とっても可愛いよ。
着ぐるみ
私には怖いものがある。二十歳を過ぎても、三十を過ぎても怖くて、きっと死ぬまで怖いのだろう。刷り込まれた恐怖はなかなか拭い去り難いもので、まるで昨日のことのように鮮明に浮かび上がる。着ぐるみ、私の恐怖、あれは今頃どうしているだろうか。
小学校に上がったばかりの頃、隣町にサーカスが来たというのでAちゃんと日曜日に出かけた。両親は観にいくなと止めていたから、こっそり覗き見ができないかなあ、なんて話し合っていたと思う。せめて屋台でおやつを買おうと決めて、何が来るだろう、前のサーカスが連れてきた真っ白な象は綺麗だったね、と道中話題は尽きない。あの頃は巡業のサーカスや夜市や星見といった、どこの街にも属せない流しの人間が多かった。今では皆地に足がついていて、そう簡単には移動できない。自由と引き換えに、身分を失った人々は、不思議な魅力を備えており、子供たちの憧れの的だった。誰だって一度はサーカスの曲芸師になりたいと願ったものだ。
「サーカスじゃないのかな?」
「なんだろう」
だが、隣町で私たちを迎えたのはサーカスのあの大きなテント小屋ではなかった。階段式の巨大な棚、とでもいうべきものが広場に作られていたのである。思えばあの時点でずいぶん異様だった。街は流しの人間が来た時特有の熱気に包まれていて、私たちは少しもおかしいとは思わなかった。もし、あの時気づいて家に帰っていたならばどれほどよかっただろう。
「君たち、初めてかい」
なんとか見覚えのある屋台の群れに混じろうとしたところ、小山のような影がさした。埃っぽい、カビのような匂いは古い箪笥にも似ている。しっとりとした声に振り向けば、熊がいた。蛍光緑という際立った色が目を刺し、それが着ぐるみであり、中にいる人間の顔が露出したものであることに気づくまで少々時間がかかった。蛍光緑に包まれた、優しそうな男の人の顔というのは奇妙で、今でも笑いが込み上げてくる。
「ええと……サーカスの人、ですか?」
「サーカス!そうだねえ、違うな」
寂しそうな顔をすると、男の人は次々と街中を指さした。ピンク、空色、黄色に虹色、街には至る所に色が溢れ、極彩色を凝縮したような着ぐるみで溢れている。私たちが知る隣町の風景はいつの間にか随分変わったらしい。
「僕たちは着ぐるみの良さを広めるためにここに来たんだ。ご覧よ、早速気に入ってくれた人たちが着てくれてる。嬉しいなあ」
「着ぐるみの良さ」
確かに、うろついている着ぐるみたちのうち、顔が見えているものは老若男女問わずに着ているように見えた。同じ学校に通うYちゃんを見かけて、Aちゃんに指をさして伝えたことを覚えている。顔見知りが着ぐるみを着ているというのは、無理矢理日常を非日常に連れ込んだようで受け入れ難い。明日、学校で会ったらどう声をかけよう。Aちゃんの顔にも同じような戸惑いが浮かんでいるのがうかがえた。
お兄さんは私たちのことなど気にせず、伸びやかな声で着ぐるみの良さについて語り出す。
「そう!着ぐるみはね、最高なんだ。まず見た目だけど、どんな人でも着ぐるみを着たら別の誰かになれる。着ぐるみは人を選ばないんだ。それに、顔を出さないものなら、誰が何を着ても他の人にはわからないから、誰かに見られてどうしようかなんて悩まなくて良い」
「どんな着ぐるみがあるの?」
波に乗ったのはAちゃんだった。Aちゃんは背が小さくて、普段からAちゃんのお姉さんに揶揄われていたから気にしていたのかもしれない。お姉さんが揶揄うと、クラスの男の子たちも一緒になって囃し立てていた。私でさえも居心地が悪くなる場面で、本人ならば尚更だったろう。あの頃、Aちゃんのお姉さんは学校で女王様のように振る舞っていた。
熊のお兄さんはニコニコしながら、嬉しそうに街のあちこちをまた指さした。宇宙人にエビ、ウサギ、ペットボトル、そして蜘蛛。こんなものまであるのか、と私も素直に驚いた。お兄さんは言う。どんなものでもあるよ。
「君は何にでもなれるんだ。それにね、僕たちが開発した着ぐるみはあったかくて、着心地もいい。触ってごらん、気持ちいいだろう?」
「わあ」
「ふわふわ!」
おそるおそる触った着ぐるみは、近所の猫よりもふわふわで気持ちが良かった。
「みんな言うんだ、もう脱ぎたくなくなるってね。どうだい?君たちも着てみたら」
お金は取らないのだ、とお兄さんは言う。お菓子を買うくらいのお小遣いしかない私たちにとって、無料の変身体験は魅力的に響いた。Aちゃんは喜んで頷き、お兄さんについていく。私も慌てて後ろを追いかけた。
先ほどよりも、街は着ぐるみの数を増やしているようだった。まるで街の人々が殆ど着ぐるみと入れ替わったようで、最初からここは着ぐるみの街だと言われても不思議はなかった。きっと素晴らしい着ぐるみなのだろう。Aちゃんの目がキラキラして綺麗だった。
「さあ、好きなものを選んで」
あの階段式の棚の真ん中、壁をいくつか叩いてお兄さんは中へと私たちを誘った。真っ暗で怖かったけれども、すぐに電灯をつけてくれたのでほっとした。それに、中にはぎゅうぎゅう詰にされた着ぐるみでいっぱいで、他のことを考える余地はなかった。もこもこの犬に向かってAちゃんが走り出し、お兄さんが追いかけてゆく。背中のジッパーを開けて、闇の中にAちゃんはするりと入り込んだ。
「君はどれにしようか」
「うーん」
Aちゃんは黙ったままだ。確かめるように腕を上げたり下げたり、くるくる回っている。初めての感覚が嬉しくて仕方がないのかもしれない。きっとそうだ。ぐるりを見回すと、着ぐるみの顔が全部こちらを向いているように見えた。
「選べないなら、僕が丁度いいのを探してあげようか。お友達が犬なら、君は猫なんてどうかな。この子は縞模様がとても綺麗なんだ」
この子。お兄さんの言い方に引っ掛かりを覚えて、私は改めて着ぐるみを見た。可愛い縞模様の灰色猫だ。着たらば気持ちがいいだろうなあ、と思わせるふわふわの毛並みを持っている。
「Aちゃん」
踊る犬は何も話さない。不意に着ぐるみの猫と目が合って、ゾッとしたものが背筋を駆け抜けた。着ぐるみが見ている。中身がないはずのものが私を捕まえようとしているのだ。
「大丈夫だよ。すぐに慣れるから」
お兄さんがジッパーを開けた。
それから、どうやって逃げ出したのかは覚えていない。私が何も着ずに家に帰ったのは確かだ。Aちゃんは行方不明になったし、あの着ぐるみの集団は街の人ごとどこかに消えた。詳細を知ったらば戻れなくなりそうで、いまだに私は真実を知らない。あの闇の向こうに何があったのかなんて、知らない方がきっと良いと思う。
今でも、街中で着ぐるみを見ると緊張する。もしかしたら、私を探している着ぐるみが待ち構えているのかもしれない。あったかい寝床を用意して、中身を探しているのだ。
全部夢であったらばどんなに良いだろう。仕事先で着るように押し付けられた着ぐるみを見て、私はそっと距離をとった。
縞模様の灰色猫だった。
〆.