私はあなたを忘れない。
記得
思い出さない方が良いこともある。ひどい喧嘩や悲しみ、やるせなさ、怒り、虚しさ。そうした暗い側面のことばかりだと思っていたが、范無咎はここに来てようやく明るい側面であっても思い出さなくて良いこともあると知った。まだ重たい瞼を震わせて、ようよう起き上がるもどうにも気だるい。差し込む光は、霧が出ているものの晴れであることを告げている。日々自分を律して来たがために、誰に起こされるでもなしに自然と同じ時間に目がさめるのだ。
范無咎と、その竹馬の友である謝必安を見る人は、大概范無咎こそ寝坊をしそうなものだと指差す。しかしてその実態は豈図らんや、范無咎の方がよほど四角四面だ。服の折り目、畳み方、佇まい、それこそ朝起きる時間までもが范無咎の日々では決まりきってこなされている。一方の謝必安はその手が生み出す字や、身のしなやかさを生かした武芸こそ見事であってもどこか大雑把でまま寝坊もする。ずぼらではなく、正確には彼の中で何が重要なのかがはっきりしているが故である。
「手を抜くところは抜かないと。また息が詰まってますよ、范無咎」
「普段と違うことをすると落ち着きが悪い。お前こそ、せっかく綺麗なんだ、髪くらいはもう少し気にしてくれ」
「その分、あなたが補ってくれたらば良いじゃありませんか」
そうでしょう、としれっと言ってのける謝必安は策士だ。幼い頃からそうで、彼の掌の上をずっと転がされているような気さえする。けれども少しも不快ではなく、寧ろ共に転がるように心地いい。大人になった今でも、范無咎は度々謝必安のその美しい髪を梳かし、結ってやっていた。花の油を使った時に、道行く人々が皆謝必安を振り向いたあの心地と言ったら!自分のものでもないというのに、宝物を自慢しているような満足感でいっぱいだった。
その、髪である。起き上がりしなに目に入ったものをつまんで、范無咎は記憶を巻き戻した。長く黒々とした髪。艶めいたそれは女性のもののようにも見えるが、紛れもなく謝必安のものだ。今日は朝から調練に行くととうに出かけてしまった彼は、それまでずっと范無咎の隣に並んで横たわっていたのである。温もりが残っていないかと影すらない空間を触ったが、虚無が返るばかりだった。
謝必安の髪がほつれ、玉のような汗を垂らす額に張り付いたのを取ってやった際に濡れた指先をまだ覚えている。結い髪を解くと前が見えなくなると文句を言われたものだ。だったらもっと側によると良いと引き寄せたのは自分の方でーーううん、と頭が揺らぐ。昨晩の二人は恋人として同衾していた。触れた肌の熱さ、息遣い、匂い、全てが手に取るように思い出せる。
大事なものには丁寧に接する謝必安は、閨においても繊細極まりない手口で范無咎に接した。目だけは燃えるように爛々と輝いているのだが、けして自分の欲ばかりを優先させない。我慢に我慢を重ねて、一緒に音を奏でようと寄り添ってくれている。だからこそ、范無咎も応えたかったしたまには自分から引っ張りたかった。昨晩は琴の合奏をしている最中に気持ちが高ぶって、音で謝必安を誘ったのである。
男女が互いに歌を歌って紡ぎ合うものもあるが、音曲はまた別の味わいがあった。即興で奏でた音色に追いかけるようにして自分の音を混ぜ込み、引っ張り、追い抜かされ、引っ掻き回してじゃれつく。音は胸の鼓動に合わせて跳ねて早さを増し、とうとう范無咎の琴の弦が一本ビン、と断末魔の音を立てた。突如として静まり返った部屋の中で先に動いたのは范無咎で、謝必安の前に立って彼の琴を爪弾く。それで十分だった。
思えば謝必安の音は常よりも艶めいていたような気がする。ふふ、と笑ってあちらこちらに口付ける形の良い唇は旺盛な食欲を見せた。早く共になりたいと願ったのだが、わざとわからない振りまでする。言葉で強請るのはどうにも苦手だというのに、謝必安は閨では范無咎の口を開かせたがる。まるで何かを恐れるように。体を明け渡して全て委ねるだけでは物足りないと言うのだろうか?
