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どんなリンゴもリンゴはリンゴ、美味しかったらそれで良い


リンゴ甘いか酸っぱいか


 絶望とは、希望をして初めて訪れる。希望に基づく未来への展望が期待を孕み、前を向いたその瞬間に背後から殴りかかってくる代物だ。希望も絶望も、繰り返される既定路線を逸れた場所に存在する。物分かりがいいフリをするのであれば、そもそも余計な希望など持たずに予想範囲内で普通を享受するに越したことはない。別段、それで不幸になるというわけではないし、生きることへの満足は得られるのだから。

 大人になり、社会人生活を長く営むようになったアオキにとって、期待は何よりも自分を裏切るものだった。だから、そもそも期待なんて自他ともにしない。特に人間相手は不確定要素が多く絡みすぎるので要注意だ。普通が一番良い。自分もずいぶん大人になったものだ――そう満足する日々を過ごしていたのは、どうやらただの慢心に過ぎなかったようだ。

「リンゴ」

人は絶望と共に語彙を失うのだとも今知った。鞄から取り出したはずのリンゴ、が三つ仲良く膝上に並んでいる。リンゴには目がついており、しっかりとこちらを見上げていた。目を合わせたらば負けだ、と本能的に悟って視線を泳がせるよ、アオキの気持ちはどんよりとしたまま少しも晴れない。思い返せばさまざまな理由からこの状況は納得のいくものであり、ひとえに自分の読みが浅かっただけだという敗北感で足のつま先から頭のてっぺんまで深く深く沈んでいた。強く吹き付ける風にのった、リンゴ――もといカジッチュの爽やかな甘さが鼻をくすぐる。美味しそうだ。なんとも無念な話だった。

 場所は風吹く砂漠の街、ピケタウンである。人口の割には大きなポケモンバトルコートが整備されており、住民が仕事上がりにバトルを行うなど、ポケモンバトルに対する興味が高い地域だ。ジムを置くほどではないが、小規模な支部を作るには十分だろう。青少年に向けたポケモンバトルイベントを行うべく、アオキは積極的に営業にでかけていた。

 打ち合わせの結果は上々、珍しく話もすんなりと行ったので小休憩を取ろうと判断したアオキは既にソワソワしていたと言って良い。何しろ今日はリンゴがあるのだ。朝っぱらからジムに押しかけてきたハッサクが差し入れてくれたもので、いかにも高級品といった質の良さそうなリンゴだった。端的に言おう。凄まじく美味しそうだと思って仕事の間中も考えていた。鞄に入り込んだシャリタツが足元をぴょんぴょんと自由に跳ね回っても気にならないくらい、一種夢見心地だったのである。

「ハッサクさんが、ただのリンゴを差し入れてくるわけがない」

要するに自分が浅はかだっただけである。ハッサクは自分を騙そうと嘘をついたわけではなく、渡したいものがあるとだけ言って差し入れてきたのだ。リンゴではなく、ドラゴンポケモンであるカジッチュを渡してきたのは、純粋にアオキにドラゴンポケモンを布教しようという想いからに過ぎない。問題は異例な出来事に飲まれ、食欲に負けて素直に受け取ってしまったアオキにある。

 昨日シャリタツを寿司と間違えて拾ってしまって以来、ハッサクは自分にドラゴンポケモンを扱わせる良いきっかけになるのではないかと意気盛んだった。もともと以前からの彼の野望である。どういうわけだか四天王の頂点に君臨する男は自分に期待をかけてやまない。煌めく原石だのドラゴンのように吠えることができるだの、意味不明な言葉でぎゅうぎゅうと首を絞めてくる。普通を逸脱した人間ならではの荒技だ。どうしてそんな気恥ずかしいセリフを吐けるのか理解に苦しむ。

 ハッサクとの出会いは数年前に遡るが、出会った当初の感触は別段特別なものはない。オモダカの辞令により四天王として集められた四人が、互いに自己紹介をするだけで終わり、同僚として今後ともよろしくと行儀の良い挨拶を交わしただけである。あまりにも幼い少女が混じっていたことには流石に驚きはしたものの、話題性と実力の両方を兼ね備えているのだろうと丁重に接した。彼らは唯一無二の同僚なのだから、仲良くするに越したことはない。

「それでは、皆さんには実力を競ってもらいます」

問題は、オモダカによる二回目の招集である。命じられたのは総当たり戦による序列決定で、四天王というものはランダムに挑戦者が挑むようでは箔がつかないのだと超人は宣った。ジムチャレンジとは、用意周到に張り巡らされた物語のレールである。チャンピオンに向けた道のりを歩み進めるごとに、挑戦者はポケモンバトルにズブズブとハマる仕組みだ。適度に勝ち、歯応えを感じながら負ける。そして何度でも繰り返し、到達できた人間は伝説となる。

 神を失った世界では、人が神になるための、オモダカが言うところの希望の光になるためのお膳立てが必要なのだ。なるほどマーケティングの手法としては十二分に理解できる。アオキをジムリーダーだけでなく四天王にまで抜擢した理由は今ひとつ納得がいかないものの、能力がある人間の理屈は素直に賞賛できた。完全に普通を逸脱した人間は脅威だが、自分がうまく適応して――仕事らしく対処すればいいだけの話である。

 だから、オモダカの注文に応じてジムリーダーと四天王を兼ね、どうせだから違うポケモンを使って挑戦者を楽しませる、もとい試せるように万全の準備を期した。ジム戦でノーマルポケモンを使うことを決定したのはオモダカではなく、アオキである。普通、愛してやまない繰り返しの日常、基本だからこそ得難く手堅い安心と安全の象徴を選んだのは、柄にもない反抗心と自己主張が込められていた。

 挑戦者は大概チャンピオンという日常からの逸脱を志す生き物だ。逸脱するからこそ、自分が見捨てた、あるいは顧みない『普通』というものにどれほど意味があるのかを示すのもまた一種のジムリーダーとしてあるべき姿と言えるかもしれない。基本に忠実な質実剛健とした攻め手は、アオキにとって原点と言える祖父譲りの手法である。もしかしたら、自分はポケモンバトルを通して世間に、自分を『普通』から引き出そうとする全てに復讐しようと考えているのかもしれなかった。

「……オモダカさん。自分は、挑戦者と一番最初に戦う相手になることに異存はありません」
「却下です。アオキ、戦う前から序列を決めるような怠慢は不要です。手を抜かず、全員全力で戦ってください」

控え目に面倒ごとを避けようとしたが、オモダカは気にも留めなかった。そうと決まれば仕事と割り切り、チリと戦いポピーと戦い、『普通』とオモダカに任されたひこうポケモンを合わせて全身全霊で時間を押し流す。考えるまでもない、自分が用意してきた通りにバトルを進めていくだけなのだ。たまたま仕事上がりに同僚に頼まれ、ポケモンバトルをしていたところに通りかかったオモダカに目をつけられた日の驚きであるとか、あああの時頷かなければ良かったという後悔であるとか、今日は残業申請が通るだろうかという疑念だけがぐるぐると巡る。

 いつの間にか、二人に勝利し、残すはハッサクだけになっていた。勝ち負けに対する感想は特にないが、負けた二人の表情が晴れやかであるのは喜ばしい。彼女たちとはうまくやっていけるだろう。問題は隣で戦っている様子がちらちらと伺えたハッサクの方だ。

「隣で拝見していましたが、あなたと戦えることを待ち遠しく思っていました」
「……それは、どうも」

ギラギラと輝く琥珀色の瞳は、ハッサクが使うドラゴンポケモンの獰猛さを思わせる熱の籠りようで、アオキはその瞬間に楽をさせてもらえないことを察した。チリやポピーと戦った際に手を抜いた訳ではないが、オモダカになじられている最中のようなやり過ごし方では許されないに違いない。あえて負けるという選択肢はハナからなく、アオキは要は勝てばいいのだという結論に達した。手練れとの連戦で空腹感も強い。今日はいつもの倍、米を食べよう。やはり腹持ちの良さと満腹感の両方を満たす食べ物は最高だ。

