暗闇の中で鍵を開けられる?
鍵と錠 #6
小難しい理論だと思われがちな話も、案外簡単に飲み込めることがある。例えばかの有名な相対性理論は、門外漢には到底理解できないと敬遠する人間は多い。しかし、『素敵な女性と並んで座って過ごす2時間は1分のように感じられるかもしれないが、熱いストーブの上に座った1分間は2時間過ごしたかのように感じられるだろう。それが相対性というものだ』と日常的な言葉で説明されたらば、やや気持ちは和らぐ可能性が高い。要するに、遠い出来事も身近になれば多少はわかった気になりうるのだ。
クリーチャー・ピアソンは、ルカ・バルサーにこの説明で相対性理論を解説されてもまるで理解できなかった朴念仁である。なんでもアインシュタイン自身が語った言葉らしいが、アインシュタインが誰だと言うのだろう?自分の人生にはまるで関係あるまい――そう思っていたのだが、今となってはクリーチャーは誰よりも相対性なるものを深く理解していた。確かに、時間の重みとでも言うべきものは対象によって随分と変わる。
「まだ8時か」
腕に巻いた時計をチラリと見て確認すると、我知らずため息が出てしまう。もう三時間は経過しただろうと思っていたと言うのに、先ほど確認した時刻から30分経ったばかりである。あまりにも時間が経つ感覚が遅い。否、時間が溶けた飴のように勝手にだらしなく伸びているのだ。ならばせめて仕事が順調に捗っていればありがたいのだが、こちらも現実の時間同様にはかばかしくはなかった。
「クリーチャー。そう何度も時間を確認したって、仕事は終わってくれないよ」
「……そんなことはわかってる」
焦って吃りそうになる気持ちを抑え、緩やかに言葉を紡ぎ出すと、クリーチャーは隣で古い錠前を外すトレイシー・レズニックを軽く睨んだ。少年のような愛嬌ある彼女の軽妙さは嫌いではないが、今の自分には少々煩わしい。よりにもよって今夜の仕事が彼女につきっきりとはついていなかった。コーヒーの入った水筒を渡すように目で示すと、阿吽の呼吸で暖かい感触が手元に滑り込む。十年余りの気心の知れた仲のなせる技だった。
「ま、今回の仕事は無茶苦茶だって僕も思うけどさ。一日で屋敷中の錠前の付け替えをするって、正気の沙汰じゃないよ。それも夜にはパーティを開くから、付け替える順番まで指定があるし」
「ジョゼフが頼んでくる仕事だからな。どうせ報酬も規格外なんだろうよ」
トレイシーの嘆き通り、今夜の仕事は異例の代物だった。屋敷中の錠前を替えることは、家主が変わるなどでままある出来事である。大きさにもよるが、可能な限り短い期間で終えるように手配するのが通常だ。誰だって望まぬ侵入者はできるだけ御免いただきたい。引越しの際に鍵を取り替えるのはもっともである。
だが、今夜はジョゼフが買い取ったばかりの放置された銀行本店だった巨大な建物が舞台であり、お披露目と同時に改装が進むというとんでもない手配がされていた。クリーチャーとトレイシーがせっせと薄暗い廊下で作業する背後の部屋では、パーティの喧騒に紛れて新たな客室制作の真っ最中である。前前から錠前の仕様と大きさ、数は伝えられていたので一ヶ月あまり準備期間は設けられていたものの、初めて訪れる現場での作業は想像以上に手間がかかりそうだった。
ある意味、稀有な経験である。この規模の仕事をこなせたらば、もっと大きな仕事も転がり込んでくるだろう。すなわちクリーチャーにも輝かしい未来が待ち受けているのだ、悪くはない。以前のクリーチャーが両手をあげて賛成した道のりである。今はどうだ、と問われれば何分答えにくい。人は知らぬ前には戻れないのだ、とパーティ会場から響く笑い声に顔を歪めた。
「バルクはしっかりしてるからね」
「自慢そうに言うなよ、お前のおじさんのせいで苦労してるんだぞ」
「へへ。でも良い上司でもあるでしょ」
「……まあな」
そっけなく認めれば、トレイシーはでれっと頬を緩めた。相棒の呑気さには呆れるが、救われもする。一人で作業するハメになっていたらば、自分の惨めな胸の内とパーティの浮かれた様子の落差とに打ちのめされていたに違いない。チラリと垣間見た会場では、改修中の部屋とはまるで異なる豪奢な眩い照明と華美な家具(全てこの日に設置されたものだ)、積み上げられたシャンパンタワーにパリッとしたシャツの似合う給仕たちに気取ったオーケストラ、そしてこれでもかと着飾った人々が踊ったり飲み食いしたりと忙しそうだった。クリーチャーの人生にはすれ違いもしなかったひと時である。
