あなたと私は、歪に重ねた貝の殻。
鍵と錠 #1
人間、勢いで行動するものではない。クリーチャー・ピアソンは人生でいく度目かの後悔を抱えてゲンナリした。昼下がりの市民広場が、クリーチャーの気分とは正反対に長閑な風景であることも呪わしい。ただの待ち合わせだ――握りしめたスマートフォンを開き、何度も読んだメールがまだ存在することを確認してため息がこぼれ出る。全ては現実に起こってしまっていることだ。これから見知らぬ人に会うことも、その人物を連れて月末に友人に会うことも、そのまま白々しく堂々とした嘘をついて一日をやり過ごすことも、何もかも、何もかもが現実だった。
「どうして私じゃダメなんだ、ウッズさん……!」
話は一ヶ月半ほど前に遡る。最早悲しいほどに恒例となってしまった、エマ・ウッズ嬢への真っ向からのデートのお誘いを断られ、クリーチャーは傷心のままに腐れ縁の友人たちと飲んでいた。辛いことがあれば飲むに限る。残念ながら、酒にはあまり強くないが、ふわふわとした高揚感は唯一自分を慰めてくれるものなのだ。
「仕方ないだろう。あなたが彼女の好みに当てはまらないんだからさ。いい加減諦めなよ」
無理なものは無理なのだから、とビールジョッキを傾けたノートン・キャンベルがにべもなく告げた。新しい恋を探した方がいい、とあっさり話す続ける彼は全くの人でなしである。ついでに言えば、異性同性問わずに大変受けが良い。辛辣な物言いに、あくなき金銭への執着、おまけに顔には隠しようもない大きな傷が残るというのにも関わらず、パートナーを切らしたことがないのだ。本人曰くは、そのうちの何人かは『先方が勝手に思い込んでいる』ものだそうだが、思い込まれることもないクリーチャーにしてみればただの嫌味である。
この男ならばきっとさっさと新しい獲物に向かうだろう。向かえるのだから。自分には経験もなければ当てもない。恥ずかしながら、恋というものを知ったのは数年前のことで、三十年ほどの人生における青天の霹靂だった。勤め先である錠前屋に、緊急で工具箱の鍵を開けて欲しいと少女――エマ・ウッズが駆け込んできたのが運の尽きである。彼女の父親が乱暴に閉めてしまった工具箱はひしゃげており、鍵を直す以前の話だったが、クリーチャーは門前払いをすることなく相手を務めた。生まれて初めて、このくだらない時間を少しでも引き伸ばしたいと思ったのである。
鍵というものは滅多に壊れない。ついで、新しい鍵を作る機会もそう多くはない。よって彼女との縁は一期一会で終わるだろうと予想していたが、気軽に相談できると判断した少女はそれからもちょくちょく店に現れるようになった。気さくな語らい、キラキラとしたエマの瞳、自然と溢れた笑い声――ろくろく他人と近づかずに暮らしてきたクリーチャーがエマに入れ込むのは時間の問題だった。
「童貞君の発想だな」
この奇跡的な出会いと運命の流れについて、ノートンはこれまた冷たく判断を下した。曰く、錠前屋に対する客の態度を、個人と個人のものに履き違えるなと。履き違え?それこそとんでもない履き違えだ。クリーチャーは確信していた。エマは、誰にでも好かれるような素敵で可憐な少女だ。その彼女の貴重な時間の中で自分を気にかけているとしたら、望みがある以外の何物でもないではないか。
「物は言いようだ」
お前は前向きなんだな、と嫌味ったらしくアンドルー・クレスは表現した。クリーチャーと同じく朴訥な部類に入るはずの青年は、やや陰鬱ではあるが顔形が整っている。背は恐ろしく高く(この点はノートンも同じだ)、がめつい(これも同じく)が周囲の評価は高い。おまけに近頃では妙に学があるというか、詩情あふれる表現もできるようになっていた。日陰者仲間だと勝手に思っていたクリーチャーにとって、アンドルーがいつの間にか妙齢の音楽教授をパートナーにしたのは大いなる裏切り行為である。
要するに、仲良く酒を飲み交わす周囲の人間は何某か相手がいるのだった。想いを告げれば想いが返ってくるだなんて、なんと恵まれた連中だろう。自分の思いはこんなにも純粋で、エマとて憎からず思ってくれているはずだというのに、どういうわけだかこの鍵はあの錠を開けることができない。遠回しに告白し、真っ直ぐに告白し、友人からでもとデートに誘い、断られた回数は両手で数え切れないほどになっている。彼女が父親と営む市民広場の花屋にも足繁く通い、簡単な会話程度であれば難なくできるが、そこから先には続かない。
そして今回もしっかりはっきり断られ、クリーチャーはノートンとアンドルーを招集したのだった。旧知のエミリー・ダイアーやフレディ・ライリーと飲むことも考えたのだが、どちらかと言えばより辛辣な彼らに話せば気分が滅入ることは容易に想像されて取りやめたのである。彼らはハナから自分の恋心を否定するに違いない。そんなことは耐えられなかった。
「……なんでお前たちがモテるんだろうな」
「そりゃ、魅力的だからでしょ。お姉さん、ウイスキーをロックでください」
ポツリ、と漏らした醜い嫉妬はすぐさまノートンに返り討ちにされる。実績に基づいた自信にはケチのつけようもない。追加注文を受けた女性店員が嬉しそうに見えるのはクリーチャーの僻みだろうか。
「お、俺は別にモテてないぞ!」
「アンドルー。相手がいる人間が言っても唯の嫌味だからな」
「なっ」
純朴な青年はアルコールだけでなく顔を真っ赤に染め上げて初々しい。噂によれば、彼のパートナーはアンドルーの初さに惹かれたとのことで、十二分に頷ける。評価はしたいが、今のクリーチャーにはなんの慰めにもならなかった。
「……そんなに自分に魅力があると思うなら、試しに他の人と付き合ってみたら?もしかしたら、エマちゃんよりも好きになれるかもしれないし、誰かと一緒にいるピアソンさんを見たエマちゃんが、あなたの魅力に気づくかもしれないからね」
「ノートン、お前またそんな適当なことを」
アンドルーが心底忌々しそうに突っ込んだが、果たしてそうだろうか。ノートンはモテる。これは客観的事実であって揺るぎない。アルコール漬けになった脳みそは、彼の提言に乗ることを勧めた。そうだ、自分は今まで誰かに興味を持たなかっただけなのだ。外に目を向ければ他にももちろん人はいるのだし、エマとて逃した魚の大きさを理解できるだろう。彼女が反省するのであれば、その手を取るのも悪くはない。良いことづくめではないだろうか?