「よろしくお願いします」

そうしてアオキはハッサクに負け、四天王の第二位として位置付けられることになった。自然な流れであったとはいえ面倒な立場になったな、というのが本音である。おまけに何がどう琴線に触れたのかハッサクに絡まれるようになってしまった。彼としては、オモダカ以来に歯応えのある人間がすぐそばにいるのだから、伸ばし伸ばされ合う仲になりたいと、あわよくばアオキには他の――特にドラゴンの――ポケモンを使わせたいという願いが芽生えたらしい。心底迷惑な話だ。

 自分に絡む点を除けば、ハッサクは好人物である。教師として生徒にも好かれ、四天王としての厳しさも体現する。何より、育ちが良いのか美味しいものを知っていることはアオキにとって好感度を抱くに値する理由だった。美味しい、というのは簡単そうに聞こえるかもしれないが実は至極難しい。舌の好みはそれまでの人生経験全てを凝縮したものである。辛いものばかりが溢れた熱帯地域にいれば、味の薄いものは分かりにくいだろう。逆に、味が薄く素材を重視する地域で生まれ育った場合、味が濃いものは濃さの層を解釈しにくい。世間に溢れる味わいは千差万別あれど、『美味しい』の絶対的答えはその実不確かなのである。

 美味しい店を教えてもらって、美味しくなかった時の悲しみは言いしれない。その感想を尋ねられて、あまり期待を持たせずに慎重な返事をするのも億劫だ。美食家と呼べるほど通ぶる訳ではないが、小難しいと思われても癪である。高価であればあるほど良い訳でなし、最後に頼るべきは自分の勘と偶然による奇跡と言えよう。アオキは営業職という利点を活かして、パルデア地方のみならず他地方の食べ物を大いに楽しんできた。それでも、誰かにお勧めするのは難しい。

 幸にして、ハッサクはアオキにとっても『美味しい』ものを知っていた。アオキが内心忸怩たる思いで世の美食を考えている一方で、彼は肩の力を抜いてお勧めしてくる。時には穴場で、あるいは有名店で、そして一緒に出かけた営業先での勘で、ハッサクはアオキに美味しいものを教えてくれた。肥えた舌は間違いなく信頼に値する。故に、だ。故に自分は無駄に期待を膨らませてしまった訳で――

「っ」

 すり、とにじり寄ってくる気配にアオキはびくりと震えて現実に戻った。途端、つぶらな瞳と目が合い恐怖する。これはポケモンだ、だがその芳香のなんと食欲をそそることか。確か、このドラゴンポケモンは美味しい果実にしか巣食わないという。つまりこの果実の部分は間違いなく美味しいとお墨付きがあるわけで、小腹が空いたアオキに効果覿面だった。

 少し、舐めてみようか。あるいは一口くらい齧ってもバチは当たるまい。胡乱なことを考えて一つを手に取ると、ぬらりと掌が濡れる。途端に甘酸っぱい香りがあたりに広がり、アオキは冷静にカジッチュをもう片方の手に移し――迷うことなく液体を舐めた。

「美味しい」

舌に絡むとろりとした液体は、濃厚な甘味を幾重にも段階を踏んで伝えてくれる。飽きずにもっと舐めたいと思うのは、程よく混じる酸味のためだろう。サンドイッチ作りの極意として、一種類の味だけでなく五味をバランスよく取り入れることと言われているのは何も間違いではない。夢中になって舐め終えると、アオキは改めてカジッチュを見た。

 確かに、彼らはドラゴンポケモンである。だがシャリタツが寿司であるように、カジッチュもまたリンゴなのだ。ポケモンではなくリンゴとして手元に置くのは、ポケモンと共生を歌う現代の生活様式にも合致する。ポケモンバトルには出さないし、もちろんポケモンボールに入れるなどもってのほかだが、こうして疲れを癒すアイテムだと割り切って手元に置くのは問題ないだろう。

 ドラゴンポケモン使いにさせようという罠にハマった絶望感は、敢えてバトルに使わないという妙案で乗り切れそうだ。大事に傍に置いていれば、ハッサクが頼んできた『大切にしてほしい』という要望を叶えられると同時に、彼の思惑を裏切る胸の空く事態にもなる。恭しくカジッチュを顔に近づけると、アオキは躊躇いなくべろりと舐めた。

 禁断の果実の味わいは、尋常ならざる甘美だった。




 一度光を目にしてしまうと、人間はこれまで自分が暗闇の中にいたことを意識せざるを得なくなる。たった一度の偶然が全てを変えてしまうわけで、同じ景色でもまるで異なるものに見えてくるだろう。自分は何も知らなかったのだ――例えば、恋心を。思春期からは程遠く、酸いも甘いも噛み分けたハッサクにとって、まるで青年のように素直で飾り気のない思慕はまるで予想外のものだった。

 当初は、アオキのポケモントレーナーとしての才能に強く期待を寄せ、彼が芽吹く様を見たいと強者として考えていたはずだ。どんなに仕事だからこなすだけだと言い訳しようとも、アオキがオモダカに実力で見出されたことは純然たる事実である。パルデア地方のポケモンバトルを繁栄させることに確固たる意思で臨む彼女が、手近な人間で済ませようという怠慢を許すはずがなかった。

 オモダカと初めて手合わせをしたのは、アカデミーの就職面接の際である。彼女が理事長であることを聞かされた際には、パルデア地方は若手が率いる元気な場所なのだな、と一般的な印象を受けるにとどまっていた。ポケモンをより多くの人に知り、世界と共生することを体感・会得してもらうとは大きな野望である。ハッサクが既に通り過ぎた青さが眩しかった。そんな人間が頂点に君臨する職場というのはなかなか悪くない。

 だがその熱意が本物であると思い知らされたのは、最終面接と称した彼女とのポケモンバトルだった。自身の人生全てを体現すべく、全力をかけて戦ったという自負がある。負けたのは偏に彼女が強かったからで、なんとも単純明快話だ。大言壮語な理想も、尽くされる言葉も、バトルを通じて感得しただけで十分である。ハッサクは彼女を受け入れ、信頼に値すると素直に敬意を表した。

 故に、アオキには当初から並々ならぬ期待を寄せていた。ポピーにもチリにも、一体どんなバトルをできるだろうかと久方ぶりにソワソワとしたことをよく覚えている。アオキとて、まともであるはずがない。総当たり戦をするようオモダカの指令に、すぐさま自分は末席で良いというアオキには至極がっかりしたし、一瞬軽蔑しかけたのは思えば期待を裏切られたと感じたからなのだろう。

 彼の人となりをそれだけで判断するのは早計だと、頭を切り替えてチリ、そしてポピーと戦った。勢い、強さ、可能性、華麗さ、挑戦者が対峙すればきっと確かな手応えを感じて一皮剥けるだろうという確信を抱ける良い相手だったと思う。時には恥ずかしげもなく感涙し、感情の大爆発に冷静なツッコミを入れるチリとはうまくやっていけると感謝さえした。

 アオキは、どうだろう。バトルコートが隣り合っていたため、ハッサクは無意識に横で繰り広げられる勝負を気にかけていた。失礼に当たるかもしれないが、ポピーやチリと戦っている際にはよそ見をする余裕があったのだろう。彼女たちの戦いは、良くも悪くも素直だった。ハッサクのポケモンたちが強かっただけではなく、経験がものを言ったのだろう。即ち、彼女たちにはこれから先の伸び代があるし、実際に戦っている最中に成長が垣間見られた。次に手合わせする際には、こちらが余裕を失っているかもしれない。そうであってほしいと願うも、今のハッサクはアオキに目を奪われる一方だった。

