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今日もここにありますことを感謝して


今日の糧


 カレーが嫌いだった。と、ナワーブ・サベダーが言いはじめれば誰もが目をむいて驚くだろう。何せナワーブの出身地では主食も主食、朝昼晩と出ても何ら違和感のない物だからである。近隣地域の印象をうっすらとしか抱かぬ、荘園の人間たちも耳を疑うかもしれない。もちろん安心していただきたいが、嫌いだったのは幼少期の頃で、細かな違いを味わう喜びを知らず、貴重さと恩恵など想像もつかない愚かさ、純朴さを抱いていたためだ。今では好きか?と問われれば、母の作るカレーならば何でもと答えるだろう。

 そのカレーは異国に来てからはまるで無縁のものとなり、出会った時には異国に交わりすぎて名前ばかりの存在が提供された。あの落胆ぶりは言葉に言い表せない。スプーンを握ったまままんじりともしない顔で座るナワーブを、気にかけてくれたのはクリーチャー・ピアソンただ一人だった。彼がいなければ、ナワーブとカレーは救われぬ仲となったままだったろう。言わば救世主の到来である。

「君の故郷の食べ物、じゃなかったのか?」
「全然違う」

食堂は相変わらず騒がしく、それぞれの住人が自分に必要な時間を使い込むべく止まり木のようにして現れて去ってゆく。仲良く一堂に会して食べるのは、ゲームのない日曜日や荘園の主人が主催するイベントが行われる時くらいだ。とりわけ昼食は忙しない。皿を置きっぱなしにして急いでゲームに向かうウィリアム・エリスの後ろからフレディー・ライリーが皿くらい洗い場に持ってゆけと叫んでいる。多分、ウィリアムは悪びれない顔で軽く謝るだろう。それで何故かうまくいってしまう、得な男なのだ。羨ましい。

「ケジャリーはカレーの仲間だってエミリーが言ってたんだけどな……そうか、違うのか」

塩辛いタラの身をスプーンでほぐすクリーチャーの様子に、ナワーブはおやと首を傾げた。もしかしなくとも今日の当番はクリーチャーであるらしい。自分が荘園に入ってから何くれとなく気を使ってくれる(だがすぐにそれは誰に対してでも同じ『慈善家』であるためだと知れてがっかりした)クリーチャーの目が自分に向けられている!さらに言えば、思い詰めて告白して何とか受け入れてもらえた相手からの好意に胸をくすぐられるのは当たり前の話だろう。じわじわと頬を緩めると、ナワーブは一口カレーもどきを食べた。違う。けれども、これはこれで美味しい。

「美味しくないわけじゃないんだ。ただ違うってだけで、」
「……かえって気を遣わせたな。そんな顔するな、ただ私が君の故郷を知らないだけの話だ」
「遠い場所だからね」

ふ、とクリーチャーの目元に滲んだ寂しさが胸を切なくさせる。そんな顔をしないでほしい。彼の故郷はこの国の北部で、故郷と呼べるほどのものでもないといつぞや話していた。帰る場所がない、根無草らしい物言いはむしろナワーブを喜ばせた。行く当てがなければ自分のそばから離れる理由がなくなる。あるいはそれこそ自分の故郷に連れて行く未来だってありうるのだ。邪なことを考えた瞬間、イライ・クラークの言いようのない視線を感じた気がしたが、お互い無言であったのでよしとする。

 この国の外を伝聞でしか知らないクリーチャーにとって、初めて訪ねる異国の地が自分の国であれば何よりも嬉しいだろう。こんな風に、ナワーブは日々些細なことで幸せを見つけては噛み締めている。いつか飽きるのではないか?そんな予感が時折頭を掠めないでもない。だが現実に今、とても気分がいい状態で、相手にもそうであって欲しいと願っているのだ。

「今度一緒に作ってみる?俺も自分で一から作ったことがないけど、手伝ったことはあるから」
「ん」

慰めも兼ねて隙をつくような口づけを送る。咎めるような目をしながらも慣れてきた相手はどこか反抗の仕方が手ぬるい。周りに見られていないことを承知の上で仕掛けたことだということくらいは分かってもらえてると思うことにしよう。お返しはナワーブの頬についた米粒をとった指先で、そちらを舐めとる方がよほど問題ではないかと首を捻ってしまう。遠慮なく舐めとろうとすると、すいと後ろに逃げられた。

「また今度な」
「ちぇ」

クリーチャーの目がちらりと動いた先には、ちょうど遅い昼食を始めるノートン・キャンベルの姿があった。なるほど自分はギリギリでうまくやり過ごせたらしい。さて荘園の主人に尋ねればカレーの作り方は手に入るだろうか。魔法を生み出す人物を思い描くと、ナワーブは粛々と食事を再開した。塩気の強いカレーもどきはやはりカレーではなかった。




