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絡まぬならば、引きちぎるまで。


鍵と錠 #3


 約束は明後日だった。他人と約束することなど滅多にない、クリーチャー・ピアソンの貴重な機会を獲得したのはナワーブ・サベダーである。ノイジー・サーカスでの特訓の後、名トレーナーはクリーチャーと明後日会おうと約束した。将来をくれたと言っても良い。彼はこれまでの人生であり得なかった驚きの連続を与えてくれた上に、これからの人生をも大きく変えようとしている。もちろんクリーチャーが金を払ったからなのだが、ナワーブの存在が日々を明るくしてくれていることに間違いはなかった。

見知らぬ人間に対し、出会って三日目で抱く感想ではない。ましてやナワーブはパートナー代行に現れた、クリーチャーにとっては『求めていない』パートナーだったのである。我ながら単純すぎると苦笑してしまう。思い返せば、ナワーブもクリーチャーは騙されそうだと懸念していた。自分よりも余程多くの人間を見てきた彼の指摘は概ね間違ってはいないだろう。ただ素直に受け入れるには手痛い現実である。寧ろ、自分の素直さを大事にして欲しいと、図々しく主張したいところだった。第一、想い人であるエマ・ウッズには、海千山千の手練れよりも、純朴な人間こそふさわしい。

 この二週間におけるクリーチャーの目標というのは、結局のところエマに帰結する。当面の目標は、ノートン・キャンベルとアンドルー・クレスの鼻を明かすというものだが、いつかはエマの目を開かせることになる。長く険しくも正しい道のりなのだ。もちろん、人生はまっすぐに続いているわけではないので、最終着地点がエマではない可能性もある。以前のクリーチャーであれば顔を顰める例え話も、今ではすんなり頷けるものだった。

自分は、変わろうとしている。それを見届けて、見守って、先へと導く人がいる。こんな日が来ることを誰が予測し得ただろう?ナワーブと、明後日会おうと話して別れた後も、クリーチャーの体には彼との時間で味わった高揚感が漂っていた。お腹いっぱいに美味しいものを食べた後の気持ちにも似ている。ナワーブに会わない日の始まりは妙に落ち着かず、半ば憂鬱でさえあったのも当然だろう。

「明日には会えたはずなんだけどな」
「おやおや、機嫌が悪そうだね。デートの約束を流されでもしたかい?」

からかいの声に現実に戻ると、クリーチャーは同僚のルカ・バルサーの顔を軽く睨んでやった。仕事中であるにも関わらず、私事がダダ漏れてしまったことへの気まずさも大きい。大概の相手が怯む視線も天才肌の男には意味がないらしく、ケラケラと一層楽しそうに笑われるばかりで忌々しい。電子錠の専門家であるルカは、噂によれば電気ショックで――もちろん業務上の事故だという話だ――少々頭の回転に問題が出たらしい。いずれにせよ掴みにくい男で、クリーチャーは厄介なやつに気づかれたと舌打ちせざるを得なかった。

「残念。デートじゃない。相手は野郎だ」
「男相手でもデートはデートだろう。要は気分さ。君が誰かに会えなくて寂しがるだなんて珍しい。誰に会うのか――そうだな、当ててみよう」
「……答えないぞ」

自分で遊ぼうという気配をひしひしと感じ取り、クリーチャーは合鍵製作に舞い戻った。半ば夢現であってもできる程に馴染んだ作業は、呪いたくなるほどに周囲の音を耳に届けてしまう。ルカも同じで、クリーチャーには理解できないプログラミングコードをコンピューターで叩きながら、壊れた蛇口のように思いつく限りのキーワードを口に出してゆく。仕事が進んでいる分には、上司のバルクからのお咎めもなしだ。

「君が新しく服を買ったと、トレイシーから話に聞いている。他の人間に見立ててもらったそうだから、きっとその人だろう。興味がなかったから気づかなかったが、今見てみると君は筋肉痛になっているんじゃないか?普段行わない運動を長時間やったんだ、そうに違いない。うーん、姿勢を真っ直ぐにしようとして、腹に力を入れているんだな。ストレッチはしているのか?」
「真っ最中だ」

