Mais tu t’apercevrais que je reste pareil.
虚栄
思ったものと違う時、人はそれを嘘と呼ぶ。笑いたいほど人は単純であどけないからだ。わかりやすいものが好きだし、わかりにくいものを無理やり理解するために認知だって歪めてしまう。己の過ちを正当化するために他に押し付けることこそが嘘と言うべきだろう。帽子の中にウサギがいると、一体誰が言った?
パリッとしたシャツに皺一つないスーツ、仕立てた布が良いものであるかどうかはわかる人間だけにわかる符丁だ。たったそれだけで懐の中身も確認せずにツケが許されるのは痛快至極である。クリーチャー・ピアソンは人間の中に残る幼さと遊ぶことを好んだ。戦争による混乱期を乗り越えた人々は肩で息をするのがせいぜいで、何もかもから辛さを忘れたいように見える。辛さを正面から受け止めて抱え続けることは難しい。だからこそ、辛いことから目を逸らしてくれなかったことには強く指弾する。
「虫が良すぎる」
吐き捨てながらクリーチャーは鏡の前に立つ自分をせせら笑った。ここは荘園で、自分には人々に良い夢を見せてやっていた面影は少しもない。だからこそ、先ほどまで見ていた夢はクリーチャーをひどく疲れさせていた。慈善家としてサロンに出入りしていた頃、華やかで嘘だらけの腹の探り合いに化かし合い、偽りの優しさ、本物だと信じたかった全てのくだらないものたちの思い出は、自分を踏みにじって手に入れた事実も相俟って愛しさを覚える。小さな子供達のボロボロの手は涙が出るほど嬉しく、奪われた事実に舌打ちせずにはいられない。
結局、自分は何も手にすることができなかった。だが失ったのは今に始まったことではなく、再び奪い、盗み、掠め取り、乗り越えて自分の道を照らし出して来たのである。きっと今回もどうにかできる、それも前よりももっとうまくできるはずだ。何しろ全部失った自分には何も失うものがない。向こう見ずな若気の至りではないが、クリーチャーは自分の人生を掌の上で転がして首を傾げた。本当に?
失ったものは、別のものを手に入れて補おうとしても失ったままであることはよくよく承知している。帽子の角度を直し、失って久しい左目をむき出しにする。違和感があるのならば、違和感がある方を前面に出しておけばそれが当たり前になる。人は思い込んだものを”当たり前”と呼ぶのだ、自分にとっても都合のいい夢を見せてやろうではないか。虚栄の市場が陳列されている。食堂に出れば一層明らかだ。整えられた美しく豪奢なしつらえに収まる駒達は箱の中でごちゃごちゃになっている。嘘つき、隠し事、偽物、なんでもありで、その中で手に手を取って一つの目標ーー勝利を目指しているというのは感動すら覚える。
「ちょうどお昼ができた頃よ。いい時に来たわね」
扉を開けて様子を伺っていたクリーチャーを目ざとく発見したのは旧知のエミリー・ダイアーである。彼女はエマ・ウッズを守らねばならないという(実に馬鹿げている、エマは誰かが幸せにできれば良いのであって、それはクリーチャーであっても問題はないはずだ)使命の下にクリーチャーの気配に目ざとい。お互いの虚栄の仮面を取り去った姿を知っている彼女との毒のあるやりとりは奇妙なほどにクリーチャーの心を穏やかにさせてくれる。いがみ合う部分があっても、気心が知れているということかもしれない。
「手伝いに来るには少し遅かったか」
「軽いものだからいいのよ」
「今日の担当はカヴィンか。何が出るんだ?」
「期待しておけよ、伝統的なカウボーイの料理だぜ」
カヴィン・アユソが鍋を調理場から捧げ持ってやってくる。後ろからアヒルの子供よろしく皿を抱えたウィリアム・エリスとトレイシー・レズニックが付いてきて、どんどんと食卓に重みのある料理が置かれた。カヴィンが置いた鍋の中身は香辛料の効いた真っ赤な食べ物で、地獄のようなスープの中に大ぶりな肉の塊がぶつぎりで入っている。チリコンカーンという料理であることをカヴィンは昔の思い出を懐かしむような目つきで説明した。
「牛を草原の中で移動させていく途中で食べるのさ。簡単だし、体もあったまるからな」
ウィリアムが置いたのはコーンブレッドで、粗めに挽かれたトウモロコシの黄色が太陽のように眩しい。トレイシーが置いたローストした野菜はローズマリーの香りがついており、植物の力強い野生が解放された姿はなんとも食欲を誘った。食後にはカウボーイ式のローストコーヒーまであるらしい。簡単だがしかし滋味深い料理の数々に、クリーチャーは目を細めた。路頭に迷っていた時に、通りから見かけた家の灯に出くわしたような思いが広がる。慈善家らしい行動として、皿によそうのを手伝いながらクリーチャーは不意に差し込んだ痛みのようなものを無視した。
