こんなに馬鹿だと今知った
昨夜の私は馬鹿だった
他人であれば良かったのに、とクリーチャー・ピアソンは何度目かのため息を漏らした。どうしてドジを踏む時は確実に虎の尾を踏むようなことになるのだろう。些細な不運ならば埃を振り払う程度で済む。だが大波にさらわれたならば濡れずにはいられないではないか。左目に手をやり、眼球がまだそこにあることを手でも感じ取って、初めてクリーチャーは現実であると自分を処断した。自分の左目が偽物ならば、この現実は本物なのである。
面白いもので、夢の中で自分の目を意識することはそうない。違和感なく全ての視界が広がっているので、ああ自分の左目はまだ中身がある状態だったのだと認識される、その程度だ。あとは悪夢の中で、左目が溶けて腐臭を放ったり、中から蛆が這い出たりする。あの夢は二度と見たくはない。
現実逃避から戻り、クリーチャーはここがベッドの上であること、それも隣でぐっすりと深く眠っている人物の部屋であることも確認した。そのナワーブ・サベダーは、普段の厳しい砂地にさらされたような表情ではなく、あどけない幼子のような顔つきで寝こけている。自分が経営していた孤児院の子供達のことを思い出し、しばしクリーチャーの思考は蕩けた。可愛いな、と思うこの気持ちの出所を自分はよく知っている。だからこそ、彼であって欲しくはなかった。他の誰か、もしくは自分こそ他人であれば良かったのにとため息がこぼれてしまう。
そうっとシーツの隙間から抜け出すと、案の定自分は素っ裸だった。シーツが皮膚を擦れる具合でも、腰の痛みでも気づいていたのだが、可能であれば嘘であって欲しかった。全部悪夢でも構わないから、今すぐ現実を取り戻して昨日の夕べに戻って欲しい。間違いを犯す夜など来ないで、のどかな夕べにカーテンを引くのだ。ひんやりした床の感触にほんの少しだけ身を縮めさせると、衣服を少しずつ拾ってゆく。床に散らばった服はまるで迷子避けにと撒いた目印のパンくずのようにドアへと向かっていく。パンツ、ズボン、ベルト、シャツ、上着、靴、そして帽子。屈んで取る際に腹が蠢いてクリーチャーは思わず顔をしかめた。中身はないようだが、久方ぶりの行為に違和感は拭えない。素知らぬ体で服を身につけ、人間の顔をしてクリーチャーはそっと幻想の迷宮を出た。
廊下には朝が満ちている。この建物は本当に豪奢で、高価なガラスがはめ込まれた巨大な窓がずらりと並んでいるのだ。今は七時、八時という頃だろう。空腹を確認するように自分の薄い腹に手を這わすと、わずかに笑みがこぼれる。昨晩、この中には他人がいた。荒々しいまでに自分を蹂躙した動きに心はなかったけれども、嬉しく思う自分を賞賛せずにはいられない。愚か者め、自分にできる最善の取引をしたつもりか?そうとも。気持ちが良かったし、向こうだって気持ちが良かったんだ。クリーチャーはわざと存在が疑わしい自分の良心に鞭打った。血が流れ出れば、まだまだ自分が人間でいるような気がするのである。人間としてあることを、自分だけでなく世界に認められたような気が、するのだった。
食堂には行かずにまず自分の部屋に戻り、クリーチャーは一から昨夜の行動を再現するように服を脱ごうとして手を止める。いや、まずはそれより前を思い出そう。
「見ろ、またあいつら馬鹿をやってる。元気だな」
「あなたも大人なら止めなさいよ。それくらいできるでしょう?」
「私が?おいおいダイアー先生、冗談はよすんだ。私は逃げる方が専門さ」
「とんだ慈善家さんがいたこと」
