私は歪に歪んだ鍵、あなたは捻れて拗れた錠。
鍵と錠 #2
朝、はいつも通りのようでそうではなかった。ナワーブ・サベダーは、自室のベッドの上でうんと伸びをして朝を招き入れた。朝はいつだってワクワクの始まりである。自分という面白みのない個人から、あり得たかもしれない誰かの人生を生きる日。物語の中を生きる刺激的な日々をナワーブは愛していた。ただ、今日は少々勝手が違っていた。ワクワクするのは変わらないが、ひどく楽な気がする。
「天気は晴れ。午後もか」
サイドテーブルに置いたスマートフォンを掴んで調べると、ナワーブは証明するようにしてカーテンを開けた。白い雲が踊って、昨日よりは傾いた陽気だが問題ない。きっと午後も晴れだと信じて良いだろう。本来ならば、天気を知るのは朝食時のラジオでなのだが、今日はいてもたってもいられなかった。新しい役柄に――自分が決めた好きな設定に生きる『ナワーブ・サベダー』になる瞬間が待ち遠しかったのだ。
昨日巡り合った依頼人のクリーチャー・ピアソンは、『可愛くて年下の、恋人のことが好きでたまらない人』という曖昧な依頼文の通りにもの慣れない男だった。ナワーブよりも余程年が上だろうに、世間知らずな向きがある。警戒心は高いので、恐らくは幼少期に悪い意味でスレるような出来事を経験したのだろう。ガチガチに守り、何もかもから目を逸らして生き延びられたのは単なる運だ。ナワーブでなくとも、手練れであれば誰だって簡単に丸めこめたに違いない。
そんなクリーチャーは、見栄から友人に恋人を見せびらかす羽目になったのだという。自分で用立てることができず、結局縋ったのがナワーブ、もといパートナー代行だ。彼の様子をすぐさま察したナワーブにより、代行の線での仕事は立ち消えとなった。曖昧な要件を出したクリーチャーに残念でした、とさらりと別れを告げるところ、手間をかけることを選んだのは単なる気まぐれである。
仕事の上では、金が入れば良い。ナワーブとしては、脚本通りに他人の現実に滑り込めればそれで良い。ならば、クリーチャーを魅力的にしてやろうと申し出ることはなんの意味があるのだろう?実入を増やすならば、さっさと次の案件を事務所にせっつくべきだ。昨日も感じたことだが、自分は余程クリーチャーに面白みを感じているらしい。野暮ったい、何ら気を使わずに生きていた男を好きに弄って変えてやりたい。なんと傲慢で贅沢なことか!野良猫を拾ったようなものだ、と一度も拾ったことのないナワーブは唇の端を上げた。背中を丸めて座るクリーチャーの姿は猫に似ている。
しなやかな猫は魅力的だが、人間世界ではそうも行かない。猫背のせいで、ともすれば上目遣いになるクリーチャーの顔を思い出し、ナワーブは知らず知らずのうちに唇を舐めた。ベッドから起き上がり、洗面所に向かう。真っ直ぐな背は、あまり高身長でなくともナワーブを堂々とさせていた。あの男は悔しいが、自分よりも少し背が高い。だというのに萎れた花のように不景気な姿勢のせいで、易々と手玉に取れそうな空気を醸してしまっている。実際にはそう簡単には騙されないだろうが、つけいる隙というのは自分の好きな時に生じるべきものだ。
姿勢改善には、まずはお手本を見せることが必要だろう。仕事上、つながりのあるマルガレータ・ツェレはうってつけの人物だ。ダンス教室を持ち、時には舞台に立つこともある彼女は、立居振る舞いだけで観客を魅了する。一朝一夕と言わずとも、昨日よりも今日の方がグッと良くなるだろう。さっぱりとした顔をタオルで拭きながら、クリーチャーは鏡の前に立って何を思うだろうかと想像をめぐらせた。――多分、彼は何ら感慨を抱かない。自分自身に興味がないのだ。
自分に興味がなくとも、自分というものを客観的に評価できるようにならなければ、魅力があるもなしもない。目を逸らしていては何をしても無意味だ。ナワーブは自分自身についてはさておき、仕事のために自分という商売道具を深く理解している。気づいた寝癖を丁寧に直すも、ひょこりとまた一房だけ跳ねて遊んでしまう。元々強情な髪の毛は、一度癖がつくとなかなか直らないのだ。後でクリームで固めようと決めて、朝食の支度に移る。
昨晩は外食三昧だったため、お手軽な残り物はない。代わりに、テーブルの上にはイングリッシュマフィンの詰まった紙袋が置かれていた。紙袋を開くと、昨日の名残が仄かに香る。家庭を象徴するような、暖かな柔らかさは、クリーチャーが押し付けてきたものだった。