 アオキはもちろん、こちらには目もくれない。それどころか彼は他の景色を見ているかのような目をしていた。まるで台風の目のように揺るがず、淡々と自身のペースでバトルを進める。熟練の技を広げる先には、哲学的な情景があるのではないかと錯覚させるほどに、彼は異次元に存在していた。古い文献で学んだ言葉がハッサクの脳裏を去来する。心身ともに感応し、思考を揺らがせることを想と呼び、心だけが感じた状態を夢と呼ぶという。アオキは紛れもなく彼が使うネッコアラの如き夢の中の住人だった。

 総当たり戦を始める前から勝負を降りようとしていた人間の姿ではない。アオキの取り組み方は無我であり夢中であり、虚心そのものである。ハッサクの注目と期待は否応にも増した。彼は強者だ――そして嫌味なくらいにその自覚を持たない。アオキが殊更口にする『普通』は異常である。他人と異なる物差しを持っているくせに、まるで自分はその他大勢の一人に過ぎないという顔をする。その癖、この姿こそが一番なのだと奇妙な自信を孕ませていた。

 その目に、自分が映ったならば彼はどんな風に表情を変えるだろう。オモダカとはまた違う、同じ場所まで来れるのではないかという奇妙な期待はアオキと戦っていく中でどんどん大きく膨れ上がっていった。ポケモンバトルは生き方の体現だ。彼を知り、彼と歩み、切磋琢磨した果てに見る景色は、想像するだけでワクワクさせてくれる。

 かつて、コルサと出会って感じたものとはまた違う熱は、アオキにカジッチュを三体も渡した今から思えば既に仲間意識を超えていた。アオキが自分を機にドラゴンポケモンに目覚め、新たなる才能を開花させるとすれば喜ばしい。しかし、それで自分が満足するかと言われたらば違うと答えるだろう。満足できるわけがない。もっと、もっととその先を期待する欲望は単純素朴な皮を被った醜い欲望だ。

「今頃、どうしているんでしょうね」

美術室でムクホークの彫像を前にすれば、ただのポケモンとして造形をあれこれ考えるでなしに、同じポケモンを持つ人間の顔を思い浮かべてしまう。鋭い嘴を持つムクホークの冠羽は、どこかアオキに似ている。ふわりと被るそれで鋭くも柔らかくも見える眼差しは、太い眉の下でひっそりと動く彼の表情を思わせた。持ち主がポケモンに似るのか?あるいはポケモンが持ち主に似てくるのだろうか。

 以前、子供に向けたポケモンバトルの初級講座をアオキと共に行った際、彼の手持ちのポケモンは幼少期から共にある面々が半分を占めているのだと聞いた。恐らく、オモダカによる指示で別個揃える必要になったポケモンが残り半分だろう。彼が『普通』に拘るようになった流れは不明だが、遥か昔から固執していたことには違いない。赤ん坊から育てると、一緒にいるだけで故郷のように安心できるんですよ、と語るアオキの表情は常よりも柔らかかった。

 あの表情を見た瞬間、ハッサクは思いもよらず生徒が話していた『ギャップ萌え』なるものを感得した。なかなか懐かぬポケモンが、自分の差し出した餌を受け取ってくれた時のように胸が暖かくなる。あれは好意が高まった証左だったのかもしれない。赤ん坊の頃から育てられたポケモンのように、アオキの隣で自分の想いも育っていたのだろうか。自覚した今、彼の顔はどう見えていることだろう。

 答え合わせをしようにも、ハッサクは肝心の本人に会わぬままである。カジッチュを渡してから早くも一週間が経とうとしていた。彼に会いたい、会ってカジッチュをどうしているのか、どう思っているのかを知りたい。気持ちが急いても体は少しも動かず、常の自分からは驚くほどに腰が重いままだ。

 ボタンが教えてくれた、ガラル地方の恋愛成就の願掛けをアオキは知らないだろう。それでも、カジッチュをいらないと突き返されたら自分の胸は張り裂けて感情が大爆発しそうだ。一人で立つと決めてから、どんなポケモンバトルにも人生の転換点にも真正面から取り組んできたハッサクが久方ぶりに怖気付いてしまっている。勝負をする前から放棄していることはわかっているのだが、どうすれば勝算を立てることができるか五里霧中だった。

 多分、自分の血迷った感情など、アオキはなんとも思わないだろう。シャリタツには大いに動揺しているようだが、あれは極めて稀な事例だ。決死の気持ちで真っ直ぐに想いを伝えたところで、総当たり戦での凪いだ表情を返されることが容易に思い浮かべられる。恋愛とは、自分を突き破って他人の心と密になる特異な現象だ。アオキの執着する『普通』に収まり切れる自信がなかった。

 何も相手に合わせることが全てではない。好きだ、と一言告げれば自分のマグマのように煮えたぎった想いは爆発できる。そして鎮火せずに猛攻を仕掛けて――結局、元の木阿弥だ。現にこの方式ではアオキにドラゴンポケモンを使わせるには至っていない。攻め立てるだけが勝利の道のりではないと、ハッサクも経験上理解している。初恋でもあるまいし、どうしたってこうも自分を失いがちなのだろう。

 ムクホークの影が濃くなり、表情がさらに見えなくなってゆく。アオキは今頃どうしているのか、今夜は何を食べるつもりだろうか。せめてショートメッセージくらいは送るべきか?いい加減チャットアプリを駆使するようにと四天王のグループチャットで話されたものの、ハッサクは自分の時間を突き回されるような心地がして及び腰だった。当然ながらアオキは仕事のために駆使できている。

 アオキにメッセージを送り、返事をもらう様を想像してハッサクはほんわりと胸が暖かくなった。文字だけでは物足りないが、顔を合わせにくい状況では救いの一手と言える。今までやり取りをしなかったつけが全てに響いていた。美味しいものを食べに行きませんか、と誘うべきか。急に誘ったらば変に思われはしないだろうか。嗚呼、二進も三進も行かずに八方塞がりだ。

「ハッサク先生、どうかされましたか」
「ああ、タイム先生」

ハッと背筋を震わせれば、視界の向こうで窓の外は宵闇へと姿を変えていた。いつの間にか閉校時間になっていたのだろう。戸口から心配げな声をかけてくれた同僚に、ハッサクは気恥ずかしさから苦笑した。ムクホークの影が濃くなったのは、何も気持ちだけの問題ではなかったのである。感情的になりすぎるとよく評されるが、感情で現実を見誤うのはただの失態だ。今朝教員室で見かけたホワイトボードに、今日の当直はタイムだと書かれていた気がする。ぼんやりとしたままの自分を気遣ってか、タイムはゆっくりと近づいて彫像を眺めた。

「あれこれ考えていたらば、いつの間にか夜になっておりました。心配してくださり、感謝しますですよ」
「考え事で頭がいっぱいになると、時間が過ぎ去るのはあっという間ですものね」

そもそも大人の時間は瞬く間にすり抜けてゆくものだから、とタイムはおっとりとした調子で言う。子供と大人の時間の感じ方はそもそも違うのだ、という彼女はほぼ同世代だろうから、日々の感じ方はハッサクと似たり寄ったりだろう。時間が蓄積する速さは子供の方が早いが、それは時間が彼らの中に留まる余裕があると言うことなのだ。

 今の自分には、別の意味で余裕がないと言える。扱うポケモン同様にどっしりと揺るがないタイムの姿勢に、ハッサクは羨ましささえ覚えた。彼女であれば、こんな風にもだもだとまごつかずに済むだろうか。次期長として教育を受け、果断すべしと骨の髄まで教えを染み渡らせてきたはずが、たった一人の人間に惑って行き場を失っている。