「わかった」
「正気か、ピアソン?」
「お、前向きなのは良いね。それじゃあいつまでにしようか」
自分のことでなしに慌てるアンドルーをよそに、ノートンは淡々とウォッカを舐めながら未来を指さした。期限を決めなければ、どんなことでも有耶無耶のままだと言う。これと決めたら行動あるのみだ、と宣う彼の目は獲物を狩るそれだった。そう言えば、彼は何かの学者先生と真面目な関係を持とうとしているという噂がある。もしかしなくとも、今まさに狩の最中なのかもしれない。
「再来月、同じ日に飲もう。その時連れてくる」
「楽しみにしてるよ」
「俺はどうなっても知らないからな……」
そうして夜は更けて、クリーチャーは正気を取り戻すことなく行動を開始した。知人への合コンの斡旋依頼はことごとく断られたので、マッチングサイトを漁り、交流パーティの類にも足繁く通った。時には年齢や経歴を詐称してでも意気込み、数回のデートまでたどり着くことさえできた。やればできるのだ。焦燥感と同時に、クリーチャーの中では確からしい自信めいたものが生まれつつある。ノートンは伊達に人たらしではない。先人の言葉には一理あるのだ。
ただ悲しいことかな、クリーチャー・ピアソンはノートン・キャンベルではなかった。食事をして、遊んで、数回の逢瀬を重ねてもその先に待ち受けているのは友情止まりで、胸を張って連れて行ける相手はいない。お陰様で飲み仲間には事欠かなくなったし、錠前屋の客も増えた点は良い。が、結果を出さねば意味がない。残すところあと二週間となったクリーチャーはさらなる行動を必要としていた。
「パートナー代行、ねえ」
そう、『その場しのぎ』である。ノートンたちにパートナーを紹介できなければ、自ずと自分の魅力には限界があると認めることになってしまう。既に証明されつつあるのではないかという疑念を払拭するためにも、ひとまずは相手がいると言う心の余裕を生み出すことが大事なのだ。第一、エマに見せびらかす目的であれば、多少の金を積んででも魅力的な相手を用意した方が効果的だろう。
ただ、クリーチャーはこの道に足を踏み入れたばかりだった。ついでに言えば生来のケチ(節約家だと主張したい)故予算は少ない。やけ酒を煽りながら、ネット広告に指先が触れたのは運命だろうか。否、唯のヤケクソである。素面で、飲み会が二週間後に迫っていなければ見向きもしなかった。『初回限定割引』に強く心を惹かれ、簡単な最安値のプランに対して最大級の要求を込めた依頼を送る。送り先は『ナイチンゲール・パートナーズ』。仮面をつけた女性がアイコンとなった不思議な企業に、クリーチャーは藁をもすがる思いで手を伸ばしたのだった。
当日口裏を合わせるためにも、事前に話がしたいと持ちかけてきたのは先方である。なるほど、連れてきたところでボロが出てしまえば意味がない。なるほどプロなのだ。素人のクリーチャーは深く納得しつつ、今日の待ち合わせの運びとなったのである。午後3時に、おやつを食べながらなんてどうでしょう、と言う相手の申し出は可愛らしく、不覚にも浮き足立ったのは確かだ。が、待っている今は緊張感と猜疑心からどうにも落ち着かない。本当に来てくれるのだろうか?いっそのこと、バレても笑いで誤魔化せるような知人で手を打った方が良かったのではないか。
だが、金を払ってしまったのだ。返金不可の文言を確認した今、クリーチャーの足の裏には根が生えている。せめて何某かの元を取らねばなるまい。
兄弟、隠し子、恋人、はたまた死んだ友人。存在しない誰かになるのは、ナワーブ・サベダーにとっては日常茶飯事だった。人が生きていくためには現実という名のパンだけでなく、薔薇のような幻想も必要とする。ナワーブが在籍するナイチンゲール・パートナーズは、そんな人生の薔薇を作り出す手助けを行なっているのだ。依頼人が思い描いた以上に綺麗な花を咲かせる瞬間は、何度味わってもたまらない。
当初は成り行きで始めた仕事だが、ナワーブは業深いとも言える職業を心から楽しんでいた。自分一人の人生だけでは味わうことのできない他人の現実に成り代わるだなんて、花形役者でもできまい。多分、今の自分であれば十分舞台に立てるだろう――客観的にも容姿が整っているという自覚もある――が、架空の物語よりも事実の方が奇妙奇天烈でスリルがある。それも罪のない、ささやかなスリルだ。
自宅のベッドで伸びをすると、ナワーブは唯のナワーブ・サベダーとして目覚めた。今日は誰になろう。毎朝、目覚めるたびにワクワクする。没落貴族の末裔?兵役から帰ってきた息子?それとも、田舎に連れて帰るための婚約者――あれこれ想像を並べ立て、『牛と共に宇宙人に攫われてしまった息子』の設定で生きた三日間は面白かったなと思い出す。あの時は事務所のイライ・クラークとフィオナ・ジルマンが編み上げた宇宙語を必死に覚えてまくし立てたものだ。舌がもつれそうな文句は、未だに脳みそにこびりついている。
