お墓の中には何にもない。
虚無の葬式
手酷い裏切りは焼けつくような痛みにも似ている。じくじくと痛む胸をさすり、ナワーブ・サベダーはザクロのように裂けていないことを意外に思った。実り熟れた疑惑の種がこんなにも大きく育っているというのにどうして血すらも吐かないのだろう。まだ自分には柔らかい部分が残されていた、否思い出してしまったことに気づいてナワーブは歯噛みした。そんな自分を取り戻してくれた相手がこんなにも極悪であると知っていたらば感じることなどなかったはずの痛みだ。苛つきながら向かった先は近頃できた疑似墓苑で、空っぽの棺を納めた不気味で静かで優しい場所である。
「ピアソンさん、俺のこと好きじゃなかったんだ」
「……それを僕に言われても困るんだが」
必要のない墓場を作ることに熱意を燃やしている男は、ナワーブの言葉にくるりと体を反転させた。血までが透明ではないかと思えるほどに肌が白く、髪は白金、瞳もまた銀色に輝くアンドルー・クレスその人である。心の安寧を得るためには大事な作業だとこの墓作りを称する男はひどく迷惑そうだった。だからちょうどいい、とナワーブは数日前にできた盛り土の上に腰を下ろした。土の下には何もない。冒涜的なようで日常的な無意味な行為だ。事情を知らない人間が見たらばすぐさま立ち退くように求めるだろう。だが、墓を作る男は出来上がったものに興味はないらしく、払い除けることはしなかった。
「墓場は秘密を隠すところだろ」
「僕は神父じゃない」
告解ならば他所でしてくれとアンドルーはシャベルを構え直す。驚くべきことに、この痩せた男は力持ちなのだ。シャベルを握る手は無骨で骨張っており、ナワーブは知らず知らずのうちに想いを通じ合えたはずの人――クリーチャー・ピアソンの手と比べた。指はもっと長く、手の甲は薄い。爪が不揃いな大きさなのは生い立ちを辿るような心地になるので事情は辿らないことにした。触れればガサガサとした触感が返ってくるのは、クリーチャーがこまめに家事をこなすためだろう。あの手は働き者で、曲者で、どうしようもなく不埒なものだ。ナワーブには別段変わった性壁はなかったはずだが、ことクリーチャーとなれば微に入り細を穿ちその良さを語ることができる。何を見てもクリーチャーを思い出しそうになる自分に呆れてため息をつくと、ナワーブは当初の用件を切り出す事にした。
「ピアソンさんが好きなのはエマだ。俺じゃない」
「根拠は?」
聞かないならば延々喋り倒そうと決めていただけに、この返答にナワーブはおやと片眉を持ち上げた。スコップを脇に置くと、アンドルーも盛り土の上に座る。どうやら彼にとってもこの墓場に神聖さは存在しないらしい。日頃慣れた作業をしていれば、気が狂いそうなゲームの日々の中で心の安寧を持ち続けられるということかもしれない。ナワーブが以前、暗号機の通信音によって神経が参ってしまった際にエミリー・ダイアーが勧め、気づけばクリーチャーの助けで調子を直したことが思い出された。あの献身的でさりげない支えがなければ、今のナワーブはここになかっただろう。ゲームにまともに出られたものか、日々を過ごせたか全てが怪しい。
「……あの人は俺に好きだって、一度も言ってくれたことがない。恥ずかしがっているんだと思おうとしてたんだ。でも、最近は抱きつこうとすると逃げるし、二人きりになろうとするのも避けてるみたいなんだ」
「なるほど」
「でも、エマとは平気で二人でいるし、むしろ二人きりでいると嬉しそうなんだよ」
先刻温室で見かけた光景を思い返し、ナワーブの口中に苦いものが広がる。ゲームの合間にせめて顔だけでもと探し回って出会ったのはクリーチャーがエマ・ウッズと仲睦まじく花をいじる姿だった。自分が荘園に来たばかりの頃はクリーチャーが執拗にエマに言い寄り、時には暴れ出すなどの振る舞いをして当然の如く周囲に煙たがられていたのだが、これはどういった心境の変化だろう。確かにクリーチャーは自分の目から見ても穏やかに変化したように感じられるが、今更気持ちに応えようという気にさせる要素などありはしない。あっては欲しくないとナワーブは切に願っていた。クリーチャーの良さは自分だけが知っていれば十分だ。