「……会いたい人が、いるのです。けれども、どう顔を合わせたものか困ってしまって。いずれ会えるとは思うのですが、自然に接することができるか、お恥ずかしながら小生は自信がありません」
「まあ」
「すみません、愚痴をこぼしてしまいました」

呆れたろうか、と顔を見やれば、タイムに浮かんだ表情は心配、好奇心、ついで年を経たキョジオーンの如き威厳だった。なるほど、クラベル校長が恐れるだけはある。あの場合は失態により当然の報いを受けているだけだが、ハッサクは教師に呼び出された少年のようにドキドキしていた。

「わかりますよ、構えてしまうとついつい肩肘を張ってしまいますもの。自然に顔を合わせることができれば、話も滑らかにできますから……そうだ、ハッサク先生。デッサンはいかがでしょう?」
「で、デッサンですか?」
「ええ。いつも学生さんたちはポケモンや、景色を描いているんですよね。人間はどうかしら」

教室をぐるりと見回し、タイムはいろとりどりの形を示してみせた。メタモン、ピカチュウ、自分の実家、思い出の場所、ものの形は多かれども――人間を描いたものはほぼないと言って良い。一部胸像をモデルにしたものはあるが、生身の人間を描いたものはなかった。

「生きている人間を描くことで、新しい発見や刺激があるかもしれませんよ。実際にお買い物をしながら思い出すと、数学も身につきやすくなりますし」

試験に出したこともあるんです、とタイムは柔らかく微笑む。なるほどわかりやすい。難しいものを身近にすることで会得させやすくするのは、鉄板の教育法でもある。教師としてあれこれ考えてきたつもりだったが、自分に応用することなどついぞ思いもよらなかった。確かに、アオキにデッサンのモデルを依頼することはオモダカを通じれば容易だろう。他のジムリーダーを織り交ぜればより自然だし、チャンピオンロードに挑みやすくさせる布石だと言って仕舞えば嘘もない。

 アオキは嫌がりそうだが、仕事には嫌々ながらも応じる。本来はコルサのように、気軽に呼べる状況が理想だが、今のハッサクは建前なしではまともに顔を合わせることができそうになかった。また様子を見にきます、美味しい店を紹介します、などと約束したのはハッサクだと言うのに。恐らく、アオキは少しも気にしていないだろうと思うと気分がどんよりと湿り気を帯びる。

「ご助言、感謝いたしますですよ。小生、ここは勇気を持って声をかけることにします」
「応援していますよ。さ、帰りましょうか。残っているのはこのお部屋が最後なんです」
「なんと!申し訳ありません……」
「ハッサク先生のお悩みを聞けるだなんて、そうない機会ですもの。頑張ってくださいね」
「はい!」

いいお返事、と頷くタイムは正に教師の顔をしていた。生徒に、誰かに相談を受けた時には自分もこうでありたい。アオキをモデルに呼ぶことでどんどんと想像が膨らむ頭をなんとか冷静にすると、ハッサクは今度こそ帰り支度を急いだ。

「オモダカさんに、メッセージを送らねばなりませんね」

あるいはこの際電話でも良いだろう。アオキ相手を想像した時よりも余程気持ちが楽になる現金さに苦笑を禁じ得ない。多分、彼女は自分の邪さを推測さえしないだろう。彼女に必要なのは、目的に沿った行動、目的に向かうための道なのだ。そして、ハッサクもまた、自らの望む目標地点への到達を目指している。

 まずはライムからモデルの依頼を開始しよう。タイムの姉妹でもあり、生徒の中で彼女の音楽スタイルは人気であるようだ。いきなり指名が入ればアオキは間違いなく警戒する。攻めるには慎重に。しかし、着実に近寄るべきだ。とは言え、顔を合わせぬままはどうにも格好がつかない。無意識に避けていた現実に思い当たり、ハッサクは心中密かに舌打ちした。

「……ジムの方に、様子を聞いてみましょうかね」

例えば、シャリタツは元気であるかとか。カジッチュについて、直接聞く勇気はまだなかった。




 何かに向けて準備をして整えたというのに、いざとなったら取りやめになって肩透かしを食らった心地になることがある。例えば何がしかの試験に向けて、対策を練り覚悟を決め、さあ当日だと思っていたらば直前に取りやめになったとする。すると現金なもので、できたら試験自体がなくなって欲しいと願っていたにも関わらず、過ぎ去った難が起これば無駄足にならなかったのにと憤慨さえしてみせるのだ。どんな結果が伴うとしても、難事に打ち当たった方がすっきりするという見方もできるかもしれない。

 アオキがこの手の経験をすることはあまりないが(せいぜい楽しみにしていた食品の新製品が発売中止になる程度だ)、今の気分は正にこの肩透かしの連続だった。「また様子を見にきます」と言ったくせに、あのドラゴン使いは足音すら聞こえてこない。思えば、彼と顔を合わせるのはいつだって仕事がらみであって、プライベートな時間ではないのだから、仕事の予定が入っていなければすれ違いもしない間柄なのだった。

 ハッサクはその僅かな接触に一点集中でアオキに絡んできたのである。その彼が、公私の別を踏み越えて、自分にカジッチュを渡してきたのはなかなか異例な事態だ。何が起こるかわからないと、無意識に神経を尖らせて今日か明日か明後日か、いやいややっぱり今日だろうかと身構えてしまったのはアオキの思い込みにより生まれた幻覚だろう。

 顔を合わせたらば、シャリタツを足元に戯れさせカジッチュを鞄に携えている理由を話さなければなるまい。勝手気ままに振る舞うシャリタツはともかく、カジッチュに背徳的な喜びを得ている現状をどう誤魔化したものか頭を抱えていた。好奇心に負けて舐めたカジッチュの体液は至極美味しく、二日に一度はありがたく頂戴している。幸にして、カジッチュたちには好意的に捉えているらしく、逃げ出す様子は見られない。

 同僚との良好な関係を構築するためだと言い訳し、禁断の果実の味わいを知ったアオキはそれはそれは大切にカジッチュを扱うことにした。ハッサクはこの味を知っているのだろうか。ドラゴンポケモンへの探究心が著しい彼のこと、知らぬはずもないだろうと思うが、聞けば興味を抱いていると浅はかな期待を齎しかねない。偶然顔を合わせて――もちろんハッサクが一方的にこちらに出向いてくるのだ――見咎められたらばうまく言い逃れつつ、助言を得ることもできただろう。残念ながら、仕事にせよ二人が会うのは遠い先の予定である。

 どうして会いに来ないのか。カジッチュに翻弄され、シャリタツに頭を悩まされる度にハッサクのことを考えて時間がどんどん過ぎてゆく。彼の熱量を全部ぶつけたような声やら足音やらを耳にしなくなって、もしかして自分の記憶は間違っているのではないかとさえ思ってしまう。あらぬことを考え出す前に答えが欲しい。嵐はいつ来るかわからないと、どこかで身構えている自分は滑稽だ。

 ハッサクは何をどう考えているのか、だいぶ日数を置いた頃になって珍しくもチャットアプリでメッセージを送ってきた。内容は、『できれば小生も一緒に行きたいのですが』と添えられた、美味しい店である。彼は何やらアカデミーで大掛かりな企画が進行している真っ最中でなかなか身動きが取れないらしい。いずれ説明しますので、というセリフは何やら言い訳めいていた。

 安堵よりも相手の意図を探るような不信感が生まれ、アオキは怪訝に顔をしかめた。彼に絡まれずして美味しい店に行けるのだ、自分にとって好都合だと喜べばいい話だろう。アオキは普通と同時に効率性も愛していたから、昼休憩を快適に過ごせることに否やはなかった。ハッサクとの食事は、彼の人生経験の豊かさから広がる話術でついつい長くなりがちである。酒が入ると先日のように訴えかけたり積極策なったりと、さらに上を行く面倒くささを伴う。一人飯は気楽だ――それでいいではないか。