ルカの指摘に気味の悪さを覚えつつ、クリーチャーは出来上がった鍵の状態を拡大鏡で確かめた。少しでも歪みがあれば、この鍵のための錠は硬く閉ざされたままである。一見すんなりと穴に収まったとしても、綺麗に回り切らずに苛立って終わることもないとは言い切れない。問題はなさそうだと判断すると、クリーチャーはマルガレータ・ツェレ直伝のストレッチを軽く行った。正しい姿勢とやらをすれば美しく、かつ体が楽になるのだと体感して以降、なんとか維持しようと努めているのだがなかなかどうして難しい。基礎体力が足りていないのよ、とかの舞台の女王は笑う。彼女にしてみれば、クリーチャーの身体能力は赤子のようなものだろう。

「ヨガをお勧めするよ。トレイシーがボンボンに教えてくれてね。最近じゃあ寝る前に二人でやっているんだ」
「仲が良いんだな」
「ああ。自慢だとも!」

ひっくり返りそうなほどに高い声をあげると、ルカは今度こそ立ち上がって指揮者のように両手を空中に振り回した。どうやら相当に気分が昂っているらしい。彼があの無機物(バルク曰くはガードNo.26だそうである)に異常なまでに愛着を覚えるのは今に始まった事ではないので、クリーチャーは次の鍵に手を出した。元の鍵が錆びてしまって使い物にならないので、錠ごと交換したいという依頼である。先日下見に出かけた古い屋敷の鍵で、セキュリティ対策も兼ねて電子錠との組み合わせが最適だろうと打ち合わせていたものだ。すっかり顔馴染みとなったお上品な客のことを思い出すと自然と腰が重くなる。今のルカに冷静な話を持ちかけるのは骨だ。話題が自分から遠のいてくれたのは良いが、と安堵した瞬間、ルカが流星の如く切り込んできた。

「相手が誰にせよ、『彼』はきっと君にとってはこれまでの友人とは違う存在なんだろうな」
「私にだって友達の一人や二人くらいいるさ。彼だって特別なんかじゃない」

まるで友人以上の親愛の情を示されたようで、クリーチャーはどきりとした。確かに、ナワーブと自分の距離は今までにない親しさ、暖かさが存在している。だがだからなんだと言うのだろう?二週間を切った、残りわずかな日数を過ごしたらばさようならをする相手に、何を思うと言うのだ。殊更軽い調子で答えると、ルカはどちらを向いているかよくわからない目をぐるりと回して真っ直ぐにクリーチャーの目を覗き込んできた。近い。パチパチと電気を纏うルカの手に恐怖を覚えながらも見返すと、天才は至極満足そうに微笑んだ。

「特別だとも。知っているかい、君が誰かに会えなくて寂しそうな顔をしたのは初めてだよ。ああ、エマ嬢に凹まされた時にも似た顔をするな」

エマに愛の告白をすげなく返された後のクリーチャーの様子は、しばしば雨に濡れた捨て犬のようだとも周囲に評される。だからと言って、誰も同情もせず拾い上げもしない。傷口に塩を塗られないだけまだマシだし、クリーチャーもそれで良いと考えていた。だが、ナワーブ相手にまでそんな顔をしていると指摘されるのは心外である。今朝だって、今日はどんな服を着て、どんなトレーニングを予定しているのか写真を添えてメッセージを送ったし、返事ももらっている。

 お墨付きをもらい、今日の仕事をお互い頑張ろうとメッセージを交わしたところまでは順調だったのだ。ナワーブは急遽他の人間の代理として駆り出されたらしく、メッセージのやりとりをしている最中に朧げながら仕事の全容がわかってきたらしい。ポツポツと流れてきた情報の最後で、ナワーブが告げたのはクリーチャーにとっては寂しい宣告だった。

『ごめん、明日は会えない』

明日どころか、数日間は拘束されそうなのだと言う。自分の案件の方が、おまけのような扱いであることは薄々察していたものの、こうもあからさまに差をつけられるとなれば良い気はしない。おまけに、心のどこかで彼に会うのを楽しみにしていた気持ちがあると気づいてしまったのは悔しい。自分に会えない間も、メッセージで状況だけは知らせてほしいこと、トレーニングは続けて欲しいこと(なんとノイジー・サーカスに出入りできるように手配してくれたらしい!)を切々と訴えたきり、ナワーブとのやりとりは途絶えてしまった。