昨晩の冒頭、クリーチャーは旧知のエミリー・ダイアーと並んで酒を飲んでいた。ポートワインにエールにビール、果ては秘蔵のウイスキーまでが解放された宴会は支離滅裂だった。久方ぶりの全員無事の完全勝利に浮かされたのか、誰かの誕生日だったのかはもう忘れてしまうほどの喧騒で、床で何人か寝こけていることからもわかりやすい。セルヴェ・ル・ロイのウサギにプレッツェルを与えようとしたウィリアム・エリスがたしなめられ、放り投げられたプレッツェルが頭にぶつかったカヴィン・アユソが立ち上がる。どちらももちろん酩酊状態で、カート・フランクとノートン・キャンベルが止めなければ乱闘になっていただろう。
飛び交うプレッツェルを巧みに避けてきた点ではエミリーも同罪だ。涼しい顔で啜る洒落たカクテルの出どころを聞けば、あのフレディ・ライリーだと言うのだから面白い。弁護士先生は暗号機だけではなく、カクテルシェイカーを振るのも得意か、とクリーチャーは口の中に広がるホップの香りに青々とした自然を感じ取った。乱痴気騒ぎの中に身を置くのは、慣れ親しんだ故郷にいるようで寛げる。どんなに疲れた男でも、一日の最後をパブで過ごす時には笑顔が溢れ出るし、一杯のエールを呷るためにゴブレットを握る力だけは残しておくものだ。要するにそれだけ気が抜けているので、クリーチャーにとっては本当に稼ぎがない日のあてにできたのであった。どんなものでも、ないよりはましだ、そういうものだろう?
「そうそう、あんたの脚って最高だもんね」
妙な合いの手と共にひゅん、と何かが飛んできて壁に刺さる。どうやら乱闘の巻き添えになったらしい。エミリーがカクテルのおかわりを手にするべく席を立つのを視界の端に映しながら、クリーチャーはとんだ届け物に手を差し伸べた。もどかしい手つきで肘当てを解除し、ありがとう、と笑う青年はナワーブその人だった。
「あんまり俺を褒めるなよ。君を好きになる」
「好きになってくれて全然構わないんだけど」
「……笑わせるなよ?」
「笑わせてないって」
「ぷ」
「くっ」
目を見つめあってゲラゲラ笑った二人は間違いなく酔っていた。肩をバンバンと叩き合い、一体何がおかしいのか定まらないままに更に飲んだ。酔った高揚感と胸の高鳴りは比例して高みへ登っていく。少なくとも、その時のクリーチャーはそう思っていた。あまりにも顔が近すぎて、ナワーブの額に口付けてやったのだってただのからかいの延長である。口付けた後で何故だか胸が苦しくなって、ナワーブのまん丸に開かれた瞳から目をそらした。
「なんだよ、お気に召さなかったか?」
「いや」
酔っ払って、呂律の回らぬ調子でナワーブはクリーチャーの顎に手をかけた。もっとやってみせてくれよ、ダーリン。馬鹿だった。またひとしきりゲラゲラ笑いあって、二人は自然に立ち上がった。足元がおぼつかないながらもがなり声で歌を歌い、ナワーブが歌う故郷の歌の奇妙な響きに身を任せた。ナワーブの部屋の扉を開いて、おやすみなさいを言う前に腰に手が回った、と思う。それとも自分がナワーブの腹を触ったろうか。筋肉質の、自分よりも確りと固い腹部の感触はよく覚えている。
クリーチャーの貞操観念は、病気にならず、不幸な子供を作らないならば良いという非常に軽い代物で、要するに面倒ごと以外の気持ち良さは大歓迎なのだった。まだ一人で掏摸やかっぱらいをやっていた頃は、懐も身も寂しい仲間内でなんやかやあったものである。あれはただ温もりを求めただけで、気持ちは別にどうでもよかった。やっていれば激情に頭の中は真っ白になる。起きた時には笑いあってはい、さようならだ。男か女か、それは些細な問題で、クリーチャーは柔軟に受け入れてきている。
荘園にやって来てからというもの、その手のことはとんとご無沙汰で、一人で稀に悶々とするあまりに自慰をするくらいである。物足りなさは否めなかった。ただ、メンバーが固定されている都合上、いざこざを起こしたくはないという気持ちがその場しのぎの快楽を得るという欲望に優っていたのである。アルコールとちょっとしたスパイスは、この踏み外した人生を歩くクリーチャーの足下からいとも簡単に床板を引き抜いた。