 どこか引っかかりながらも向かった最初の店は、チャンプルタウンの路地奥にひっそりと佇む蕎麦屋だ。灯台下暗しとはこのことで、アオキは自分の持ち場として散々歩き回っていたと言うのについぞ気づいていなかった。無骨な店主が出来立ての生そばをざるで出すだけの渋い店である。蕎麦は引き算の極地だと熱弁していたのは、いつぞや出張を共にしたハッサクだったと記憶が掘り起こされる。この店も、きっと彼が理想としたままの素晴らしさがあるに違いない。

 そうして注文した蕎麦は、有無を言わさぬ美味しさだった。普通で、まっすぐで、どこかほっとさせる。シンプルであるが故に引き立つ蕎麦の香り、こし、細さ、そして蕎麦つゆの濃さも最適なバランスを保っていた。満足下のは言うまでもなく、五枚おかわりしてもまだ足りず、土産に買って帰るかひどく悩んだほどである。ハッサクのお勧めはどれだったろうか、と食べずにとっておいた品書きを記憶に留めた。真っ白な雪のようなさらしな、太く逞しい十割、はたまた季節の抹茶にゆず、春は桜、夏にはカボスもありますよなどと主人は売り込む。再来するに足る、すっきりとした落ち着く店だった。

『ハッサクさんが教えてくださった蕎麦屋、とても美味しかったです。ありがとうございます』

謝礼はすぐにするものだ。職業柄身についた癖で、食後にハッサクにメッセージを送ると、アオキはそれで全て終わりだと勝手に思い込んでいた。約束をひとつ果たした、ただそれだけである。カジッチュの問題は残るが、メッセージでやりとりするのはおもはゆい。勝手にリンゴだと思い込んで受け取り、扱いあぐねた挙句に舐めて楽しんでいる現状を話す勇気もない。

 あれこれ可能性を考えてもたつくのはどうにも居心地が悪い。いっそ留めを刺してくれと思えども、肝心のハッサクはどこ吹く風だ。アオキの形にならぬ気持ちをよそに、ハッサクの返事はどこまでもドラゴンの如く堂々としていた。

『アオキが満足して、小生も嬉しいですよ。今度はぜひ一緒に行きましょう。次はどちらに出張するのですか?』

どこでも良いだろう。仕事となれば自分はどこにでも行くのだから。皮肉が脳裏を過ぎるも、アオキは社交辞令なのだからと気合を入れ直した。チャットアプリにようやく慣れたばかりの彼のことだ、もっと簡易にしても良いという発想はないのだろう。普段、自分が接している文字どりの意味だけが込められたメッセージとはまるで異なる。

 次はベイクタウンに行くのだ、と返したように記憶している。ならばビファーナの美味しい店があるので寄ってみると良い、と頼みもしない内にお勧めが返って来た。ハッサクの舌に間違いはないので、従うに足る。自分ばかりが得をするような形で大丈夫だろうかと疑ったところで、アオキはどこにでもいる一人の人間であり、策略をめぐらせようにも無駄骨だ。

 だから、アオキはお勧めされた店に行き、自分の見つけた美味しい店を添えてハッサクに礼を述べた。ハッサクが返事をする。今度も美味しい店が紹介され、アオキは素直にそれに従う。顔を直接合わさずに五週間は過ごしたかと思うが、ハッサクとのメッセージのやり取りだけは日課に組み込まれつつあった。

 程よい距離感だ、と思う。取り立てて親しくする友人はいないが、同好の士と言って良いだろう。一口食べては、ハッサクはこの店で何を食べてどう感じたのかを疑問に思う。いつしかアオキが送るメッセージには、そんな素朴な疑問が添えられるようになった。ハッサクもアオキが勧める店に――彼は今アカデミーから動けないのでテーブルシティの店だ――出かけて同じような質問を返す。並んで食べるでなしに、相手の食事風景を想像しながら時間を過ごすのは、不思議と居心地が良い。

 そして、同時にたまらなく空虚だ。こんな気持ちで食事をするのは人生で初めてかもしれない。一人でいることに慣れた身が、誰かといることを前提にしながら食事をするなど奇妙だろう。ハッサクも同じか、否、自然と人を集める彼のことだから誰かと一緒に食べに出かけたはずだ。彼が寄越すメッセージにアオキはいるが、ただの社交辞令の可能性は限りなく高い。直接会って話せば表情から伺えるかもしれないが、取り繕うのも上手い男から何を探れるだろう。

 ならばどうすれば、と具体的に考え始めたところでアオキは頭を抱えた。大して仲良くするつもりもない相手の真意を探ろうと思うだなんて、自分はどうかしている。カジッチュで気持ちを落ち着けるとしよう。この美味しさは本物で、自分を裏切らない。鞄から恭しくカジッチュを取り出し、慣れた手つきで体液をもらう。べろりと舐めるも、ひりつくような辛さが滲んで到底口に入れられるものではない。速やかに吐き出すと、アオキは改めてカジッチュを観察した。

「……具合でも悪いんですか」

ピン、と立つつぶらな瞳がヘニョヘニョと力なく垂れている。なんとかアオキの顔を見ようと持ち上がりかけ、すぐさま力を失う様を見、アオキはさあっと青ざめた。ポケモントレーナーであるにも関わらず、こんなに具合が悪くなるまで気づかなかったとは大失態である。ポケモンボールに入れていたらば把握できただろうか。手持ちのポケモンは決まった時間にポケモンセンターで体調を診てもらうが、ボールに入れたが最後と決めたカジッチュとシャリタツは守備範囲外である。

 今からセンターに駆け込めば預けられるか。ボールに入れていないポケモンであっても、すぐに診てもらえるのかは定かではない。おまけに時計を見れば昼休憩はとうに終わり、次の打ち合わせの時間が差し迫っていた。連絡をしなければ、しかしどう言い繕ったものだろう?

 はやる気持ちをよそに、足だけは勝手に一日のスケジュール通りに動いていく。カジッチュを抱えたまま(怖くて二体のカジッチュとシャリタツは鞄の中に入れっぱなしだ)歩く姿を道ゆく人が振り返ろうとも、全く気にも留まらない。こんな異常な事態でも、ボウルタウンのポケモンジムに辿り着いてしまった。

 自動ドアの開閉する音に気づいてか、受付前に立っていたコルサがこちらを振り向く。相変わらず奇矯な風体をしており、周囲をたむろするキマワリのせいで彼の芸術作品そのもののように錯覚された。全てが非現実的で思考がぐらつく。口火を切ったのは、存外理性的な思考も持つ芸術家だった。

「誰か来ると聞いていたが、アオキか。確か、予算の件で話に来たんだったな」
「はい。風車の修繕については、先日書面で申し出た通りです。……足を痛めるくらいなら他の演出方法も考えてみてはどうでしょう」
「芸術的見解の不一致だな。意見は聞くが、考慮するかはまた別の話だ。それよりも、キサマは他に優先すべき事項があるだろう」

腕の中でくったりとへたり込んだカジッチュを指差され、アオキは日常からの逸脱を覚悟した。わかっている。何よりもそわそわとして落ち着かないのは自分自身だった。仕方がなしに応急処置ができるかとコルサに差し出すと、くさポケモンの専門家はあっさりとした様子で手に取り掲げる。もっと前衛的な、あるいは宗教的な動きをするかと身構えていただけに意外な展開で、アオキは目の前の人物に対する評価を改めた。

「ふむ……良いツヤだな。栄養は足りているようだ。外傷はなし。見ろ!アオキ、この曲線は自然が生み出した芸術の最高峰だぞ!どこで口説き落としたんだ?もう少し早く出会っていればワタシが口説いたものを」
「くど、あ、いや人にもらったもので」