 所詮、ナワーブはクリーチャーの専属トレーナーではない。友人でもなければ、遊び相手でさえないのだ。彼には他にも仕事があれば、クリーチャーには想像もつかぬ手広い交友関係がある。そこにクリーチャーはいない、当然だろう?仕事の内容については探るだけ無駄だとわかっていた。好奇心がもたげたものの、代行して何かになりすます事情は秘匿されるべきものだと言うことくらいは容易に想像できる。自分とて、鍵についてあれこれ聞かれても天国の門よりも硬く閉ざさねばならないのだ。

「次の休憩でヨガを教えてくれ。何かの足しになるかもしれないからな」
「構わないとも。ボンボンも賑やかなのは好きだからね」

果たしてロボットに好き嫌いはあるのだろうか。天才の考えることはやはりよくわからないと小首を傾げつつ、クリーチャーは今日のノルマに向き合った。




 ナワーブの仕事にイレギュラーはつきものである。何せ他人の物語なのだから、急な方向転換は大いにありうるのだ。例えば石油王の従兄弟の役から、カジノで出会ったなうてのギャンブラーになって欲しいとの路線変更を求められたこともある。あれは衣装やら何やらで準備が面倒だったので、むしろ簡単なものに変わってくれて良かったと安堵したものだ。

今回は、違う。急遽向かうよう頼まれた仕事内容を聞かされながら、ナワーブは呪いたくなるような気持ちでいっぱいになっていた。急に入った仕事なのだから、きっと一日二日で終わると思い込んでいたのは自分の慢心だ、それは認めよう。しかしながら無理やりねじ込んだ予約が五日にも及ぶとは横暴ではないだろうか?少しの間金を稼げば、また楽しい遊びに戻れると皮算用をしていただけに、ナワーブの頭には暗雲が垂れ込めていた。

 クリーチャーには予定が伸びたことをメッセージで知らせたが、わかったの一言で済まされた返事のうちにどんな気持ちが込められているのかを推し量ることはできなかった。一歩踏み込んで尋ねるほどの仲ではない。自分がいない間もトレーニングを続けるように、そして毎日どんな服を着たのか写真を送って欲しいと願い出るのが精一杯だった。もし、気楽に電話をかけられる立場であれば――余計なことを口走ってしまいそうで、ナワーブは思考すら停止させた。今は自分の愚かさと向き合う時ではない。大好きな仕事の時間なのだ。

「前回の演出がお客様のお気に召したようでね。売り上げにもいい影響が出たんだ。今回は連続殺人事件仕立てだから、さぞや盛り上がるだろう」

依頼人のジョゼフは今回の仕事に関する説明を締め括ると、美しい顔を紅潮させて賞賛を待つ姿勢を見せた。この大時代的な貴族(本物だ)は、何かと大袈裟な向きがある。芸術品のオークションを開くために、古い劇場を借り上げて殺人事件をショーとして披露するなど、彼でなければ思い付かないだろう。その際にナワーブは探偵役として参加し、殺人事件を華麗に解き明かしたのだった。あの妙に純粋なクリーチャーであれば、かっこいいと評したかもしれない。くすぐったさを覚えながら、ナワーブは守秘義務の多い身の上を今更のように残念に思った。

「趣味の良いことで」
「そう嫌そうな顔をしないでくれ。人は綺麗なものばかりを見たいわけではないからね、私はその願いを叶えてあげているだけさ。君は前回に引き続き、探偵役を頼む」
「他の参加者は?」
「新顔ばかりだな。毎回同じではつまらないだろう?それに、お客様の中には参加したいという方もいるんだ。一層盛り上がるというものさ」

つまり、素人も参加しているということだ。とは言え周到なジョゼフのことだ、せっかくの舞台を台無しにするような真似はしないだろう。準備は一日限り、それも互いにどのような立ち回りをするかは秘匿された、些かリアルショーめいた趣向である。場合によっては五日では済まないかもしれない。その間にクリーチャーが茶番に飽きてしまったら?上手く誘導して『魅力的になる』ことに同意を得たとは言え、ナワーブとの接触はたったの二日間なのである。これまで積み上げてきた日常が押し流すには簡単すぎるほど僅かな逢瀬だった。

 客観的に見れば、これから始まる五日間の方が、クリーチャーと過ごす予定の九日間(残されたのは七日間だけだ、なんて短い)よりも濃密な体験になることは間違いない。それでも今すぐにでも花に水をやりたいという気持ちが急いて仕方がなかった。花といっても、相手は野草のような素朴で地味な生き物だが、ナワーブにとって意味があれば十分である。