ナワーブ・サベダーは仕事柄、こうした場所にも多く訪れていると想像された。何より彼は、招待客たちが身につけているような服もよく似合う。否、一度たりとも彼はクリーチャーの前では派手に着飾らなかった。魅力を引き出した所で、自分が出向く先などたかが知れている。彼は身の丈に合った魅力の引き出し方を心得たプロなのだ。
ただ、パートナー代行と聞いてクリーチャーがパッと思い浮かべる姿は、パーティやレストランでの付き添いである。何しろ、金を払ってでもパートナーを連れて行くのだ、並大抵の事情ではあるまい。自分もまたその一人であったことを棚にあげると、クリーチャーは手元に神経を集中させながら、取り付けたばかりの錠前に鍵がぴたりと嵌まるのを確かめた。ぐ、と力を入れずとも奥まで入り込み滑らかに回転する。扉の開閉を確認したらば次、そしてまたその次。巨大な建物はまるで監獄のように鍵だらけで終わりが見えそうにもない。
かつて栄華を誇った銀行は、十年ほど前の金融危機を前にして無惨にも崩れ去った。敢えて以前の姿を残すことに決めた、建物に入ってすぐにずらりと並んだ窓口の多さからも在りし日は容易に想像される。建物ばかりが豪奢で始末に終えず、街の真ん中にありながら居心地の悪い廃墟に近い状態だった場所をジョゼフが買い取ったのは、街にとっても幸運と言えた。商売上手な彼は観光都市として再度テコ入れが始まった街に相応しいホテルへと変身させるつもりであるらしい。
なぜクリーチャーが知っているかと言えば、ジョゼフが注文する場に現場責任者として臨席したからに他らならない。依頼主が広げた青写真は、守銭奴のバルクをもうなずかせるものだった。しっかり者の上司は、今回の仕事で大幅値引きをする代わりに、所有権を一部確保するよう取引したのである。要するに、ここは今日のパーティなど目ではないほどに賑やかになる予定なのだ。
洒落たホテルが出来上がった暁に、自分が大切な人を連れて歩く姿を想像してみたが、まるで酔っ払いが見た夢のようにぐにゃぐにゃとして形にならない。どんなにめかし込んでも、自分とは不釣り合いな場であるような気がしたし、何より大切な人を楽しませる姿をうまく思い描けなかった。ナワーブの指導に従った先に広がる無数の可能性の中には一つくらいありそうな、ありがちなロマンスの情景はどこまでも澱んでいる。
ナワーブならば、理想的なロマンスの話をいくらでもそらで言えるだろう。経験もあれば、見聞きしたものもクリーチャーよりもずっと多いはずだ。昨日訪ねた彼の部屋には、ひと家族分はあるかと思うほどに衣装が詰まっていて、どれもが彼のために作られたかのようにしっくりとして似合っていた。それほど多くの服を着るべき場所に彼が出かけたのは、純粋に仕事のためだけだったろうか。
「半分は趣味だよ。誰か、俺じゃない他の人になる瞬間が好きなんだ」
昨夜のレッスン後、大量の服を前に絶句したクリーチャーに、ナワーブは苦笑を交えながら語らって見せた。着道楽には違いないが、何よりも職業病だと。この洒落た青年が、パートナー代行を担う理由を考えさえしなかった自分にとって、彼の告白は青天の霹靂だった。クリーチャーの目に映る『ナワーブ・サベダー』は十二分に魅力的である。トレーナーという立場のためかはわからないが、彼本来の自然体であるように思われた。だが、その印象さえもナワーブの手のひらで踊っていただけに過ぎない可能性がある。
ならば本当の『ナワーブ・サベダー』とは何者なのだろう。時折見せる柔らかさや、未来への仄めかし、親しさ、せめて友人にでもなれやしないかと期待させる全てが歪んでゆく。全てが、パートナー代行としての完璧な職人技だったらば?彼は他人になることが好きだと言う、きっとそれは本当のことなのだろう。だったら今の彼は何者なのか。
そんなことなど知らなくて良いではないか、とクリーチャーは寝る前に自嘲したものである。来週以降のナワーブなど、自分の人生には無関係だ。二人の間には期限付きの交わりがあるに過ぎず、彼のセリフの真偽など考えるまでもない。他人になることを好む彼が、むき出しの自分自身など曝け出すなどあるまい。