どういうわけか、自分の手持ちではないというセリフは口をついて出なかった。こんなにも賛美する人間の手持ちになればポケモンだって嬉しいだろう。手放すのは今が好機だ。自分の悩みだって消え失せるはずだ――否、ハッサクはアオキに大切にしてほしいと言い、自分はそれを受けたのだから裏切りになってしまう。コルサの芸術讃歌は続く。カジッチュの状態はどうすれば良くなるのだろう?植物のような特殊な病気にかかっているとしたら、自分には全くのお手上げだ。近づいてきたジムの職員に再提出を依頼する書類を渡し、要点を説明するも流れる雲のように身が入らない。

 仮にカジッチュが儚くなろうとも誤魔化しようはいくらでもあるし、自分もハッサクも大人だから上っ面をうまく収めるだなんて簡単だ。ハッサクと旧知の仲であるコルサが手持ちにしていると気付いたとて、より相応しい人間が手にする巡り合わせになったと喜ぶ可能性すらある。ハッサクとコルサがカジッチュを囲んでやり取りする様子を想像し、アオキは自分の胸に少しずつ湿っぽさが溜まり始めたのを覚えて狼狽した。逸脱が収まるべき場所に収まり、自分は『普通』の安寧に舞い戻る、ただそれだけのことが受け入れ難い。

「……コルサさん。その、この子は病気にかかっているのでしょうか」
「いや?全くの健康体だ。しかし、ある意味病にかかっているとも言える。わかるか!?」

わからない、と答えるのは簡単だ。茶番に付き合わずに次のスケジュールに向かいたいというのも本音である。コルサは有頂天のままに答えを授けてくれるかもしれない。迷いながらも顎に手をやり、アオキは眉根を寄せた。もはや今日は『普通』を逸脱している。今更もう一歩踏み込んだところでなんの変わりがあるだろう。

「気持ちの問題、でしょうか。門外漢なので詳しくはありませんが」
「キサマ、なかなかわかっているではないか。大体そんなところだ。このカジッチュがかかってる病は”甘えたい病”だからな」
「は」

甘えたい。カジッチュの甘さはなるほど、甘やかされたから滲み出るものだったのか。一瞬混乱しかけるも、気まずそうなカジッチュの目と目がかち合って理解した。まるで仮病がバレた子供のように目が泳いでいる。コルサは繊細な手つきでカジッチュを撫でると、そっとアオキに差し戻した。

「わかったならば、思い切り甘やかしてやれ。甘やかしすぎるのも問題だが、キサマは加減がわかっているだろう」
「……わかりました。ありがとうございます、コルサさん」
「わかればいい」

観念してボールに入れるべきか。バトルに出さなければ、大切にしていることの証左にもなるし、自分を折らずに済む。文字通り甘い汁を吸わせてもらったお返しと考えても良い。ポケモンセンターでちょうど良いボールを探そうと決めて鞄を開けると、カジッチュが嘘のように元気になって滑り込んだ。頭を下げて自動ドアを潜る。次の行き先はセルクルタウンだ。これでようやく日常に戻ることができる。

「アオキ。ハッさんに伝えてほしい。良いカジッチュを見つけたな、と」

ほっと安堵したのも束の間、背中から追いかける声が冷や水を浴びせかける。芸術家同士で相通じるものがあるのか、あるいはカジッチュから聞き出したのか、いずれにせよ恐ろしい話だった。礼を失するとわかりながら、アオキはすうと一息ついて声を発した。

「考えさせていただきます」

コルサの耳に届いたか、彼がどんな表情で聞いたかなどどうでも良い。こんな腹立ち紛れに声を出すなど、随分久しいことだった。カジッチュを甘やかしたら、お返しに甘い汁を啜らせてもらおう。ネクタイの結び目を調整し、アオキは緩やかに日常を追いかけた。




「みなさん、今日のゲストはチャンプルタウンのジムリーダー、アオキさんです」
「……アオキです。本日はよろしくお願いいたします」

とうとうこの日が来た。そば近くに感じるアオキの存在にドギマギする心を隠し、興味津々といった様子の生徒たちを見回す。もう何度も繰り返した、美術室でのジムリーダー写生会は有終の美を飾ろうとしていた。見慣れた風景のおかげで、アカデミーの入り口でアオキを出迎えた時の緊張と高揚がゆっくりと静まってゆく。

「チャンプルタウンという場所は、美味しい店が多い賑やかな街です。小生もお気に入りの店が多いのですが、行った経験がる方は手を挙げてください」

はい、とバラバラと手が上がる。これまで他のジムリーダーたちを招いた時とさほど変わらぬ数で、自分の出身地でもあるのだと話す生徒もいた。

「素晴らしいですね。宝探しも兼ねて、自分のお気に入りのお店を見つけるのも冒険の一つだと小生は思います。……さて、アオキさんに会ったことがある方はどれほどいらっしゃるでしょうか」
「「はい!」」

真っ先に元気よく手を挙げたのは、チャンピオンランクに到達したアオイとネモだ。続けていく人かが手を挙げ、またいく人かはジムリーダーとは知らなかったのだが、と面映そうに手を挙げる。他のジムリーダーたちは副業でも高名な人間ばかりであるため、アオキを知る人間は少ないだろうという予想を裏切り、その数は多い。同じことを考えていたのか、隣でアオキも微かに驚いているようだった。

「では、アオキ。改めて自己紹介をお願いします」
「……先ほどハッサクさんが説明した通り、自分はチャンプルタウンのジムリーダーを勤めています。普段はポケモンリーグのサラリーマンとして営業職を勤めている、普通の人間です」

謙遜も卑下もなく、ただ事実を述べているだけだという淡々とした調子が小憎らしい。ジムリーダー写生会は、アカデミーの生徒たちにポケモンリーグを身近に感じてもらうことが目的だと伝えたにも関わらず、やる気のなさは変わらないらしい。否、彼は心底これで十分だと考えているのだろう。

「アオキ、それでは生徒さんたちが理解しにくいでしょう。……アオキさんは、『食べることが好き』とポケモンリーグで紹介されている通り、食べている姿が本当に楽しそうな方です」
「っ」

不意打ちを食らってこちらを見るアオキの表情が愛らしい。話している際には人の顔を見るようにと指導しても頑なにそっぽを向くこともあるアオキが、何が始まるのかと探る様子で目を合わせようとしてくる。すぐさま絡め取ってしまいたい衝動を抑えて、ハッサクは授業中なのだと生徒たちに目を向けた。無邪気な可能性たちが、瞳をキラキラと輝かせて口々に声を発する。

「知ってるー!アオキさんが焼きおにぎりいっぱい食べてるの、見たことあるよね」
「うんうん、すっごく美味しそうだったから、私も頼んじゃった」

本当に美味しかったんだよ、と話す生徒の隣に座る生徒が、自分もその店に行きたいと話せば、またその隣の席に座る生徒もアオキが食べている様を見たいと言い始める。これまで他のジムリーダーを招待した時同様、彼らは存外ジムリーダーを記憶に留めているらしい。しかし、それだけではただの点として散らばった思い出に過ぎない。チャンピオンロードという夢の道のりを開くためには、思い出が連なりあった物語を実感させることが肝要だ。通り過ぎる思い出ではなく、共に生きる物語を作り上げてゆく。それがまた別の誰かの夢へと繋がる、そんな世界をハッサクはオモダカの目指す場所に見ていた。

「興味を持たれた方は、ジムチャレンジを受けてアオキさんに挑戦してみてください。戦うアオキさんの姿も一見の価値あり、ですよ」
「……ハッサクさん」

物言いたげにアオキの声が揺らぎ、ハッとする。このままでは止めどなく思っているままを語ってしまいそうだ。気恥ずかしげなアオキをもっと見たい、生徒の目にどう映っているかを知りたいという浅ましい自分を叱咤する。焦らず、着実に進めようと決めたというのに、ここぞというところで失敗しては何もかもが水の泡だ。