 衣装と台本を受け取り、寝起きする部屋に引き下がっても尚気分は晴れない。離島にまで連れ去られた以上、おいそれと隙間時間にクリーチャーの様子を見に行くことさえできないのだ。せめて少しでも自分の存在を彼に知らしめたいところだが、何もかもがままならなかった。ベッドの上にだらしなく寝転ぶも、古びた天井のしみは何一つ啓示を授けはしない。

「ん?」

スマートフォンの着信音が響き、ポケットから取り出すとナワーブは頬を緩ませた。クリーチャーだ。どうやら今日も上手く服を選べたようで、ダボっとした白い麻シャツにキャメルの綿ズボン、ついで足元はぺたりとしたモロッコ靴という組み合わせがよく似合っている。恥ずかしそうな表情からして、こんな風に自分の様子を写真に撮って誰かに送るなど初めてのことなのだろう。初めて!途端に浮き足立つ気持ちを抑えて、ナワーブは賛辞と励ましのメッセージを送った。本当は今すぐにでも電話をかけて、様子を細かに確認して、今日何をするかを聞きたい。あわよくば自分の仕事を少しばかり匂わせて興味を引きたかったが、どれも叶わぬ夢である。所詮ナワーブとクリーチャーの間をつなぐものは、金と好奇心の二つだけなのだ。

「……何を考えてるんだか」

『ナワーブ・サベダー』という存在は、元来単純素朴で飾り気のない人間だ。他人の注意を引くでもなく、引かなくて良い。だからこそ、パートナー代行という他人の物語の一部になることを楽しめるのだ。では、クリーチャーの前に立つ『ナワーブ・サベダー』はどうあるべきだろうか。なんの筋書きもない、ただ自分が好き勝手に作り上げた役柄のはずだが、ナワーブはなりすまして三日目にしてブレ始めていた。こんな時にはどうすれば良いかと悩むなど、迷走している証拠である。

「もし、俺なら」

きっとクリーチャーに相応しいのは、彼よりも世知に長けて、おしゃれで、かっこよくて、人当たりも良くて多分に女性経験も豊富でウケの良い、しかしそれを振りかざすことなく相手を支えようとする人間だ。世間知らずで警戒心の高い猫を手懐けるにはうってつけだろう。もちろん、現実にそんな人間などいやしないのだ。ナワーブはそれらしく装うことはいくらでもできる――実際クリーチャーよりもあらゆる意味で経験は豊富だ――が、実際は電話一つに悩むような決断力のない男である。どうすれば良いのか、どうしたらばこの自分の中に生じた不要な逡巡を追い出せるかわからず、ナワーブは縋るようにして画面に映るクリーチャーを撫でた。

 今回の探偵劇についても言えることだが、脚本を書く人間をつくづく尊敬する。どんな経緯や結末であろうとも、綻びのない出口へ続く道のりを作り出すのは、人生という長いトンネルには至極難しい。いっそジョゼフ(彼は酔狂にも演出・脚本・監督・出演の全てを行う)に書いてもらいたいくらいだ。彼のことだから、ゾクゾクするほどおぞましく粘ついた感情の奔流で埋め尽くされることだろう。翻弄されるクリーチャーの姿を想像し、ナワーブは自然と頬が緩んでいた。右往左往する彼に手を差し伸べるのはなかなか悪くはない。

「サベダーさん!サベダーさんってば」

現実逃避がいよいよ佳境に差し掛かったところで、叫ぶような声に現実へと連れ戻された。声の方角を見れば、戸口で鳥の羽らしきもので包まれた少女がナワーブの名を呼んでいる。頓狂な格好からして、恐らくはジョゼフが用意した他の舞台の登場人物だろう。億劫な気持ちで起き上がると、少女はジョゼフが呼んでいるのだと用件を述べた。

「あなた、『探偵』さんなの?ジョゼフさんが最終打ち合わせをしておきたいからディナーに来るように、って言ってるの」
「教えてくれてどうも。……ええと、君は」
「あ!そうなの。名前をまだ教えてなかったの」

特徴的な話し方をする少女はしかし、しばし迷った様子だった。ひょっとすると、本名を教えればこれからの一幕に影響を与える可能性があるのでは、と悩んでいるのかもしれない。別段少女の名前ひとつくらい知らなくても構わないし、役柄の名前でも答えてくれれば良いのだが、と待っていたらば小鳥が気忙しげに手を揉みながら口を開いた。