帽子を脱ぎ、上着を脱いで、少し腕が引っかかったような気がする。それも面白くて笑っているナワーブをたしなめるべくフードを引っ張ったらフードの中に誘われて深く口づけされた。このかさついた唇に?上着を床に捨てて、クリーチャーは鏡の前に立った。ちょうど全身が映る、曇ってはいるものの悪くはない鏡だ。恐る恐る唇に指を這わせ、間違いなく自分のものだと確認する。薄くて、かさついて、なんの手入れもされてない。これまでだって何遍も誰かと口づけあったはずなのに、一度だって意識せずに使ってきた唇が熱い。ナワーブの舌は分厚くて、少し短いものだからクリーチャーの方が舌を伸ばして遊んでやったものだ。アルコールやローストビーフ、プレッツェルとも違う味わいに、もっともっととはしたなく強請った。
「あんたもなかなか好き者だね」
「君もな」
笑いあって噛み付いて、耳の裏をくすぐられてから、ネクタイを解かれたのはいつごろだろう?もどかしい手つきでズボンからシャツを引っ張り出される頃には随分息が荒かった。自分の髪の毛に触れて、ナワーブの手つきを思い出そうとして虚しさに胸が押しつぶされそうになる。あの時、ナワーブは抱いても良いか、と目だけで問うていた。クリーチャーは彼の腕を撫でて承諾の意を伝えた。いや、今ならばわかるが、触れ合った時からそうされたいと願っていたのである。
シャツを脱ぎ、ベルトもズボンも降ろしてしまって、ひょろりとした自分の体は何ともみすぼらしいとクリーチャーは既視感を探った。くたびれた鶏にも似た痩せ具合だ。噛み締めたって良い味は出ない。それをあの男は美味しそうに食べたのだ、鏡を見れば答えがわかる。曇っていても、鏡面にはクリーチャーの皮膚に散らばる星のような数の吸い痕と噛み痕を映し出していた。まだ風呂に入っていなかったと思うと笑みが浮かぶ。
この体を這い回った、自分よりも分厚い手のひらは豆だらけで、一つ一つが過去の重みを引きずっている。硬い殻を剥くように彼の話を聞きたかった。気持ちの良いことに関係のない、ナワーブの存在を感じたかった。こんな気持ちは初めてで、こんな自分は馬鹿だった。ナワーブの真似をして自分の体を撫で回し、つねったりするうちに腹の中がじんわりと熱を持ち始める。何かをもう一度追体験しようとする試みは、鏡の前で自分の醜態を目の当たりにしていることも手伝ってひどく興奮させた。内腿を触り、中年男性らしくすね毛も確りと生えた脚をナワーブは愛しいものにするように頬ずりしていたものである。思い出すだけで背筋が震え、クリーチャーはパンツも床に落とした。ぱさりと床に落ちた音と同時に、自分の抱えていた傲慢さも抜け落ちてひどく心もとない。
「あんたの脚って、本当に最高」
「ちゃんと目が見えているか、酔っ払い。おっさんの脚だぞ」
「見えてるって。これで走ってるんだもんな」
心臓がばくばくと激しい音を立てている。細切れの記憶が悔しい。どうして全部思い出せないのだろう。次なんてものはきっと来ない、酔っ払い同士の気まずい朝しか残っていない中でかけらを拾い集める作業は心が痛んだ。それでも浅ましく勃起した陰茎を慰めて、クリーチャーは愚かな自分を踏みにじった。呼吸がどんどん浅くなり、深くため息をつくと同時に鏡に体液をぶちまける。鏡の中の自分を犯している気分は滑稽で、クリーチャーは精液の薄さと、久方ぶりに拾った快感を思い出してきゅんきゅんと収縮する尻穴に舌打ちした。
どんなに自分を嘲笑っても、馬鹿である事実は変えられない。クリーチャーは流石にものを知っているからわかる。これはーーこの愚かさは、恋だった。