表情を切り替えて次々に皿を手渡していく。フレディ・ライリーの番の時にはわざと皿を引っ込めてみたり、エマには恭しく女王に対するように差し出してみたりと持分のままの姿で対応する。どれも心の底から正直な行動だがしかし、実に空虚だった。この瞬間全てが嘘だとわかっている。自分の手足はまるで他人が操る人形のようで、本当はどこへいるべきかすらわからない。だから全部欲しいのだ。クリーチャーは全てを出し抜くまではそれで良いとずっと思っていた。出し抜いて正解を手にしたならば、この虚栄も空虚も全部捨てよう。きっと清々しい思いになるに違いない、だから演技を続けようと決めていたのだーー彼がくるまでは。
「どうぞ。多めにしといたぞ」
「ありがと。……辛そうだな」
ナワーブ・サベダーに皿を手渡しながら、クリーチャーは自分が慈善家らしく振舞えていることを願った。硬く、大きな掌に皿を渡しながら何か返すものの、いつだって半分くらいは意識がない。ナワーブを前にする時はいつも以上に虚栄が厚みを増してゆく。本来の自分から遠ざかるごとにクリーチャーは機械的になってしまうのだ。要するにかっこつけたいんだろうと我ながら思う。この荘園の古株であり、人助けをすることを信条とする役に立つ気の回る男ーーそれがクリーチャーが被りたい仮面である。ただゲームを有利に進めるために仲良しごっこをしようというのでもなく、腹の探り合いのためでもなく、クリーチャーは自分がこの仮面のままであって欲しいと思い始めていた。
ナワーブが去っていく。特段問題のない様子なので、自分は当たり障りなく接することに成功したのだろう。成功しても実感がないとは寂しいが、失敗するよりもよほど良い。手に入れもしないものを失うとは言わないが、可能性は確かに消え失せる。クリーチャー・ピアソンには欲しいものがあった。賞金と同じくらいに、ナワーブ・サベダーという男の憧憬という、虚栄を。
始まりはよく覚えていない。ただ、クリーチャーが虚栄の徒として新参者のナワーブを指導しているうちに、自分が”善い人間”になりきれたような気がしたことはきっかけの一つと言って良いだろう。傭兵上がりの青年に、わずかながらも恐怖を覚えたこともあったーー何しろ人を殺すことなんてなんとも思っちゃいない!手段の一つに過ぎないのだし、手練れでもあれば当たり前のことだーーことによる吊り橋効果と人は呼ぶかも知れない。自分に懐いたナワーブの浮かべた笑みが、無垢な孤児院の子供達と重なったのかも知れない。思い当たることは多過ぎて、クリーチャーは自分がはまった泥沼の深さを思いやってため息をついた。
エマに対するように、幸せにしてやらねばという義務感はない。ナワーブにはあの笑顔をずっと見ていたい、ずっと自分を善い人間だと思って欲しいという情けない感情だけがほとばしっている。エミリーにばれたならば貴方も焼きが回ったのね、などと言うだろう。この感情をなんと呼ぶかは不明だが、クリーチャーは嘘が欲しくなってしまったのだ。嘘が愛され続けるという虚栄の舞台を上演し続ける。観客に望むのはただ一人だけだ。もちろん、この荘園にいる間だけの期間限定なのはよくよく理解している。
昼食は、凄絶に辛いチリコンカーンを次回は煮豆で中和させようとイソップ・カールが涙目で提案し、カヴィンは豆を入れるのは真のカウボーイにとって邪道だと譲らなかったため熱い議論へと発展した。荘園の憩いの時間と言えば一に食事、二に催事なのだから当然真剣そのものである。ローストコーヒーをすすりながらコーヒー豆を使ったチョコを食べると気分は荒野に座るカウボーイだ。カウボーイのことは何も知らなくとも、そんな旅情を抱かせてくれる良い食事で、クリーチャーは素直に満足した。
「ピアソンさん、俺午後暇なんだけど。なんか手伝うことある?」
「へ?」
ポリリとチョコをつまむことに専念していた頭は起動に失敗し、クリーチャーは間抜けな声で対応した。左側から現れたので反応が遅れたらしい。見ればナワーブが少し心配そうな顔で大丈夫、などと言っている。いや、とから返事をするのが精一杯だった。
「別に困ってはいない、から、え、エミリーでも助けると良い。確か消耗品の期限を確認すると言っていたと思う」
「それってピアソンさんも手伝うやつ?」
「いや、私は食料品の棚卸しだな」
クリーチャーは経験上生活にまつわる数字には強い。このため、食料消費の見込みを立てた上で荘園の主人に仕入れを依頼する役割を担っていた。食料品は食べて消えるものだから、クリーチャーのいたずらな指が悪い癖を出しにくいというエミリーの判断にもよる。フレディとエマは調度品やボイラーなどの確認を定期的に行なっており、荘園に最初期から在籍する四人による習い性だった。多分、この四人が無事である限り誰かに譲ることはないだろう。
持ち回りは掃除・洗濯・炊事の3点で、他は各人の自由に任せられている。とは言えクリーチャーは手が空いている限り、空虚さを埋めるように他人を手伝うことも多かった。嘘を薄く日伸ばして継ぎ足して、明日も見せたい、なりたい自分でいるために。どこかでナワーブが見るとも限らない。だれずにいようとした結果は、存外荘園の仲間たちからも好評でまずまずの首尾と言えた。