「話が脇道に外れてしまいましたですね。では、みなさんスケッチブックのご準備を。思い思いにアオキさんを表現してください。アオキはこちらの椅子に座ってください、楽な姿勢で大丈夫ですよ」
「わかりました」

事前に打ち合わせた通りの流れに入ると、途端にアオキが穏やかな顔つきになる。とは言え、傍目には表情の変化などわからないに違いない。ハッサクが彼と長く付き合ってきた経験と、熱心な好奇心の恩恵だった。自身もアオキの前に陣取ると、スケッチブックを広げて鉛筆を走らせる。生徒たちがだんだんと集中し、紙を擦る音がさざなみのように広がり美術室を満たした。

 アオキは、こちらが心配になる程ぴくりとも動かずにただ座っている。モデルの鑑のような振る舞いは、彼が何事か考え込んでいる際の癖だった。何を考えているのだろう。アオキという形を世界から抉り出して、少しずつ紙に落とし込みながらハッサクもまた考えていた。正々堂々と真正面からアオキを観察できる機会はそうそうない。できる限り、彼を知りたい。ほんの少しで手が届く距離はなんとももどかしく、髪を、輪郭を、その眼差しを虚空でなぞってもなぞっても欲は深まる一方だ。

 時間が走り抜けるのは、本当にあっという間の出来事である。彼の表情を掴もうとしても掴めぬまま、無情にもチャイムの音が鳴り響いてハッサクは小さくため息をついた。生徒たちの動きに合わせてアオキもゆっくりと立ち上がる。自分のスケッチブックをそっと閉じると、ハッサクは惜しみながら生徒たちに終了を告げた。

「それではみなさん、画材を置いてください。スケッチブックはアオキさんと確認した後、みなさんにお返しいたします。アオキさんが特に気に入った作品は、これまでと同じように教室に飾るので楽しみにしてくださいですよ。アオキ、ご協力いただきありがとうございますですよ」
「……ど「ありがとうございました!」

生徒たちの満面の笑みでアオキの声が消し飛ぶ。自分と話している際も似たようなことがままあったことを思い出し、ハッサクは今更のように苦笑した。感情が大爆発しがちなのは、時として大事なものを見失った瞬間だったのかもしれない。スケッチブックが積み重ねられ、アオキと質疑応答に追われる。生徒たちの好奇心は存分に刺激されたようだ。当初掲げていた目標は十分成果を出せたと言えそうである。

 一人、また一人と彼らが次への向かってゆき、美術室は瞬く間にがらんとする。今、の時間に取り残されたような心地はどこか寂しく、普段のハッサクであればぼんやりと黄昏る頃合いだ。今日はこの空間に誰かが――アオキが共にいる。図った通りに二人きりになった空間に、ハッサクは生徒たちのスケッチブックを並べて行った。

「大盛況でしたね。アオキで最後ですから、順番に巡ってきた挑戦者が増えると思いますですよ」
「……忙しくなりそうですね。忙しいとは聞いていましたが、あなたがこんなことをしているとは考えもしませんでした」
「内緒にしていた方が、身構えなくて良いでしょう」

多分、今の自分は人の悪い笑みを浮かべている。身構えているのはハッサク自身だ。この日が来るまで自分を抑えて抑えて、なんとか彼に関心を抱いてもらおうと腐心した。おかげさまで目に見えるような緊張状態にはならなかったものの、ずっと会えなかったことの反動で胸がいっぱいで仕方がない。感涙に咽び泣かないことが不思議なほどだった。自分はアオキを手に入れたくて必死なのだろう。

「自分が他人にどう見えているか、気にしたことはありませんが……なかなか興味深いものですね」
「そうでしょう。生徒たちの瑞々しい感性には、いつも瞠目させられます」

アオキの眉ばかりを強調した絵や、背後のムクホークをまとわせた絵、なぜかアオキの靴と鞄を並べた絵、散りばめられた断片はどれも目新しい。彼らがどんな思いを抱いて描いたのか、本当は一人一人聞かせてもらいたいところだ。あそこが良い、ここは唸らされる、そんな他愛もないことをアオキとやり取りしながら過ぎる時間は心地良かった。仕事でも、自分のわがままでもなしに彼といられるなど、初めてかもしれない。

 この時間が終わったらば、自分たちはまた別れ別れになってしまう。メッセージをやり取りできるようになったとはいえ、その向こうへと踏み込んでいくには力不足だ。フカマルが描いたクレヨン画に、じわりと視界が滲む。終わりへと向かってゆく時間を無理矢理にでも捕まえようとする勇気を発揮するならば今だ。手のひらがぬるつき、ハッサクはそっと画用紙をテーブルの上に戻した。

「……これは、ハッサクさんが描いたものですか」
「あ!」

もだもだと考え始めたのが仇になったのだろう。アオキの何気ない一言に一挙に現実に引き戻される。生徒たちのスケッチブックとは離れた場所にあったものを開いて、アオキがページをめくった。一枚、また一枚。次へ、次へ、次へ。ゆっくりと、だが着実に捲られる様から、ハッサクは自分が描いた全てを見られていると悟った。

 どう描いても物足りず、考えあぐねて重ねた線の山を眺められるのは気恥ずかしい。肝心のアオキの表情はスケッチブックの向こうに隠れたせいで皆目見当もつかない。アオキは、呆れるだろうか。あるいは自分の感情が透けて見えて慄くか。嗚呼、どうしたって自分は怯懦を晒しているのだろう。自然に話すきっかけにしようと、タイムからのアドバイスを受けてこの機会を設けたのではなかったのか?ぐ、と拳を握りしめると、ハッサクは舌で唇を湿らせた。

「……アオキが何を考えているのか、ずっと想像していました。動かなかったのは、何かずっと考えていたからなのでしょう?」
「はい」

珍しく、間を置かずにアオキが答える。スケッチブックを捲る手は止まり、端から覗いた耳が心持ち赤いように見えた。

「アオキに考えられる対象が、小生は羨ましいです」
「っ」

ずんずんと近づくと、ハッサクは意を決してスケッチブックの端をこちらに引き寄せた。開かれていたのは、シャリタツを足元に侍らせ、カジッチュを膝に乗せた想像上のアオキと、現実のアオキを重ね合わせた一作である。狼狽を隠せない様子のアオキに胸が高鳴るのは、自分の獰猛さ故だろうか。つい、と逃げ出そうとする目を捕まえるようにアオキの手に自分の手を重ねると、限りなく優しい顔をするようにと自分に言い聞かせる。存外小さな手がひんやりとして心地良かった。あんなに大きな口を開けて食べるくせに、手が小さいとは心がくすぐられる。

「アオキ。話す時には相手の、小生の目を見てください。小生の絵を見て、アオキはどう思いましたか」
「……ハッサクさんは、自分を買い被りすぎです」

言わせてもらいますがね、とこちらを見返す眼差しは強く、ハッサクは火花が散ったかのように錯覚した。ポケモンバトルで対峙した時と同じく、肌がチリチリとして焦がれてやまない。なんだ、あの時には既にアオキに惹かれていたのか。好きだな、と胸に火が灯る。

「自分はこんな良い表情はしていません。ドラゴンポケモンは使いませんし――いただいたカジッチュは大切にしていますけれど――普通の、どこにでもいる人間なんです。わかるでしょう、ハッサクさんが特別目を惹くものなんてないんですよ、なのに……大体、目を合わせる合わせないだって、いつもならもっと長々とお説教するところでしょう。どうして急にこんな……めちゃくちゃです」
「アオキ」
「……何を考えてたかなんて、あなたには教えません」

