もし、これが物語ではなく現実ならば。
新しい人生
生まれ変わりとはまま耳にする願望の一つである。今の自分の人生をなかったこととし、本来生きるべき理想的な人生を歩む夢物語だ。クリーチャー・ピアソンも、自らの境遇に不平を漏らして叶うことのない願望を抱く人間は幾人も目にしてきた。どうせ底辺から這い上がれず、行き詰まるのが落ちだと思えば、時として空虚な夢は生きる希望の一部になりうるらしい。一種の現実逃避で、何一つとして状況が改善することはない。クリーチャーに言わせれば時間の無駄だった。
夢で今日が生きられるか?明日が約束できるか?目標と計画は未来へ敷かれた確固たるレールだ。それは夢などという曖昧で甘ったるい言葉とは全く異なる。自分は最大限できることを成し遂げ、着々と未来に歩を進めていた。荘園に来たのもその一環に過ぎない。ここでの生活は止まり木にして足掛かりであり、人生の中で通り過ぎてゆく時間なのだ。人生が一冊の本であるならば、わずか数ページに収まる日々に相違ない。
「ピアソンさん、荷物運び?俺が持つよ」
「いや、すぐそこまでだから良いんだ」
届いたばかりの缶詰の箱を休み休み運んでいると、向かい側から歩いてきたナワーブ・サベダーに見咎められ、クリーチャーは心の中で舌打ちした。最近、この元傭兵は何かとおもねるような真似をしてくるので警戒せずにはいられない。すかさず断り食料庫の扉を開けるも、背中にはべったりと執拗な視線が張り付いているような気がしてならなかった。
数ページの日々を書き連ねるクリーチャーの信条からして、必要以上の馴れ合いは避けたいところである。この荘園を全員生きて出られたとしても(近頃ではそれこそもしかしたら永遠に出られないかもしれない、という予感を抱いている)、一時凌ぎの関係は永続しない。寧ろ何か拗らせて、現実の世界に問題を持ち込むことの方が不味い。ゲームは円滑に、日々は円満に、そして後腐れは無縁に。至って単純かつ、誰でも同意できそうな話である。
ナワーブとて同じ心算のはずだった。荘園に来た初日から、自分はゲームなど無関係だと突っぱねて説明を拒否し、まるで誰かの暗殺依頼でも受けたかのように住人たちを探っていたあの青年はどこへ行ってしまったのだろう。荘園の主人は来訪者を誘う文句がなんであれ、義務には厳しい。拒否する隙を与えられず、すかさず放り込まれたゲームでナワーブは散々な目に遭った。戦場でもハンターのような化け物はいなかったらしい。いつか徴兵の憂き目に遭う可能性もなきにしもあらずだったクリーチャーとしては、安心できる証言である。
かくて学習することは知っていた元傭兵は、大人しく先達の教えを受けることになった。共同生活も、ウィリアム・エリスやイライ・クラークといった似たような年齢(に見受けられる)の面々に巻き込まれるうちに慣れてきたようである。今ではチェイスの練習にも率先して取り組み、新人に指導するほどだ。先日、アンドルー・クレスが鬼のチェイス特訓を受けてめげた際に話したならば、信じられないと驚かれた。ついで、何故他人に関わらないままでいなかったのかとひどく呪ったのは実にアンドルーらしい。
缶詰を種類ごとに格納しながら、在庫の賞味期限を確認する。いくら保存が効くとはいえ、本当のところは怪しいと疑う気持ちが拭えないでいた。いつぞやパンパンに膨らみ切った缶詰に出会ってしまったので尚更である。やはり美味しいものは、美味しいうちに食べるべきなのだ。トマトのホール缶はそろそろ危ないだろう。夕食に、ウィラ・ナイエルが教えてくれたラタトゥイユを作るのは悪くないアイディアかもしれない。それだけではおかずにならないので、簡単に肉でも焼いて
「ピアソンさん、」
「っ、うわっ」
隣の棚に移動しようとしたらば、何かが足元で滑った。缶詰でも転がっていたのか?一瞬がどんどん引き伸ばされて遠のいてゆく。ゆっくりと天井が見え、なるほど自分は今転んでいるのだとわかるが重力には逆らえなかった。後頭部に鈍い痛みが走り、耳元で大声が響いている。何故だ、ナワーブ。何故まだここにいるのだろうという問いは全部暗闇に吸い込まれていった。
人は恋をすると世界が一変するらしい。まるで生まれ直したように見違えた世界を、ナワーブはなんと表現すれば良いのかわからなかった。戦場で一度自分は死んだものと思っていたが、どうしてまだまだ人生は続くらしい。