ではナワーブはどう過ごしているのか、というと今の所はまるきり把握していない。やろうと思えば彼の部屋に忍び込んで日記を盗み見ることもできるのだが、バレてしまった時の代償が大きすぎる。多分ウィリアムあたりと走り回るなり、道具の手入れをするなりなんなりやっているのだろう。ナワーブの羨望や憧憬といったものは欲しい。とは言え悲しいことに、彼を誘って何ができるかをクリーチャーはわからずにいた。飲んだり食べたりはするし、彼の話は聞くが、自分から出てくるのはぼろばかりなので牡蠣の殻のようにぴたりと閉じてしまう。これが相手がセルヴェ・ル・ロイやカート・フランクならばなんの遠慮もせずにバックギャモンでも始めていかさまカードで一日を締めくくれるだろう。そんな慈善家らしからぬ醜態を見せるわけにはいかなかった。
「じゃ、ピアソンさんの棚卸しを手伝わせてよ」
「……どういう風の吹き回しなんだ?まさか君まで慈善家になるなんて言うんじゃないだろうな」
「正解」
にっと笑うと、横に引っ張られたナワーブの唇の端が思い切り縒れる。縫い目の歪みさえも温かみを覚えて、クリーチャーは眩しさから目をそらすように右のほうへと目を漂わせた。左の目はナワーブを見ているように見せかけられているーーだが心と同じで、見えている目は逃げおおせる。自分自身からも逃げていることは重々承知している。現実に目を向けた時に惨めさを感じるくらいなら、強がってこの虚栄を維持している方がましだ。クリーチャーの心中なぞつゆしらず、ナワーブは無邪気にもクリーチャーに影響されたのだ、などという。嘘が本物に滑り込んだ瞬間だった。どんな顔で言っているかなど、怖くて直視できない。
「あんたが助けてくれた時、最初は気持ち悪かったよ。こんなところで、素人同士の馴れ合いなんてさ」
「……意外と役に立つだろう?」
「色々とね。今は感謝してる」
自分の声は震えていないだろうか。ざらざらとしたコーヒーを啜るも、泥水に変わってしまったように不味く、ぬるく感じられた。ハンターがそばにいる時よりも心臓が高鳴りうるさくてたまらない。イソップが付け合わせにベイクドビーンズを用意し、個人の自由に応じて食べる際にチリコンカーンに入れるのはどうかと提案している。折衷案と言える妙手をこの物静かな青年が提案できるとは思いもよらぬ出来事だった。思えば彼は納棺師なのだから、客とやりとりする程度のことはあろう。カヴィンが両手をあげて妥協の同意を示す。これでひと段落だ。この間もクリーチャーの仮面はかつて慈善家として振舞っていた時のように自動的に対応していた。
「よし、慈善家活動の第一歩を踏み出したのはわかった。だったらまずは私以外にするんだ。一人が二人に、その二人が三人にと輪を広げなければいつまでもただのお手伝いごっこだろう?」
「それじゃピアソンさんはどうなるの」
「どう」
「誰かを助けたあんたは誰に助けてもらえるんだよ?」
クリーチャーはその答えを知っていたから、ただ微笑むにとどめた。互助は狭い世界を救い、ただ互いに小さくまとまっていくだけですが、互いの手を新たな手に向かって差し伸べていけばいつか世界を救うでしょう!そんな風に謳っていた時代もあった。互助だってままならない現実に夢を投入しただけで、どこまでもままならない現実は手を伸ばそうとするだけでも精一杯である。誰も自分を助けてはくれない。誰もクリーチャーを助けはしない。だからクリーチャーは自分で切り抜けていかねばならない。そのために他人が邪魔にならぬよう、自分の道を斬り開くために他人に手を差し伸べる。その姿を人は美しいと呼び慈善家と呼んで祀り立てた。左側に顔を向けて、クリーチャーはナワーブの顔なんて見なければ良かったと心の中で舌打ちした。君も現実を見るんじゃない。おぞましくも美しい夢を見よう、それがいい。
「エミリー!」
「大声を出さないでちょうだい。おばあちゃんじゃないのよ」
「ナワーブ君が君を手伝ってくれるとさ」
「ちょっと、ピアソンさん」
「あら本当?ありがとう。重いものが多いから嬉しいわ」
もごもごと文句を言いはしたものの、納得したらしいナワーブが席を立つ。エミリーがありがとう、と振る手に手を振り返してクリーチャーは洗面所に向かった。口の中がじゃりじゃりとして気持ちが悪くて仕方がなかった。
食堂を出れば喧騒はどこへやら、平日の教会のように静まり返っている。誰もいないことを確認して洗面所に入り、クリーチャーは小さく呼吸した。蛇口をひねって口をゆすごうとして気を変え、トイレの床にうずくまって便器に向かう。これまで見たどんなものよりも清潔な便器はおよそ現実味がなかった。美味しいものも、美味しくないものも、何もかもが曖昧なままに口から出て行く。胃が痙攣し、身体中が吐き出したいと震える。自分の感情が螺旋にどこまでも絡み合ってもつれ、仮面の下は今や腐った肉が形を保てずに崩れていた。ひとしきり吐き出しても肝心のものは出ていかない。このまま口から心臓が飛び出していって流されたならば気持ちは楽になるだろうか?