「お、まだ開いてるな」
昨日、バスターミナルへ向かう途中で突然クリーチャーが足を止めた。一通りの買い物からの夕食も済ませ、帰り道に向かうべく歩き始めた矢先である。一体何が開いているのかと彼の視線を辿れば、鄙びたパン屋がアーケードの日陰になる場所に佇んでいた。華やかな店に囲まれて気付きにくいが、夕食時を過ぎても開いている店は少ないため、今の時間では帰って目立つ。なるほどこんな店もあったのだ、と何度も買い物に来ていたはずのナワーブでさえも驚いた。
「へえ。こんなところにパン屋なんてあったんだ」
「昼間は目立たないからな……なんだ、君は食べたことがないのか?あの店のパンは美味しいぞ」
なんでも知っているのかと思った、と子供のようなセリフを吐くと、クリーチャーは両手に持っていた紙袋の山――全てナワーブが選び抜いた服だ――を持たせてきた。
「おい、何だよ急に」
「ちょっと待っててくれ」
悪戯を思いついたような顔つきでニヤリと笑うクリーチャーの顔に、反論を封じられたのは何故だろう。あっけに取られているうちに男はパン屋に吸い込まれ、そしてあまり待たせずに戻ってきた。二袋の紙袋を小脇に抱える姿は、お使いを任された子供のように自信に溢れている。その日見る限り、彼の一番明るい顔つきを見た瞬間だった。
「イングリッシュマフィンは好きか?」
「いや、好きでも嫌いでもない」
パンに好き嫌いはない。パンは、パンだろう。不味くなければそれだけだ。ナワーブにしてみれば、美味しい料理が出る店は仕事のために知っておく必要があるが、パン屋や八百屋や、そういった生活に必要なものは注意を払う対象には当たらない。知るだけ無駄だろう。木で鼻をくくったような返答にクリーチャーは首を傾げるも、なら良かった、と服の山と引き換えに片方の紙袋を渡してきた。ほんのりとした温もりが紙越しに伝わる。夕方に焼いたパンだろうか。
「軽くトーストして、ハムエッグを挟んで食べるのが一番のおすすめだ。明日食べると良い」
「……なんで」
どうしてこんな真似をするのか、ナワーブには不思議でならなかった。パートナー代行をこなした後で、自分が作り出した幻想と現実を履き違えた相手がものを寄越すことはたまにある。だがクリーチャーは別段自分にその気になった向きはなく、そうさせる素振りも覚えがない。あれこれ思うことはあれども言葉にできず、かと言って突き返すこともできずに立ち尽くしているナワーブに、クリーチャーは再び首を傾げた。
「なんでと言われてもなあ。ともかく、あそこの店は美味しいんだ」
「うん」
「君は知らなかったんだろう?」
「そうだね」
「なら、食べてみると良い」
「わかった」
不器用な言葉を重ねるにつれ、クリーチャーの頬が赤くなってゆく。なるほど、これは意趣返しだったのだ、とナワーブはようやく理解するに至った。今日は仕事として、一日中クリーチャーを連れ回し、美味しい店を教え、実際に食べもした。彼としては一方的に教えられるのは性に合わなかったのだろう。ささやかなプライドというやつか、とナワーブは面白いものを見る目で相手を見た。予想外にも程がある。
「あんたは何を挟んで食べるつもり?」
「チーズスクランブルエッグか……ベーコンとトマトも良いな。まあ、あるものを挟むさ」
「へえ。俺におすすめしたのとは違うものにするんだ?」
「最初は王道が良いだろう。気に入ってから、他は試した方がいい」
どうやら依頼人は自分で料理をするらしい。独り身が長いというのもあるだろうが、それだけではないこだわりのようなものを感じ取った。料理ができることは加点要素でもある。おいおい詳しく話を聞くとしよう。
そうしてナワーブはイングリッシュマフィンを手に入れたのだ。指示に従ってフカフカのマフィンを上下半分にスーッと切れ目を入れてオーブンに放り込み、冷蔵庫を漁る。ハムは生憎切らしていたので、最後に残ったベーコンと、これまた賞味期限の危うい卵とを手にかける。買い出しに出かけた方がいい気はするが、自分が調理するのは朝くらいなものだ。わざわざあれこれ買いに行く手間の方が惜しい。