戦場を出た後、率先して死のうという考えは勿論毛頭なかった。せっかく生き延びたのだ、意味を失っても命は残しても良い。糊口を凌ぐべく荘園にやって来たナワーブを出迎えたのは、生ぬるい偽善者集団だった。おまけに依頼内容に含まれなかった『ゲーム』への参加まで要請されるとは、とことんついていない。いくら仕事を選べない状態だったとは言え、奇しくも面倒な依頼を受けるのではなかった。思えば先方が自分を知った上で腕を買っているという仄めかしには、計り知れぬ謀略が潜んでいたのかもしれない。
どうせお遊びだろうとたかを括った疑似戦場でどんな目に遭ったかは言わずとも良いだろう。ナワーブは十分に学びを得、まずはゲームで生き延びなければ依頼もその先の日々もないと思い知った、それまでの話だ。まずは先達の教え――とりわけ自分と同じくチェイスを得意とするクリーチャーの存在は大きい――を大人しく受け入れる。偽善者たちは寛大かつ強引で、一度巻き込まれると決めたらば瞬く間にナワーブを輪の中に取り込んでいった。戦友たちに囲まれていた日々と重なり、彼らを生かさねばならないと思うようになったのは、彼らの影響が大きいのかもしれない。幻のような関係とわかっても尚、居心地の良さからナワーブは流れに身を任せることを自分に許していた。
一度箍が外れると、人は貪欲になるものであるらしい。仲間、友人、と来たらば次に欲しくなったのは恋人だった。家族はその先に続くのだから、これにてナワーブの人間関係は完結すると言って良い。所詮荘園は夢であり、究極の悪夢だ。自分のささやかな楽園を作るくらいは、許されて然るべきだろう。とは言え、何故クリーチャー・ピアソンをその対象に選んだのかという問いには答えに窮する。流れに身を任せただけであって、確固たる理由はどこにもない。ただ、クリーチャーに恋慕の情を抱いていると気づくよりも前から、彼の周囲でだけ世界が輪郭を持っていたことだけは確かである。
そうして生まれ変わった世界で、ナワーブは今日とて仲間達とチェイスの練習を中庭で行っていた。チェイスの道は一日にしてならず、ハンター役を用意しての擬似ゲームである。簡易の窓枠は、アンドルーとノートン・キャンベルが実際の舞台を元にフレディ・ライリーが引いた平面図通りに配置した本格的なものだ。当初は弁護士であるフレディが描くには無理があるのではないかと懸念されたものの、普段から地図を触っているのは誰だと思っているのかというセリフで一蹴されて終わった。言われてみればその通りである。協力狩りにおいて、偶然地図を拾った時の驚きは誰しも覚えがあるだろう。
「結構うまくできたんじゃないか?ピアソンさんも練習に来てくれれば良いのにな」
一通り練習を終え、中庭で休むもどこか虚しさは拭えない。もしここにクリーチャーがいてくれたらば、どんな風にその華麗な身のこなしで魅了してくれたかと嘆息し、自分のチェイスが伸びた成果を見て欲しいとも願う。否、練習の成果は実戦で目にしてもらった方が格好がつくのではないか?果たしてその余裕があるだろうか。ゲームに勝利するためには、さほどドラマティックな展開もなく粛々と終わることが一番だが、見せ場を得られるのはいつだって窮地に陥った時である。悩ましさに顔を顰めていると、イライが慰めの声をかけてきた。
「あの人は『慈善活動』で忙しいですからね。なかなか来てくれませんよ」
「一応僕も誘ってみたんだよ?でもさ、エマの植え替えの手伝いがしたいって断られちゃった」
「マイク……お前、良い奴だったんだな」
マイク・モートンを見直し、ナワーブは心の底から感謝の意をこの道化に捧げた。てっきり自分の楽しみを最優先するとばかり思っていたのだが、どうやら多少の仲間意識はあるらしい。同時にひどく落胆を覚えた。エマ・ウッズが理由ならば、自分の入り込む隙間は少しもない。彼女はクリーチャーにとって太陽であり、時に暴力をも辞さないような激情を催させる相手である。何故かは誰も知らない。強いて言うならばそれが恋だ、とホセ・バーデンは宣った。全く救いようがない。
「そういや聞いてなかったけど、何でピアソンさんなんだ?あ、単純に知りたいだけで、貶してるわけじゃないからな」