床から壁に手を這わせてどうにか立ち上がり、今度こそ口をゆすぐ。チリコンカーンの辛さが戻ってきたせいか、舌がピリピリと痺れて痛い。それよりも、ずっと胸の奥が痛んだ。誰しも、自分が納得して住んでいる地獄を地獄だと指さされたくはない。ナワーブはクリーチャーの中の地獄を見ただろうか。慈善家の顔をした薄汚い泥棒の顔を、まやかしのはりぼてをふりかざす姿を見透かされやしなかったろうか。相手がフィオナ・ジルマンやウィラ・ナイエルであれば恐れずに堂々と晒すことができる。彼女たちにも似た地獄を感じるのだ。理解されずとも一緒に夢を見る振りができそうな人々はクリーチャーを傷つけない。ナワーブはだめだ。彼には見せられやしない。
「虫が良すぎるんだ」
吐き出しきれずに喉に引っかかった虚栄をかろうじて飲み込んで、クリーチャーは洗面所を出た。”慈善家”には今日も仕事がたくさんあるのだ。
あの人は字を書くのだろうか。日記をつけることに慣れ始めたナワーブ・サベダーが書きながら思いを馳せたのはクリーチャー・ピアソンのことだった。最初こそ胡散臭く、気持ち悪いほどに優しく、馴れ馴れしいと軽蔑しきっていたが、どうしてなかなか役に立つ。世知に長けて口がうまく、手先は器用で話を聞くこともうまい。手癖の悪さや、旧知らしい医師とのやりとりなどから察するに慈善家ではないと踏んでいたが、その仮面を上手に被って”人助け”をする姿勢は好ましかった。
どんな字を書くだろう。母語で書いても構わないという荘園の主人からの申し出に従い、母語で綴るもナワーブの字はお世辞にも綺麗とは言い難い。クリーチャーの字は少し歪で、小さい気がする。こそこそと急いで書いたような字が似つかわしい。おおらかな広い心で人に慈善している姿とはおよそかけ離れた姿なのだが、ナワーブはだからこそクリーチャーに親しみやすさを覚えていた。年上らしくあろうと振る舞いに気をつけるところは滑稽であり、恭しくもある。これまでのナワーブの生き方に、クリーチャーのような大人は未来の選択肢になかったのだが、今では多少なりともありうるとまで思えるようになっていた。
エマに対する態度からするに、クリーチャーは自分の感情を平静に保つことが難しいらしい。そのくせ、ナワーブの前では徹頭徹尾慈善家気取りでいようとする。正確には、荘園に最初からいるエミリーにフレディ、エマ、そして年齢の近いセルヴェとフランクが別枠扱いをされていて、他の人間の前では綺麗に慈善家のふりをしてみせるのだ。偶然物陰からセルヴェとの緩みきったやりとりを見なければ、ナワーブはいつまでもクリーチャーをエマに対してだけどう猛な男だと思っていただろう。恋をする人間は愚かになる。偏執狂じみた側面があるクリーチャーならば尚更だ。
しかし蓋を開けてみれば彼には慈善家という表看板以外のものがきちんと存在し、ナワーブに見せていないだけだったのである。ウィリアムのすっかり懐いているんだな、というからかいを追い払ってクリーチャーの後塵を拝すような真似をしていたナワーブにしてみればとんだ裏切りだった。ここまで懐かせたのだから、カーテンの裏側だって見せてくれてもいいではないか。何を恐れると言うのだろう?どうせ人を殺したり騙したりする程度のことなんて、他の誰でもやっているのだ。ここにいる人間はみんな腐って狂って人間的でまともだ。申し分ない。
何事もまずは観察が必要である。敵情視察はお手の物、ならばとナワーブは一日にあったことを事細かに書く中でクリーチャーに関しては必ず書き出すことにした。荘園の主人がどう思うかは無関係で、ただカーテンをめくりたいという好奇心が全てを埋め尽くす。例えば、今日はこんな日だった。クリーチャーは朝食時に同時に席についた面々から好みを聞き、それぞれのパンをオーブンで温める。面倒臭がって出されていなかったクリームチーズとジャムも取り出され、ウィラがお礼を言っていた。大したことじゃない、とクリーチャーは礼を言われて当然の行動をしたにも関わらず、肩を竦めるばかりである。どちらかといえば、あれは迷惑がっていたように見えた。
昼間にいたっては、ナワーブの申し出た人助けを速やかに断り、エミリーに押し付けた。実際エミリーはナワーブの力仕事を必要としていて、大量の毛布や医薬品(薬瓶の類があんなに重いとは知らなかった)をせっせと運ぶ羽目になったのである。人助けはできたが、ナワーブが申し出たのは全てクリーチャーに見て欲しかったからだ。ありえるかもしれない将来像のお眼鏡に叶うか気にするのは児戯だとわかりつつも、ナワーブはどこかでクリーチャーに認めてもらうことを望んでいる。チェイスではあんなにも簡単に褒めてくれるのだから、人助けにだって褒めてくれても良いではないか。
夕食でも捕まらず、次に出会えたのはクリーチャーが花畑を手入れするエマとエミリーに邪険に追い払われていたところである。興奮気味であったが、ナワーブを見た瞬間にす、と表情が消え去ったことは不気味でさえあった。まるでそれまで行われていたやりとりが劇の演目の一種で、目の前で幕引きされたような唐突さである。一体何が本当かは定かではなく、そんなクリーチャーに当たり前のように花束を渡すエマまでが不自然に感じられた。