 料理が嫌いだった、と言えば驚かれるかも知れない。クリーチャー・ピアソンはそれほどに今、日々何かを作り出し他人の口に入れてやっていた。食事とは許しであり共有であり共同体の始まりと言っても良い。単なる懐柔策として始めたクリーチャーは、次に他人の生命と気分を左右することのできる自分に酔いしれ、もしかしたら自分はもっと平凡なのではないかと錯覚するに至った。例えば、人間扱いされなかったり軽蔑されたり拒否されたり、暴力を振るわれることが当たり前の生活からは無縁であっても良い。荘園は別世界だ、と頭の中でよく言い聞かせていた。外のしがらみからいっとき解き放たれ、同じ目的のために集った仲間と切磋琢磨する。まるで物語の主人公のようではないか。ずっと自分の物語の主人公らしく振る舞うことを信条としていたクリーチャーにとって、見解が一致した瞬間でもあった。

 クリーチャーはこの世に善人など存在しないことを承知している。今作っているのはバナナの揚げ菓子(パトリシア・ドーヴァルがこっそりとリクエストしたものだ)で、ほんのりと甘い香りが厨房に漂う。ジュージューと油の中でバナナが踊り、もっとこの中で遊んで甘くなりたいとはしゃぐかのようだ。溺れてしまえば黒こげになって地獄へ真っ逆さまだというのに。自分も同じだろうか、とクリーチャーは程よく熱されたバナナを摘み出した。善さをつぎはぎして振りまいて、互いに微妙な距離感を保てればそれで良かった日々が、熱に当てられて蕩けてしまった。他人の善性を信じるなど、過去の自分が聞いたならば唾を吐きかけてくるだろう。そんな様子では生き抜いてなどいけない。

 バナナを一心不乱に注視するナワーブを見遣り、クリーチャーはくすりと笑って粉砂糖をとるように頼んだ。惚けた表情がハッと覚醒して動き始める。粉砂糖にチョコレート、一緒に細かく砕いたナッツ類、事前に打ち合わせていた通りのものを並べて満足げな様子は子供のようで可愛らしかった。そんなふうに言えばきっと拗ねるだろうから、クリーチャーは頬に口づけするにとどめておく。途端にボッと顔を赤くするのだからたまらない。

ナワーブが彼の心中を告げた時、クリーチャーは思わず周囲に新しいハンターや小道具がないか探し回ったものだ。一切ないことを確かめても尚疑いは拭えず、ナワーブがどうにか本気だと信じて欲しいと、それこそ毎日言ってくるに至って縁は結ばれた。信じるしかない、あんなにも必死で、切なくて、愛しい様子が深まり向かってゆくのはただクリーチャーにだけである。そんな機会はこの先どう生きようが出会えないと自信を持って言えた。だからこそ力づくで色々なものを手に入れようと試みたが、手に入るのはいつだって虚しく終わってしまう。

 好きだなんて言葉は難しい。信じて良いものか、そもそも一体なんであるのかがわからない。執着心や独占欲、所有欲は慣れっこだったので飲み込める。だがこの柔らかで優しくて生温い、居心地の良さがずっと続く感覚はあまりにも理解不可能だった。これを愛情だとナワーブは言う。幸せだと彼は心底さりげない日々を暮らしながら告げる。確信を持って言ってのけるナワーブが心ひそかに羨ましくてならなかった。何故ならナワーブは知っているし、過去にも身に受けた覚えがあるのだと容易に推察されたからである。二人で思い思いにバナナを転がして飾り付けると、今日のおやつの完成である。

「向こうに持ってくね」
「ああ、頼む」

阿吽の呼吸でナワーブがバナナを皿に盛り付け、皿を抱えてゆく。そうすればいずれ片付けをしているうちにお湯が沸き、パトリシアかエミリー・ダイアーあたりがやってきてお茶の支度をするのだ。万事抜かりなく日々は繰り返しを続けていた。飽きない自分にも不思議なのだが、どんなに日々が同じであろうともそれこそ本当に『同じ日を繰り返している』気がしたのだとしても放り投げようという気は起きない。むしろこの循環が絶たれて、本来あるべき流れはこちらだと真実を露呈する瞬間の方が恐ろしい。

 好きかどうかはまだわからないが、クリーチャーはナワーブに執着している。エマ・ウッズとは異なる行為や在り方を求める欲に名前をつける勇気はまだないが、先日あんまりにも聞きたがるナワーブに話した際にはひどく満足していたのでこれで良いのだ。良いんだろうか、と疑問を持つべきはナワーブであってクリーチャーではない。ナワーブはクリーチャーをこの錯覚に落とし込んだ責任を取る必要がある。