なんて自分は間抜けだろう。目覚めて失った温もりに、ナワーブ・サベダーは冷や汗をかいた。めくるめくピンク色の夢を見ていた気がするし、それは現実の延長線上である証拠に体はひどくすっきりとしている。昨日は何もかもが夢のようだった。好いた相手にいたずらを仕掛けられて、勢い余って突貫工事をやりおおせたのである。完全に暴走してしまった結果で、今まで何度か頭の中で練っていた戦術は全て水泡に帰した。散々相談をしたイライにため息をつかれることが容易に想像される。否、相談を仕掛けた時点で彼は言っていたではないかーー格好つけようとすればするほど無様になる、と。
「何でだよ」
「大概、恋は人を愚かにするものですからね。さっさと告白して二度と僕に相談しないでください」
「できるわけないだろう!」
多くの人間が不思議に思うだろうが、ナワーブはクリーチャーの脚が好きである。女性の体のどこが好きかと聞かれたならば間違いなく脚と答えるナワーブが、たまさか見てしまったのがクリーチャーの脚であり、女性と見まごう細い脚がひらりひらりとゲームの最中動くたびに目を奪われているのだった。他の女性の脚を見てもここまで心を動かされることはない。そこから細腰であることも好みであり、自分に対して兄貴分と父親分の間の子のような態度をとるところも好みで、勝利を得るべく身を捨ててでも最後まで粘り抜く雄姿に文字通り痺れたのだ。断じてパトリシア・ドーヴァルに呪いをかけられたわけでもない。これは恋である。あれこれ悩んでいる時間が惜しいナワーブはすぐさま結論づけた。
エマ・ウッズに対する病的な執着と暴力はナワーブに嫌悪感と哀れみを催したが、恋の火種を燻らせるほどには水を差さなかった。そんなものは軌道修正すれば良い。盗癖は彼の気をひくための良い材料にもなる。付き合ったら、彼の全てを欲しい。貪欲なクリーチャーのことだから、彼もナワーブを欲して欲しいと願うが、それはゆっくりと進行すれば十分だ。だからなんとかもっと親密になりたいと、接触を増やしに増やし続けていたのだがーー昨夜はすっかり抜け落ちてしまったのである。
「やっちゃったなあ」
彼の体を暴いた、思い出すだけで元気になってしまう出来事をなるべく丁寧に思い出したが、ナワーブは肝心なことを一切伝えていない。多分、同意は得た上での行為だったのだけれども、これではただ行きずりに遊んだようではないか。もっと大事にしたかったと手を拱いていた素面の自分はどこに行っていたのだろう。ああ、良い脚だった。クリーチャーが事故だと片付けて、全部なかったことにされても困りものだし、気持ち良くなかったことをただ許されて終わるのも嫌である。あまつさえ、嫌われるなどされたくはなかった。絶対にごめんこうむる。
手の中に残る、クリーチャーの汗ばんだ肌をなぞった感触を反芻してナワーブはベッドから起き上がった。シャワーでも浴びなければ身に纏った夜を拭えそうにない。今頃クリーチャーは食堂に行っただろうか。壁掛け時計を見やればもう九時を回っている。今日のゲームの予定を振り返り、夕方一回あるということだけを思い出した。つまり猶予はあるわけで、朝食と昼食をごたまぜにしようとも好きにして良いだろう。面白いことに、いつでも自由にとれる軽食の類は厨房に満ち満ちていた。一部はバタービスケットにドロップスコーン、ブリオッシュにジャム各種、ナッツにドライフルーツにとやりようはいくらでもある。運が良ければ、クリーチャーが焼いたラズベリーパイやコーンブレッドが置かれているかもしれない。今日は作るどころではないかもしれないな、と苦笑してシャワー室の扉を開け、ナワーブはしばし固まった。
「……や、やあおはよう、サベダー君」
「お、おおおはようピアソンさん」