この異様な関係の変化は盟友ウィリアム・エリスとイライ・クラークにも確認できたので的外れではないだろう。エミリーさえもがクリーチャーとエマとの関係が良化したことを認めた。だからと言って油断はできないと付け加えたものの、彼女の瞳の中には安堵があったことをナワーブは記憶に留めている。直接恋人に尋ねるのはどうにも勇気がない。本当に恋人であるか怪しいという不安を決定づけて希望という希望を打ち砕く結末になることを恐れているためだ。恐怖?戦場で置き去りにしたはずの痛みにさえも鈍いナワーブが、現実によって居心地の良い相手を失うことが恐ろしかった。
全てを語るにはあまりにも情報が多いためかいつまんで話せば、アンドルーはただ頷くばかりだった。こちらは想定どおりの反応である。アンドルーはエマとクリーチャーがまるで折り合わなかったことを知らない。最近来たばかりの彼は多くの人間がそば近くにあることすら初めてなのだと言う。彼にしてみれば、この荘園で起こる人間喜劇の全てが刺激的だろう。ナワーブとて彼に解決法を求めてなどいない。自分の中にすでに答えは用意されている状態で、ただ聞いてもらいたかっただけだ。そうした意味ではこれこそアンドルーが自分に対してすべきではないと述べた『告解』と言える。しばしの沈黙を経てナワーブはずらりと並んだ墓を見遣った。自分が戦場で培ってきた勘が、この盛り土の下のように空虚であればどれほど良かっただろう。
「墓石の下にあるものは、墓碑に書かれたもの通りとは限らない」
「謎かけか?」
「さあ。確かめてみる方法はありそうだなと思っただけだよ」
うっすらとアンドルーの目元に笑みがにじむ。この男は表情までもが薄いだけであって、何も無感情というわけではないらしいとナワーブはまたも発見をした。おまけになかなかしたたかそうだ。彼もまた荘園の主人が呼び集めた一人なのだからもっともな話である。ナワーブは頷くと、風に揺れる葉ずれを聞くようにしてじっとか細い声に耳を傾けた。
気持ちは時にその持ち主を裏切るものだ。庭園で雑草を摘み出しながら、クリーチャーは遠い目をした。なんだってこんなにも面倒なのだろう。幼少期から自分自身という道具を扱いあぐねていたクリーチャーにとって、感情の制御は一つの大きな課題であり続けていた。荘園という狭い空間であればうまく演じきれると踏んでいた中で、エマに対して憤怒と憧憬と執着と、自分でもどう色付ければ良いかわからぬ感情を爆発させたことが良い例である。ほんの少しの時間であれば問題はない。一見穏やかで慈しみの心を持つ『慈善家』のふりをすることなど難なくできる。だが長時間、四六時中顔を突き合わせるとなればメッキは見る間に剥がれ落ち、ニョキニョキと押さえつけられていた感情が吹き出してしまう。彼らを以てして自分がどう見られるかは気にも留めないが、生活に支障が出るのはまずい――ずっと、その程度のこととなんとか自分を宥めてきた。ナワーブに出会うまでは。
ナワーブは、言うなれば彗星の如くクリーチャーの前に現れた。不審げな様子で玄関ホールに佇む青年にパチパチと輝きがはぜるように錯覚して、思わず目を擦ったことはありありと覚えている。蚤の市で掘り出し物を見つけた感覚にも似た勘は、不躾な質問を重ねられても尚クリーチャーの中に熱狂を残した。一眼見た時から彼には何かあると踏んだ見込みは大正解で、傭兵として培ってきた技術は誰しもがため息をつく出来栄えであったことは言うまでもない。いつの間にか荘園の有象無象に馴染んだナワーブの雰囲気は一層彼の中に眠る良さを引き立てたようで、クリーチャーは自分が育てたわけでもなしに大得意だった。誰かがナワーブを褒めるたびにそうだろうと頷いたものである。自分の勘は間違っていなかったのだ!