もし、彼がただの友人の紹介で出会っていたら、今のような関係を築けただろうか。なんの気兼ねもなく、ナワーブの誘いに乗って彼の実家に遊びに行く日もあったかも知れない。あるいは、魅力的なナワーブのことだ、クリーチャーのような厄介な人間はうまくあしらってそれきりになることも考えられる。幾つもの出会いの可能性が走馬灯のようにぐるぐると脳裏を渦巻き、結果どれも成立しないと冷酷な判断を下した。二人は、クリーチャーのしでかした間違いなしには出会えないし、友人めいた距離感で接することもないのである。
今日のパーティに参加する人間たちだってそうだ。多くの人間はクリーチャーの人生とは無関係で、それで全く困らない。だが一度交わったような気がしたナワーブに繋がる線は、どこかで本物であって欲しいと願わずにはいられなかった。何しろ彼の側は居心地が良いのだ。自分が日々確かなものを積み上げてきている支えの一つは、紛れもなくナワーブの存在である。
そして自分は、彼がいない未来で努力を続けねばならない。もちろん自分のために行うものだから、ナワーブの存在有無など関係あるまい。想像するだけで億劫な気持ちが起こるのは、単純にものぐさな性分が首を持ち上げたためだろう。元々、クリーチャーは自分自身に対してさして注意を払ってこなかったのだ。確かに姿勢は良くはなく、話す際には相手の様子などお構いなしで、ついでに服はいつ買ったのかもわからない状態だった。
自分の欠点など百も承知しているとしても、直さずに生きてきたのは半ば諦めて受け入れた自分の運命故だ。いくら鍵の歪みを直そうと努力したところで、一度使い物にならなくなった鍵のことなど誰も目もくれやしない。ずっと、ずっとそうだった、努力なんてするだけ無駄だ。この鍵はもう不正解なのだから、いっそ捨て去り錆びていくままにすれば良い。幾分斜に構えた見方かもしれないが、クリーチャーなりの精一杯の処世術だった。楽をして生きたい、誰だってそう思うだろう?
『また明日ね。明日はもっと素敵になったあんたを見せてよ』
初めて出会った日にナワーブが放った別れの挨拶は、未だにありありと思い出せる。あの瞬間に全てが覆った。けれども、もしかしたら。冗談のような提案に乗って、背中を押され、褒められ伸ばされるうちに段々と目の前が明るくなっていった。嬉しかったのだ、と薄暗い廊下にいても胸の内のほの明るさで眩しさを覚える。もっと叶えたいという欲を生まれて初めて持ち、向かって行っても良いではないかと自信の萌芽を見た。ナワーブが言うには、何よりも自己肯定感が必要なのだという。それも奢るのではなく、客観的に自身の能力を把握した上で認めるべきだと。
『あんたは努力してるし、ちょっとずつだけど結果も出てきてる。思った通りになるにはまだ先かもしれないけれど、ずっと走っていって良いんだ。今できなくても、この先には伸び代しかないんだよ。信じてくれるかわからないけど、俺が保証する』
だから挫けないで、とナワーブはくたびれきったクリーチャーを慰撫したものである。――ナワーブがいたから、ここまで来れた。彼がいたから、この先も行けるだろう。彼がいるならば、確実に進むだろうし、結果だって自分の納得のいくものをノートン・キャンベルやアンドルー・クレスに披露できる気がする。すっかり忘れつつあったが、当初の目的はこの悪戯な友人たちに目にモノを見せてやることだった。クリーチャーが投じたその場凌ぎの嘘を、未来につながる現実にすり替えたのはナワーブである。
溢れかえる切望に苦笑し、クリーチャーはすぐさま絶望した。ナワーブは演技達者だ、どこまで本気であったかは定かではない。金の切れ目が縁の切れ目と、再び出会ったところで同じ『ナワーブ・サベダー』であるとは限らないのだ。要するに、過去の自分をも否定する出来事となる。やっぱり全ては無駄で――むしゃくしゃする気持ちのままに鍵を仕上げると、クリーチャーは工具を箱に戻して立ち上がった。
「トレイシー、少し休憩しよう。手洗いに行ってくる」
「りょーかい。僕は西側に移動してるね」
「頼んだ」