またやってしまった。クリーチャーの細い姿を目の当たりにし、平静でいられないばかりか吃音まで出るだなんて!吃音はクリーチャーの特権のはずだったのに、これでは臆病なチキンと嘲笑われても仕方がない。ぶるぶるする頬に力を込めると、ナワーブは想像と現実の差異に再び失望した。あまりの情けなさに目線を下に落とすと、クリーチャーの細い脚が目に入る。誰もいないだろうと踏んで、腰にタオルを巻いたままの姿なのだ。当然のように自分が昨晩つけられるだけつけようと固執してつけた痕が散らばっている。タオルの中へと視線を移動させたくなるのをなんとか堪えると、ナワーブはクリーチャーの顔を見ーー滲んだ笑みに見惚れた。
「昨夜はお互い随分酔っ払ってたからな。気にするなよ」
「気にするよ」
だってあなたが好きだから。言うならば今しかないというのに、そのセリフはついぞ口から出なかった。クリーチャーがふうん、と意味ありげな音を漏らして片足を上げて壁にぺたりと足裏をつけたのである。タオルが少し解け、太ももまでの稜線が綺麗に顕になった。ごくりと喉が鳴り、ナワーブの目はすっかり釘付けされている。なんてこった、最高の光景じゃないか!いやよだれを垂らしている場合じゃない、と叱咤するも中々行動に移せない。その上昨晩のことをありありと思い出して劣情まで催し始めている。
「はは、君は本当に私の脚が好きらしいな」
「大好きです」
生真面目に即答しながら嘆き、ナワーブは神の裾布に触れる信者のような震えた手でクリーチャーの脚に手を伸ばした。途端、それはするりと抜け出して元の位置に収まる。ううと唸るナワーブに、クリーチャーはゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。悪魔だ。人の気も知らないで、どうして自分をからかうのだろう。目の端から涙をこぼすほどに笑って、クリーチャーは良いぜ、とくだけた口調で罪を許した。
「君が望むなら、私の脚くらい貸してやるよ。気が向いた時だけにな」
「脚以外は貸してくれないの」
本当は、借りるのではなく貰い受けたかった。ゆっくりと近づいてタオルの裾から手を入れる。洗い立ての肌もまた違って良い。何より石鹸の匂いがするクリーチャーというのもそそる。肩口に顔を埋めて香りを楽しみ、かがんで額と額を当ててもクリーチャーは身じろぎもしなかった。感情を映し出すはずの生きた右目は何も揺らがない。まだ溢れている涙を舐めとって、ナワーブはやっぱり自分は馬鹿だったとしみじみと噛み締めた。泣いた痕が乾いて、それでもさめざめと流される涙は雨でなければその心からふり絞られた情に決まっている。
「ピアソンさん、ごめん」
「何をだ?昨夜のことなら私は別に」
「違うんだ。昨夜が合意だったらそりゃ嬉しいけど、俺は何も言ってなくて、その」
見る間に強張るクリーチャーの顔に、ナワーブは慌ててクリーチャーを力一杯抱きしめた。湯で温まったはずの体はすっかり冷えていて、少しでも温めたいと撫で摩る。昨夜、手に滑ったのは二人の汗だったが、今は自分の冷や汗ばかりが流れている。格好つけようとするんじゃない。格好つけて滑り落ちていく間抜けさとは縁を切るのだ。
「俺はあんたが好きだ。好きなのに、何も言わないでこんなことをして、その、ごめん」
「……君が?私を?」
「他の誰でもなくあんただよ。あんたしかいないんだ」
唇の端に口付けると、クリーチャーが深く息を吸う。海の音にも似た呼吸が繰り返される間、ナワーブはただ待った。この手を振り払われない限りは許されている。冷えたクリーチャーの背中に、少しずつ温度が戻ってきた。見れば彼の耳はすっかり赤い。
「私は、馬鹿だ」
「なんでそんな話になるの?ここは断るか悩むか全力で迎えてくれるかのどれかでしょ。ピアソンさんを悩ませたのもその……疲れさせたのも俺だし」