クリーチャーならば、こまめに安く仕入れたりするのだろう。服を買う際に驚いたのは、彼が素材の値段はよく知っていたことだった。服そのものや、ブランドやら流行やらは丸切りわかっていない。にも関わらず、縫製と素材とで概ねの価値を判断しているのだから面白い話だ。買いに出た先の店主であるウィラ・ナイエルも、彼の鑑定眼の正しさには舌を巻いていた。
何故錠前屋が、興味もない服について判断できるかは不可思議である。知らなくても良いことだが、ナワーブは知った方が良いと自分に言い聞かせた。否、知りたいのだ。知りたいのだが、何故かはわからない。知ったところで、自分の現実が変わるわけでもなく、仕事が前に進むわけでもない。ベーコンがカリカリに焼き上がり、搾り取った油で目玉焼きを作る。ジリジリと盛り上がってくる黄身がじいっとこちらを見つめてくるようで、ナワーブはそっと目を逸らした。
今日はどんな『ナワーブ・サベダー』になろう。生まれて初めて一から書く脚本に思いを馳せ、ナワーブはイングリッシュマフィンの香ばしい匂いを嗅いだ。
「ピアソンさん、もしかしなくても新しい服を買った?そうだよね?そうだよね!」
「君には関係ないだろう、トレイシー」
仕事上がり、厄介な相手に見つかりクリーチャーは盛大に舌打ちした。勤め先の師匠にして店主であるバルクの親戚でもあるトレイシー・レズニックだ。少年のような騒がしさと元気を併せ持った少女は偏屈な親戚によく懐いていおり、大学の帰り道に真っ先に店に立ち寄る。自然、クリーチャーとは週に何回かは顔を合わせる相手となるので、他の人間と比較し気安く口を利く仲だ。
別段、クリーチャーはトレイシーのことが苦手でも嫌いでもなく、どちらかと言えばお気に入りの部類に入る。しかし、今日に限ってはあまり顔を合わせたくはなかった。
「だってさ、僕がいくら言っても見た目に気を使ったことがないじゃないか。エマは……うーん、エマは言いそうにないよね。一体どんな魔法にかかって買いに行ったの?」
「魔法とは大袈裟だな。いや、そうでもないか。まあ、魔法みたいな物だ」
ナワーブがするすると導いた昨日を振り返って、クリーチャーは言い得て妙だと納得した。これまで通りの生活を送っていたらば、新しく服を買うことなど決してなかっただろう。トレイシーがそろそろ服を買ったらどうかと言い、常連のジョゼフが愁眉を作っても財布の紐が緩むことはなかった。残念ながら、恋焦がれるエマ・ウッズはクリーチャー自身には微塵も興味がないため、お断り以外のセリフは初めて告白して以来耳にしていない。
彼の示す道には、なんの気負いもなく足を踏み入れることができた。と、すればやはりあれは魔法の類と言えよう。ズンズンと質問を重ねてくるトレイシーを抑えるように手を振ると、クリーチャーはこれまで一度も思っていなかった事を口にした。
「なあ、トレイシー。その、似合ってると思うか?」
「似合ってるよ。それに、ピアソンさんの顔が明るく見えて……なんだろうね、いつもよりずっとキラキラしてる気がする」
「それは良かった」
欲しい一言どころか余分におまけもつけられ、ようやく胸を撫で下ろせる。自宅を出る前にかなり時間をかけて選びぬき、ナワーブのアドバイスを忠実に再現しながら身につけた服である。これで笑い物になってしまえば目も当てられない。自分が着る服を、否、自分が服を着た状態を生まれて初めて気にした瞬間だった。普段は頓着しないものの、よそ行きにはとびきりのおしゃれをするトレイシーの言葉は、十分に信頼するに足りる。ナワーブにも大手を振って会えるというものだ。
「それじゃあな、トレイシー。あんまり散らかすなよ」
「わかってるってば。服、選んでくれた人にすごいね、って伝えておいて」
「なんで人が選んだってわかるんだ?」
「普段着てる服と全然趣味が違うから。でも、今のピアソンさんによく似合ってるよ。……本当だって!きっと、ピアソンさんにどんな服が似合うのか、真面目に考えてくれたんだろうね。良い人だと思うよ。新しいお友達?」
どう答えようか。真っ直ぐな質問に、クリーチャーは正解を紡ぎ出せぬままに曖昧に頷いた。パートナー代行であり、本来の依頼に失敗した相手だとは、口が裂けても言えない。いっそ友人であればどれほど気楽か。二人の間に横たわるのは金、それだけである。よって、いつの日か新しい服はクリーチャー自身が選び出し、尚且つ趣味がいいと言われるようにならねばなるまい。新しいクリーチャー・ピアソン像を描くのだ。