「私……私は、エマ・ウッズ。よろしくね、サベダーさん」
「よろしく、ウッズさん。支度をしたら行くよ。食堂に行けば良いかな」
「ううん、館の主人のお部屋まで来て欲しいって言ってたの。地図に書いてあるから、確認してなの」
「わかった」

エマ・ウッズ。思わず繰り返しかけて、ナワーブは速やかに胸の奥へと思いをしまった。忘れようもない、クリーチャーが思い人だと告げていた女性の名前ではないだろうか。確か市民広場にある花屋の女性で、遠目ならば見かけたこともある気がする。記憶の中に朧げに残る姿と目の前の人物とを比較し、ナワーブは概ね当人で間違い無いだろうと判断を下した。

 少々変わってはいるが、傍目には可愛らしい少女と言っても良いだろう。まるでたんぽぽの花のように、鮮やかに目を引くでなしに心を癒すタイプの女性だ。好きか嫌いかで言えば、ナワーブの好みにはまるで引っかからないが、好む人間はそれなりにいるのは間違いない。クリーチャーは彼女のどこに惹かれたのだろう?どうせ、多少話が弾んだとか、優しく接せられただとか、そういった勘違いの積み重ねに過ぎまい。哀れで純朴で愚かな男。むくりと沸き起こった興味のままにエマを観察しようとすると、不審そうに目を細められたので慌ててやめた。

「どうしたの?何か、エマの顔についてるの?」
「いや、別に。俺の知ってる人と顔がよく似てるから、知り合いだったかと思って」
「ふうん」

我ながら下手な言い訳だった。とは言え、大概の女性を交わすことができた優れたセリフである。訝しさは拭えないものの、一応エマを納得させることはできたらしい。瞳を丸くさせると、少女はパッと顔を輝かせた。

「そうだったの。……エマもね、サベダーさんの顔は見たことがあるの。市民広場の花屋がね、エマの家だから」
「ああ、あそこか」

にわかに広げられた手札に安堵しながら頷く。向こうがこちらの顔を覚えていたのは予想外だったが、ありえない話ではない。実はナワーブの方は一度も花屋にいるエマを意識したことなどないのだが、自分の顔を相手が注視していたことはなんら不思議ではなかった。客観的に見れば、ナワーブは異性の興味を引く手合いなのである。自惚れでなしにそんなことを考えていると、不意にエマの目から光が消えた。

「世間は狭いの。ピアソンさんをよろしくね、サベダーさん」
「な、」
「それじゃあ、また後で」

どうしてわかったのか。よりにもよって二人でいるところを見られており、かつ覚えられていたという事実にナワーブはぽかんと開いた口が塞がらなかった。二人で市民広場に立ったのは、契約を交わすべく待ち合わせた初日くらいなものである。近くのバスロータリーなどをぶらついたとは言え、見られたとは考えにくい。他の場所で?いずれにせよ、自分が気づかなかった上に、クリーチャーだって何か気づいた風はなかった。それがどうだ、脈があるはずのない相手の方が確りと把握しているとは末恐ろしい話ではないだろうか。ナワーブの混乱をよそに、エマの背は見る間に小さくなっていった。

 世間は狭い。彼女がなんであるにせよ、おいそれと溺れて良い相手ではなさそうだ、とナワーブは改めて顔を引き締めた。幻想に酔うクリーチャーには申し訳ないが、彼女はどうにも持て余してしまう。きっと振り回されて終わりだ。

「だからって、別にどうでも良いんだけどな」

クリーチャー・ピアソンは所詮赤の他人だ。忠告する義理も義務もどこにもない。放り投げたスマートフォンの暗い画面を一度見て、ナワーブは今度こそ仕事へと頭を切り替えた。




 自分は騙されているんじゃないだろうか。トレーナー不在の自分磨きを大人しく遂行して三日目、クリーチャーは芽吹いていた疑惑にようやく目を向けた。朝にストレッチを行い、何を着るか決めてからナワーブに写真を送る。簡単なコメントを返してもらい、問題がなければ今日という一日は完全にクリーチャーの手に委ねられる。そこにナワーブの意図はない。彼は頑張ってほしいとエールを送るのみだ。