だが、肝心なことに対してこの勘とやらはお留守だったらしい。宝石のように輝く眼差しが何を強請っているのか、クリーチャーから何もかもが奪われる危機にさらされているのかに気づいたのは沼にはまって半ばの頃である。エミリーに言わせれば、逃げ出すにはもう遅いとのことだが自分はまだ諦めていない。今までの人生で、本当に必要だと思ったものは必ず手に入れたし成し遂げてきた。例えその後に奪われるような悲劇が待ち受けようとも、一度手にすることが肝要である。ましてや自分から奪われるという驚天動地の事態からは絶対に逃げねばなるまい。
「気付くのが遅いの。ピアソンさんは鈍いなの」
「にに鈍いのは君の方だろう、エマ・ウッズ」
唯一の逃げ場でエマに詰られ、クリーチャーは思わず極めて下劣な言葉を連ねようとした口をなんとか閉じた。代わりに足元に生えているキンポウゲの花を雑草と間違えたふりをしてぶちりと引き抜く。庭園の管理者が冷ややかな眼差しを向けてきたがどうでも良い。彼女の機嫌を伺うことはずいぶん前にやめていた。脅してもすかしても靡かないとはまさにエマのことで、可憐な花のようでいて手折られるそぶりは少しもない。ある意味では、芯の強い彼女だからこそクリーチャーは惹かれ、我武者羅に感情をぶつけていたのかもしれなかった。本当は他にも理由があるような気がするものの、これ以上踏み込んだところで無意味だと放り投げている。
ついでに話せば、エマは基本的には優しい。あるいは根本的にはクリーチャーに対して無関心で、故にこうして庭園に逃げ込んでも追い出そうとはしない。エマとのいざこざを知るナワーブが立ち寄らないとするならばここだけだと藁をもすがる思いで足を向けた自分の判断は適切だった。借りを作るのは性分に合わないこともあり、雑草抜きを手伝うのも気晴らしになってちょうど良い。
「ナワーブ君はずっと前から好きだって言っていたの。ピアソンさんだって嬉しそうだったの」
「ああああれは!からかってると思ってたんだ!大体あいつは外国人だから意味がわかってるか怪しいもんだ」
「嘘つき」
前言撤回、エマはまるで容赦がない。ひょっとしなくともこれまでのクリーチャーの振る舞いに対する逆襲の可能性すらあった。感情の奔流に振り回されるとはいえ、客観的に自分の行動を見ることができるクリーチャーには容易に理由が想像できた。指折り数えたらば足りないくらいだ。それでも、ナワーブはやってこない。そう、ナワーブだ。目下クリーチャーを悩ませてならない青年は、あろうことかクリーチャーを恋愛的感情として好いているのだと言う。好きだと何度も言われ、抱きつかれてなるほど一度懐に入れば距離の短い男なのだとのほほんと構えていた自分は間抜けだった。先日とうとう口づけをされかけてなんとか避け、クリーチャーは危機的状況をようやく把握した。自分はすっかり思い違いをしていたのである。
少しでも可能性を疑わなかったかと言えば答えは否、一瞬ちらりと自問したことはあった。あの輝く瞳はひょっとして自分にだけ向けられる種類だろうか、だなんて夢を見かけたくらいである。長年生きてきた中で培った偉大なる経験はすぐさまそんな推察をせせら笑った。誰がクリーチャーを愛することができるだろう?胡散臭いと距離を置く目、値踏みする目に野良犬を見るような見下げた目、向けられるものは概ね不愉快だった。お返しに笑顔を差し出し、望むものを手に入れた時の暗い喜びはなんとも言えない。同情や偽善以外にかけねなしの優しさなど想像もできなかった。結論から言えばナワーブは本人曰く、その希有な例外なのである。