手を振って店を出、腕に巻いた時計を確認して愕然とした。すでに約束の時間を過ぎてしまっている。人を待たせるのは負い目を作ることだ。わざと待たせる人間もいるそうだが、そんなやつの気がしれない。職業柄時間にはうるさいだけあって、ズンと気分が重くなった。駆け足で向かえば最小限に収まるだろうか。十分、いや十五分遅れほどで済んでほしい。買ったばかりのスニーカーはまだ馴染まず、いつものようには体をすすめてくれはしない。がむしゃらに走る自分の姿はさぞや無様だろう。誰かが笑っているような気がするが、知ったことか。決死の覚悟で走り、クリーチャーはようやく市民広場に辿り着くことができた。
「お疲れ様、ピアソンさん」
涼しい声で迎えてくれたのは、昨日と変わらぬ色男だった。ストライプのポロシャツが爽やかで眩しい。なるほど彼は洒落ている。サングラスを上にずらすと、ナワーブは上り坂で喘ぐクリーチャーに歩み寄ってきた。
「す、すまない。待たせた」
「うん。ちょっとだけ待った。お仕事?」
「ああ」
ナワーブの和やかな様子に救われる。淀みなく嘘を返してしまったのも、彼の受け入れてくれる様子故だろう。別に大した理由ではなかったのだが、自分が楽な方へと流れたことをクリーチャーは理解していた。もちろん、他の人間とやりとりする際にも面倒ごとを避けるために嘘をつくことはある。その場がやり過ごせればいいと、なんら罪悪感を抱くことはない。誰だってそうだろう。そのはずなのだが、今はやけに胸に引っかかった。第一、トレイシーに頼まれたではないか。早速歩き出そうとするナワーブの背に、クリーチャーは一つ呼吸をして申し開きをした。
「嘘だ。職場を出る時、知り合いの子に出くわしたんだ。服を買ったことに気づかれたもんで、興味を持たれたらしい。……服を選んでくれた人間に、『すごいね』って伝えるように言われたよ」
「光栄だね。ね、よく見せて」
くるりと振り返ると、ナワーブはそれこそ頭のてっぺんから爪先まで舐めるようにこちらを観察した。感情のない目は、ただ客観的に商品の良し悪しを見定める商売人のそれに似ている。こんなにも真っ直ぐに見つめられた経験などないクリーチャーは、尻込みしたくなる自分を叱咤して唾を飲み込んだ。選んでくれた服を、自分なりに着こなしてみたのだが、果たしてお眼鏡にかなうものだろうか。昨日、ナワーブは言っていた。
『また明日ね。明日はもっと素敵になったあんたを見せてよ』
これまでの人生で、クリーチャーは他人の評価や賞賛を気にかけたことがない。気にしただけでどうせ無駄だと、身をもって知っているのだ。どれほど努力しようとも、クリーチャー・ピアソンという個人に目が向けられることなどありえない。その点鍵は簡単だ。錠があって、それに見合うものを作れば正解である。個性もへったくれも無縁でわかりやすい。
寧ろ他人に勝手な期待を寄せられた結果、この鍵は間違ったものだと判断される方が辛い。クリーチャーはクリーチャーだ、どんなに歪んでいようとも間違ってはいない、そうだろう?そうであってくれ、と縋りつきたくなる情けなさから目を逸らす。一体どれほどそうして突っ立っていただろう。気が遠くなるほど時間が経ったような、ジリジリと肌がひりつくような心地になった頃、ようやく裁定の時は訪れた。
「うん。昨日よりずっと素敵だ。よく似合ってるし、あんたの体が綺麗に映える」
「……君の見立てだからな」
何やら不穏な物言いを聞いたような気がしたが、クリーチャーは大人らしく聞かなかったことにした。多分、お洒落上級者の使う魔法の言葉の一種だろう。綺麗、という形容詞は凡そ自分の人生とは縁がなかった。遠回しに感謝を伝えると、ナワーブの顔がくしゃりと歪んで唇の端が引き攣る。よく見れば、彼の唇にはうっすらと白い線が頬に向かって繋がっており、古傷のように凸凹している。綺麗に整った顔立ちに生じた瑕疵は、彼の価値を下げるどころか、なぜそうなってしまったのかと物語に引き込む力を持つ。視線だけでその傷口をなぞって、クリーチャーはこほんと咳払いをした。
「そう素直に言われると、心配になってくるなあ。いや、嬉しいんだけどさ。あんた、騙されやすいって言われない?」
「わ、私を騙したのか?」