両翼を広げた形の旧銀行は、東と西とで大きく直角に曲がっている。中央の吹き抜けはパーティ会場にうってつけで、重役たちが葉巻を燻らせた大会議室がボールルームとしてフル稼働していた。その裏側を通って、目下客室の錠前をつけて回っている最中なのである。東側の最後の一つを終えたので、次は速やかに西側に移動せなばならない。本当は手洗いに行く気分でもないのだか、もやもやとした気持ちを落ち着ける時間が欲しかった。きっと夜の冷たさは胸の奥深くまで潜り込み、すっと押し流してくれるに違いない。
くすんだ絨毯が庭園を思わせる緑を広げ、壁には花が咲き誇る。テーマは都会の荘園だそうで、異国の貴族との噂もあるジョゼフらしい趣味だった。多少はバルクの意見も取り込まれているのか、廊下には時折重厚な作りのからくり時計が飾られていた。時刻はまだ8時半、シンデレラが踊り始める頃合いである。宴はまだまだ終わらない。
すん、と息を吸えば新しいペンキや家具やら何やらの匂いが一斉に肺へとなだれ込んできた。建物に入ったばかりの時は、埃っぽい乾いた空気で墓場のように生気が欠けていたとは信じられない変わりようである。まさに新天地で、自分が作り出した鍵と錠が並んでぶら下がることにじわじわと喜びが熱を帯びた。自分の仕事の中でクリーチャーは何よりも、新しい鍵が新しい錠前にぴたりとはまる瞬間が好きだった。彼らは唯一に出会い、これ以上ないほどに似合っている。人間では、そんな相手を見つけることは至難の業だろう。鍵と錠にとって、クリーチャーはちょっとした神様なのだ。
ナワーブは、出会うのだろうか。彼の錠に、あるいは鍵に。彼ならきっと綺麗な形をした片割れなのだろうな、と知らず描いて苦笑すると、クリーチャーはパーティを冷やかすべく会場へと続く従業員用の扉を開けた。
華やかさだけで中身などない。上部ばかりの社交に駆り出される時、ナワーブはいつだってあくびが出そうになる。この街で行われる、主要なパーティに出尽くしたと言うのも理由の一つだろう。おかげでこの手のパーティでは、ナワーブは優秀なコンパニオン――過去の利用客たちとの『顔つなぎ』として利用されるのだ。空いた時間に捻り込まれてもすぐに対応できる上、時間潰しにはちょうど良いのだがなにぶん暇である。パーティで繰り広げられる物語には、なんらドラマ性はない。判で押したようにいつも同じ流れだ。
「……行かなくてはだめ?」
「アニー様」
目的地のホテルに着いたと言うのに躊躇する同伴者を、ナワーブは微笑んでたしなめた。彼女こそはアニー・レスター、高名な異国の玩具メーカー社長の一人娘である。挨拶回りに連れていって欲しい、と頼まれた理由はてっきり語学的な問題だろうと踏んでいたが、どうやらより根本的な問題を抱えているらしかった。怯える様はさながら捕らえられたうさぎのようで、憐れみを誘う。細かな刺繍が愛らしいドレスも、華奢な体も何もかもがパーティにはおあつらえ向きだと言うのに、本人が乗り気でないならば宝の持ち腐れだ。苦笑しながら腕を差し出すと、ナワーブは表情を和らげた。
「大丈夫です。僕がついていますよ」
「私、あまりたくさんは話せないわ」
「承知しています。アニー様の紹介は僕がしましょう」
むう、とアニーの唇が曲がる。ここに来るまでの間、送迎車の中で大人しくしていたかと思えば対策を考えていたようだ。ナワーブが子供のような駄々を速やかに封じると、アニーは焦ったように通りの向かいを指差し始める。
「今、お腹が空いてるからあちらのレストランに先に行きたい。良いでしょ?」
「会場にはご馳走がいっぱい待っていますよ。主催のジョゼフ様は美食家で有名です。きっと一流の料理をたくさん食べることができますよ」
嘘ではない。ジョゼフは面倒な依頼主としてたびたびナワーブを苦しめるが、彼と関わった仕事で胃袋が悲しむ様なことは一度としてなかった。いつぞや誰かが、ジョゼフには悪魔的な魅力があると言っていたが、彼が提供する舞台やら食事やら何やらに触れればすんなりと受け入れられる。多分、異国から来たアニーも満足できるだろう。揺るがない同伴者の態度にアニーは肩を落とすと、仕方がないとでも言うようにナワーブに腕を絡めた。
「わかった。それじゃ、挨拶が終わったら早く帰っても良い?」
少しばかり気分を持ち上げた少女は、なかなか図々しい要求を織り交ぜてくる。残念ながら、ナワーブの雇い主は彼女ではない。