起き上がってカーテンを開けると、風が強いのか、青空をポリ袋が踊っていた。あんなにも高く飛び上がってしまっては、落ちてくるのを待つより他にないだろう。上昇気流に乗った生き物を捕まえるのは至難の業だ。顔を洗って髭を剃り(未だに髭はまともに生えない)、買っておいたコンビーフの缶を開けた。昨晩突いたベイクドポテトの残骸と合わせて炒めれば、腹の足しにはなるだろう。ベーグルの最後の一個を切り開いてオーブンに放り投げると、流れるようにチャイの支度を始めた。
本来の自分は無味乾燥としていて、無駄もなければこだわりもない。適当に石を投げればぶつかるような、ありふれた人生だ。それが一度仕事にかかれば、玉虫色の曼荼羅絵図に置き換わる。だが、ナワーブは自分自身の人生を変えようという気はさらさらなかった。自分は単なるナワーブ・サベダーが一番相応しい。出来上がった朝食をテーブルに運んでゆっくり咀嚼する。スマートフォン上でラジオアプリを起動させ、今日の天気を聞くのが日課だ。ニュースの類はここ最近暗いものが多く、もう随分長く耳にしていない。
半分ほど食べ終えた頃、着信音が流れてスマートフォンを見やった。今日はどうやらついているらしい。メッセージは、新しい依頼がある、とナイチンゲール・パートナーズの所長が寄越したものだった。添付された依頼内容に目を通すと、ナワーブは小さく微笑んだ。
「何々……パートナー代行か。『可愛くて年下の、恋人のことが好きでたまらない人』ね。お友達に見せびらかしたい?見栄を張りたいのか……こういうサービス、使い慣れてないんだろうなあ」
茫洋とした要件からして、何を書けば良いのか迷った様子が伺える。焦りからか恥ずかしさからか、性別欄さえ入れていない依頼主の初さが可愛らしい。所長がナワーブを選んだのは、もの慣れない依頼主に現実味を持たせてやろうという温かい配慮からだろう。クリーチャー・ピアソンという男は、パートナー代行で何をなし得るものかをそもそも理解していないし、何をなしえたいかさえ曖昧に違いない。初回割引を行ったためキャンセルこそ不可能だが、心の傷は浅く済む。クリーチャーが代行して欲しいという日までは二週間もない。代案を立てる相談に乗るとしても、悠長に構えている時間はなかった。
『当日のために、事前打ち合わせをさせてください』
できれば近日、今日でも良いよ、という気持ちを込めてナワーブは依頼主に要求した。依頼を受けたのは昨日の晩なので、うまくいけば今日の夜にでも会えるのではないか。仕事は売り上げ次第であるため、予定の入っていない身の上としてはいつでも構わない。朝食を平らげて食器を片付け、のんびりとジョギングの支度をし始めたところで返事が来た。
『今日の午後ならいつでも都合をつけられます。都合の良い時間を指定してください。待ち合わせ場所もお任せします』
「慌ててるなあ」
急いで返さねば、という思いだけで出来た素朴な文章に口角が上がる。送信する際にナワーブの名前を載せたが、クリーチャーは見ていないらしかった。名前を見れば、相手が男であることに引っ掛かりを覚えるはずだ。それとも男性でも構わなかったのだろうか?文章から伝わる気配からして、異性を求めている風だったので、恐らくは向こうの見過ごしだろう。
「それじゃ、おやつでも食べながらのんびりお話ししようね、ピアソンさん」
からかうには十分楽しめそうな相手だ。午後3時に市民広場で会おう、おやつでも食べようと告げると、待つことなく承諾が返される。きっと意中の相手にはがっつきすぎると思われて敬遠されるタイプに違いない。どの店に行こうか頭の中で一覧表を開き、パストラミビーフ・サンドイッチを売りにしたカフェの存在を思い出した。確か、オレンジリキュールを使ったコーヒーも人気だったように思う。破談に終わっても美味しいものは食べられるし、相手も今後使える店が知れるのだから慰めがある。わずかなやり取りから、ナワーブは依頼主がさして人付き合い――特に恋愛面だ――があまり得意でないことを見抜いていた。もちろん、自分で相手を調達できるようなコミュニケーション能力を持っていれば、パートナー代行など頼まないというのは大前提である。
ジョギング後にボクシングジムに立ち寄り、日課をこなす。時折用心棒としての依頼も受けるので、体を鍛えておいて損はない。とは言え代行業と異なり面白みがないのは事実だ。ナワーブは骨の髄まで他人としての人生にのめり込んでいる。その方がずっと刺激的で、魅力的で、何よりも楽だ。クリーチャーはどんな日々を送っているのだろう?彼の人生は日々楽しいだろうか。反対に物寂しい日々を漫然と送っているのだろうか。いずれにせよ、依頼主にとってナワーブの登場は大きな出来事になるはずだ。そうでなくては困る。