さらりと告げられた裏切りの言葉は、ズン、と胸の奥を深く突き刺した。なんだ、やっぱりそうなのか。冷静になれと理性は告げるものの、条件反射で体が震え出す。折角舞い上がった気分が台無しだ。昨日散々思ったが、やはりこの関係は、ナワーブ・サベダーという存在は詐欺だ。詐欺に違いない。
「騙してないって。あんたを心配してるだけだよ、ピアソンさん。悪い奴に騙されないでね」
が、ナワーブは肩透かしを食らったように目を見張るばかりだった。心配?大の大人に失礼な話だろう。サングラスをかけ直すナワーブを軽く睨むも効果はない。残念ながら、人の扱いに関してはあちらの方がよほど上手だ。それこそ騙されないうちに撤退した方が良い。早々に追求を諦めると、クリーチャーは今日はどこに行くのかと本題を切り出した。
「今日はね、体を動かしに行こう。ピアソンさん、普段から運動とかしてる?」
「いや。運動なんて、やりたくてやったことはないね」
幼少期に駆けずり回る友人もいなければ、そんな暇もなかった。仕事柄急がねばならないことも多く、走りはするが運動目的ではない。年齢的には健康に気を使い始めるべきかとも思いつつ、休みとなればぼんやり寝転んでしまうのもまた真理である。ぐうたら過ごすことを口にするのは憚られて、クリーチャーはそれきり口をつぐんだ。ナワーブは、きっと違うだろう。彼の締まった体つきは、意図して作り上げた努力の賜物だということが見て取れる。
「あんまり見つめないでよ。流石に二週間じゃ、この筋肉はあげられないし。でも、自信をつける準備はできるからね」
「自信をつける準備?」
ハリボテの自分を突かれたような気がして、思わず喉がキュッと締まった。同時に背筋に力が入る。虚勢を張ったところで、自分自身を偽り続けるのは難しい。結果的に自信がつけば、今がどうかは無関係だ。クリーチャーの複雑な心境をよそにナワーブは頷くと、今日出かける場所の名を告げた。
マルガレータのダンス教室は、会員だけの特別なサロンである。そもそも教室を構えるということ自体、高名なダンサーでもある彼女の手慰みに過ぎない。ナワーブがファン垂涎の特別入会を果たしたのは、偏にナイチンゲール・パートナーズの社員故である。ほぼ毎日通うジム(こちらももちろん会員制である)も入ったビルに入ると、ナワーブはフロントに立っていたマイク・モートンに手を挙げた。
「お疲れ、マイク」
「やあ、ナワーブ。午後まで来るなんて珍しいね。……あー、僕、大丈夫だった?」
快活に言葉を滑らせたものの、クリーチャーの姿を認めた途端にマイクの表情が萎む。ナワーブが仕事でここに来たのだと思い至ったのだろう。だが、ナワーブにしてみれば全て織り込み済みの出来事だった。誰かさんの人生に彩を添える仕事中、ナワーブは自分が『ナワーブ・サベダー』として過ごす場所には出向かない。昨日のように依頼人との打ち合わせに使う場合は別として、ナワーブの名前を呼んでしまう人間に出会う可能性は予め排除するのは当然のことだった。
「心配するなよ、マイク。この人はクリーチャー・ピアソンさん。俺の依頼人だけど、普段通りで良い人だよ」
「じゃあ、お友達ってこと?ますます珍しいや。ピアソンさんだね。僕はマイク・モートン。この建物のサービスについてはなんでも聞いて」
「よ、よろしく……サービスって、ここは何をするところなんだ?」
昨日ウィラに紹介した時同様、クリーチャーがおどおどとした調子で問いかける。人見知りなのだな、とナワーブは改めて可愛さを覚えた。慣れてきたのか、ナワーブ相手にはつっかえずに話すことが、手懐けた成果のようで嬉しい。マイクも雛鳥の様子に気づいたのか、パッと顔を輝かせると、サーカスの座長のように両手を大きく広げた。
「ノイジー・サーカスへようこそ!ピアソンさん、ここは自分の体を通して人生を楽しむお手伝いをするエンターテイメント施設だよ。ほら、あなたの体はあなただけのものでしょう。たった一つのものだもの、最大限楽しまなかったら損だとは思わない?僕らはね、あなたに楽しんで欲しいんだ」
「大袈裟だな。ま、要するにジムやダンス教室が入ったトレーニング施設だ」
「それじゃワクワクが足りないよ、ナワーブ」
熱のこもったマイクを止めるのは至難の業である。目を白黒させるクリーチャーがこれ以上圧迫されないよう宥めると、ナワーブはマルガレータの予定を聞いた。幸にして、かの踊り子は部屋で寛いでいるらしい。