「お父上は一時間後に到着されます」
つまり、一人抜け出そうとするなど無駄だと言うわけだ。ナワーブはそれまで彼女を連れ回して紹介すると同時に、監視する役目をも担っているのだった。完璧に不貞腐れた彼女を、やんわりと追い立てると、受付を速やかに済ませて中へと入る。受付をしていたガンジ・グプタがニヤリと笑って見せた。ナワーブはあちらこちらのパーティに顔を出しているため、受付を渡り歩くような人間ともすっかり顔馴染みである。
「わあ」
アニーの歓声に被る様にして出迎えてくれたのは1920年代を謳歌するようなジャズの嵐で、蜂蜜色の明かりの下で、少しばかり古い様式の衣装を身につけた人間たちが歓談していた。今夜は禁酒法時代のスピークイージー(密造酒酒場)がテーマだそうで、元銀行の本店だというホテルの構造にもピッタリだろう。何よりも秘密を固く守る場所ならば、密造酒などどうと言うこともあるまい。
パーティ会場は両腕で抱き込む様な形をした大階段を登った先にある。ずらりと並んだ銀行の受付窓口で上着を預けると、ナワーブはアニーを会場へと誘った。移動しながらも、めぼしい相手に抜かりなく挨拶してゆく。流作業のような進行は、萎縮したアニーにちょうど良いだろう。階段を上がりきり、秘密めかした赤紫の絨毯に誘われ廊下を歩く。ウェイターからジュースを受け取った頃には、少女の顔からは憂いがすっかり晴れていた。
「いらっしゃいませ、レスター様。会場はこちらです」
「ありがとう」
ナワーブの存在などなかったように扱うウェイターは、どこかのパーティでも見かけたような風貌だった。パートナー代行の人間を蔑む風潮でもあるのかもしれない。今となっては慣れたものだが、付属品を軽んじられて雇い主は面白くないだろうとは想像される。要するに、自分が舐められるような存在であることが問題なのだ。これといった身分もなければ才能もない。せいぜいツテが有る程度の無力さを噛み締めて、心底代行という立場を呪わしく思う。
代行でなければ、何もないナワーブ・サベダーが剥き出しになるだけだ。どちらに転んでも、自分にとって楽しい結末にはなるまい。物語には色々な終わり方がある――例えばクリーチャーと過ごす時間のような。思えば彼との物語の行く末は見えないままだ。今頃彼はどんな仕事をしているだろう。合間に自分のことを思い返してくれていたらば、と願うのはあまりにも女々しい。生まれてこの方一度も抱かなかった願望は、あまりにも拙くあさましかった。
導かれるままに向かった先には、重厚な金庫の扉が待ち受けていた。往年の銀行員らしく、トップハットに燕尾服姿の係員が恭しく扉についたハンドルを回す。からくり玩具が好きなアニーは、躊躇していたことが嘘のように目をキラキラと輝かせていた。この調子ならば今夜は無事に乗り切れるだろう。玄関ホール同様の喧騒と音楽に包まれながら、ナワーブは今一度気を引き締めた。
「アニー様。ホストのジョゼフ様に挨拶に行きましょう。それからマリー様、美智子様、それから――」
「そんなにレディを強引に連れ回すものではないよ。こんばんは、レスター嬢。初めましてですね」
つらつらと対象をあげた矢先に割り込まれ、ナワーブは舌打ちしたい気持ちを押し隠して顔を引き攣らせた。完璧な紳士然とした装束が憎らしいほど似合う男、リッパーである。いずれ挨拶に行くつもりであったとはいえ、奇襲されるとは不覚だった。全く油断も隙もない。影のようにさりげなく、ぬるりと入り込む術は一体どこで身につけたものなのだろう。怯むアニーに微笑むと、ナワーブは渋々ながら不審者の説明をしてやった。
「これはリッパー様。いずれご挨拶には行く予定でした。アニー様、こちらはホワイトチャペル・ギャラリーのオーナー、ジャック・ザ・リッパー様です」
「まあ!あの不思議な絵を描かれる方なの?今度、うちの玩具のデザインを頼む予定だとお父様に聞いたことがあるわ。私、あなたのファンなの!」
「あなたのような素敵なレディに覚えていただけるとは光栄です。どうです、これから少し落ち着いてお話ししませんか」
「リッパー様」