一度家に戻ってさっぱりとし、ワードローブへと向かう。夜会でエスコートをするような礼服に、弁護士から企業のマネージャーまでこなせるようなスーツ、狩猟シーズンに相応しいピンクジャケットももちろんある。遊びを効かせたカジュアルスーツはヨットパーティでサクラを務めた際に身に付けたもので、バナナの絵柄が散りばめられたジャケットはお気に入りの一品だ。だがお相手は『可愛い年下』をお望みのようだから、威圧するような空気は出さない方が良い。
しばらく悩んで、結局麻の白シャツにベージュのチノパンを合わせ、紺青の品の良いスニーカーを選び取った。野球帽を選んだのは、年下らしさというものに些か迷走したためである。こちらへの依頼内容と同様に、相手もまた自身の情報をうまく伝えられずにいた。知っているのは名前と、顔と、年齢に住所、その程度である。仕事は錠前屋であるとかで、時間の都合がつけられたところからすると一人仕事なのかも知れない。
腕時計をしようか迷ってやめ、スマートフォンと財布をズボンのポケットに突っ込んで出かけることにした。次回以降や本番があるならば、それこそ今日の話し合いを元に組み立てれば良いだけの話だ。
「5分前であの様子ってことは、結構前から待ってたかな」
ターゲットは市民広場に足を踏み込んですぐさまわかった。落ち着かなさそうにしている人間というのは目立つものだ。写真で見た寂しげな顔立ちのクリーチャーはTシャツに黒いスキニーパンツだったらしいもの(随分くたびれてヨレヨレなのだ)を穿き、同じくくたびれた靴を履いてベンチに座っている。体つきは想像以上にほっそりとしており、薄い。ゴツゴツとした男性らしさはあるが、線が細い。奇妙なバランスだった。ウロウロと彷徨う眼差しが哀れで、ナワーブはここで許してやることにした。
「……クリーチャー・ピアソンさんですか?ナワーブ・サベダーです」
「え、」
「ナイチンゲール・パートナーズから来ました。依頼しましたよね」
「そう、だが……」
「じゃあ良いね。行こう」
あっけに取られたまま、ぽかんと口を開けた顔立ちは幼く、ナワーブは笑いを堪えるのに必死だった。騙してはいないのだが、図ったのは確かである。怒鳴ろうかどうしようか、それさえも迷うクリーチャーの手を取ると、ナワーブは強引に通りを歩いた。角にある大きな花屋の女性店員がこちらを見ていたようだが気に留めず、坂を降りてゆく。森林公園にあるカフェはすぐそこだ。
戸惑いの声を発するクリーチャーは、想像した通りに易々と力づくで引きずることが出来た。心配になる程突発事態に弱いらしい。仮にパートナー代行の本番があるとしたら、予想外の事態の連続になるだけに心配だった。こちらが全力を尽くしても依頼主が馬脚を現しては元の木阿弥である。カフェに入って無理矢理テラス席に座らせると、カウンターから旧友のウィリアム・エリスが伸び上がって声をかけてきた。ウィリアムは三食肉で良いくらいに肉が好き、というわかりやすい男で、気持ちのいいラガーマンでもある。
「お、久しぶりだなナワーブ。いつものか?」
「よう、ウィリアム。ああ。それと……ピアソンさんにはリコッタチーズ・パンケーキで。トッピングと飲み物は季節のおすすめにしてくれ」
「了解」
改めて椅子に着くと、大人しく座っていたクリーチャーが苛立たしげな目でこちらを睨みつけてくる。単におどおどしているよりも余程いい。感情が揺らいでいるときの方が、人は動かしやすい。
「ここ、コーヒーだけじゃなくてサイドディッシュもお菓子も美味しいんだよね。友達と来ても誰と来てもだいたい喜んでもらえるんだ」
「…………」
「あ、この店にしたのは俺のわがままだから、ここは俺の奢りだよ。安心して」
「安心できるわけがないだろう。だ、代行に頼んだ相手には会えないのか?私は女性をお願いしたんだ」
「あんたのパートナーは俺」
「嘘だ!」
詐欺だ、と大声で騒ぎかける相手の口を軽く手で覆ってやると、一瞬クリーチャーの目に恐怖が浮かぶ。しいっ、ともう片方の手で静寂を促してゆっくりと自由にしてやると、『大人』であるらしい男は静かに呼吸した。
「本当だよ。『可愛くて年下の、恋人のことが好きでたまらない人』でしょ?性別欄、入れてなかったから、条件が合ってて都合の空いてた俺が来たんだ」
「……性別欄があるなんて見てなかった」
「おあいにくさま。こういう人に来てもらうサービスを頼むのって初めて?注文する時は、書いてあることをよく読まないとね」
見るまに渋くなってゆくクリーチャーの表情がおかしくてたまらない。相手を困らせて喜ぶ性癖はないのだが、この男を転がすのは素直に楽しいと言えた。たかだかありきたりの、胡散臭ささえ漂う中年男性の困り顔の何がいいのだろう?