「もう遅いから寝るよ。おやすみ」
「それが良いなの。おやすみなさい、ピアソンさん」
「おやすみ、クリーチャー」
役者たちが交わすのは綺麗な一礼で、後から飛び出し参加をしたナワーブにはなんの役割も振られていなかった。
「ナワーブ君もおやすみ。明日は朝一でゲームが入っているんだろう?」
「え、あ、うん」
自分のスケジュールを把握されていることに嬉しさを覚えるのはおかしいだろうか、とナワーブは首を傾げた。この時の気持ちは日記を書いている今でも”嬉しい”に当てはまる。クリーチャーの関心が自分に向けられたことはナワーブを安心させた。他人にどう思われたい、他人が自分をどう思うのか、を気にしたのは本当に久しぶりで、まるで子供時代に返ったような心地になる。母は、優しい人だった。ナイフで果物を剥くことを教えてくれたのは母で、それで人間の皮を剥ぐことになるとは思いもよらなかったが、ナイフ遣いが上達したのは母が褒めてくれたことに気を良くしたところが大きい。上官に仕事を褒められた時は、当たり前のことをこなしたことに対する満足感は覚えたものの、内容は全く記憶にないから、心に響かなかったと言える。
今、ナワーブは荘園という閉鎖空間で再び他人を欲していた。友人も仲間も全部失ってばらばらにして、自分で損ねたことさえある一匹の男に、クリーチャーの不気味さや挙動不審さに漂う上澄みのような慈善活動は暖かい。寒さの中で、大型の獣を引き裂き、中に入り込んで夜を過ごす感覚にも似ている。生臭くて、暖かくて、何よりも生きていた。自分にはクリーチャーが必要だ。少なくとも、この荘園を出るまでは。
ナワーブの観察日記は微に入り細を穿ち、クリーチャーの一日の行動パターンの大部分を把握するに至った。会いたいと思えば八割くらいの勝率で出会うことができる。これはハンターに対する勝率よりも良い、とするのは少々悲しいが事実である。クリーチャーの慈善活動は他人を必要とするのだから、他の人間の活動をある程度掴んでおけば全容の把握など簡単なのだった。もちろんナワーブを対象とした慈善活動もあるはずなので待ち構えている。だが果たせるかな、慈善活動に目覚めたナワーブにお鉢が回ってくることはないのであった。
その上不可思議なことに、クリーチャーはナワーブに抱かせた違和感を払底させつつあるようだった。エマに対して突っかかることが減り、エミリーとも穏やかに過ごしている。フレディとの口喧嘩だって減った。要するになんと言えば良いのか、隙が少なくなったように伺える。フレディが渡してきたクロスワードパズルをイライ・クラークと解きながら、ナワーブはだんだんと慈善家という生き方は面白くないのではないかと思い始めていた。
「『バーナード・ショーやH・G・ウェルズらが参画した社会変革を目指す主義』……誰だこいつら?クロスワードパズルっているのはもう少し一般的なものを聞くんだと思ってたけどな」
「フレディさんがくれたものならばおかしくありませんね。最近の時事問題のような気もしますし。さっき埋めたのもプレトリアだったじゃないですか」
「『綴りの勉強になるかもしれないぞ』って言われてもさ、普段使わないものを覚えても意味がないんだよなあ」
プレトリアは遥か遠くの南アフリカにある地名で、この謎に満ちた土地に関しては足を踏みしめるこの国が随分執心しているだけあり、軍隊内でも盛んに議論が交わされたものだった。もっとも、ナワーブは主義主張などどうでも良いので半分以上は寝ていたが。脱力してソファに身を埋めると、ナワーブは荘園を出た後のことに思いを馳せた。傭兵稼業は看板を下ろしている。ゲームが終わるとは賞金を手にすることなので、母国に帰るのが妥当だ。もちろんそのつもりもあって参加を決めたのだが、果たして帰ってどうすれば良いのかは皆目見当がつかない。傭兵だからとは言え、ナワーブは同胞にも手をかけた。
彼らは自分を許してくれるだろうか?慈善活動に身を投じていれば許されるかもしれない。だってそれは、他人を善くするために生きるということなのだ。クリーチャーは他の人間の生活を手助けしているし、何よりもナワーブの気持ちを軽くしてくれた。それを嬉しいと思うならば、故郷の人々もまた嬉しいと思う可能性はある、そうだろう?やはり慈善家だ。
今は少し精彩を欠いているようだが、クリーチャーのやり口はあながち間違ってはいない。彼の内側は拝めていないが、おそらく不都合として隠しているもう一つの生活を含んだ二律背反が可能であることは確かなのだ。人の皮を剥いだ男でも平気な顔をしてオレンジの皮を剥いて子供に差出せる。クリーチャーの皮を剥いたら何が見えるだろう。わけのわからないクイズとパズルと曖昧模糊とした未来が入り乱れて思考は全くまとまらない。このまま残りはイライに任せて一寝入りしようかと思った矢先、強く濃厚なチョコレートの香りがナワーブの頭を揺り動かした。