好きだ。好きにならずにはいられない。かつてない勢いで浴びせられる感情の奔流に、ハッサクはどんどんと笑みが深まるのを感じていた。戸惑わせた申し訳なさよりも、素直な感情をぶつけられたことへの喜びが勝る。意固地にも下を向いてしまったアオキの頭を撫でると、黒と灰色が織りなす髪は、想像よりもパサつかずに指に絡まった。

「良いでしょう。無理には聞きません。ですが、次は小生のことを考えてくださると嬉しいですよ」
「からかわないでください」

スケッチブックを握る手に力が込められる。表紙が湿り気を帯び、アオキの手を刻み込もうとしていた。きっと、このスケッチブックに触れるたびに、今の瞬間を繰り返し思い出すだろう。

「好きな人をからかうような悪趣味はありません。あ、この『好き』というのは恋愛感情の『好き』です。覚えてくださいね」

アオキの頭から手を退かせるのと、彼の怒りとも羞恥ともつかないごちゃごちゃの表情が現れるのはほぼ同時だった。怒号を受け止める心構えはできている。呆れるでもよし、最悪拒絶するでも良い。なかったことにされること、彼の中に自分の居場所がどこにもない事態だけは避けたい。

 すう、とアオキが深く息を吸う。予想していたとは言え、ハッサクは自分の至らなさに拳を握りしめた。そうして吐き出して、アオキは『普通』の殻に籠ってしまうのだ。あとは嵐が過ぎるのを待つだけ、止まることは許されない。拒絶よりも消極的で、鉄壁の守りに何度説教し、歯痒い思いをしたことだろう。ここで諦めるつもりはなくとも、敗北の味わいはいつだって苦い。

「……自分には、ハッサクさんの考えはよくわかりません」

だが、アオキの発言はハッサクの暗雲垂れ込めた未来を裏切るものだった。スケッチブックを丁寧に閉じ、机に置いてアオキは生徒たちの絵の前に立つ。ざっと目を走らせると、アオキは一枚を選んでハッサクに示した。アオキを描くハッサクという面白い画題で、生徒の目を通したハッサクはやたらと嬉しそうである。実際、似たような顔をしていたに違いない。試行錯誤をしながらも、アオキを描く時間は幸せなひと時だった。

「ただ、ハッサクさんに紹介していただいたお店は、どれも美味しかったです」
「アオキ」

それは、何よりも食べることが好きというアオキにとって、最大級の賛辞ではないだろうか。いつもメッセージで感想を聞いていたものの、直接耳にした衝撃でハッサクは胸が潰れそうだった。

「前言撤回します。……自分はずっと、ハッサクさんと一緒に食事をしたら、どんな気持ちになるかを考えていました」
「アオキは、小生のことを考えていたんですね」
「はい」

好き、に対する直接的な答えではない。だが限りなく肯定的で彼なりの好意が滲み出た表現だった。何よりも、声音が優しい。

「アオキ、食事に行きましょう」
「……ハッサクさんが泣き止んだらで良いです」

何を言っているのだろう。確かに泣きたい気持ちだが、ここは気を引き締めなければと堪えている真っ最中だ。目で問われるままに自分の頬に触れる。静かに、だが気のせいと呼ぶには難しい量の温かな水が頬を伝っている。自分はとっくのとうに決壊していたのか。あまりの恥ずかしさからシャツで乱暴に拭おうとするよりも早く、目の前にす、と水色のハンカチが差し出された。

「『身だしなみに気をつけるのは、社会人の常識です』、なんでしょう」
「ア゛オ゛キ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛」

そこからしばらく、彼が何か言ったようだがハッサクは自身の泣き声でまるで聞き取れなかった。ただ、アオキは逃げずにそばにいた。それだけで今は十分だった。




 瓢箪からバンバドロという諺があるが、瓢箪からドラゴンが出てくるとはアオキは想像だにしなかった。アカデミーの芸術発表会(ポケモンリーグ協賛のスケッチ大会だ)の会場を退出して、アオキはチャンプルタウンに向かいながらハッサクとの間に起きた一連の経緯を振り返っていた。自分の身に起きたことながら。いまだに信じ難い。事実は小説より奇なりということだろう。

 朝、チャンプルタウンで一日のスケジュールを確認し、会議に出る。挑戦者が増えたので、昼食前に一戦交えて昼食を摂った。今日はその後アカデミーの芸術発表会に参加し、再びデスクワークに戻る予定である。ハッサクの授業に参加した衝撃は今も引きずったままだが、不思議と日常に大きな起伏はない。仕事の内容は前と同じで、『普通』は『普通』である。我が家の安心感は一種不変というわけだ。否、その我が家が少し姿を変えて大きくなったのだろう。

 正直なところ、ハッサクから好意を告げられた際には聞かぬふりをするのが大人だと考えていた。直前のやり取りで掻き乱された気持ちも、過ぎた冗談を受け流すように時間で薄めてしまおう。多少蟠りが残ろうとも、『普通』を維持することはできる。ハッサクとは、仕事だからと割り切って付き合えば良い。

 それをできなかったのではなく、しなかったのはひとえにアオキ自身の意思だった。ハッサクの描いた自分の表情が瞼の裏に焼きついて離れない。あれは言葉よりも明白な、剥き出しの好意だ。自分よりも余程面の皮が厚い大人のくせに、そんなところだけは純粋で脆いだなんてずるいと思う。果たしてそうだろうか?思い返せば、彼の威風堂々たるポケモンバトルの根本は同じと考えられるかもしれない。四天王総当たり戦では、ただポケモンバトルに負けたのではなく、妙な駆け引きのない真っ直ぐな姿勢の眩しさに負けたのだ、と今ならばよく理解できる。

「……自分には、ハッサクさんの考えはよくわかりません」

だから、せめて素直さくらいは返しても良いと思ったのだ。美味しいものを教えてくれた人間に、自分と同じものを美味しいと感じられる人間に、自分が差し出せるものは捻りのないありきたりの感情だけである。

「前言撤回します。……自分はずっと、ハッサクさんと一緒に食事をしたら、どんな気持ちになるかを考えていました」

告げた瞬間、どぱっとハッサクの目から滝のように涙が流れてギョッとしたが、当人は全く気づいていない様子だった。ただ静かな、見ている方が辛くなるような泣き方で、胸をぎゅっと鷲掴みされる。

「アオキは、小生のことを考えていたんですね」
「はい」

どうしてそんなに嬉しそうなのだろう。みっともなく泣きながらも凛々しいだなんて、やっぱり反則だ。ある意味、アオキはここで泣き落としをされたのかもしれない。ピロリロ、と間抜けな音が胸元に響く。スマホロトムを起動させると、画面いっぱいに並んだ文字にアオキは微かに微笑んだ。ハッサクからのメッセージだった。

『一緒に食事に行きましょう』

どこそこに美味しいお店を見つけたんです、という説明の随所にアオキへの思いやりが伺える。想像と共に食卓を囲むのではなく、現実と楽しむ時間の到来だった。彼の涙を拭いた時に始まったこの新たな『普通』の行事はもはや定番となりつつある。

 今日は何を食べよう。何を話そう。カジッチュの甘さは、進化させたらば変わるのだろうか。

『行きます』

わかりました、と打ちかけて取りやめ、一つ前を向く。今日はノー残業デーだ。断固とした気持ちで業務に立ち向かうべく、アオキはざっざと足を動かした。


〆.


あとがき>>
 ハサアオ寿司・リンゴ事件、今度こそ終了です。ほんわりと考える程度だった内容が、いざ書いて見たらば想像以上に長く楽しい道のりになりました。経験を積み重ねてきたからこその老獪さがあるからこそ、残った純粋さにハッと胸を打たれることがあっても良いんじゃないかな、と考えています。多分不意打ちとギャップには弱い、わかるんだね……意思がはっきりした頑固な大人同士のぶつかり合いは、書いていて本当に楽しかったです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!