「変更は?必要事項に入力しなかったのはわかった。私が頼みたいのはその、女性なんだ。君には悪いが、他の人と変わってくれないか」
「残念。今都合が空いてるのは俺だけなんだ」
嘘だ。本当は他に都合のつく人間がいれば交代も可能である。滑らかに嘘が口からついて出たことに再度驚き、ナワーブはクリーチャーが拗ねたように唇を尖らせるのを舐めるように見た。随分薄い唇だ。噛んでやったらどんな味がするだろう。先日結婚式場のイベントのため、新郎役を演じた際に味わった相手の唇と脳内で比較して取り下げる。なんだってクリーチャーとのキスについて考えているのかがわからない。
「はい、お待ち遠さま。ナワーブにはパストラミビーフ・サンドイッチとコロナビール。んで、ご新規さんにはこっちだ」
哀れっぽい沈黙を慰めるようにしてウィリアムが滑り込んだ。いつもであればすぐさま返事をするところが、迷いのためかジューシーなパストラミビーフ・サンドイッチへの反応が遅れてしまう。いつもと変わらず美味しそうだ――季節のおすすめがたっぷり散りばめられたリコッタチーズ・パンケーキも文句なしに美味しそうである。きっと歯が溶ける程に甘いに違いない。
ほどほどの甘いもの好きであるナワーブとは反対に、クリーチャーはどんな甘いものも容易に受け入れられるらしい。奢りという言葉が効いているのか、チラチラとこちらを見つつもコーヒーに手を伸ばした。こちらまで漂ってくる香りからして、オレンジリキュールとコーヒーが甘く溶けたこの店の定番であるカフェ・マリアテレジアだろう。たっぷりと盛られたホイップクリームの上に、キラキラとした飴のかけらが散りばめられて星のように輝いている。
「今月のお勧めはキーライムクリームだ。パンケーキのクリームは甘さが控えめだけど、コーヒーと丁度いい具合にしてあるんだ。それでも足りなかったら、ココナッツシロップを置いておくから、好きにかけるといい」
「あ、ありがとう」
「うちのは美味しいから、気に入ったらまた友達を連れてきてくれよな」
ウィリアムがこなれた調子で説明を続ける。構えていたクリーチャーも、裏表のないウィリアムの様子には毒気が抜かれたらしい。実際、ここのパンケーキは美味なのだから、口にすれば真実がわかることだろう。店の名刺を捻り込みそうな勢いの旧友に、ナワーブは苦笑しながら手を振った。
「ウィリアム、あまり絡むなよ。がっつきすぎると引かれるぜ」
「へいへい。お前もぼーっとしないで、美味しいうちに食べてくれよ」
「わかった」
考え事をしていたのはお見通しだったようだ。すっかり調子を崩されてコロナビールにライムをぐいぐい捻りこむ。本当は丁寧に絞って落とし込む方が好きだが、今は気分のままに無理矢理押し込むにとどめた。笑って去ってゆくウィリアムに舌打ちすると、そのまま一気にビールを呷った。
「はー、おいし」
キュッとよく冷えた液体が喉を潤してゆく。夏が染み通った体に爽やかさが流れ、先ほど漂った疎ましい空気も軽くなったような気がした。パストラミビーフ・サンドイッチに挑みかかると、ナワーブは今度こそ満面の笑みを浮かべた。ウィリアムがサービスしてくれたのか、掴める限界に挑戦するような量の肉がパンとパンの間にぎっしりと詰め込まれている。じわりとパンに滲んでくる肉汁を見るだけで涎が出そうだ。
「最高」
「……そんなに美味しいのか?」
恐る恐る尋ねるクリーチャーの手元では、すでにパンケーキが4分の1ほど消えている。どうやら彼方も大満足の出来らしい。ココナッツシロップが満遍なくかけられてテラテラと表面が光っていた。
「美味しいよ。嘘ついたって仕方ないだろ。そっちはどう?美味しい?」
「悔しいが、美味しいな」
自分を騙した奴の手のひらの上で転がされるだなんて、という憤りがクリーチャーの眉間に見え隠れしている。やはり食事の場は最高の観察の機会だ。長時間相手のことを見つめることになっても不自然ではなく、共同作業を行うような安心感を相手に与えることもできる。食べることは誰も避けては通れないのだから、会話のネタは豊富にあるというわけだ。口にするものが美味しければ、もちろん言うまでもない。
「じゃあ次に来る時、頼んでみようかな。ねえ、ピアソンさん。どうしてパートナー代行を頼もうと思ったの」
「腐れ縁のやつらに恋人を見せる羽目になったからだ」
が、未だ警戒は溶けきれていないのかクリーチャーの守備は堅い。この調子では本番などありえまい。ならばさっさと切り上げておさらばと言うところだが、ナワーブはこの時間を楽しむことを選んだ。サンドイッチはまだ残っているし、ビールはゆっくり飲むのも好きなのだ。
「そっか。大変だったね。二週間後ってすぐでしょ。賭けでもしたの?」
「賭け……じゃないんだ。まあ、ある意味賭けみたいなものかもしれないな。期限を決めたのは私だから」
「自分で決めたの?突然だね」
