風邪の前の日
青と緑が豊かになると、ようよう夏が到来する。虫がその魂を解き放つように喚き散らし、野菜はどれも水気を弾けさせるほどに味が集って美味い。英気を養うならば今と風が叫んでいる。だが、
「あー……暑い」
「ですねえ」
のんびりと団扇を仰ぐ子供達ーー謝必安と范無咎にはいっかな暑さは暑さでしかないのだった。最初のうちは行事も多く、久方ぶりに会う親戚連中やこの時期にしか食べられない料理に舌鼓を打っていたが、だんだんと暑さに頭がやられていく。自然は力強く、人はかほどに弱い。団扇だって、仰いだところでなんとしよう。蚊が舞い飛ぶのとさして変わらないな、と謝必安はぱちんと范無咎の腕に止まった蚊を打ち叩いた。
「痛っ」
「のんびりして気づかないからですよ。ほら、もう食われてる」
手のひらについた虫の残骸にはべったりと血が付いており、案の定范無咎の腕には虫食いの痕が残っていた。さぞかし後で痒かろう。後で祖母にかゆみ止めの軟膏を塗ってもらうように頼もうかと考え、謝必安は額に垂れる汗を拭った。今日は教場に行くこともないので暇であり、かつ遊びまわる元気もない。范無咎はそれから痒いと喚いていたが、ぴたりと動きを止めるとにわかに立ち上がった。
「水遊びに行くぞ」
「ああ、良いですね」
裏手の井戸の水を汲むなどしたが、すぐさまぬるくなってしまう。その点河原は気楽で良い。何故だか流れる水を見ると不安になってしまうのだが、こんなにも良い天気であれば申し分ないだろう。団扇を片手に立ち上がると、謝必安は母に強請って着替えと体を拭く布などを受け取ってから家を出た。謝家を飛び出て自宅に帰った范無咎も、矢のように早く飛んでくる。手にした袋を指差すと、范無咎は袋の口を開いて中身を見せた。溢れんばかりの紫の宝石が詰まっている。謝必安はかぐわしさに思わずうっとりした。
「爺爺に出かけることを話したら、庭で育てた葡萄を食べて良いぞってくれたんだ。冷やして食べよう」
「范爺の?それってもしかしてーー」
「もらったんだよ」
早口で説明するあたりに事情が丸わかりなのだが、謝必安は事実を口に押し込んで頷いた。これは二人だけの秘密になる。罪を共有するなんて素敵な話じゃないか!道々は暑さでばてそうだったが、街の外れから段々と涼しさが頬を撫でてくる。日差しは強いが、期待は否応にも膨らんだ。まだかまだかとじりじりする頃になってたどり着いた川べりは、寝転んでいた室内とは天と地ほどの差があった。
「最高ですね」
「だな。行くぞ!」
「あ、待ってください」
葡萄を岩場に引っ掛けたかと思うと范無咎はいそいそと浅い川べりに入り込んだ。上衣を脱いだのはせめてもの理性の名残だろう。冷たい冷たいと騒ぐ声はひどく元気で、謝必安も衣服を脱いで水辺に入った。膝につくかつかないかの深さの浅い川は水底まで透けて見えて美しい。手のひらに冷たい水をすくっては流し、謝必安はじんわりと涼を楽しんだ。川エビがいないかとうろうろする范無咎の丸い背中が面白い。両手で水をすくうと、謝必安は思い切りその背中にお見舞いしてやった。
「やったな、謝必安!待てって」
「隙を見せたからですよ!だいたい川エビがいるならあちらの方です」
「そういうことは早く言ってくれ」
切り替えの早い范無咎と追いつ追われつして水を掛け合う。夏!なんと心地のいいことか。ずぶ濡れになって笑い合い、バサバサになった髪もそのままに大岩の上で葡萄を食べる。冷えた夏もまた美味しいのだ。皮ごと食べても甘く、顎に滴り落ちるのさえ惜しい。一口食べればもう一口と無言で夢中で食べ終えた頃にはもう陽が傾きかけていた。今日という日もこれで終わりだ、それで良い。また明日もある、夏はまだまだ続くのだ。
「帰りましょうか」
「ん」
体を拭いて着替えるも、ぞくぞくとした涼しさが何故だか抜けない。振り払うようにして二人で髪を結び合い、さようならと家の前で別れる。明日は何をしよう。范無咎といるだけで活気付く世界が謝必安は好きだった。彼もまた、そう感じてくれれば良いのだが。
「へっくしゅ」
そうして揃って風邪をひき、無理やり見舞いあって病を長引かせたのは笑い話である。まだ夏が、暑い盛りの時だった。
〆.