流れる様にして絡め取っていく男を牽制すると、リッパーは面白そうに朧げな目をすがめて見せた。この男は奇妙なことに、普段は常に仮面をかぶっている。そうかと思えば素面でいても尚どこか印象がぼんやりとしており、その手足を持て余すような長いシルエットばかりが記憶に残るのだ。なうての女たらしでもある男は要注意で、依頼人に首を飛ばされかねない。
「ジョゼフ様にも挨拶しなければなりませんから。その後でも良いでしょう」
「……そうね。良かったら、また後で話してくださいませ、リッパー様」
「ええ、喜んで」
一瞬、邪魔しやがって、とでも言うような険悪な気配がリッパーから放たれたが知ったことではない。踊るようなステップでアニーの腰に手を回して誘導すると、ナワーブはジョゼフの姿を探し――チラリと視界の端に見えた姿に足を止めた。今、何か幻覚が飛び込んできたのではないか。この場に不釣り合いな、ネイビーブルーの作業服がこちらを向いて、そうしてバルコニーに向かって消えたような気がした。
「どうしたの、ナワーブ」
「あ、いえ。知り合いがいたような気がしまして。すみません、ジョゼフ様のところへ行きましょう」
もう一度目を凝らしてみたが、都合の良い幻は、やはり幻のままの様だった。馬鹿馬鹿しい。いくら気にかかっているとはいえ、仕事を放り出してまで考えるなど言語道断だ。今はアニーの世話で手一杯である。パーティの空気になじみ始めた彼女の様子では、手綱を離せばあっという間にいい鴨にされてしまうだろう。彼女は良くも悪くもウブな世間知らずのお嬢さんなのだ。
会いたいな、と流れるように挨拶を繰り返しながら願う。欲望は醜く膨れ上がり、体の深い部分に沈み込んだ。無味乾燥とした、当たり障りのない自分の中にこんなにもドロドロとした淀みがあったとは驚きで、ナワーブを知る誰しもが驚くだろう。クリーチャーに会いたい。どうしたら彼を絡め取れる?残りわずかの期限など飛び越えて、もう魅力的になんてならなくて良いからそばにいて欲しい。
「あちらに見えるのがジョゼフ様ですよ。行きましょう」
悲痛な願いも虚しく、悲しいかな、茶番劇はまだ始まったばかりだった。
ごく当たり前の日常を垣間見たクリーチャーは、わかりきっていた現実にグサリと胸を刺された。ジョゼフらしい凝った演出がなされた会場を冷やかして帰る――あわよくば会場のご馳走を摘むのだ――予定が、見るつもりもないものを見かけてしまった。ナワーブだ、否、そんな都合の良い悪夢が現れるなどあり得ない、としばし葛藤して判断する。今、自分が目にしたのは紛れもなくナワーブ・サベダー、その人である。
昨日披露してもらったばかりの礼服が視界の端で踊る。腰を抱かれるのは華奢な少女だ。きっとどこかの御令嬢なのだろう。二人の空気は親しげで、動きは滑らかである。蝶々のように街の有力者たち間を行き交う様は、正に上流階級の完璧な恋人たちの姿だ。遠目ではあるものの、ナワーブの柔らかな物腰と表情は到底普段の様子からは想像もできない。
演技、なのだろう。パートナー代行の仕事をこなしているだけで、幾千もの物語の一つに過ぎない。彼にとっては何ということのない日常だ。ただ、自分とは何もかもが違う物語の住人だというだけの話である。最初からわかりきった設定だ。
「かっこいいなあ」
直視し続けることさえできず、尻尾を巻いて速やかに元来た道を戻ったのは、我ながらみっともないとは思う。それでも、識っていることと知っていることはまるで違うのだと突きつけられるのはひどくつらい。大人になれば、多少の痛みなどどうとでもなくなると信じていた時分もあったが、現実は裏切る様にしてクリーチャーを苛んで行く。客観的に見れば些細で、悩む必要さえ見当たらないことであろうと、少しずつ皮を剥がれてゆくような耐え難い痛みを伴うのだ。
「かっこいんだよな」
あんな青年が、自分とすれ違う物語などあるはずもないのだ。ただ、たまたま間違えただけの、偶然の事故によってだけ成立した関係である。路傍の石をどれほど磨こうとも宝石にはならず、ほんの少しばかり小綺麗になる結末が関の山だ。磨いた人間は一顧だにしないだろう。それを責める道理もない。こちらは舞い上がったというのに。金を払って磨いてもらっておきながら、彼が騙すつもりでもなく真っ当なビジネスを行っているとわかりながらも――怒涛のように流れる思考に、クリーチャーは愕然とした。自分は今何を考えている?