「あなたが好きですよ、范無咎。どこにも行かないで、私を忘れないでくださいね」
「ぁっ、は、忘れるかよっ」
自分は死んでも良いくらいに謝必安を愛していると言った気がする。ありありと記憶が開陳されて、范無咎はぼんと頬を赤くした。なんということを朝から考えているのだ。思い出してはいけない。一日が全て崩れてしまう。腹の納まりが悪い。嗚呼。泣きそうに顔を歪めて嬉しい、と謝必安が言うからいけないのだ。馬鹿馬鹿しい、子供のようなやり取りがやけに真剣に響いたことを思い出し、范無咎はパン、と頬を叩いた。
調練は自分を無にしていく。槍を振るった後で隊列の確認を何度も終えた謝必安は、忍び寄る霧で冷えた汗を拭った。風はまだ春の匂いを残しているが、取り巻く緑は夏支度を終えつつある。良い季節だ、と清々しさに思わず頬が綻んだ。ようよう巡邏の時間になれば、また范無咎の顔を見ることができる。
昨晩は少々しつこくしてしまった。范無咎からの情熱的な求めが嬉しかったというのもあるが、前日に久々に嫌な夢を見たせいでもあった。忘れたいことは多いが、自分が経験してもいないというのに忘れたいなど奇妙な話である。嫌な夢はいつも一つの筋道を持つ。いつか、どこかで謝必安と范無咎は何度も巡り会い、すれ違った糸を撚り合わせて出会う。時代も何もかもが違うことは風景や装束、言葉端からも伺えた。それでも気持ちはいつでも一つで、謝必安は范無咎を、范無咎は謝必安を唯一無二として求め寄り添う。そしてーー二人は破滅を迎えるのだ。
ある時は王妃に見初められたが故に策謀に呑まれ、濡れ衣を着せられた謝必安を救おうとして范無咎は死んだ。親友が命を賭して潔白を証明したことに感謝せよとの恩赦をもらった絶望はとても忘れられない。こんなことならば自分の顔をずたずたに引き裂いてでも王妃の気をそらすべきだった。妙な高潔さなど何になろう。そうして謝必安は自刎した。
またある時は、商家の仕入れをごまかしたと嫌疑をかけられた范無咎が捕まった。ごまかしたのは、全て謝必安が貧しい人物に目溢しした結果である。事情を察して帳尻合わせをした范無咎は盗人として腕を切り落とされ、刑吏の使った刃の不潔さが元で命を落とした。謝必安は商家に火を放ち、慟哭しながら燃え盛る中で死んだ。膿で爛れた范無咎の茹でや、自分の身が焼け焦げた匂いは夢だというのに拭いきれない。
またある時は、ある時は、ある時は。様々な巡り合わせはいつでも至上の喜びと思いもよらぬ絶望を見せつける。喜びよりも絶望の方が種類が豊富ではないかと思えるほどで、謝必安は必ずと言って良いほどうなされた。この夢はどれも今でこそないが実際にあったことだと薄々感じている。謝必安は、どこまでいっても謝必安だった。范無咎もそうだろう。幸い彼はなにも覚えていない上に、夢も見ないらしい。せめてもの心の慰めだった。
望まぬ過去が蘇るたびに、謝必安は今の范無咎に今この瞬間の自分を求めてもらいたくなる。全て許して迎え入れると、慈愛を求めたくなるのだ。謝必安の腕の中で眠る范無咎の顔は少年のままだが、それにどれほど救われているか図り知れない。朝、惜しみながらも置いてきた姿を思い出して謝必安は眼差しを柔らかくした。今はまだ。まだ、自分たちは幸せでいられる。
「謝必安、巡邏に行くぞ」
「はい」
声かけに応じれば、朋輩と並んだ范無咎が小さく手を振っている。どこか顔が赤いのは、自分と同じように昨晩を反芻しているからだろうか。近づき、珍しくほつれた范無咎の髪を撫で付けて抑えると、さっと耳が赤く染まった。首筋に、自分が残した痕がちらりと覗く。気持ちの昂りを抑えると、謝必安は先に立って歩き始めた。
朝も、昼も、夜も、全てに思い出が詰まっている。いつか見た風景を重ねながら、范無咎はゴーン、と鳴る鐘の音を遠く聞いていた。夜回りはどうにも身を引き締めさせる。昔、自分が死んだ場所に近いからだとすれば無理からぬことだ。謝必安はさとっていないが、范無咎には忘れるということがない。
思い出さない方がいい、とは覚えているからこそ言えるのだ。何度でも巡り会い、何度でも別れよう。それでも尚、折に触れる喜びは愛しく、悲しみさえもこの身に降り積もることが嬉しい。首筋を撫でて、范無咎はぬるい風に目を細めた。謝必安の名残を身に留めていることは何よりのお守りになる。
今度はどんな思い出を作ろうか。昨晩の痴態をうっかり思い出して首を振ると、范無咎は現実に広がる闇を見回した。
〆.
あとがき>>
twitterで「#リプきたイラストや写真から妄想SSを送り返す」に、かどいちさんから昨晩の出来事を彷彿とさせる可愛い一コマを受け取ったので、積もり積もった思い出を振り返るような話です。かどいちさんの作品では、お互い自然と相手を思いやり、ついで補おうとするような比翼を彷彿とさせます。まず友人でもあり、恋人の顔も持つ、まさに唯一無二なんだなあと普段思っていることを詰め込みました。かどいちさん、素敵な作品をありがとうございました!
そして最後まで読んでくださり、ありがとうございます!