 彼に指示されたストレッチやら、服のセンスやらに疑問を抱く余地はない。趣味は申し分なく、背筋は段々と伸びてきて周囲のウケも良い。ルカたちに混じって取り掛かったヨガも含めて、クリーチャーの生活にいい影響を与えてくれていることは間違いなかった。ただ、本来ならばあれこれ教えてくれるはずのナワーブがいないだけである。彼との期限は二週間後、予定ではナワーブは今並行している仕事が終わり次第、再びクリーチャーに手解きすることになっている。

 だが、本当にそうなるのだろうか?熱意を感じられない素っ気ない合格メッセージに、クリーチャーはどうにも不安を掻き立てられた止まなかった。メッセージの返事は段々と遅くなってきていて、出勤後に返ってくるようではまるで意味をなさない。かと言って咎めることもできず(そんな契約はしていないのだ)、ただ相手の熱が冷める速度を感じるばかりだった。職場の席に着いた途端に届いたメッセージにため息をこぼすと、香ばしいコーヒーの香りが鼻先をくすぐる。ルカはイタリア仕込みのエスプレッソを朝に飲むのが決まりなのだ。珍しくもお相伴に預かろうという気持ちがもたげるままに顔を上げれば、半分寝たような天才の片目がパチンと瞑られた。

「今日は一段としけてるなあ。例の彼氏にはまだ会えないのかい?」
「かっ、彼氏じゃない!」

全くもって大きな誤解である。大した間違いじゃないし、気にしなくていいだろうという鷹揚なセリフは少しもありがたくなかった。繊細な作業を行う癖に、妙に大雑把な思考をするのは勘弁してほしい。おまけにルカは、仲の良いボンボンやトレイシーになんだって話してしまうのだ。もう一人仲良しな寡黙なヴィクター・グランツという青年に至ってはあのアンドルーの友人である。人の口に戸を立てるのは大変難しい。早々に軌道修正を図ると、クリーチャーは丁寧に論理的な否定を繰り返した。

「でも淋しいには違いないんだろう?ほら、ヨガの呼吸をして落ち着きなよ。錠が開けられなくなるぞ」
「縁起でもないことを言うなよ」

おちゃらけるルカに言われるまま、ヨガで習った通りに鼻から深く息を吸う。吸って、吸って、吸って、限界まで吸って吐き続ける。最初の頃は息が苦しくなって死にそうだったが、今では幾らか長く息ができるようになっていた。呼吸法が鍛えられれたおかげか、以前よりもはっきりと声を紡げるようになった気さえする。ナワーブと会話をする際、彼が時折こちらを気遣って耳を近づけることがあったが、次に会う時にはそんな真似をせずともよくなるかもしれない。

 次。次、が本当に存在するのであれば。確かめることもできない、あやふやな関係には求めきれないものである。いつだって、次に会う時を約束するのはナワーブであってクリーチャーではなかった。彼の気まぐれのようなトレーナー契約なのだから当然と言えば当然だろう。金を払った分だけこちらは乗っかろうとしているだけに過ぎない。ナワーブが放り投げることはいつだってできるのだ、と考えたところでゾッとした。やはり自分は騙されているのだろうか?彼の仕事が終われば会うだろうと漠然と考えていた未来が揺らぎ、二週間の突貫計画そのものが砂上の楼閣と化す。半端に弄ばれて、どこへ行くでもなしに落ち着かない自分ばかりが取り残された姿を想像し、クリーチャーは同僚のエスプレッソを奪って一気に飲み干した。

「苦い!」
「人のものを奪っておいて言うセリフじゃないぞ。目覚めの一杯だから苦いに決まってるさ。目は覚めたか?」
「う、悪い。目は覚めた、と思う。……あー、なあ、ルカ」
「何かな。この天才になんでも聞きたまえ」
「どうしてそう一々上からなんだ、お前は……まあいい。なあ、いつも会う約束をしてくる奴が、約束をしてこなくなったら、それってもう会いたくないっていう意味だと考えた方が良いのか」
「ほう」

君がそんなことを聞くとはね、とルカはカップを片手に給湯室に戻っていった。どうやら作り直してくるつもりらしい。悪いことをした、と久方ぶりに良心の呵責を覚えていると、エスプレッソマシンの豪快な音の後に、今度は大きめのカップを二つ手にした天才が登場した。黙ってカップを渡されて顔を近づけると、ふんわりとまろやかな香りが鼻をくすぐる。

