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この街のために働く皆様に、深く感謝を捧げましょう


天に掛ける


 梯子をかけてほしい、という注文にミランは首を傾げた。一体何のために?一から新しく計画され作り上げられた石組みの街、ヤーナムの建物に梯子をかけるというのは景観を損ねる汚れをわざとつけるような所業に思われたのだ。恐れ多くも発注者はあの医療教会教区長ローレンスである。柔らかに流れる金髪が祝福された羊を思わせるローレンスは、噂に聞くような威圧感も美しさもなく、ただにこやかな書記官のように見えた。

梯子職人という、建物の添え具を作る立場上世間で目立つことのないミランが彼と顔を合わせるのはこれが初めてのことである。緊張せずに話せる雰囲気というものはありがたい。お付きの人間は到底そんな気持ちではないようだったが、ミランは素直に問うことにした。仕事を受けるにはまず何事も目的を知らねばならない。本当に求められているのは何なのか?

「どのような用途でお求めでしょうか?用向きによっては用意するものがまったく異なりますので、まずはお伺いしたく」
「誠実なことは美徳です。掛けて頂きたい場所は既に記しておきました。御覧なさい」
「ありがとうございます。では失礼」

ローレンスが背後に立つお付きのものに手振りすると、青白い顔をした女性が透明かと思われるほど透き通った指先でミランの作業台に地図を広げてみせた。ヤーナムの全体図である。これまでミランは頭の中にこそあれども、俯瞰して見るようなものを見たことは一度としてなかった。書店にも置いていないだろう。地図とは、世界そのものだ。他所の誰かが邪な気持ちで使えばこの楽園は地獄になるだろう。

 さて、地図である。広げられた詳細な地図を読みとり、ミランは自分が知らない場所が余りにも多いこと、そしてそれらも含めて梯子が必要とされる場所が余りにも多いことに驚いた。とりわけ厄介なのは高楼に外側から登るためのもので、明らかに建築当時には必要性を見いだされなかった場所だ。設置には多くの時間を要するだろう。自然と額に浮く汗を作業エプロンに入れたボロ布でふき取ると、ミランは白髪の入り混じった自分の頭を撫でて唸った。

「三年もあればできますね」

決めるのは自分だ、と託宣のごとくローレンスは静かに断言した。用意するのはこちら側なのだし、断るという選択肢もあるはずだ、とミランは思ったが自分の非を認めた。医療教会に逆らえるはずがないではないか。彼らに背けば街中から非難されるに決まっている。そうともなれば、再び田舎で飢餓に耐えるか都会でどぶさらいをするか、そんな悲惨な日々が待っていることは目に見えている。ミランは真っ当な背景を持たない。この檻の中でのみ人間らしく生きられるのだ。

「かしこまりました」
「どのような用途かと、言いましたね。実はここだけの話、ヤーナムでの繁栄を妬んで襲いに来る輩がいるという噂があるのです。ここは開かれた街だ。ですが、奪われるわけにもいきません。街の人々の安全を保つには避難する経路が必要です」

完全にではないが嘘だとミランは直感した。もっともらしい物言いをする類の人間が権威を持っている場合、どんな様子かをミランはよく知っている。官憲にはこういった類の人間が多かったし、判事はこれに加えてミランを汚物を見るような目で見ていた。ローレンスは羊の皮を脱がない。だがその向こうに何があるのかミランはわからなかったし、安全でいるためには知らない方がいいとわかっていた。

「貴方と同時に、仕掛け職人にも似たような場所で仕事を始めてもらっています。貴方方のお陰でこのヤーナムの平穏は保たれるのですよ。ありがたいことです」

本当に守りたいのは人だろうか。滲み出る脂汗を拭き取りながら、ミランは何度も頷いた。




「わからん方がいいだな!うん、うん、お前さんが言うんは俺もわかる。これぁなあ、きっとおっとろしいことが起きるのさ」
「だろうなあ」

仕掛け職人のジェホシュは見上げるほどに大きく、その体を作り上げるために頭に栄養が回りきらなかったのではないかと疑われる男だった。ローレンスが話していた通り、ミランは仕掛け職人と協力しながら働く場面がちらほらある。今日はミランが作った梯子をジェホシュが作った仕掛けで下に落とす仕組み作りだ。

 この作りでは、既に逃げた人間が閉ざされた方向に対して梯子を下ろす形になる。それはローレンスの言う外敵から人々を守ると言う意味では真逆の設計図だ。当然のように大声で疑問を述べ始めたジェホシュを、ミランはわからない方が良いと宥めたのが冒頭である。

内側から閉まる扉をいくつか作ったという話はまだわかる。籠城には必要だろう。だがそもそもこの街は籠城に不向きだ。現に備蓄庫と言えるものが少ない。そして何よりも籠城にふさわしい建物があまりなく、各種聖堂では到底人々を収納しきれないというのがミランの見立てだった。ではなんのために梯子は必要なのか。外敵から街を守るため?

あるいは、恐ろしいものを閉じ込めた街を救いに来る誰かのためでは?

 馬鹿げている、とミランは自分の想像を鼻で笑った。今時救世主じみた人物が到来するとは思えないし、いくら医療教会近隣が不気味だからといって何かがあるわけでもない。今日はあと二つ、梯子をかけねばならないのだ。明日も、明後日も、その後も。

「ノルベルト、あの昇降機づくりの兄さんなあ、昨日下水道でめっかったって聞いたでな。せっかく全部できたって喜んでたんに、かわいそうだよ」
「……ああ、本当にそうだな」

気のいい青年を思い出してミランは胸が痛んだ。自分の想像は間違っている。絶対にそうだ。自分は街のために、この街に暮らす全ての人のために汗水垂らして梯子をかけているのである。天にも届かんとするこの長梯子を、思いもよらぬ場所同士を繋ぐ仕掛け梯子を巡らせて、いつか使う誰かを支えているのだ。素晴らしい、いい仕事ではないか!そうだろう!

 与えられるべきは感謝であって、望まぬ形の慈悲ではない。そんな慈悲など与えられるくらいならば、どぶの中から星を探し出す日々に戻った方がまだましというものだ。額に汗が噴き出る。背中に視線を感じる。教会の服をまとった青白い顔の女と男がいつも対になってミラン達を監視していた。その目に対して安心しているそぶりを見せようとしーーミランは再び額に浮いた汗を拭った。陽が傾き、大木のような建物達が梯子を闇に閉じ込めないよう作業しなくてはならない。

これはヤーナムに必要なことなのだ。


〆.