「結構進んだみたいだな。そら、差し入れだ」
「ファッジですか?いいですね」
「正解」
慌てて起き上がれば、思考の狭間に浮かんでいた当のクリーチャーがおやつを持ってきてくれたらしい。当たり前のような顔をして、何味があるのかを聞いたりお茶をいれてもらったりするイライに羨ましさを募らせながら、ナワーブはそっとクリーチャーの表情を伺った。右目が魚のように揺らめいている。こうして目の当たりにして初めて、ナワーブは彼の片目は嘘だと知った。自動的に礼を述べながらも目はただ彼の本物の目を追いかけてしまう。ゆらり、ゆらり、あっちへこっちへーーぱちん、とクリーチャーの生きた目とナワーブの目が交錯し、シャボンの泡のように魔法が解けた。
カーテンに手をかけている。ナッツ入りのファッジの甘さに脳を痺れさせながら、ナワーブはクリーチャーの頬が赤らんだことを見逃さなかった。イライが天眼を使ってマシュマロ入りを探り当てようとしている。自分も好きなので先に手に入れたいところだが、今はもっと捕まえるべきものがここにあった。
「ピアソンさん、ありがとう」
「……礼には及ばんさ。食べたら歯を磨くんだぞ。エミリーは歯は専門外だと言っていたからな」
「ピアソンさん」
すぐに逃げ出そうとする目を追いかけるように声をかけると、クリーチャーはじり、と後ろに下がる。どう動くべきかがわからなくなっている所作で、ナワーブもまた、自分がなぜ彼を追い詰めようとするのかを知らずにいた。今日の日記に書く際にはよく整理をしておくとしよう。クリーチャーの中に自分を擦り込むようにしてナワーブはにい、と笑って見せた。そうするべきだと本能的に思ったのだ。
「そんなに心配なら、歯を磨いた後で確認してくれる?」
ばかなことを言うなよ、であるとか、お前の母親じゃないんだぞ、であるとか、そういった軽口が返ってくると期待されたボールは壁に吸い込まれたかのように消えた。あー、と代わりに間抜けな音がクリーチャーの口から漏れる。顔はますます赤い。どうして?もっとよく観察したいとナワーブが腰を浮かしかけた瞬間、クリーチャーはがちゃんと音を立ててポットを手にした。
「お、お茶!の、おかわりを持ってくる。ファッジはもっといるか、イライ君」
「ピスタチオ入りが五つ残ってますね。それを全部僕にください」
「わかったよ」
全く君はなんでも見通しているんだな、とずれた仮面をつけ直すようにしてクリーチャーが調子を取り戻す。せっかくの機会は目の前で潰えてしまった。帽子をかぶり直したことにより、再び本当の顔を見失ったことは大きな痛手である。覚えておこう、とナワーブは自分が感じたこの瞬間を胸に刻み込み、イライを睨みつけた。当たり前のようにマシュマロ入りのチョコレートファッジは全滅している。
「パンドラの箱に最後に残ったのは何かを知っていますか、ナワーブ」
「クロスワードパズルの続きか?聞いたこともない話だな」
「これは昔のおとぎ話のようなものです」
意味ありげにチョコレートファッジの山をフォークでつつくと、イライは2個ほど取り出してナワーブの皿に乗せた。昔々の神々がごく当たり前に生活に馴染んでいた頃の話はこのように締めくくられる、と言う。
「最後に残るのは希望だそうですよ。なくしたとしても、いつか手に入るという希望だけは手元に残り続けるだなんて、なかなか優しいですよね」
「……お前また勝手に人のことを読んだな」
「君の場合は全部ダダ漏れなだけです」
読むまでもありませんよ、というイライは一体どこまでわかっているのかぜひ聞きたかった。浅いようで深いようでもったいぶった話は占い師らしい。イライが選り分けてくれた最後のマシュマロ入りチョコレートファッジを口の中に放り込んで、ナワーブは宣託を噛み締めた。ほろほろと砂上の楼閣のような夢は舌の上で崩れてゆく。だが、いつかは手に入る。ならば、きっといつか自分は全て知るだろう。
ケトルがピーピーと鳴いて仕事の完了を伝えてくれる。つるりとしたケトルの側面に映る自分の姿を眺めて、クリーチャーはため息をついた。今、自分の顔はどんな火よりも熱く赤いと言い切れる。羨望と憧憬という小難しい言葉をひねり出した自分は何を考えていたのだろうという羞恥心でいっぱいなのだ。いっぱしの大人、慈善家らしくあろうと懸命に高い塔を作り続けたにも関わらず、実は基礎から崩れていたのである。まだ暴力的に欲しいという所有欲や、よく見せたいという自己顕示欲を抱いているのであれば良かった。どちらも自分によく馴染んだ、本来の自分にふさわしい生き抜き方にぴったりだからだ。
「ありがとう、って聞き慣れてるんだけどな」