「カプチーノだ。目覚めた後はこっちの方が良い。さて、約束の話だったな。そもそも君は相手に会いたいと思っていると解釈しているが、これは正しいかな」
「俺は別に、」

会いたいと言うには癪で、半ば反射的に否定の言葉を紡いで舌打ちした。会いたい?だって、トレーナーなのだから客の出来を確かめるために会うのは当然の義務だろう。会いたいとか会いたくないだとか、そう言う話ではなしにただ相手の思惑を知りたい。あれこれと理由をこじつけて口籠っていると、ルカは悠然とカプチーノを啜りながら首を振った。

「どうでも良いなら、相手の気持ちなんて考えるだけ無駄だ。放っておけばいいさ。けど、僕が知る限り、君はそれくらいのことはわかる程度には有能だ。違うかい?」
「……ああ」
「同僚が賢くて嬉しいよ」

ルカの歌うような声が憎たらしい。皮肉ともつかぬ言葉が、純粋な賞賛であることを知っているだけに厄介だ。捻くれ者のクリーチャーにはなんとも扱いにくい。それでも頼りになる相手は彼だけである。黙ってカプチーノを啜れば、ミルクとコーヒーの柔らかな味わいが舌を慰めてくれた。

「約束はした奴が勝ちだ。会いたければ君から約束すれば良い。案外、相手も待っているかもしれないぞ?自分ばかりが誘うのは、求められているのかわからないからな」
「こ、断られたら?」
「その時はその時だ。今と状況は同じだし、ダメなら二度と悩まなくて済む。スッキリして良いじゃないか」

ルカは正しい。いつだって彼は論理的には正しく、情緒的には歪んでいることが多い。故に客との折衝はクリーチャーが担うことが多いのだが、この時ばかりはバッサリと切り捨てるルカの物言いに救われるような気がした。朝起きて、今日もメッセージを送るのかとぼんやりと憂うことなど馬鹿らしくていけない。どうであれ、自分は変わろうと決めたのだし、意地でも変わってやろうという気持ちが芽生えつつあった。

求めよさらば与えられん。カップの中身を飲み干すと、クリーチャーはスマートフォンを手に取った。




 嘘だろう。連日の推理ゲームで疲れた頭を振り絞り、ナワーブは今しがた受け取ったメッセージを穴の開くほど見つめた。あまりにも心身ともに疲れ過ぎて、自分にとって都合の良い幻を見始めているのではないだろうか。スマートフォンを再起動し、もう一度メッセージを開いてみたが結果は変わらず、ナワーブは深く深くため息をついて頬を緩ませた。夢ではない。これは現実なのだ。

『いつ会えそうだ?君に会って、話がしたい。』

クリーチャーが毎朝のようにして送ってくれる報告書(そう、色気もへったくれもない決まりきった内容だけだ)の末尾に添えられたのは、出会って以来初めてのお誘いだった。思い返せば会う約束はいつだってナワーブがしていた。この仕事の主導権を握っていたのは、サービスを提供する側のこちらだったからなのだが、後から入ってきた仕事に振り回されている現在では手も足も出ないままである。四日も経った今では、確実に明後日には街に戻れると言えるようになったが、どうにも気まずくて言い出せなかった。

会いたい。話がしたい。まさかクリーチャーの方から申し出てくるとは、一体誰が思うだろう?さらには、美味しいイタリア菓子を売る店を同僚に紹介してもらったので、一緒に出かけたいとまである。同僚に教えられたという行は面白くないが、知った情報を教えたいと言ってくるとは実に可愛い。少しは自分が、彼の日常に馴染んだと自惚れても良いのだろうか。クリーチャーの申し出は、金と好奇心以外にも、自分たちの間には何かが、この仕事が終わった後にも続けられる『ナワーブ・サベダー』という生活が待っているのだと期待するには十分すぎるものだ。

「今なら良いかな」

人に好かれるような人間を作るトレーナーが言うには余りに情けないセリフを吐いて、ナワーブは住所録を呼び出した。クリーチャー、クリーチャー・ピアソン。探し出した目当ての情報は、用意周到な自分らしくきちんと必要なものを備えている。一度も使ったことのない数字の羅列をなぞる指は震え、たった一度のタップをした指先から燃え上がるようだった。時刻は午後五時。クリーチャーのメッセージによれば、もう仕事を終えてノイジー・サーカスに移動した頃である。

