忘れ捨て去り、置いていく。
この世の中には、不都合なことが多い。ウィラ・ナイエルはちらりと暗号機の向こう側を見やって調整を完了させた。始めたては勝手がわからずしくじっては忘れ、しくじっては忘れを繰り返したものだが体はどうにか覚えてくれたらしい。今では耳だけで判断することも可能だ。視界の向こうではジョーカーがマルガレータ・ツェレを追い回している。彼らはこの荘園に来るよりも前に知り合いだったと聞くが、どうして殺し合い寸前のような遊びに興じているのか不可解だ。
もし、彼らに全てを放り出させたら少しは平和になるだろうか。返す返すも世の中は不公平で不都合だ。才能の有無も見る目がなければ意味がなく、呼ばれなければ名前はないも同じである。ウィラはウィラでなくとも良い。誰もウィラを定義せずに忘れたならば、誰かがウィラになるだろう。ウィラは本気でそう思っている。自分程度でできたのだ、きっと誰かもやりおおせるに違いない。
不都合なものに頭を悩ませるくらいなら、その原因は取り除くべきだ。取り除けないならばいっそ忘れた方がいい。変わらないもの、変えられないものは確かにある。見る目見ない目、そのどちらも騙すことでしかウィラは生き延びられなかった。一台の解読が終わり、残りの暗号機はあと一台。初っ端ヘレナ・アダムズが捕まってどうなることかと慌てたが、マルガレータのことを覚えているのかジョーカーが俄然標的を絞ったのでなんとか首の皮一枚がつながりそうだ。もう一人のメンバーであるエミリー・ダイアーも上手く立ち回ってくれている。走り出して最後の一台となるかもしれない暗号機を探す。月の河公園はだだっ広くて面倒だ。ジョーカーが唸りを上げて走り去るのが小さく遠くに映る。
オルゴールが尽きたマルガレータの踊りは痛々しくて不恰好に見える。糸の切れたマリオネットが無理矢理動こうとしている、そんな哀れさを誘う。本来は勝気なところもあるマルガレータとジョーカーは、一体どんな歪みを抱えているのだろう。
「あら、ようやく会えたわね」
「お疲れ様」
メリーゴーランドの横にある暗号機に近寄ると、エミリーが既に手をつけ始めていた。彼女も何かを隠している、とウィラは密やかに思う。自分の本当の顔は、もう自分でさえも忘れてしまったので誰もわからないが、エミリーは何故か元の自分を大事にしようとしている節がある。不都合なものを抱えているくせに、嘘で隠し続けるとは疲れてしまいそうだ。
「ねえエミリー、治せない怪我や傷を見たら、あなたはどうするの?」
「変なことを聞くのね」
バンバン、とアンテナを弄って安定させると、エミリーは首を傾げた。婉然とした眼差しの向こうに猜疑心がちらつく。
「治せないとは言わないわね。いつか治せると言うの。信じるか信じないかは患者さんの勝手だけれど、少なくとも私は真剣にそう考えているわ」
「……それって残酷じゃないかしら」
信じ続けることの過酷さをこの人は知っているだろうか。忘れた方が楽であることを。あの軽やかに舞い上がるような心地を。
「良いのよ。私はそれが仕事で、天分で、好きなことだから。私はね……そんな私が好きなの。あなたはどう?そうね、あなたはきっと忘れられるわね」
「あなたも忘れたいことがあったら、いつでも言ってちょうだい、アッ」
不意に短刀で刺されたような驚きが走り、ウィラはバチンと調整を失敗してしまった。無駄話などするものではない。マルガレータがとうとう吊られ、ジョーカーが唸りを上げてこちらに向かってくるのが見える。エミリーに頷いて見せると、ウィラは散歩に出かけるような優雅さで広場に出た。
「嫌なことは全部忘れれば良いのよ」
痛みも、悲しみも、切なさも、辛さも。その思いを乗り越えた先の喜びもなくなってしまてば何でもない。香りの園に全てを引き込みながらウィラは走り出す。大事なことはひとつだけ、残りは全部捨てても良い。
殴られた過去のウィラに手を振ると、ウィラはイバラを解き放った。
〆.