慈善家には礼がつきものだ。今よりもよほどそれらしい衣装を身につけていた頃、何度も聞いたセリフである。おはようと同じくらいのありきたりの言葉で、クリーチャーには特段なんの感慨ももたらさなかった。それがどうだ、ナワーブが自分の目をまっすぐに見て感情を込めてかけた言葉のなんと力強いことか!もちろんこれまでだってナワーブはクリーチャーに感謝の気持ちを伝えていたものの、なんとか目をそらし続けて逃げてきたのだ。泳いだ目がとうとう捕まったのは何も気のせいではなく、本当はクリーチャーもまたナワーブの目を見たかったからに相違ない。歯磨きの確認をしてくれ、などと孤児院の子供にだって言われたセリフにまごついた自分が恥ずかしかった。
火を消して、ガスを止めてケトルを下ろす。ゆっくりと茶葉を湯の中で舞い踊らせて待っていれば紅茶の出来上がりだ。なんの変哲も無い、酩酊すら催さないこの飲み物のために戦争まで起こったというのは実に無意味であり、同時に人間のどうしようもない滑稽さの表れのようでもあってクリーチャーは微笑ましさすら感じている。ティーコジーでポットを包むと、換気用の窓から身を乗り出して外を眺める。昼過ぎに降った雨が上がり、草がむっとする程の生命力を全面に放っていた。日差しは温められた湯のようにまろやかで目に優しい。ナワーブの眼差しはもっと熱かった、と思い出してクリーチャーは気恥ずかしくなって考えることをやめた。
自分が抱えている思いは、ただ自分が善い人間になれた気持ちになるからではなく、羨望や憧憬を勝ち得たいからでもなく、そうした虚栄を取り去ったむき出しの感情でナワーブを好いているからだった。好きだ、愛しているというセリフは役回り上なんども口から滑らせてきたはずなのに、今になっては舌がひどく縺れる。頭が押しつぶされそうで、同時にこんな自分には耐えられないとクリーチャーは両手で顔を覆った。気持ちが悪い。お前はどの口で真実を手にかけようとしているんだ?
「ピアソンさん、お茶ができてるなの」
「え?ああありがとう、ウッズさん」
えずきそうになったクリーチャーの気分をかき乱したのは、表向きクリーチャーがミューズのごとくつきまとっているエマだった。どうやら彼女もお茶の時間と決め込むつもりだったらしく、気に入りの花の模様の入ったカップを手にして紅茶を注いでいる。チョコレートファッジもあるんだ、とクリーチャーは夢遊病者のような動きで彼女を誘う。ピスタチオ入りのものを全部別の皿に除けて、エマ用のファッジを取り分けてやるところまでも全て滑らかで自然だ。喜ぶエマの声は心地良い。しかし全てを記憶しておきたいと思うほど胸はじりじりとせず、ナワーブがどんな様子で喜んでいたかを思い出そうとする始末だ。こんな自分は間違っている。
「これは誰のためのものなの?」
「イライ君だ。そうだ、良かったらお茶と一緒に持って行ってくれないか?私は後片付けがあるから」
「わかったなの。ねえ、ピアソンさん」
「ん?」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
水のように流れ行く音で、応えるクリーチャーは上の空のままだ。この猿芝居に苦痛さを覚える日が来ると知っていたならば、自分はもっと早くに全て放り出している。何も知らずに気づかずに愚かでいたかったが、一度イチジクを手に入れた人間は二度と楽園に入れないのだ。クリーチャーがエマを愛することで彼女を幸せにできると行動した時、人は醜悪さから拒否をした。ならば本当に誰かを愛した時、それは美しいと受け入れられるものだろうか。窓辺から外壁に伝う蔦の葉に触れると、クリーチャーはゆさゆさと揺らして下へと振動していく様を眺めた。こんな風に、人の気持ちも何の装いもなく伝わればまだ愛されるような、そんな羨ましさがある。
ナワーブは幻想のクリーチャーしか知らない。虚栄の慈善家を彼は慕っており、だからこそ自分も人助けをするなどと言い出している。本当のクリーチャーは強欲で狡猾で利己主義の塊で、第一泥棒だ。自分に分があると自惚れずに過ごしてきたために些細だった瑕疵は、今や柱を食い荒らすシロアリのようにクリーチャーをずたずたにしていた。エマに対してすら誰かが彼女を幸福にできれば良いと思う程度だというのに、ナワーブにはこの自分を想って欲しいと願っているのだ!ままならない苛立たしさから蔦を強く握ってしまったのか、ぶちりと葉がちぎれる。
「虫が良いんだよ」
全てが行き詰っている。どんな状態であれ生き抜いていこうという気持ちは路頭に迷って、ただ霧の中にあった。
今日のゲームでは、ナワーブは予定の二試合全てがクリーチャーと一緒だった。チェイスをし、板を当て、合間に暗号機を解読して捕まった仲間を助ける。ナワーブは怪我が体に沁み通るまで時間がかかるためか、見つかっても後回しにされてばかりで、クリーチャーが殴られる姿を散々見せつけられていた。もちろん彼のことなので、その身軽さと長い経験を生かした死角への逃げ込みなども駆使してうまく立ち回っている。それでもなおのこと殴られるのは、殴る方もクリーチャーをよく知るからに他ならない。ハンター達とは意思疎通が不可能だが、それでも言外のコミュニケーションというものがあるらしかった。