ナワーブがそばにいて、妙に落ち着いた時間が恋しい。今では火傷をしたかのように熱くなるし、触れられるなどもっての外だ。愛だなんておぞましいもが持ち込まれさえしなければ良かったのにと今でも悔やむ。ナワーブは自分のどこを気に入ったのだろう。考えれば考えるほどあの存在がもしずっとあればと欲が膨らんでしまいそうで恐ろしく、クリーチャーは思わずブルリと震えた。あれは手に入れたらば最後、骨抜きにされて我を失ってしまう。口づけをされかけた瞬間、本当に触れる直前で意識を取り戻したのは奇跡だった。毟った雑草を袋に入れると、エマは肩を竦めてじょうろをこちらに手渡す。存在する限りは手伝いを続けろと言うことらしい。クリーチャーにしても手持ち無沙汰は居心地が悪いので異論はなかった。
「ナワーブ君のことは嫌いなの?」
「いや、嫌い……ではないが」
言い淀みながらクリーチャーは庭園に来た自分を後悔した。ここに来れば安全だとなぜ思った?先ほどまでは大正解だったはずがすっかり追い詰められている。忌々しい小娘め。やはり淑女のなんたるかを自分が教え込まねばならないだろうか?既にナワーブだけでも厄介だと言うのに、他人の面倒まで見る心の余裕はまるでない。せいぜいエミリーに苦情を言うのが関の山だろう。どうすれば良いのか考えあぐねるなどまるで自分らしくもない。今までいくつもの困難を切り抜けてきた頭の冴えが、こと今回に関してはまるで鈍かった。嫌いではない。おまけにこの狭い荘園社会の中で無理やり切り捨てようとすれば、数々のゲームを乗り越えてきた努力が水の泡となる。だからこそこそこそと庭園に逃げ出して、二人きりになる時間を可能な限り避けようと苦労しているわけだ。
「好きなの?」
「なななななんでそそんな話になるんだ!」
予想されうる問いかけに、クリーチャーは思わずじょうろを振りかざした。天に掲げた瞬間、ばしゃりと冷たい水が顔に降り注ぐ。クスクスという笑い声に恨めしげな目を向けながら服の袖で拭うも、この濡れ具合では着替えたほうが良さそうだ。上着を脱ぎ、シャツまで濡れていることに気づいてクリーチャーは顔をしかめた。ピタリと張り付いた布の感触が気持ち悪い。
「エマに教えてくれないの?ピアソンさんならきっと教えてくれると思ったのに」
「うううウッズさん、」
悪魔だ。クリーチャーは少女の後ろに悪魔を見た。最後まで手を出さなくて良かったと心の底から安堵すると同時に、どうしようもなく甘美な罠に誘われて止まない。そもそも救いを得られるならば神だろうが悪魔だろうがなんだって良い。逆光のせいで表情が良く見えないエマは、さながら宗教画の如く神秘的で、クリーチャーを何処かに導くかのようだった。要するに、自分はもう考えることに疲れてしまっているのである。空になったじょうろのように何もかも吐き出して自由になりたい。
「……わ、わからない。わからないんだ」
あの言葉に対して感じた心をどう扱うべきか。あの言葉を信じても良いのか。手に入れた端から消え失せてしまうものなど耐えられない。大事なのは傷つく前にそんなものなど要らないと突っぱねる勇気、より自分にとって価値あるものを手に入れようと前向きに捉えることの二つだ。第一荘園とは一時凌ぎの仮住まいに過ぎない。世界は外に広く開かれており、こうして目にする光景の全てが幻だと思う日も来るだろう。唇から溢れる言葉は取り止めもなく、無意味な音の連なりとなって空気を震わせた。地面に落ちる頃には影すら失っている。
「ピアソンさん」
「ああ」
剪定者の目が光る。クリーチャーは固唾を呑んで判決を待ち受けた。どうか断罪して、迷妄を断ち、進むべき道は最初から一つしかないのだと現実に追いやって欲しい。
「その答えは土の下に聞くと良いの」
「土の下?」
唐突に持ち出された暗喩に気付けず、思わずクリーチャーは彼女の正気を疑った。元々紙一重の領域に存在する節があるエマのことだ、よもや、と想像が広がる。彼女はこの話に疲れてクリーチャーを土の下に埋めてやろうとでも思っているのかもしれない。ゾッとするような危機はだがしかし、エマの目を辿ることによって解消された。花畑の畝にもう一つ、不自然な形の土の盛り上がりができている。
「アンドルー?」
