幻視の宴
「今日はどこかしらね」
黒い羽が舞った、と思うとチョークのように真っ直ぐなマーサ・ベハムフィールが長い食卓の椅子に座った。わくわくするわね、という彼女の前の白い皿には信号銃が載っている。これこそはマーサの大事な得物であり、味方を救い出す一手なのだ。イライ・クラークは皿を囲むフォークやナイフが銀色の光を放ってこちらを見つめているような気がした。見るんじゃない。マーサには何も返さず黙ったまま覆いの下で目をそらす。自分の目玉は今ここではなく、遥か彼方宇宙にあるというイメージを描くのだ。
「ひさびさに思い切り走りたいな。月の河公園だと嬉しいね」
「俺は走り回るなんてごめんだ。早く済ませられるに越したことはない。体力が有り余っているなら他所で使うんだな」
「よく言うよ」
軽口を叩き合うのはウィリアム・エリスとフレディ・ライリーで、彼らの席にもそれぞれ道具が置かれている。ウィリアムの皿にはラグビーボール、フレディの皿にはまだ何も書き込まれていない真っ白な地図だ。どの席にも食器が一揃いあるが、食事の時間には程遠い。ここは荘園の待合室で、あと五分もすれば偉大にして憂鬱なゲームに投入されるというわけだった。イライは自分の右肩を撫でて顔をしかめた。何もない、空虚の感覚だ。イライの皿の上にはフクロウが一羽、横たわっている。瞳は両方閉じたままで、人形と言っても通用するはずだ。そっと触れて、イライは昨晩の残り物のように冷たいフクロウを懐にしまった。思わず涙が出そうになったが、歯を食いしばって耐える。頭がおかしくなりそうだった。
「どうしたの、イライ。いつになく静かね」
「……ご心配いただきありがとうございます。少し眠れていなくて」
「寝る前の運動が足りないんじゃないか?帰ったら走り込みでもしようぜ」
見るな。マーサやウィリアムの声に目が揺らぎそうになり、イライは額に浮いた汗が頬に伝わないかと恐れた。これは平穏な一日の一幕に過ぎない。そうだろう?そうだとも!開幕の合図が鳴り、一同は速やかに会場を移す。勇んで向かって行く面々を一番後ろから追いかけながら、イライは床に点々と散らばるものからも目をそらした。神が与えたもうた自らの力に対し、これほどまでの鬱積とした思いを抱えたことは初めてである。いや、前々から薄々は気づいていたのだ。
それじゃあね、と手を振ったはずのマーサには肝心の腕がない。腰にぶら下がった信号銃はお飾りか。またな、と口笛を吹くウィリアムは腰から下が千切れていて、どこがくっついているのかなんとか纏まっているという様子だ。鼻白むフレディは下顎がなくなっており、その特徴的な前歯がやたらと目立っている。みんな血だらけで、満身創痍で、床はどこもかしこも痕だらけだ。そのくせ何もなかったように彼らはゲームに向かって行く。目眩がするほど凄惨な光景だった。あるいは凄惨な光景にしか映っていない。おそらくは。普通であればとっくのとうに死んでいる。昨日見かけたクリーチャー・ピアソンは残っていたはずの右目もなくしていた。笑った彼から思わず逃げ出してしまったことをどうか許してほしい。
イライには天眼がある。故に見えなくても良いものまで実にくまなく見通せてしまうのだ。おかげでこの無慈悲を極めた陰惨なゲームで割合に軽い怪我で済んでおり、同じく応急処置ができるためか割合に元気そうな医師のエミリー・ダイアーに治療をしてもらえば十分機能する体のままである。イライだけがまともで、あとはどんどんひどくなっていくのだ。不思議なことに、イライ以外は一切何も見えていないらしい。まるで手があるように振る舞うマーサの食事風景は見ていられないが、周囲は一切気にもとめず、もちろん手伝おうともしない。使われることのないスプーンを何度見ただろう。
昨日のゲームで下顎を失ってしまった(恐ろしいことにイライはその瞬間を目の当たりにしてしまった、リッパーの霧の刃が見事に窓枠越しにえぐっていったのだ)フレディに至っては、どのように栄養を摂取しているか定かではなく、直視することすら耐え難かった。先ほどもピンク色にむき出した肉から血が流れ落ちていて、彼の白いシャツをおびただしく濡らしていたように思う。どうしてみんな生きている振りがうまいんだろう。