「今から行くって、連絡しておいて。こっちだよ、ピアソンさん」
「待った、ダンスなんて習わなくて良いだろう!大体いくらかかるんだ」
「心配しないでよ。会員一人につき、一ヶ月に一度はゲストが無料になるから」
懸念する箇所が、現実的なクリーチャーらしい。ダンス云々については綺麗に無視し、金銭の面のみ説明すれば、見る間に表情が明るくなる。もちろん嘘ではない。ないのだが、こうも単純でよくぞ無事であったものだと溜息が溢れ出る。浮き足立ったクリーチャーをエレベーターホールまで引っ張り込み、誘導するのは赤子の手を捻るよりも簡単だった。
「……君はすごい場所を知ってるんだな」
「仕事柄、色々覚えなくちゃならなくてさ」
ダンスもボクシングも銃の扱いも、皆仕事のためにここで覚えた。代行と言う仕事は本当に際限がない。この仕事についたのは成り行きだが、所長からの指示でここに通うよう指示された時は嘘だろうと信じられなかったものだ。今では仕事のない日であっても必ず立ち寄る、生活の一部となっていた。第二の家と言っても良い。
「君の仕事は私の想像よりも刺激的らしい」
「正解。惚れた?」
「まさか」
自分で言った冗談に、ナワーブは心中気は確かかと呆れ返っていた。よりにもよって男に、それも昨日出会ったばかりの依頼人に告げるセリフではない。言われた側はにべもなく肩をすくめるばかりで、なんの影響も受けていないところが癪に障る。言われ慣れている、とは到底考えにくいが、それにしても少しは気にして欲しいところだ。クリーチャーと違って、自分は意識して魅力的に見えるよう努力したのである。惚れるまでとは行かずとも、動揺の一つや二つはする場面ではなかろうか。
モヤモヤしているうちにダンス教室にたどり着く。音楽は流れているが、聞こえてくるのは一人分のステップ音だけだ。まるで一つの楽器を奏でるようにして音楽に寄り添う足音は、どこまでも軽やかで官能的に響く。遠慮会釈なく奥へと足を踏み入れると、くるりと回った小さな影がお辞儀をして見せた。マルガレータだ。
「いらっしゃい。久しぶりね、ナワーブ。初めまして、ピアソンさん。あなた達のことはマイクから聞いたわ」
「よろしく、マルガレータ。今日はピアソンさんを魅力的にする手伝いをお願いしたいんだ」
「……よ、よろしくお願いします」
芸術品のようなマルガレータの容姿に気圧されてか、クリーチャーはすでに及び腰である。こんな調子でよくぞまあエマ・ウッズなる女性に言い寄ろうとしたものだ。花屋の少女だと言うから、恐らくはずっと素朴な愛らしさを持つ女性なのだと想像はできる。彼が一目惚れをした理由は、大方自分に優しかったからだろうな、とナワーブは苦笑した。人付き合いに慣れぬ人間によくある錯覚の一つだ。
誰だって優しい人間は好きで、誰かに好かれたいし優しくされたい、される価値があると認めて欲しいと無意識下で願っている。目に見えて与えられずとも、自分にその価値があると信じられる人間は、かつて無条件に与えられる『成功体験』があった者だけだ。ナワーブは十二分に家族の愛情を受けているし、過去の経験によって裏付けられているため、自分自身に面白みを覚えずとも価値は理解している。
しかし、クリーチャーは恐らく正解を知らないのだろう。だからこそ見知らぬ人間――特に自分よりも『強い』立場にあるとみなした人間――と距離を取ろうとするのだ。虐待や迫害を受けていた可能性はある。気持ちが姿勢や口調に出るため、相手からも距離を置かれてしまって悪循環を生み出すのだろう。一応社会人として取り繕う術はあるようだが、メッキはすぐに剥がれてしまう。
「自分の体を意識して、どんな姿であるか、どんな姿になりたいかを想像しながら歩いてごらんなさい」
「こ、こうか」
「背中が丸まっているわ。頭の天辺から真っ直ぐ柱が通っているイメージで……背中を真っ直ぐにすることと、反ることは別よ」
ナワーブの思考をよそに、マルガレータは意図通りにクリーチャーへの指導を開始していた。彼にはダンスはもちろん、運動などまだ早い。まずは基本姿勢を正し、不足した筋肉を鍛えるトレーニングを考えるべきだろう。癖のように丸まった背中を伸ばしたクリーチャーは、明らかに顔つきが異なっていた。そのまま真っ直ぐに他人を見ることができたらば上出来だ。が、盛りを過ぎた花のようにすぐさま萎んでしまう。主に足りないのは腹筋か。クリーチャーの薄い腹は、改めて見ると常人の内臓が収まるのかと懸念される薄さだった。
