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没見過


 そうではないかな、もしかしたら前にも、いや現実には何も起こっていないはずだと思考が錯綜することがある。先ほど通り過ぎた黒猫はつい先ほども同じ場所から通り過ぎていったものではないか?本当に今が初めてだろうか。記憶はかき混ぜられ、現実と妄想が怪しくなってゆく。幾度もの未視感と既視感を経た范無咎は、泉下に降りて改めて幾重にも連なる過去を振り返り自嘲した。何もかも幻ではなかった。全て起こったことなのである。

范無咎という存在は、かれこれ五百年はゆうに繰り返しを行なっている。何度も何度も世に出ては泉下にもどり、再び世に出る。名前も、個人としての存在も概ね同じで范無咎として一貫していた。泉下に潜む際にはまんじりとしない心持ちで待ち続け、待ち合わせが完了した時点で次がやってくる。生まれ変わりとはそう何度でもあるものではないが、自分と相方とも半身とも呼べる謝必安は常識外であるらしい。行ってらっしゃいと誰かが背中を押す。再会を喜ぶ間も無く次の舞台が始まるのだ。

 筋書きはいたって簡単なものである。どこかで范無咎は謝必安と出会い、仲良くなり、将来の明るい展望を思う。互いに歯が抜ける様を想像してからかいあうこともしばしばだ。さあこれからだとお楽しみが始まる寸前に雨が降り始める。雨は見る間に足元の水を押し上げて二人を運命の坩堝に叩き落とし、生命を振り落とすのだ。事情は様々で、汚職の罪を着せられたり暴漢から相手を守ろうとしたり、はたまた傘を置き忘れたのを撮りに戻るなど手を替え品を替え不幸はやってくる。自分は、自分たちは一体何をしたのであろう。どこで終わりを迎えられるだろう。

「一つ、取引をしないか」

また出番が来るぞと背中を押そうとされた時、范無咎はどこかで笑って見学をし続けていた存在に自分から声をかけた。




「初めまして。私は謝必安と申します」
「……初めまして。范無咎だ。よろしく」

何度目かの初めましてを耳にし、范無咎はブルリと震えた。とうとうこの日がやってきてしまったのだ。何もかも覚えたままにさせてくれないか、それもたまには面白いだろうと取引を持ちかけてからというもの、范無咎はこの人生でけして謝必安に会わないで済ませようと最大限の努力を払ってきた。出会わなければ、別れることはないのである。取引相手の意地悪そうな声を思い出して范無咎は唇をへの字に曲げた。あれならば、出会うように仕向けるくらいはやりかねない。

范無咎が四川省は奥深く、九寨溝で観光ガイドを勤めるようになってもう五年になる。親兄弟には何故地元の天津でも近場の首都北京でもなしに内地の奥へ向かうのかと嘆かれたものだ。山道が整備された中、あそこにパンダがこちらには世にも珍しい金糸猴と動物を指差し、色とりどりの不可思議な天然の池を説明するのはなかなか楽しい。少数民族との関わり合いも面白ければ、少し先まで足を伸ばせばチベットだ。外国へと足を伸ばさずに中国に居続けるのは、范無咎の中にあるかすかな郷愁による。

 だが、こうして謝必安に出会ってしまうとなれば矢張り世界へと足を運ぶべきだったのだ。謝必安がパンダの研究者として成都大学から来たなどと言われて仕舞えばどうしようもない。せめてどうにか、どうにかできないかと思うも范無咎は謝必安の目をみた瞬間にほろほろと意志が崩れようとするのを悟った。

「なんだ?」
「変な話ですけれど、初めて出会ったような気がしなくて。ここに来てようやく懐かしい顔に会えた気がします」
「……そうか」

本当に言う通りなのだとは、口が裂けても言えなかった。事情を話せばきっと理解してくれるだろう、だが努力をしようともがけばもがくほどに苦しみは増す。謝必安はただ受難を知らぬうちに避けるが良い。無駄に悩ませることは本意ではなかった。范無咎は謝必安を死なせず、天寿を全うして欲しいのである。そのためには自分が生き延びねばならない。

あるいは、出会う前に死すべきだったか?