覚えのある相手の名前を呼ぶも、返事はない。逃げ出される前に駆け出すと、クリーチャーは神が指差す先に向けてじょうろを思い切り振り下ろした。
土の下は湿っぽい。柔らかく、ついで暖かく、なるほど人間の体内に例えるには一理あるとナワーブは一つの学びを得た。唯一の難点は真っ暗でどこへ向かえば良いのか自信を持てない点だろう。アンドルーは何故だかわかるそうだが、本来の持ち主ではないナワーブには許されない御技らしい。墓守に示唆された通りにシャベルを動かしながら、ナワーブはもぐらのような真似をする自分をひどく滑稽に感じた。格好良さのかけらもない。どうしたって無様な真似には違いないのだ――好きな相手の本音を盗み聞きしようとすると言うのは。おまけに反則すれすれの土の下からである。
「は?お前今、なんて言ったんだ」
「堂々と相手に聞けないなら、こっそり聞けば良いんじゃないか」
「今の『なんて』はお前が正気かを確認したんだ。いや、正気かどうか聞くのは間違いだったな」
荘園にいる人間に正気を求めるのは無意味だ。皆等しく愚かで罪深く狂っている。まともであればこんな場所にのこのこやって来て命がけのゲームなどするものか。アンドルーに至っては少々人付き合いの仕方が未発達な趣さえある。一度自分の良い子ぶった側面を黙らせると、ナワーブは改めてこの提案を吟味した。クリーチャーが自分のことをどう思っているのか、は遅かれ早かれ確かめるべきだ。面と向かって尋ねるには警戒され過ぎていて困難を極める。よって、是非とも知りたいのであれば伝言ゲームか手紙、はたまた盗み聞きより他にない。伝言ゲームはこの気持ちを延々伝えねばならぬ上に、クリーチャーの反応を他人に見られると言う悔しい思いをする羽目になる。手紙は破り捨てられてしまえばおしまいだ。なるほど、自分の聞きたいことを聞けるかはさておき、アンドルーの提案はなかなか有用そうである。方法を問えば、アンドルーは我が意を得たりと側に突き立てていたシャベルを握った。
「ではこれを貸します」
「……なるほど」
ここまで来れば、流石のナワーブもアンドルーの思考回路は読み取れた。ドアの後ろや隣の部屋、などと言う方法よりもよほど手堅く、かつアンドルーにしか思いつけない良い方法である。ナワーブはこの時点で全面的にこの男を信任した。言葉数の多いイライよりもよほど自分の意を汲んでくれていると言っても良い。因みに、イライには話に行く以前の時点でゆっくりと首を振られた。話にくるなと言う意味なのか、全て無駄足だと言いたいのか聞くのも億劫になったためにナワーブの足はこの虚構の墓場へと向けられたのである。アンドルーから仕事道具を受け取ると、思いの外にずっしりとした重みが加わってナワーブは軽く目を見開いた。
もしまだ先ほど自分が見かけたままであるならば、クリーチャーはエマと一緒に睦まじく庭園で草木の手入れをしているはずだ。今ならば運よく二人の仲を確かめることができるに違いない。アンドルーに行き方を尋ねれば、難なく最短の道のりを示した。如何せん地面の中は勝手がわからないだろうから、とおおよその方角と体感時間をつらつら述べるアンドルーはすっきりとした表情で頼もしささえ漂っている。
「ありがとな。後で改めて礼をさせてくれ」
「お礼はバナナブレッドで良い」
意外な答えに、今日は何度も驚かされているとナワーブは苦笑した。本当に、世の中は全く見た目通りではない。もしかしたら、自分が見たものだって偽物かもしれないと思う程度には希望がちらつく。なんでも先週食べたおやつが忘れられないらしく、奇しくも出どころはクリーチャーなのだった。自分が傷心した際にはウィリアムあたりに出向いてもらおう。シャベルを握り、地面に突き立てる。途端レンガのように固かった土がプティングのようにグズグズに溶け出した。流石は荘園の主人が支給した魔法の一品、効果は折り紙付きである。
「幸運を」