「今思えば、あれは酒の勢いだと思う」
さっさと取り消せばよかったんだ、とクリーチャーは眉毛をハの字に変えた。酒の勢いというのは恐ろしいものである。自分も身に覚えがないわけではないので、ナワーブは素直に同情した。ゆっくりと待っていると、クリーチャーはチラチラと情報を小出しにし始めた。おそらく誰にも話せなかったのだろう。なんのしがらみもなく、だが話を聞くことのできる相手というのはなかなか巡り会えないに違いない。
たらたらとシロップを垂らすようにして語られた内容をまとめれば、このようなものである。クリーチャーは、腐れ縁の仲間というのがいるらしい。長年ご執心の女性につれなくされ続けているクリーチャーに、ならばと仲間の一人が提案したのだ。自分に魅力があることを証明するべく、他に恋人を見つけてみろと。そんな理由で見つけられた相手が本気になったらばどうするのか、というクズを極めた発言である。裏を返せば、クリーチャーには新しい恋に顔を向けるべきだと背中を押しているといったところだろう。聞く限り、エマなる女性(どうやら市民広場にある花屋の女性のようだ、今日見かけたかもしれない)は丸切り脈がなさそうだし、他の人間から見ても明らかな風である。
「なるほどね。ねえ、ピアソンさん。今からすぐに相手を見つけるのは難しいかもしれないけど、俺が手伝ってあげるよ」
「な、何をだ?」
「好きな女が振り向きたくなるくらい、あんたが魅力的になればいいんだ。それだけでも、お友達を見返せるよ。なんなら、俺が一緒に行って証明してあげてもいい」
「そ、そ、そそ、そんなのはいらない!今日のことはもう良いんだ。あいつらには悔しいが、正直に話して酒でも奢れば丸く収まる」
「でも、それじゃピアソンさんは変わらないよ」
エマに振り向かれない日々は変わることがない。奇跡が起きてもそう簡単には振り向いてはもらえないだろう。運命を無理矢理振り向かせるほどの魅力を持てば話は別だ。これまでの経験を駆使して捻り込めば、段々とクリーチャーの目に真剣味が漂い出す。変化を、嫌っているわけではないのだ。ただ恐れているのだろう。
本来、こんなにも手間がかかることなどナワーブが申し出るべきではない。ナワーブはトレーナーでもコーチでもなく、ただのパートナー代行なのだ。今回は差し詰めトレーナー代行か。一度も演じたことのない役柄だ、それだけで手をかける価値はある。目の前の男を好きに弄って、磨き上げて魅力あふれる一品に変えて見せたら気分も良い。
ナワーブの見立てでは、クリーチャーは磨けばそこそこ光る素材である。あとは中身次第で味わい深くもなるだろう。中身についてはよく知らないので、もしかしたら救いようもないクズだという可能性も残されている。だが、それでも以前よりは良いはずだし、上向いたことは他人が見てもわかるに違いない。それだけでひとまずは十分だろう。
これは体の良い暇つぶしだ。自分でもよくわからないが、クリーチャーに関わるのは面白そうである。仕事は、他のスポット仕事をいくつか並行してこなせば面目も立つだろう。ナワーブは常に刺激を求めているのだ。共感し、同情し、心配し、寄り添ってゆけば、依頼文と変わらず初心な男はころりと転がる。
「今日はまだ時間ある?帰りに服を買いに行こうね」
まるでデートのようなセリフを吐けば、気圧されたクリーチャーはこくりと頷いた。さて、彼の予算はいくらだろうか。見合う中で最大限光らせるにはどう料理しよう。頭の中で計算すると、ナワーブは冷えてしまったサンドイッチの残りを一気に貪った。
まるでシンデレラだ。自宅で紙袋の山に囲まれて、クリーチャーは呆然としていた。壁掛けの時計を見上げるまでもなく夜は深い。だが、今日という一日はあまりにも長く、とうに朝を迎えていてもおかしくないような心地だった。午後3時になるまでは、ごく当たり前の日常が過ぎていた。早朝錠前屋に出勤し、予定通りに昼過ぎに出る。錠前屋という仕事は昼夜問わず、というよりも深夜や早朝に仕事が多い。他の勤務者と昼夜を交換しながらの仕事は、突然の呼び出しに応えるにはちょうど良かった。
そして午後3時。市民広場にやって来たのは、爽やかな好青年だった。自分がこんな風な人間であれば、エマにも無難に受け入れてもらえたのではないかと羨むような男である。顔がいい、と認めないのは細やかなプライドがねじくれた結果で、客観的に見ればナワーブは紛れもなく整った造りをしていた。詐欺だ。
そもそもクリーチャーは女性が来るものだと思い込んでいたのである。異性愛者を標準に捉え過ぎていたことは自分の落ち度として反省するより他にない。ナワーブが指摘した通り、性別欄を看過したのは事実であり、メッセージのやりとりをしていた相手の名前を注意して読まなかったのも現実だ。苦い勉強料としては些か痛いと思ったが、交代は不可能だと冷たく突き放したものの、ナワーブという青年は妙な申し出をしてきた。