ナワーブからの自然な優しさに、勘違いする人間が出ても不思議はないと頷いたことはある。苦笑できる程度の良識は持ち合わせていたし、自分は到底引っかかるまいと自負していた。きっちり線を引いて、客と雇われトレーナーという関係を維持し続けた。そのくせ会いたいと願い、会いたいと請われた時にはたまらなく嬉しく思ってしまったのである。
お粗末すぎて笑うことさえできない。要するに、自分もまた彼の術中にハマってしまったというわけだった。彼の鍵にも錠にもなりえず、今日見かけた女性のようなもっともらしささえ持たぬ身の上が殊の外悔しい。彼に習ったやり口で、直向きに自分を磨き続けたらばいつか本当に魅力的になり得るだろうか。
そうしてもう一度出会った時には、自信を持ってナワーブの手を掴めるだろうか、と想像してクリーチャーは首を振った。我ながら自分の考えは受け入れ難い。そもそも、近頃ご無沙汰だが自分はエマ・ウッズに焦がれていたはずである。彼女の花が咲いたような笑みを思い出そうとして失敗し、気持ち悪いグニャグニャとした化け物が微笑むばかりだった。
『好きな女が振り向きたくなるくらい、あんたが魅力的になればいいんだ。それだけでも、お友達を見返せるよ。なんなら、俺が一緒に行って証明してあげてもいい』
そう唆してきたのはナワーブだ。彼はこの時、確かな未来を描いていたのだろうか。自分自身でさえ想像できない、魅力的な『クリーチャー・ピアソン』を、魅了される誰かの姿を。その誰かにナワーブが含まれていればどんなに良いかと願うのは、最早ただの愛着だと呼ぶには余りに切ない。もとより、クリーチャーは誰かに縋るような生き方など遠慮したい。うつろいやすい生き物を追いかけるなど愚の骨頂である。
ならば追いかけさせるより他にない。ナワーブの導きに従い、彼が考える魅力を全て身に纏って証明してもらうとしよう。金の切れ目が縁の切れ目となるかどうかは、クリーチャーの仕上がりにかかっている。全くの真っ新で破れかぶれの物語をせせら笑うと、錠前の取り付け作業をしていたトレイシーと目が合い、慌てて顔を引き締めた。
「クリーチャー、もしかしてパーティを見てきたんでしょ」
「まさか。手洗いに行ってきただけだ。少し迷って……悪い、遅くなった」
「別に言い訳しなくたっていいよ。僕も見に行きたいし」
意外な願望を口にしたトレイシーに、クリーチャーはおやと首を傾げた。彼女とは長らくの付き合いになるが、パーティなどの華やかな場所に興味を抱いたことなどついぞない。大学の友人の影響か、今になって食指を動かしたのだろうか。トレイシーは普段から少年のような形をしているものの、少女らしいドレスを身につければそれなりに似合うだろう。
「君がパーティに出るなら、是非ともエスコートさせてもらわないとな」
「……クリーチャー、本当に変わったね」
前なら気にしなかったでしょ、と評する彼女は庇護者めいた顔つきをしていた。暖かな眼差しが鬱陶しく、クリーチャーは黙って新しい錠前を扉に取り付けた。真鍮風に見せかけたそれを磨き上げて、鍵穴の向こう側を覗き込む。穴の向こうは真っ暗で、何も見えない。
「遠慮しておくよ。僕はエスコートをする側が良いんだ」
「頼もしいな」
「でしょう」
誰が相手かは知らないが、真っ直ぐに求めるトレイシーの姿は眩しかった。パーティによく出る人なのだ、と少女が恍惚とする。隠すことを知らぬトレイシーらしい。大人になりきり、拗れたクリーチャーには難しい芸当だ。彼女のような直向きさは、この鍵穴の向こうと同じように行方知れずで見つかりそうにもない。鍵束から錠と同じ番号を選んでゆっくりと挿す。鍵が閉まる音を確かめながら、クリーチャーはこめかみを指で撫でた。