古びた暗号機の解読を進めながら、どんどんとこの暗号機も錆びた音を立てるようになったとイライは心配になった。本当にこのゲームは公正なのだろうか。誰かが殴られた音がする。マーサだ。彼女は信号銃を持っているとはいえ、腕があの有様なのだから使いようがない。窓枠だって越えられないし、板も倒せないからただ走ることだけが許されている状態なのだ。とはいえ無慈悲な世界である。二発目はそう遠くないうちに響いた。嗚呼、今日のハンターはリッパーらしい。またえぐられるのか。解読をし終えて静かに這いずる。そう遠くない場所だ。今向かえば十分助け出せるだろう。リッパーがそばにいるのか、心臓がどくりと高鳴った。
以前のイライであれば、何も恐れずにリッパーの姿を正視できただろう。見れば見る程に力が溜まり、イライと阿吽の呼吸で動くフクロウが自分や仲間を庇えたのだ。そのフクロウは、イライの懐で静かに横たわっている。懐に入れたところで何も変わらず冷たいままだ。飛び立つことなどありえはしない。先日のジョーカーとまともにぶつかった際、イライの代わりに粉々になった相棒は、どういうわけだか体裁だけを取り繕って皿に載るようになった。己の罪を見せつけられているような気分で胸が痛い。
「う」
ようやくマーサに近づいてみれば、彼女の胸は大きく裂けて串刺しになったことが明らかだった。かろうじて目に光はあるが、本当に死んでいなかったならばこれはなんだろう。イバラを解くと、ばね仕掛けのように起き上がったマーサがありがとうと言う。ひゅうひゅうと掠れた木枯らしのような声は遠ざかり、血の痕を点々と残していった。フレディが二台分解読を終え、今ではウィリアムがリッパーとチェイスしている。あの足で?いつでも倒れ得る状態で何かしようとする方が愚かだ。倒れたウィリアムを助けに行くとマーサが宣言している。そもそも彼女は暗号機を解読できはしない。腕がないというのにゲームに参加する方がおかしいのだ。砂を噛むような心持ちで暗号機の解読に走る。みんな死んでゆく。納棺師のイソップ・カールは身代わり人形に置き換えてくれると聞いているのだが、それはすなわち見た目が同じ別人を作り出す行為だとイライは解釈した。できれば御免被りたい。
「あなただけになってしまいましたね。よく頑張りました」
シュン、という音と共にリッパーが目の前に現れる。ウィリアムもマーサも空へ昇っていった。今やフレディも椅子に縛り付けられた状態である。自分一人だけが今日も残ってしまった。ここで投稿すれば、更に悲惨になった状態の仲間を見る羽目になる。占うまでもなく明白な未来に、イライは目の覆いを取り去ってまっすぐにリッパーを見た。彼は本物だ。ところどころ穴が空いているけれども、損なわれずに佇んでいる。ひとでなしになれば頑丈さは折り紙つきなのだ。
「…‥まともそうな目をしてまあ。あなたにはまだ見えているんですねえ」
かわいそうに、というリッパーは仮面の下で笑っているようだった。巨大な左手がイライの首にそっと添えられる。こうなる運命なのだ。どうあがいても何も戻らなければ、フクロウは二度と飛びはしない。空は暗いし明日もゲームは続く。食卓の皿は空のままだ。
「たまには慈善活動でもするとしましょう」
黙ったままのイライに、リッパーは全てを悟った調子で頷いた。何よりも安堵する。これこそがハッチ、最後の最後で逃げるための大事な一歩なのだ。ぐ、と腹に力を入れる。嗚呼どうか、これ以上苦しみませんように。全てが見えたのは一瞬だけ。地面に転がって見えた世界は頭の端から抜けていって。イライは今度こそ力を抜いた。
「それでね、今日のリッパーったら妙に優しかったのよ。木馬に乗せてくれたし、ジェットコースターにも一緒に乗ってくれたの。エスコートされるって、なかなか悪くない気持ちね」
「いいなあ。真面目に解読していて損したよ」
マーサとクリーチャーがきゃっきゃと和やかに先ほどのゲームを振り返っている。イライも久々に子供の気分で滑り台を滑ったし、もちろんジェットコースターにだって便乗した。たまには遊び半分のゲームも良いものである。隣に座るウィリアムもサーカス小屋をくまなく探検してフラフープ遊びをしたのだとふざけていた。遊びすぎてくたくたになったから、今日はよく寝られそうだった。
このところ、イライは以前に抱えていたもやもやを全て失ってすっきりとしている。そもそも何を悩んでいたのかが思い出せない。フクロウがすり寄ってイライの右肩に乗る。優しく撫でてやりながら、イライは体が妙に軽いことに小首を傾げながら待合室の席を立った。毎日が楽しくて仕方がない。今ならば月に向かってだって飛んでいけそうだ。
もう誰にも見えない血の痕が、ただ彼の後ろをついていっていた。
〆.