いつ気づいたのかとウィリアムがラグビーボールを両手で弄びながら問う。確かに、比較的仲の良い面々には牽制も兼ねてクリーチャーへの恋慕は伝えていたが、理由を話したことはない。何せ自分でもこれと言える確固たる理由などないのだ。有り体に言えば、クリーチャーには軽蔑すべき点も多い。エマを好きだと言いながら平気で殴ろうとするような真似は狂人のなせる技だ。何かと利に目敏く、胡乱で強かである。だが一方でひどく子供っぽく純粋であり、何より彼の作る料理は絶品だ。
「……なんでピアソンさんかは、わからない。ただ、ピアソンさんのアップルパイを食べた時に、俺はこの人と一生一緒にいるべきだと思ったんだ」
「それってさ」
「ピアソンさんが作ったアップルパイのせいじゃないぞ」
目下協力を依頼しているウィリアムの発言を制すると、にやにやと不気味な笑みを浮かべられた。今日は散々ラグビーボールの練習に付き合ったというのに、この男は恩知らずであるらしい。自分の体が一番頑丈という理由からハンターの役目を買って出たのだが、次の機会があれば隣で同じくニヤつくイライに任せるとしよう。彼には梟の加護があるのでおそらく大丈夫に違いない。
「心当たりがある時点で、それが原因だろう。俺はミートボールが入ったパスティの方が美味しいと思うが。ビクターはどう思う?」
「ア、アンドルー!あれはすごく美味しいけど、今言っちゃだめだよ!」
アンドルーの意見はいただけないが、ビクター・グランツの必死さに免じてナワーブは許すことにした。嗚呼、なんて心が広い!戦場から戻って来たばかりの頃の自分であれば問答無用で二度と口を利けないようにするところである。第一、彼らには今後とも協力してもらわねばならない。クリーチャーを目標に定めたは良いものの、初手の印象が悪いナワーブが好意を抱いてもらうためには外堀から埋めるのが最良なのだ。これは本人曰く恋愛達者のカヴィン・アユソと、クリーチャーを何故かよく知るエミリー・ダイアーからの入れ知恵であるため、一人で知恵を絞るよりも遥かに成功率は高いと睨んでいる。
「……イライ。ピアソンさんは?」
「目標は現在玄関ホールで届け物を受け取ったところですね。中身は……缶詰でしょう」
問いかけに的確な答えを返すイライに、ナワーブは心底満足しながら中庭を出た。切々とクリーチャーに対する気持ちを伝えていた成果である。快挙と言っても良かった。今ではナワーブが尋ねれば、この気持ちを知る誰もが手を貸してくれる。エミリー曰くは、とっととあなたとまとまってくれた方が平和で良いのよ、だそうである。いかにも打算的な彼女らしい主張だが、自分に都合の良い結果に否やはなかった。所詮、ナワーブとて根っからの善人ではない。仲間ごっこには利害の一致も必要なのだ。
玄関ホールから缶詰の箱を受け取ったらば、向かう先は大概食料庫である。籠手を使って距離を稼ぎ、可能な限り急ぐ。ただし、呼吸は荒げない程度にするのが要点だ。クリーチャーには冷静沈着な人間だと認識してもらいたい。中庭から食料庫への道のりが遠いことをこれほど恨んだことはなかった。
「ピアソンさん、荷物運び?俺が持つよ」
「いや、すぐそこまでだから良いんだ」
案の定と言うべきか、クリーチャーと巡り会えたのは食料庫の目の前であった。休み休み運んでいたのだろう、見るからに重そうな箱を抱えていたクリーチャーはくたびれている様子である。颯爽と手伝える絶好の機会を逃した上に、相手の態度はひどくすげない。理由は簡単で、クリーチャーは借りを作ることを嫌悪しているからに相違ない。今まで一体何があったのか、ナワーブに知る術はないものの、恐らくそうであろうとは幾度となく手を貸そうとしては断った経験から察せられた。
ここで強引に攻めるべきか、あるいは黙って見守るべきかは思案のしどころである。少々迷った結果、ただ彼を舐めるように見るにとどめた。食料庫がすぐ側にあるからいけない。缶詰の収納を手伝えば良いのでは無いかと思いついたのは、間抜けなことに少々時間が経ってのことだった。
「ピアソンさん、」
「っ、うわっ」
手伝わせて欲しい。手伝うことはないか、ではなくもっと積極的な言葉で絡め取ろう。前向きに挑んだナワーブだが、セリフは最後まで吐き出されずに行動に置き換わった。クリーチャーの体がぐらりと揺れ、ひっくり返る。さながら曲芸のようなしなやかな体の動きに目を奪われている場合ではない。慌てて駆け寄って支えようとするも、既にクリーチャーは床の上に伸びた状態だった。頭を打ったのか?背中は痛むのか、痛むだろう。痛みなど何度も目にしてきたと言うのに、心臓がバクバクと早鐘を打って煩い。仰向けの状態からゆっくりと横を向いて寝かせれば、ころりとクリーチャーの足の方で鯖缶が転がっていった。どうやら取り落としたものがそのままであったらしい。