「次の試合ではチェイス、俺に替わってよ」
「必要だったらな」
血だまりに跪くクリーチャーの姿は小さく、薄く、ひどく脆く見える。二試合目の終盤戦、残り解読機三台にして三人生存という状態である。なんとか隠れおおせたクリーチャーの手当をしながら、ナワーブは慈善家という鎧を脱いだ一人の人間を見たように思った。将来の生き方の一つとして考えうる慈善家のクリーチャーとしての生き方は、今ここで倒れている彼からは程遠い。耳に響く、ひゅうひゅうというクリーチャーの荒い呼吸はナワーブの心臓を逸らせる。今この人を失えば、二度と自分は彼の真実も、彼に褒めてもらいたいと思う自分の甘さも、何もかもが失われてしまう。こればかりはいつかもう一度手にすることは不可能だ。
止血を終え、包帯がきつくも緩くもないことを確認すると、ナワーブはぎゅうとクリーチャーを抱きしめた。びくりと震えたクリーチャーがばたばたと暴れるものの、やすやすと制して抱え込む。慈善家と傭兵は全く別物だとわかりながらももがくクリーチャーの頬は赤い。どうして、という声も無視してナワーブは深く呼吸をした。血や汗の匂いも相俟って、一層彼が本物だと実感できる。本当に生臭くて暖かくて、生きている彼は、この手にずっとおさめておきたかった。
「俺にはあんたが必要だよ、ピアソンさん」
「だ、だだからなんで」
「あんたを助けるのは俺だけで良い」
我ながら的外れな答えだったが、ナワーブにとっては絶大な真理だった。自分の胸のうちに広がる心地よさは、クリーチャーが施した慈善活動の成果である。そんな彼を救う人間がどこにもいないというのが当たり前だとはとんでもない不公平ではないか?ならば自分はその唯一になりたい。いっぱい褒めてよ、とナワーブはクリーチャーの怪我に指を這わせた。包帯から滲み出る血が指先について、ぽんとシャツに載せれば血判を押したようになる。
「……君は慈善活動が好きなんだな」
「そうだと思ったんだけどさ、ちょっと違うんだよね。ああ、慈善家になったらここを出た後で楽かなとは思ったよ。でもさ、ここを出たらピアソンさんはいなくて、あんたは俺を褒めてくれないんだ。結局さ、俺は他の誰かじゃなくて、ピアソンさんに喜んで欲しい」
「私はそんなに立派な人間じゃない」
振り向いたクリーチャーの右目はしっかりとナワーブを見ていた。その瞳の熱が何を意味するのかは明白で、ナワーブはなんて間抜けだろうと頭を抱えた。自分も、この人も結局箱を開けきっていない。答えは今開けてわかる。せっせと解読していたらしいウィラが、暗号機を解読寸止め完了したと伝えてきたが、ナワーブとクリーチャーは見つめあったままだった。
「その方がずっと都合がいい」
やっぱりクリーチャーを救えるのはナワーブだけだと言い切れるのだから、良いに決まっている。全く二人はひどく善人だった。かっこよさも崇高さもなく、ただわがままで醜悪な欲望に満ちている。は、とクリーチャーがようやく表情を緩めて頷いた。
「とんだ慈善活動だな。でもまあ、良いさ。その……嬉しい」
「もう一声」
「えーと」
およおよとクリーチャーの右目が泳ぎだす。痺れを切らしたウィラが解読を完了し、けたたましいサイレンの音と共にゲートが通電する。逃げ出そうとするクリーチャーの唇の端をかじって、ナワーブはなおも答えを促す。イライは最後に希望が残るのだと教えてくれた。ならば自分はその希望を今掴みとらねばならない。ひくひくとクリーチャーの喉が震え、恥じらって惑う瞳はナワーブの瞳へと合わせられた。
「ありがとう、ナワーブ」
「どういたしまして」
そのセリフを言うことが、彼にとってとてつもなく勇気のいることだったとありありとわかる。思えばクリーチャーはずっとわかりやすい男だった。ただ、仮面を上手に被って見せていただけである。ならば自分はさらにわかりやすく接しようとナワーブは決めた。視界の端に、ウィラを逃したらしいリッパーが映る。霧よりも早く逃げ出すべく、ナワーブはクリーチャーを解放した。
「一緒に帰ろう、ピアソンさん」
この荘園を出た後も。自称慈善家の彼が一緒ならば心強いし、自分だってそれらしく振る舞う意欲がわくというものだ。吐きそう、と意味不明なことを口走るクリーチャーの尻を叩くと、ナワーブは意気揚々と活動に繰り出した。
〆.
あとがき>>
泥棒→→→傭兵から始まるものを書こうと試みて、半分くらいは多分できた……?泥棒は正気に返ると自分で自分を受け入れられないほどに気持ち悪いと思える生々しさがあり、一方で好意についてこだわりを持たない傭兵はあっさり帰結できる清々しさがあると思っています。同時に二人とも強欲だからこそ(あるいは固執しているものがあるから)このゲームにいてほしいという気持ちも色々詰め込んで書きました。今回の二人が互いに好きだとかなんだとか言うのは相当後になる想定です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!