「見に行きたかったら、行ってもいいぞ。あと半分くらいだろう?」
うんうんと格闘するトレイシーの目が寂しくて、優しい声がクリーチャーの口からつるりと溢れた。目を丸くした表情は、子供の頃と少しも変わらない。自分は幼少期から道を外れていたのだ、と痛感する。あの頃の自分は少しも可愛げのない、何も持たない子供だった。否、今でも何も持ちはしない。ただ変わろうとはしているのだし、変われるような微かな期待を抱いている。
「良いの?」
「たまには良いさ」
自分よりも確実に希望を掴める少女の背中を押す。うんと頷く彼女の顔の輝きに、こちらの胸までスッとすく。カチン、と手にしていた鍵が錠を緩やかに開いた。広がるのは希望に満ちた未来だ。最早クリーチャーの鍵は開かれた。開けられてしまった。まだ見ぬ扉の先が恐ろしい。ポケットに入れたスマートフォンが震え、着信音でナワーブからのメッセージだと知れた。明日、彼と会う。別の物語を素知らぬ顔で生きた男が、クリーチャーとの物語に顔を出す。彼の錠前はどこにあるのだろう。そして鍵は――なければ壊してしまえるモノならばどんなに楽だったろう。やはり生き物相手は難しい。
「あのね、クリーチャー。僕、彼女が好きなんだ」
だから頑張ってくるよ、と少女の背中がピンと伸びる。なぜだか泣きそうに胸がキュッと掴まれて、心がぐらついた。どうしたらそんな風に向かって行ける?走り去るトレイシーの後ろ姿は勇ましく、彗星のように美しい。彼女は紛れもなく魅力的な人間だった。
「頑張って来い」
自分の声がもう届かないことはわかっていたが、胸の内に留めておくなど不可能だ。頑張って、とクリーチャーの心が急かす。導かれるでなしに書き連ねる新たな物語に、恐怖と希望とがないまぜになって気持ちが悪い。頑張って。ナワーブが教えてくれたように深く息を吸うと、クリーチャーは絞り出すようにして最後の言葉を野に放った。
「好きだ」
彼が。ナワーブが。自分の手で開け放った扉の先を、目を逸らすことなく見届けようとクリーチャーも背筋を伸ばした。マルガレータ・ツェレも言っていたではないか。いつでもピンと背中を張って、腹に力を入れるのだと。姿勢の美しさは何よりも自信を持たせてくれる。生まれて初めて向き合う気持ちに戸惑うには、残された時間があまりに少なかった。
もしかしたら、自分が想う『ナワーブ・サベダー』は当たり前のように虚構であるかも知れない。自分は恋に恋するような愚か者であるかも知れないが、エマを慕っていた時点で既に地に堕ちている。ノートンはエマへの思いは妄想だと一蹴していたものだ。ならばナワーブへの想いだって、きっと笑い話にできるだろう。
どうせ自分には何もない。何もかもはナワーブが導き、クリーチャーが作り上げた。まずは作品を完成させてからだろう。自分の言葉で耳が熱くなり、どくどくと心臓が早鐘を打つ。明日もきっと同じだろう。どんな顔をして彼に会えば良いかはわからなかったが、それでも会いたかった。
それから仕事中は延々想像を巡らせたが、歪な錠に過ぎない自分に完璧な鍵がはまることはついぞなかった。
〆.
後書き>>
親しい相手の仕事風景を眺めるのは、もっとも知らない側面を見る瞬間のように思います。よそ行きとも親しみとも違う顔を見せる環境に嫉妬するも良し、惚れ直すも良し、はたまた幻滅するのもまた良し。何倍にも美味しい風景を描きたくて、ナワーブには目一杯気取ってもらいました。かっこいい仕事だってできるんだ……と信じています。ピアソンさんはいぶし銀な仕事を淡々とこなしてほしい。終わりまであとわずかにしてピアソンさんから伸びた矢印を、見守っていただければ幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!