本当に。ナワーブは頷くも、もう土の中に進んでいてお互いの顔は見えなかった。かくて土中の旅は始まる。生まれて初めての暗闇は心地よさを伴いながら目標へと誘った。200を数えたあたりで右に折れ、343を数えたところでほんの少しだけ左にずれる。そうすれば庭園の入り口あたりには辿り着けるだろうとの指南は正確で、静かに数を増やしながらシャベルで掘り進めた頃には既に聞き覚えのある声が耳を震わせた。
「エマに教えてくれないの?ピアソンさんならきっと教えてくれると思ったのに」
「うううウッズさん、」
疑いようのないエマとクリーチャーの親しげな様子にナワーブは早くも心が折れそうになった。なんて間が悪い。少女の甘い声に舌打ちすると、ナワーブは今すぐ地面から飛び出して二人を引き剥がしたい衝動を必死で堪えた。戦場と同じで、冷静さを欠けば一巻の終わりだ。ここで盗み聞きをしていることも含めて気づかれるわけにはいかない。慎重にシャベルを動かすと、ナワーブはより聞き取りやすい位置へと移動した。アンドルーの忠告に従い、10を数える以上には進めない。庭園の畝から出ればすぐさばばれてしまう。
「……わ、わからない。わからないんだ」
ヒック、としゃっくりを伴うクリーチャーの声が心地よく響く。緊張した際に見られる癖で、いつからか自分のそばにいる時には出なくなったものだ。それほど居心地の良さを感じていたはずなのに、不十分だったかと思うと悩ましい。あるいはだからこそナワーブは恋愛対象から外れていたのだろうか。あなたって良い人よね、と故郷の少女が話していたことを思い出す。褒め言葉ではなく慰めの言葉だと知ったのは大層屈辱的だった。
「ナワーブ君が側にいると、どうしたら良いのかわからなくなる。好きだとかそんなもの、私にわかるはずがないんだ。惨めだろう、私を愛してるだなんて嘘に決まってる!誰が信じられるんだ、わ、わ、私はクリーチャーだぞ。ウッズさんならよく知っているはずだ!なあ、」
恥ずかしくてたまらない、拒むことも受け入れることもできずにいるこの状態を好きとも言えないとクリーチャーはかすれるような声で続ける。なんて可愛い人!今の状況で振り払うのは賢くなんてないだろう、とエマの同意を求める点では鼻を鳴らしたが、今やナワーブの心を締めるのは漠々たる幸せの花園であった。自分を避けていたのはどうすればいいのかわからないと言う初々しさの現れだったのだ。これを冥加と言わずしてなんと呼ぼう。今すぐにでも飛び出したい気持ちを抑えると、ただただナワーブはこの叫びを胸に留めた。話が終わったらすぐに正々堂々とクリーチャーを捕まえることにしよう。が、地中の皮算用は思いもよらぬ冷ややかさでもってぐらついた。
「その答えは土の下に聞くと良いの」
「土の下?」
エマの的確な声がぐさりと刺さり、ナワーブはシャベルを握る手に冷や汗をかいた。さすがは庭園の管理者、異変に気づくのは容易い。だが今になって声をかけてくるとはどういった了見だろう。否、まさか地中にいるのが自分だとは思うまい。アンドルーには悪いがここは速やかに撤退して逃げるが勝ちだ。アンドルー、と頼りないクリーチャーの声が呼び掛けても無視して土中を進む。元来た道を辿れば何とか外へ――――呼吸を数える最中、散らばったのは頭上に輝く星々と嘆きの声だった。
「おおおおお前、なん、なんでここに!」
頭がぐらぐらする。何かで殴られたのか。いつも通りにじわじわと遅れてやってくる痛みに顔をしかめると、ナワーブはクリーチャーの手に光り輝くじょうろがあることを認めた。あんなもので殴られたらば痛いに決まっている。クリーチャーのシャツが濡れて、微妙な透け具合はなかなか好みだな、と思ったのを最後に、ナワーブはどさりと倒れ込んだ。