自分の腹のように硬い筋肉に覆われることなく、きっと肋骨の一本一本が数えられるように浮き、柔らかな皮下脂肪が待ち構えているに違いない。年齢からしても、皮膚や肉が弛み始めている可能性は大いにありえた。どんな手触りだろう。意外にもすべすべとしたクリーチャーの顔と同じであれば、きっと心地良いに違いない。
「前を見て、顎を引いて。良い顔よ、自信を持って良いわ」
「本当に?」
「さっきよりも、という意味。調子に乗らないの」
「ちぇ」
「舌打ちしない」
鬼軍曹よろしく、ビシビシと指摘するマルガレータがクリーチャーの腹と背に手を回して真っ直ぐに伸ばす。彼女はあの腹の薄さを知ったのだ、と思うとどうしようもなく羨ましい。羨ましい?先ほどから自分は何を考えているのだろう。思えば昨日も惑った瞬間があった――まるで自分らしくもない。相手は貧相な体つきの男性で、魅力の芽を育て始めたばかりである。にも関わらず目が離せない理由は、これまで出会った人間とは毛色の違う人間だからか。そうだ、そうに違いない。
「あとは任せるよ」
このまま眺めていると気が狂いそうだ。ジムで体を動かして、頭をスッキリさせた方が良いだろう。冷静に考えられなければ、おもちゃを魅力的にする余裕も生まれまい。マルガレータならば、二人きりにしても間違いは起きない(彼女は見かけによらず強いのだ、それに監視カメラもある)と判断し、さよならを告げると、置いて行かれる子どものような目に見つめられた。
「どこに行くんだ、サベダー君」
「下のジム。俺も体を動かしたいからね。マルガレータはちょっと厳しいかもしれないけど、ピアソンさんは良い生徒だから、飲み込みも早いよ。六時に迎えにくるから、それまで頑張って。……頑張れるよね?」
サベダー君!クリーチャーに名前を呼ばれるのはこれが初めてのことだった。たった一言だけで舞い上がる気持ちを堪えながら、ずるい言い方で丸めた自分を褒めてやりたい。心の機微に聡いマルガレータは何やら感じ取ったようで、目をすがめて見てきたが無視だ。
「そうね。あなたが初めてゲストに招いただけあるわ。頑張りましょうね、ピアソンさん」
「う、は、はい!」
何も知らないクリーチャーが素直に背筋を伸ばす。マルガレータの指摘を受けて、ナワーブは初めて自分の行動の奇妙さに気づいた。これまでの依頼でも、本当に必要であればノイジー・サーカスに依頼人を連れてきただろう。連れてこなかったのは、ここがごくごくプライベートな場所であり、ナワーブ個人に足を踏み入らせないためだった。ナワーブは他人の物語で偽りの人生を演じる。だが、幻想を現実と履き違えてこちらの物語に登場されるのは御免だった。
クリーチャー・ピアソンは、本来始まらなかった物語と言える。脚本を放棄し、舞台を取り止めようとしたのは依頼人であるクリーチャーだ。それを無理矢理歪めて、面白半分に書き換えたのは他ならぬナワーブである。興味以外の何物でもない。しかし、どうして今なのか、クリーチャーを選んだのかはやはりわからなかった。
「楽しいから、良いか」
単純な答えに飛びついて、ナワーブはエレベーターの呼び出しボタンを押した。
努力は、嫌いだ。いくらしても報われないことが多く、手を替え品を替え尽くしても、ガラクタはガラクタのままだと思い知らされただけだった。クリーチャーは山のような失敗談を語ることはできるが、成功体験を語るには乏しい。どうにか膨らました虚栄心はあるものの、ややもすると空気が抜けて萎んでしまう。ナワーブはにわか仕立ての魔法で、かぼちゃを馬車に変えようとしているのだ。
「うん。前より背中がまっすぐだから、ピアソンさんの足が長いのがよく見えるね。それにちょうど良く力が抜けてて柔らかくなった気がする。訓練のご感想は?」
約束の六時、きっかりに迎えに来たナワーブは運動をこなした後のせいか、心持ち精悍な顔つきをしていた。柔和で甘くこちらを絡めとる様しか見てこなかったので考えもしなかったが、男なのだ、と不思議な感想をクリーチャーに抱かせた。こちらの方がより素顔に近いような気さえする。彼と比べ、慣れぬ運動で全身汗みずくの自分は声を絞り出すのが精一杯だった。
「身体中が痛い」
「マルガレータは厳しいからなあ」