嬉しそうに来し方を話す謝必安の笑顔に喜びを覚える一方、どうしたら失わずに済むかと気が気ではなかった。世話になっている羌族の巫人に頼むことも考えたが、占いに頼ることはやめた。范無咎と謝必安をこの世に送り込む相手が握っているものを知ってなんとしよう。

 パンダの本来の生息地であったこの辺りの自然を知りたいと申し出る謝必安に、范無咎は否やとは言えなかった。早速山登りに適した服装に着替えて案内を始める。山の、さらに奥へ奥へ。嘘のような青や緑の池はどの観光旅行者もため息をつく代物だが、今や限られた人間のみに開かれる秘境へと再び舞い戻っている。踏み分けて行けるのは観光ガイドとして勤めてきた范無咎の特権だ。

「ほら、あそこに見えるのが火花海の痕だ。地震で水が全部抜けて今はただの窪地だな」
「本当に何もありませんね。写真で見た時から覚悟はしていましたけれども」
「ここ数年は立て続けに災害が多かったからな。多分元には戻らないと思う……動物の住処も変わったよ」

天災の爪痕を指差しながら、范無咎は地震に感謝しても良いとふと不謹慎な思いに駆られた。自分が死ぬのはいつだって水にまつわるものである。肝心の水が枯れているならば無問題だ。謝必安は残念そうだったが、ノートに丁寧に記録を行うと質問を重ねる。そのどれもが過去と同じく謹厳実直でスッと真っ直ぐな背骨を感じさせた。自分にだけしかない懐かしさが親しみを生み、涙すら滲みそうになって范無咎は慌てて汗を拭うフリをして拭き取った。

「ここから抜けた水はどこへ?」
「河だ。もしかしたら、新しい池ができているかもな。今は危ないから調査もできないんだ」
「残念ですね。……明日で良いので、その河に連れて行ってください」
「パンダには関係ないぞ」

ギョッとして振り返ると、范無咎は謝必安の顔に不吉なものを覚えた。まるで何もかもを知っているかのような、いつか見た光景を繰り返そうとでもするような顔の意味など知りたくもない。

「郭剪なら俺より水系に詳しい。頼んでみるよ」

同僚の名前を口早に紡いで逃げようとする。山道に戻って、小高い場所に作られたテラスに出ると、昼を食べようと弁当を広げた。保温器がうまく機能してくれたので、二段弁当の下段に入れていた茶叶蛋が湯気を立てて現れる。上段からは包子を取り出し、謝必安にも勧めた。だが、寂しげな様子の謝必安はもそもそとしか食が進まない。昔から彼はそうだった、と思い出して范無咎はするりと手を差し伸べた。

「それに、連れて行って大丈夫かどうか確かめないと」
「良いんですか!」
「まだ俺が案内するとは決まってないぞ」
「その気持ちが嬉しいんです」

謝必安は、よく耐える人であった。大事に思う相手を優先したくて耐えて、自分の望みをギリギリまで堪える優しさに、自分はどれほど甘えてきただろう。今の彼は知らないだろうが、范無咎は感謝をしてもしきれない心地でもあった。

 何、問題はない。この土地のことは何よりも自分がよく知っているのだ。それに二人は出会ったばかり、死ぬほどに親しみを覚えるのは――きっと自分だけだろう。喜びからか俄然包子を食べる手に勢いが増す謝必安に笑うと、范無咎は頭の中に地図を描いた。あそこを見せたらどれほど嬉しがるか、いやもっと良い場所もある!自分が培ってきた経験を生かして謝必安を歓待してやりたかった。

微かに脳裏に既視感を覚える。卵の殻を拾い集めて弁当箱に入れると、范無咎は少数民族の集落へ行こうと謝必安を誘った。

まだ、二人は出会ったばかりだ。別れるにはあまりにも早過ぎるのだった。


〆.