前代未聞の恥だ。全部聞かれていただなんて!それも自分を振り回してやまない嘘の根元ともなれば運命を恨みたくもなる。バナナブレッドを焼きながら、クリーチャーは床に転がした青年を足先で突いた。以前であれば颯爽と現れては菓子を強奪していった元傭兵も、じょうろを前にしては形なしである。もっと勘が冴え渡るような切れ味の鋭い男だったはずだが、とクリーチャーは思い切り自分にも当てはまって顔をしかめた。自分としたことが庭園に潜む第三者に気づかなかったとは、荘園に出た後の副業の引退も検討した方が良さそうだ。
もっと自分は賢いと思っていた。けれどもナワーブを前にして賢さは愚かさになり、勘は鈍って調子が狂う。誰かを信じても、それも愛というわけのわからぬ爆弾を信じてみても良いかもしれないと思う日が来るとは人生まだまだ先が長い。庭園で盗み聞き(間違いない)をしていたナワーブが倒れる前に呟いたのは、恥知らずな愛の告白だった。
「ピアソンさん、俺はあんたのことが好きで、愛してて、あんたをそのまま全部欲しい」
悪いところも良いところも、わからないままだって良いから欲しいと朦朧とするであろう頭で語るナワーブに、クリーチャーは文字通り頭のてっぺんから爪先まで真っ赤に染まった。よりにもよってエマに隣で聞かれるとは耐え難い。続いて目を閉じたナワーブがこぼした最後の言葉はバナナブレッド。意味はわからないがこうして作り始めているあたり、クリーチャーはこの青年に骨抜きにされているのだろう。じょうろで気絶させたのは自分だから、と僅かながら残っていた良心の痛みを当面の理由としておく。愛なんて、まだ自分には程遠い。
墓場まで持っていくはずの何もかもは図らずも奪われ、クリーチャーは逃げ場を失った。この前向きな青年が、目覚めて以降に何をするかは明白だ。エマでさえも半ば同情した眼差しで頑張って、と応援してくれたほどである。こんなにも嬉しくない言葉があるかと唇をモゴモゴさせるのが精一杯だった。
「良い匂いだ。バナナブレッドか?」
「正解だよ」
穏やかな声に顔を上げれば、アンドルーが何食わぬ表情で佇んでいた。魔法のシャベルの持ち主は床に伸びたナワーブとクリーチャーを見比べ、うんと小さく頷く。ナワーブが土中から姿を現した時点でわかっていたが、やはり彼が一枚噛んでいたのだ。一見人畜無害そうな人間が一番侮れないとはアンドルーのような人物を指すのだろう。
「あとで僕の分を取っておいてほしい。お礼にそうだ――良かったら、彼を埋めよう」
「あー……いや、よしておく。お気遣いありがとう」
彼にできる最大限の申し出だろうが、縁起でもない内容にクリーチャーは呆気に取られつつ首を振った。生き埋め!一連の恥や気持ちといった何もかもは土の下に埋めたいが、埋めたところでどうにもならない。第一、ナワーブを埋めてもしぶとく這い出てくるに決まっている。そうでなければゲームで頼りにしている男とは言えない。
アンドルーはいつでも言って欲しいと言い置いて、オーブンの中に身を横たえたバナナブレッドを見つめた。一瞬バナナブレッドたちが震えたような気がする。神秘的な青年は謎の言動も相まって益々不気味だった。焼き上がりの目処を教えてようやく去っていくのを見届け、クリーチャーはもう一度足先でナワーブを突いた。ううん、と悩ましい唸り声が上がる。まだまだ夢の中らしい。
「まあ、間違っちゃいなかったな」
ナワーブには何かある。当初の勘を振り返って、クリーチャーはようやく頬を緩めた。
〆.
あとがき>>
twitterのタグ募集で、腐っかさんよりいただいた『勘冴えて悔しいわ』(ずっと真夜中でいいのに。)をイメージして書きました。転がり落ちてゆくような勢いある曲調に、追い詰められつつも強さを失わない歌詞、どこか可愛さを感じるところは傭兵と泥棒にも当てはまるように感じます。二人とも培われた勘を大事にしていそうで、それで助かることも窮地に陥ることもあるんだろうなあ、と勘が冴えるだけに迷走する二人が交わる姿を想像しながらできたお話です。素敵なお題に感謝〜!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!