「頑張れる人だったから、頑張ってもらっただけよ。ピアソンさん、今日教えたことは毎日やって頂戴ね」
「ハイッ」
先程までの怒涛のレッスンを思い出し、マルガレータの言葉に過剰に反応してしまう。軍隊に入ったことはないが、たおやかな女性の指導はあの世を垣間見るほどに厳しいものだった。おかげさまで自分が思うよりも体は整ったらしく、この建物に入る前よりも視界がスッキリと広がっている。一時的な効果に過ぎないので、教えられた運動を毎日繰り返すことが肝要なのだという。大嫌いな努力を?だが、これは誰かに認められる以前に自分で痛快に感じる成果だ。ならば詐欺めいた話に乗るのも良いだろう。
満足そうに微笑むナワーブに胸を撫で下ろし、共に建物を出る頃にはすっかりお腹が空いていた。それ以前に折角買った新しい服が汗まみれになってしまったことも気になったが、もはや夕焼けが広がるばかりの一日にどうでも良くなってしまう。暮れゆく世界で、自分の前にいるのはエマではなくナワーブなのだ。カッコ悪いクリーチャーを知る彼ならば、努力の結果ズタボロになった自分を見られたところで惨めに感じることもない。
「マルガレータが最後まで指導してくれたのはね、彼女が言った通りの理由だよ。あんたは頑張れるんだし、昨日よりも今の方がずっと魅力的だ」
「そんなに褒めても何も出ないぞ。……昨日からは、その、少し変わったのは自分でも思うが」
「今まで変わることなんてなかったんでしょ。だったらさ、月に行くくらいすごいことだよ」
「大袈裟だな」
無邪気な物言いにくすぐったい気持ちになる。確かに変化はさざなみとなってクリーチャーを作り替えようとしていた。貝料理が美味い店があるんだ、とナワーブが自然と足を向ける。彼について行けば、間違いなく美味しいだろう。自分が正しい道を歩いているという確信でクリーチャーの視界は明るく開けた。
全く、詐欺めいた話だ。他人の甘言につられ、筋書きをなぞって進むだなんて生まれて初めてで、癪に障るほど気分が良い。ここにいる男はただのトレーナーもどきで、友人でさえない。ノートン・キャンベルやアンドルー・クレスの言葉であれば、意地を張って耳を貸そうともしなかっただろう。気軽で、気楽で、どこにも位置しない北極星のようなナワーブは驚くほどにしっくりと自分に馴染む。
「明日は仕事が入ってるから、明後日はどう?トレーニングが続けられてるところを見せてよ」
「筋肉痛で死んでなければ続けるさ」
「帰ったらストレッチもちゃんとすること」
とどめの一言にクリーチャーが顔を顰めると、ナワーブはケラケラと笑って肩を叩いてきた。たったそれだけで力が抜ける、この現象は何なのだろう。やはり魔法使いではないかと疑心暗鬼にかられる。
「あ、言い忘れてた。昨日くれたイングリッシュマフィン、美味しかったよ。あんたの言ってた通りだった」
「だろう。あの店はスコーンも美味しいんだ。次は買ってみると良い」
「ピアソンさんがお勧めを選んでくれると嬉しいな」
だって美味しいものを知ってるんでしょう、と続けるナワーブのセリフは蕩けるほどに甘い。彼は職業柄、きっと誰にでも等しく接するだろうに、その甘さは骨の髄までクリーチャーを痺れさせた。エマと初めて話し、良き隣人であるかのように接してくれたあの瞬間、永遠に引き伸ばしたいと願った時間が重なる。
いつか、努力を続けたら、再びあの暖かな時間を味わうことができるだろうか。エマと――あるいは、エマでなくとも誰かと。これまで一度も考えもしなかった未来に思いを馳せて、クリーチャーは頬を緩ませた。ナワーブと出会わなければ、見向きもしない世界が開けようとしている。
明日の自分は、また少し変わっているのだろう。その様を見届ける人間に会うのは明後日になるのが、ひどく残念だった。
〆.
後書き>>
無意識と意識を行ったり来たりしながら育む感情や関係性が好きです。というわけで、割とじっくりゆっくり育ててるレンタルパートナーからのトレーナーと生徒な二人をお届けします。恋愛する気は……溢れかえるほどにあるので見守っていただければ嬉しいです。二週間後にピアソンさんは綺麗な所作を身につけることができるのか……!?お披露目はまだまだ先になりそうです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!