「あんたが好きな子が、あんたに振り向かなかったことを後悔するくらい、良い男になろうよ」
詐欺だ。心の中で吐き捨てつつも、乗ってしまったのは何も相手の言葉がうまいからだけではない。魅力、それこそはノートンたちとの話題に上ったものであり、今まさに自分が必要としているものだとわかっているからだ。エマが悔しがる顔を見たい。改めて申し出て、彼女に受け入れてもらいたい。二週間でそこまでに至るとは思えないが、道筋くらいは付けられるだろう。なにしろ、ナワーブは好青年なのだ。ノートンのようなクズさでもなく、アンドルーのような独特の庇護欲を煽る狡さでもなく、万人受けする素養を備えている。クリーチャーには?自分にはまだ、なんの片鱗も現れない。
目立つことは好きではないが、人生のスポットライトは自分を素通りしているような心地がしていたのは確かだ。どういうわけだか、同じ努力をしたところで自分は他の人間のように誰かに認められることはない。受け入れられることはない。本質的に面白くないのか、つまらないのか、考えたところで無意味だが、とどのつまりは選ばれないの一言に尽きる。
二週間。たったの二週間なのだ。別に一度くらいは冒険をしてみてもいいではないか。この時点で、二週間後にパートナーを見せびらかすという目標は放棄された。代わりに、自分が少しでも未来を望める人間だと証明しようと考えたのである。我ながら前向きな考えで、クリーチャーは得体の知れない青年をトレーナーにつけることを了承した。
「あんた、普段どんな服着てるの?まさかそれが一番いい服、ってわけはないよね」
「そのまさかだ」
「嘘でしょ」
美味しいパンケーキの店を出て(本当にナワーブの奢りだった)、まっすぐに向かったのはショッピングアーケードだった。それも、クリーチャーが普段行くことのない小洒落た場所である。垢抜けた様子の若人たちで溢れかえる通りに息を呑んでいると、ナワーブは苦笑しながらクリーチャーを誘った。彼の手は不思議だ。強引な癖に、すんなりと受け入れてしまいたくなるような柔らかさがある。市民広場で出会った時もそうだ。あの時点でクリーチャーは振り払って泣き寝入りをすることだってできたというのに、結局のこのことカフェでパンケーキをご馳走になってしまった。
もし、この男が結婚詐欺をしたらば綺麗に肩にハマるだろうと思う。それも幸せな夢を見た相手が、憎めないまま有耶無耶にされてしまうようなタチの悪い手合いだ。パートナー代行という比較的まともな職業にありつけたのは、社会にとって平和と言える。
「あんたに足りないのはまず清潔感。前に服買ったのはいつ?」
流行りの服が並ぶ店の一つに入り込むと、ナワーブはくるりとこちらに振り返った。
「多分……三年前くらいだな」
「物持ちがいいんだね」
貧乏性と片付けられなかったことに安堵する。事実は貧乏性で、買おうと思えばある程度までは無理なく買える稼ぎがあった。クリーチャーは特殊な錠前も取り扱えるため銀行にも買われるほどであり、決して腕は安くはない。服のことなど着られれば良いだろうくらいにしか思っていなかった。仕事の最中は専用の作業着を着るので、私服の登場時間は短いのである。思えばエマに対しても、初めて出会った場所が職場であったこともあってなんの注意も払っていなかった。点数稼ぎではマイナスからの出発と言えよう。
ノートンとアンドルーを思い返すと、彼らはなんやかや服の種類が多かった。アンドルーは相手が押し付けてくるのだと騒いでいたが、ノートンは好んで自分に合うものを選んでいたように思う。男の服など興味がなかったのでまるで注目していなかった。店内はさながら博物館のように、所狭しと服や装身具の類が己を主張し、せめぎ合っている。洪水のように情報が流れ込んできても目眩がしないのは、飾り方にコツがあるのだろう。唖然とするクリーチャーを手招きすると、ナワーブは淑女然とした女性を紹介した。
「彼女はウィラ・ナイエル。この店の主人だよ。ここで揃わないものはないんだ。仕事もプライベートも、俺がお世話になっている店だよ」
「あー、よ、よろしくお願い、します。クリーチャー・ピアソンです」
「よろしくね」
手が届かない、届かなくて良いと思われる美女の出現に落ち着かなさを覚える。自分はとんでもない店に来たのではないだろうか。詐欺だ。何度目かの舌打ちをするも、情けないことに、出て行こうという勇気も湧かない。ナワーブに予算を聞かれたので答えると、ウィラと話しながらどんどんと候補を引き連れられてくる。
「花屋の子なんだよね、相手の子。だったらあんまり気張り過ぎない方が良いかな。足が長いから、下は長めの方が良いね」
「細身のズボンも良いけれど、ワイドパンツも似合うんじゃないかしら?もうすぐ秋でしょう。今年もAラインコートが流行るのよ」