『……もしもし』
「ピアソンさん!」

記憶の中で薄れつつあった声を耳にし、ナワーブの胸は一挙に熱を帯びた。久方ぶりの生の声は想像よりも低くくぐもって温かい。

「急に電話しちゃってごめんね。今、大丈夫?」
『ああ。トレーニングをする前だし、今日はウィリアムにマシンランニングを見てもらうだけだから』
「ウィリアム?なんでいるのさ」

ウィリアム・エリスはジムのトレーナーではない。ノイジー・サーカスに通う貴重な会員の一人であるため、クリーチャーに会う可能性はあったが、ランニングする姿を見るとなれば話は別だ。クリーチャーに出会った初日にウィリアムのいる店に出かけた自分を呪いつつ、ナワーブは乱暴に聞こえはしなかったろうかとヒヤヒヤした。

『昨日、ここで会って色々聞かれたんだ。君の友達なんだろう?ウィリアムはジムのアルバイトもしているから、友達のよしみで見てやる、って言ってくれたんだ。親切だな』
「ふうん」

親切?確かに裏表のないウィリアムのことだ、申し出は誠意のあるものだっただろう。それでも面白くないことに変わりはない。どうして自分がつきっきりでいてやれないのかと呪い、そんなことをする意味がないと理性で頬を叩く。ああ、クリーチャーの前に立つ『ナワーブ・サベダー』ならばなんと言うだろう。

「……それは、良かったね。俺がいない間に、どんな風になったのか早く見たいな」
『ん、そ、そうだな。君に確認してもらわないといけないな』

モゴモゴと聞き取りにくくなるのは、きっと照れているからだろう。自分の一挙一動に振り回されたクリーチャーの姿を思い出し、ナワーブはうっとりと目を細めた。今すぐにでも見てみたいが、お楽しみは後にとっておくより他にない。

「明後日には帰れそうだから、そのまま会いに行くよ。ね、明後日の夜遅くになっても会える?」
『別に私は構わないが……君は疲れているだろう。仕事が上がった日くらい、ゆっくり休んだら良い。一日二日で私の状態なんて、大して変わりゃしないしな』
「俺が見たいから良いの。あんたの都合が良いならそれで良し。そっちに着いたら連絡するよ」
『……わかった』

良いのか。電話をかけるまで延々迷ったことが嘘のように、ナワーブの気持ちは晴れていた。クリーチャーは本気で自分に会いたいと思ってくれている。どんなにぼろぼろの状態であろうとも会ってやろうと心に決めて、僅かな会話を振り返る。『ナワーブ・サベダー』にしてはいささか格好悪いかもしれない。せめておやすみなさいくらいは上手く言おうと口を開きかけ、ナワーブは思いもよらぬ一撃を食らった。

『おやすみ。君に会うのを、その、楽しみにしてる』
「うん、おやすみ」

うわずった声が我ながらおかしい。恥ずかしさからか、クリーチャーはこちらがそれ以上何かを言うより先に電話を切ってしまった。楽しみ?ああそうだとも、自分だって楽しみにしている。もっとさりげなく、格好良く言うことだってできたはずだと言うのに、なんだって肝心な時には言葉を紡げなかったのだろう。場数を踏んできたはずの自分が嘘のようだった。

 もし、他の人間がクリーチャーに同じセリフを言われたらばどう思うだろう。こんな風に心臓が痛くなるほど高鳴る思いを、あのエマが抱くのか?考えれば考えるだけ不快になりそうで、ナワーブは大きく首を振った。クリーチャーが辿り着くべき結果はそこにある。そのために自分は彼を支える遊びをしているに過ぎない。上手く行くならばそれで良いではないか。

明後日はひどく遠い。明日からの仕事に思いを馳せながら、ナワーブはシャワーを浴びるべく立ち上がった。訳のわからないもやもやを全部流して、ただ楽しみだけを残したかった。


〆.


後書き>>
 会えない二人のやりとりが好きです。気楽に連絡し合うことのできるはずの今でこそ、かえって通じ合えないもだもだとしたものが残るのかもしれないな、と想像しながら書いていました。知ることができるはずだから、できないことに対する不満は募りそうですね。その壁を乗り越える一歩が互いを近づけてゆくならば良いなあと願っています。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!