古都の雨
謝家の子息が狂ったそうだ。市中ではこのような噂がまことしやかに語られていた。市場の端で臓物の切れ端を集めている乞食までもが知るほどだから嘘ではなかろう。
「ほら、あれだよ」
「かわいそうにねえ」
などと指差す輩までいる始末だ。謝必安、謝家が期待を込めて一族を継ぐ者として大切に育てた男はしかし、その若さや華やかさを見る影も失って胡乱な歩みを見せている。生まれつき白く抜けるような肌はさらに透明度を増し、髪は雪のように白い束が混じるようになった。何より異様なのはその装束で、死者のように白い。そのくせ大事そうに握りしめている大きな傘は闇のように黒いので大層目立つ。歩き回ってなんとしよう。
何かを探しているような目つきは迷子のようだ。何を失ったのか?二つ向こうの大きな街からやってきたばかりの道士は首をひねるばかりであった。
「哀れな」
今日の仕事は大儀そうだった。
いつものように市中を彷徨っていたところ、家人たちに捕まえられ、無理矢理に邸に戻された謝必安はぐるぐるとまなこを巡らせた。こんなところで無駄な時間を使うつもりはなかった。自分の時間は全て范無咎に使わなければならない。彼はどこにいるのだろう?
「ああ、道士様!どうぞ一族の希望、我らの息子をお救いください。天師様は貴方にお頼みすればきっと快癒すると仰いました、今となっては貴方様だけが唯一の頼みなのです」
庭に連れてこられて椅子に縛り付けられる。そうでもしなければ謝必安がまたぞろ外に出かけると知っている家族の仕業だった。一族の希望?馬鹿にしないでほしい。自分が背負いたいのは一人だけ、自分を背負うのもただ一人だけだ。簡単な話ではないか?
そこそこ身分が高いらしく、綺麗な裁断のなされた装束を着た道士はどこか頼りなかった。先程市場で見かけたような気もする。范無咎、と尋ねたならば、その通りだという声が聞こえたように思った。コツコツと椅子の肘掛を指先で叩く。道士が着々と祭壇を支度し、家人にあれこれ指示出しをしている。ちょっとしたお祭り騒ぎで、范無咎はきっと楽しむだろうなと謝必安は小さく鼻を鳴らした。彼と話したいというのに、こんなところにいつまでいなければならないのだろう。今日も雨が降っている。待っている彼のためにも早くこの傘を持って行かなければ、風邪を引いてしまうではないか。
桃の木を削って作ったとかいう木剣を振り回す道士は笑い草だ。祝詞を唱えて何かの神に祈っている。用があるのは自分にではないのか?身を縛る縄をギシギシと言わせていると、不意に道士がこちらを向いた。驚くほどに青い目で、ほんの束の間謝必安の注意が逸れる。
「……この方には心がない。もう失われたものを呼び起こすことは難しいでしょう」
「何を仰いますか!必安はこの通りここにおりますとも!妙なものに取り憑かれているだけです、どうか、どうか見捨てないでくだされ」
道士の神妙な物言いに、謝必安は思わず笑い出したくなった。心!心があるからこんなにも苦しいのだ。心はいつでも范無咎のそばにある。あとは彼を見つけるだけだ、そうだろう?笑って縄を引きちぎろうと立ち上がりかけた瞬間、訥々と流れる道士の声に謝必安は再び動きを止めた。先程と言い、どうにもこの男は自分の注意を引く。
「心は既に飛び出して、遥か彼方に彷徨っておられる。身が追いつくのもそう遠くないことでしょう。この妄執を断ち切らんとすれば、関わる全てに災厄が降りかかる。諦めるのです」
そうして滔々と新しい世代を作ればよろしいなどとのたまうのだ。まさに青天の霹靂だった。自分は何を思っていたろう?この脚で、地を這いずる距離など高が知れている。目はこの頭の巡る程度にしか回せないし、耳も知れる範囲はこの市中すら覆えない。肉体なぞにこだわってなんとしよう。この傘さえ携えていけばそれで良い。范無咎だってお前は無茶だと言うかもしれないが、謝必安に出会えれば涙を流して喜ぶはずだ。なるほど、たまには胡散臭い手合いも役に立つ。道は示された。
謝家の痛ましい事件から数年後、道士はさる商人の家に招かれていた。なんでも怪事が起きてやまないそうである。商人が傘を買ったことにより始まったと聞くが、そんな面倒なものはさっさと封じて祀って放逐して仕舞えば良い。奇妙なものを集めるのが好きで、と自慢気に蒐集品を見せる通ぶった商人は道士の目に愚物に映った。何しろ概ね偽物で、商人の望むような物語を秘めたものなど見当たらなかったのである。
「この傘が夜になると騒ぎまして。近頃では傘を持った男が夜中になると家中徘徊する始末です。お陰でもう三人も下男が辞めてしまいました」
「なるほど」
そうして宝物のように取り出されたのが大きな黒い傘だった。さしもの道士にも見覚えがあり、ついで謝家の子息が縊死したことも思い出した。あの日、息子を助けてくれと頼まれて面と向かった時の謝必安の顔つきを思い出す。彼は狂人ではなかった。ただ目的に見合った方法を知らなかっただけであり、惑いを払うことこそが救いと信じたからこそ道士は行動したまでである。
「まだ迷うか」
ならば道を示さん、と道士は形ばかりの封印の儀を行ない、震える傘に丁寧に話しかけた。
「もうすぐ雨が降る。傘はさして行かれよ」
すでに探し物が見つかっていることは明白であり、同時に見つかることのないことを道士は見て取っていた。傘が、あれほど大きいと思われた傘がさして大きくなかったのである。これでは二人で入るには狭いだろう。なんという悲劇!しかし結末は変わらないのだ。ならばせめて、見つけた後に降った雨にはどうするかを教えても良いだろう。
さて、道士は傘に向かって話したが、商人の耳には我が事として届いたらしい。多額の謝礼を受け取り、宿で過ごしていた道士の耳に届いたのは、夜半過ぎの雨の中で件の商人が横死したとの珍事だった。
傘をさしていたはずがなく、物取りとも思われず、また奇妙にも外傷はない――
「こいつは予想外だな」
道士が行方をくらましたのは言うまでもない。そして傘もまた、行方知れずのままである。
〆.