。私は閻魔王より君を呼ぶよう頼まれたのだ」
「……俺は地獄に行く真似をしたつもりはない」

むしろ約束事を守り、曲がった事をせず、ただ謝必安の安寧と自分の喜びとを結びつけて暮らしていただけだ。怪訝そうな范無咎に、河伯はこれこれと持っていた笏で頭と足を叩いて川の中へと蹴落とした。くるぶしほどまでしかなかったはずの水面がじわじわとせり上がっていく。水底から無数の手が伸び上がり、あたりは暗闇に包まれた。寒く冷たく、真っ暗で、なるほど地獄は居心地が悪い。

 こんな場所に来る羽目になったのは何故だろう。自分のせいか?それとも謝必安がもう少し早くたどり着いていればーーそんなはずはない。橋の下で待っていて、と言われたからと橋の下で待ち続けた自分が愚かなだけだ。膝まで水が流れ込んできた時、轟々という不吉な音を聞いた時、いくらでも逃げる隙はあったというのに自分は微動だにしなかった。

 謝必安が、きっと勘違いしてくれると、生まれて初めてひどい計算をした罰が当たったのだ。本当は少し溺れるくらいで、慌てた謝必安が助けようとするのも面白いとさえ思っていた。だから最後まで手を振ることをやめなかったのだが、謝必安はかえって慄いたろう。

 気づけば乾いた大地に立っており、地獄の邏卒が前に後ろに立ち、地の底のような洞穴を延々と歩まされる。あちらこちらから悲鳴が上がり、無実を訴える人々が列をなしている。時折翼の生えた虎どもが上から降りてきては、そうした人々を咥えてさらっていった。死んだ後も死ぬとしたならば、どうなってしまうのか、范無咎は気になって仕方がない。そういうことに興味を示すのは君が子供っぽいからだと謝必安に散々からかわれたものだ。謝必安。彼はどうしているだろう。

 巨大な広間に到達すると、邏卒が静かにするようにと身振りで示す。ここだけは緋色の絨毯が敷かれ、絹の垂れ幕があちらこちらに釣り下がり、金細工の灯篭が真昼間のように全てを明るく照らし出していた。奥の巨大な席に座る長髭の役人が閻魔王だろう。物語に出てくる姿のままで、范無咎はほうとため息をついた。

「来たか。これよりそなたに役目を授ける。そなたの友と共に現世でまつろわぬ魂を連れてくるが良い」
「謝必安?お前、どうしてここにいるんだ!」
「范無咎!范無咎、ああ、会いたかった、あなたに会いたかった!」

友と示された先にいたのは謝必安で、あの日持ってこれなかった傘を手にうずくまっている。面やつれをし、白面郎君よと街の女子供が持て囃した繊細な青年の面影はどこにもない。体は針金のように細く、目は虚ろで、瞳の奥に黄金の光がちらつく。幽鬼さながらの様子に、范無咎は思わず一歩後ずさった。こんな謝必安を自分は知らない。死んでしまったことだけは確かだが、彼の身に一体何が起きてこうなったのだろう?

 抱きしめようとする腕から逃れると、どういうカラクリか思いもよらぬ速さで謝必安が近づき、がっちりと范無咎を抱きすくめた。謝必安の首筋から、死んだ匂いが漂う。生前ではあり得ない力強さに、范無咎はひどく体が震えた。

「ずっと待っていてくれて、本当に嬉しかったんです。私が、私のせいで、あなたをこんな目にあわせてしまってごめんなさい」

死んだ人間は泣けないらしい。ただすすり泣くような声ばかりが聞こえる。彼はどうやって死んだのだろう。どれほど自分は待ったのか、なんにせよ全ては范無咎が思い描いた絵図通りに運んでいるらしかった。

「だが、そなたらの為したことは業が深い。哀れと思うが故に役目を授けるが、同時にそなたらには罰を科す」
「……それは、一体なんですか」

もう二度と離さないと餓鬼の顔つきで謝必安が吠える。生前よりもずいぶん伸びた舌は発話しにくいのか、どこか苛立った様子だった。だが閻魔王は流石に何も気にせず、指先をうごめかした。つられるようにスイ、と謝必安が背負っていた傘が飛ぶ。

「そなたたちは二つで一つとなってこの傘に宿るのだ。共にいるのだから文句はあるまい」

なんの罰にも聞こえない話に、范無咎は首を傾げた。

「黒無常、白無常。そなたたちはこれより新たな名で過ごすと良い。私からは以上だ……あとはこの傘の行先でなすべきこともわかるだろう」

閻魔王の台詞が終わると共に、再び世界はしぼんでいく。傘の中に取り込まれたのだということはすぐにわかった。雨の匂いがする。見たことのない墓場。庭。朽ちた建物は紅毛人の住まいのようだ。

「謝必安?」

傘を持って立つのは己ただ一人だと気づき、黒無常は慌ててあたりを見回した。傘が震える。生きてはいない自分の体に三魂七魄が一揃いあることがわかる。踏み出した足が感じる土の硬さに、黒無常はようやく罰の意味を知った。

 白無常は自分と共にある。この体の中に、傘にありながらにして決して触れ合うことはないのだ。彼の中にいつまでも自分をとどめようとした自分が招いたことだと嘆息し、ならば謝必安は何の罪を犯したのかという好奇心が頭をもたげる。彼はいかにして死に至ったのか。あのように長く舌が伸びるなど想像もつかない。

「いつか、俺に教えてくれよ」

それが白無常としてなのか、失われてしまった謝必安としての返事なのかは定かではない。どちらにも会うことのできない黒無常には預かり知れぬ出来事だ。どれほど悩んだだろう、どれほど自分を求めてくれたろう!歓喜に打ち震えて喜びに身を浸したくとも、あの川べりと同じように少しも動くことはできない。二人はただ、ここにある。ここにいる。

 これは呪いだ。全てを望んで手に入れた、甘い牢獄だ。いつか再び出会ったならば、今度こそ自分は彼の背骨が折れんばかりに抱きしめてやろう。彼が望んだように恨んだ振りだってしてやろう。

そうして互いに赦し合う遊びをするのだ。ああ素敵な未来!荘園の入り口にたどり着くと、黒無常は傘を畳んで扉を開いた。

「おやすみ、白無常。またいつか」

新たな約束を口にし、傘の柄に指を絡ませる。確かに白無常の骨のようなしっとりとした指に触れた、そんなような心地がした。


〆.