聞いたことのない単語の羅列に、クリーチャーは考えることを放棄した。飴色に磨かれた木製の椅子に腰掛けると、肘掛けに彫られた溝を指でなぞる。何やら細かい模様が彫られているらしい。自然と足を組んでいると、足を組むのはやめるようにとやんわりとナワーブから注意がかかった。
「後で話そうと思ったけど、姿勢が良くなれば印象はもっと良くなるよ。片方だけに体重をかけると、腰も痛くなるしね」
「足と腰に関係があるのか?」
「繋がってるからね。それに、腰痛がひどいんでしょ?」
図星である。職業柄前屈みになることも多く、座り仕事が長いためか腰痛が日常の一部になりつつある。昔はこんなことはなかったし、解放されるならば喜んでそうするだろう。まさか足を組むことが関係しているとは思いもよらなかった。出会って間もなく指摘するとは、ナワーブの観察力には信頼を置かざるを得ない。多分、自分を悪いようにはしないだろう。例えば物笑いの種になるような服を買わせるだとか。
「はい、じゃあ次は試着ね。あっちで着替えてきて」
そうして肘掛けと戯れているうちに話し合いは終わったらしく、ようやっとナワーブから次の指令が飛んできた。確かに、買うならば試着は必要だろう。金を出す身の上として当然だ、と腰を上げてクリーチャーは絶句した。着るように、と示された一角に並ぶ服の量があまりにも多すぎる。ちょっとしたガレージセールくらいは開けそうな量に唖然とし、ついで胃がジリジリと痛み出す。詐欺だ。
「……まさかこれ全部って言うんじゃないだろうな」
「全部だよ。あんたが買わなかった三年分を埋めるんだから。これじゃ足りないぐらいだよ」
「予算は、」
「わかってる」
似合うものを選ぶんだよ、と言うナワーブの目は心底クリーチャーを思うものだった。生まれてこの方、そんな目を誰かに向けられたことなどない。親だって――かなり初期の段階で自分を放逐したが――心のかけらも自分には向けてくれなかった。錠前屋の師匠分であるバルクは厳しいながらも自分の才覚を認めてくれたが、認められたのは才覚の部分だけである。クリーチャー・ピアソンなど、誰の前にも存在しないのだ。
「似合わなかったら買わないからな」
「当然だよ」
そうして怒涛の着せ替え人形ごっこが始まった。一度着れば、他に似合うものが見つかるらしい。まるで青い鳥を探すように、もっとよく見せるもの、映えるものをナワーブとウィラが知恵を絞って漁り出す。AにYにIに、なんだか暗号めいた言葉をずらずらと並べ立てられ、あまり派手でも尖り過ぎてもいないという服が選りすぐられていく。最終的には両手に抱えるので精一杯の紙袋へと収まって、クリーチャーは値段と量と両方に安堵したのであった。ナワーブは良心的なものしか選ばなかったのである。自分一人で出かけたらば、値札を見るのも躊躇したことだろう。そもそも店になど足を踏み入れはしない。
最後にこれで終わりではないと靴屋に寄り、ムカデではないのだと断って三足買うだけに留めた。もう五年先まで何も買わなくても良いと思うが、ナワーブはダメだと言うだろう。この男のワードローブは一体どうなっているのかと、想像するだけで恐ろしい。きっとはち切れそうになる程あって、一度しか身につけないものがわんさとあるのだ。
おすすめだという中華料理屋で食事をし(これは安価だと確認した上でクリーチャーが奢った、奢られてばかりは居心地が悪い)、明日も同じ時間に会うことを約束させられた。着ていく服まで指定をされて、気分はさながら軍隊に入ったかのようだ。
「また明日ね。明日はもっと素敵になったあんたを見せてよ」
「どうだかな」
歯の浮くようなセリフに返す、気の利いた言葉などクリーチャーは知らない。仮初のトレーナーとの非日常から突き放されて、自宅でぼうっとするようになるとは思いもよらなかった。
「夢、じゃないんだよな……」
誰かがつきっきりで自分に構うような、そんな日が訪れただなんて。こう言うものなら、代行でもなんでも、人を頼むと言うのは悪くないのかもしれない。それに、友達でもなんでもない相手であれば気兼ねなく委ねられる。どんなに無様で柔らかな部分を見せたところで、所詮二週間後に他人に戻る相手なのだ。
シンデレラに魔法をかけてくれた魔女は、夢が叶った後にどこに消えたのだろう?紙袋の山に嘆息しながら、現実を生きるクリーチャーは明日への準備を始めた。
〆.
後書き>>
レンタルパートナーミステイク(語弊)が好きなのに、書いたことがなかったな、と思って書き始めました。ミステイクはしたはずだけれども大当たりを引くような出会いの不思議が好きです。どんな非日常であっても、ある程度の理由づけと期間が決まっていれば受け入れられるものだな……などと思いながら書いていました。続きもぼちぼち書いてゆきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!