「一生取るだなんて言い出しそうだな」

そうなったらば今度こそ逃げ場を失いそうなので、尋ねるのはもっと本当に必要になった時にしておこう。ヤカンがピーピーとけたたましくなると同時にやってきたパトリシアに、クリーチャーは軽く手をあげた。




 温かなサフランライスの横に小さなカップを並べ、作り上げたカレー三種類を盛り付ける。豆が主体のもの、肉が入ったもの、魚が入ったもので、色は似通えども味はまるで異なる。荘園の主人が送って寄越したレシピと材料はまさしくナワーブの記憶通りだった。普段は手伝う側の自分が、クリーチャーに手伝ってもらいながら作る時点で既に幸せだが、出来上がりが完璧ともなれば喜びも一入である。食席に並んだクリーチャーも、色とりどりのカレーを前にして小さく歓声をあげた。

「見た目からしてケジャリーとは全然違うんだな。一回に食べる種類もずいぶん多い」
「家によると思う。俺の家では大体三種類だったかな……でさ、これが一番好きだったんだ」

ダルカレーはレンズ豆のカレーで、ナワーブの母はトマトを一緒に煮込んだ甘酸っぱい味付けにしていた。今回も記憶を頼りにあれこれ工夫したつもりである。スプーンを握り、ゆっくりとカレーを味わう。故郷の味と香りとが一挙に体の中を訪れ記憶を呼び覚ましてゆく。どうしてこんなにも遠くに来てしまったのだろう。母の味とは似ても似つかない、だが美味しいものだと豆を舌先で潰す。本当に違うのだろうか?それとも単純に自分の中で思い出が歪んでしまっているのか定かではない。横で味わうクリーチャーがしみじみと言葉を紡ぎ出す。

「食べたことのない味だが……美味しい」
「本当はもっと美味しいんだ」

『本当』だなんてわかりもしないと言うのにそんなセリフが口をついて出る。どうあがいてもたどり着けない正解を掲げるのは些か卑怯だ。ましてやクリーチャーにはどうすることもできない。だが、恋人は意外にもナワーブの刺を軽く受け取った。

「だろうな。君の母親は料理が好きだ」
「何で知ってるの?」
「君は美味しそうに食べるからな」

だからいけないんだ、とクリーチャーの照れ臭そうな顔がナワーブの刺を抜く。何だってこの人は良いんだろう。スプーンを置くと、ナワーブはギュッとクリーチャーに抱きついた。カレーの匂いがクリーチャーの匂いと入り混じる。今の正解はこれだ、とナワーブの頭の中に光が灯った。

「ピアソンさん、大好き」
「お、大声で言うなっ」
「大声じゃなかったら良いの?」
「良いわよ」
「エミリー!」

横合から割り込んだのはクリーチャーの臨席のエミリーで、どうやら最初から一部始終を見られていたらしい。否、ぐるりを見回せば慌てたようにして頭たちがくるくる動く様からして、相当数がこちらに注目していたのだろう。さすがに少々恥ずかしくなってクリーチャーを見やれば、こちらは苦虫を噛んだような表情である。非常にまずい。

「あー、えーっと、ごめんね?」
「……次はなしだぞ」

日々は優しい。ぐっと胸の中に甘さが広がり、ナワーブは嬉しくなってスプーンを握った。不思議なことに、先ほどよりも美味しい気がする。母の味ではないのだが、幸せの名残がそこここにあった。クリーチャーの方を盗み見ると、やはりこちらも嬉しそうに食べている。クリーチャーは美味しいだとか不味いとか、味に関して文句を言うことはほぼなくただ食べる男だが、ナワーブは微細な変化を感じ取れるようになっていた。嬉しさについつい見つめ続けていると、流石のクリーチャーもスプーンをいじる手を止めてこちらを向く。

「な、何だ、まだ何か言いたいことがあるのか?」
「大声になるから後で話すね」

途端、大声で喚き始めたクリーチャーが愛しい。何を言われるつもりだったのかは後でゆっくりと聞くとしよう。ナワーブはカレーと共に、人を好きになった喜びを噛み締めた。


〆.


あとがき>>
 Twitterのタグ募集で、亜門さんよりいただいた『いいんですか?』(RADWIMPS)をイメージして描きました。当たり前の日々の喜び、幸せを噛みしめるような歌詞と曲調から、久々のご飯ものです。変化の先にある形が自分の望まなかったものであっても、今感じる気持ちを良いものとして受け止められるのならば、それもまた幸せの形なんだろうなあと思いながら書いていました。素敵なお題に感謝です。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!