「君は正直だなあ」
だから困るんだ、とクリーチャーはナワーブの胸板に顔を埋めた。昨夜甘えてきた猫のような仕草に心臓が高鳴り、ナワーブは懸命に理性を働かせた。ここはどちらかと言えば格好つけなければならない。欲望のままに行動したのでは昨夜の再現をするだけで、どうして前に進めよう。けれども答えは見当たらず、ナワーブは俺も馬鹿だよ、とだけなんとか言うにとどめた。
「あんたといるのが楽しすぎて、言うのを忘れてた。ずっとこうしたかったんだよ、俺。あんたの脚に一目惚れしたのは事実だけどさ。昨夜のあんたがあんまり可愛いから、つい」
「そりゃ馬鹿だな」
くくっと笑ってクリーチャーが顔を上げた。また泣いている、とナワーブは濡れもしないクリーチャーの頬を手のひらでなぞった。この人はそう簡単に泣くまいとしている。ただ、ためこんでためこんで、どうにも溢れてしまった時に涙が溢れるのだ。どうしてそうなったのかは与り知らぬ彼の過去に拠るのだろうが、ナワーブは彼の涙を、泣きたい気持ちの涙を全部見たいと願った。ちゅ、ちゅ、と慰めるように口付けるとクリーチャーが笑う。天気雨のような表情にナワーブは馬鹿だなあと穏やかな心地で幸せになった。
「君が私の体目当てと思うほど馬鹿じゃない。脚が好きなのはなんでか知らんが、でも、その方が余程説明できると思ったよ。どうして俺は君を好きなんだろうな」
「……そういう時はさ、もっと喜ぶものだと思うな」
喜びではちきれそうになりながら、ナワーブはクリーチャーを抱え上げた。シャワー室の窓辺はちょうどよく腰掛けられる広さで、クリーチャーを浅く座らせるとナワーブは本格的に深く口付けた。シャワーからぽたりぽたりと水滴が落ちる音に混ざる唇が柔らかく吸い付く音が心地良い。ずり落ちるのを恐れてか、背中に回されたクリーチャーの腕が一層すがりつくように這う。情熱的な触れ合いを、昨夜はアルコールに騙されたせいかと思っていたが、違うことは今や明らかだった。この可愛い軟体動物は自分を好いている。どうして好きかもわからずに戸惑う愚かさをナワーブは心の底から愛しいと思った。
「もっと好きになってよ、ピアソンさん。わからなくなって俺だけ、俺のことだけ考えて」
「は、そいつはちょっとがめつすぎやしないか?」
「うんって言うまでやめないからね」
馬鹿、というセリフは聞き飽きたので封じ込めた。二人とも馬鹿で良い。昨夜の自分は馬鹿だった、目の前の愛が見えずにずたずたにした。昨夜の彼は馬鹿だった、自分の愛なぞ知らずにぐちゃぐちゃにした。だから今から素面で馬鹿を始めようと思う。やり直しだ、全部、全部、全部。クリーチャーがくたびれた人形のような緩い笑いを浮かべて、ナワーブの服を脱がす。陽光はさんさんとクリーチャーの背後から照り、奇妙にも厳かな光景が垣間見えていた。
それは愚か者が見た奇跡なのかもしれない。
〆.
あとがき>>
そうだエロを書こう。何度目かのチャレンジはまたも津波に押し流されていったのであった……なんでだ?うっかり一夜のその後の話を書くのが好きです。ふざけあう少年のようなノリで事故に陥る中で、うっかり真実に触れてしまったら、経験を積み重ねてきた分だけ恐れても良いなあと思いながら書いていました。自分の愚かさを何度なぞっても慣れることはなくて、別の愚かさでしか覆せないという痛々しさは、一緒に泥だらけになる人がいたら少しは救いのようにも思います。書いていると傭兵がどんどん大人になっていっているのは、泥棒の幼稚さに触れて大人になろうと胸を突かれたからだと解釈していただければ幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!