「ピアソンさん、ピアソンさん、無事でいて、目を開けて」
時間よ巻き戻れ。必死に願ってクリーチャーの額に口付けると、ナワーブは助けを呼ぶべく大声を上げた。
「名前は?」
「クリーチャー・ピアソン」
「職業は?」
「……ホワイトサンド精神病院で手伝いを少々。『慈善家』だ」
「どうして荘園に来たのかしら?」
「知らん。私が知るか!リディ……エミリー、この質問にいったい何の意味があるんだ。状況を説明してくれ」
どこもかしこも真っ白、という点では勤め先と似た場所で、クリーチャーは途方に暮れていた。涼しげな顔で質問をするリディア・ジョーンズ(今はエミリー・ダイアーというそうだ、弱みを握ったと見るべきか迷うが今は大人しく従っておくとしよう)に枕を投げつけるも気は晴れない。自分はいつものように薬品庫を漁り、少々気分が良くなるものを市井の人々に施すべく頂戴しに出かけただけのはずだ。それがどうしてベッドに寝かせられる羽目になったというのだろう。
「あなたは食料庫で転んで頭を打ったの。ナワーブ君が見つけてくれなかったら、今頃呼吸困難で死んでいたかもしれないわね。彼に感謝なさい」
「ナワーブ?誰だ、そいつは。親切な奴もいたんだな」
「そしてあなたは記憶を喪失した。軽度のね」
「な」
俄には信じがたいセリフに、クリーチャーはようやくエミリーが重ねた質問の意図を理解した。彼女はクリーチャーが何を覚えているのか、どこまで覚えているのかを確認しようとしていたのである。態度はさておき、腕だけは信頼の置ける医師には違いない。看護師めいた衣装のエミリーに首を傾げつつ、クリーチャーは現状の更なる説明を求めた。
「ここは荘園。私たちは皆荘園の主人に招待されて、『ゲーム』に参加しているの。さっき話したナワーブ君以外にも、ここには大勢いるわ。あなたは一番最初からこの荘園にいるベテランよ」
「『ゲーム』」
「参加しない人間にとっては『ゲーム』でしょうね」
すました様子でありながらも、エミリーの目には微かに恐怖が漂う。恐らくはお遊びからは程遠い内容なのだろう。そんな危ない橋を自分が何の見返りもなしに渡ろうとするとは到底思われない。相当冒涜的な破格の報酬が待っていると睨んで良い。恐ろしいゲームであるにも関わらず、参加者が多い状況も理解できる。ゲームの内容は、荘園なる場所での生活はどのようなものなのか、果たして自分は何をしていたのかと疑問は湯水のように湧いて出てくる。
記憶喪失とは致命的な弱みだ。以前の自分と行動の齟齬が出れば、必ずや足を掬われる原因となる。これ以上エミリーに借りを作るのも癪だが、当てになるのは彼女くらいしかいないだろう。自分が誰か特定の人物と親しくなることは、まずありえない。親密さは躓きの始まりだ。向こうが勝手に自分を信頼するのは大歓迎だが、自分が心腹するのはまっぴらごめんだった。さて、どう切り出すべきか。思案に耽っていると、乱雑な足音が近づくと共に、扉が思い切りよく開かれた。
「エミリーさん!ピアソンさんは、ピアソンさんは無事なの」
「ナワーブ君。診察室では静かになさい」
「あ、うん、ごめん」
エミリーにやり込められる様がなんとも間抜けな青年に、クリーチャーは拍子抜けした思いだった。心の籠らない謝意を示す青年は、どうやら自分を助けてくれた『ナワーブ君』らしい。筋肉質でありながらも小柄で、顔の様子からして東洋人だと当たりをつけた。幼い風にも見えるが、実際の年齢はわからない。自分を助けるとは一体どんなお人好しだろうか。
「良かった、ピアソンさん……起きたんだね。頭は痛くない?背中は?」
「い、いや、どどどちらも無事だ、」
ずいと近寄られて思わず吃ってしまう。もの慣れない相手と出会った時のいつもの癖だ。思わず後退りするも、ベッドの上に逃げ場などない。高みの見物を決め込むエミリーを睨むと、医師は俄に職業意識を取り戻したように二人の間に割って入った。
「怪我人に乱暴はしないで頂戴。クリーチャーは軽い記憶喪失になっているの。取り扱いには注意してね」
「エミリー、人を不発弾扱いしないでくれないか?その、そういう訳でだ……ナワーブ君、だったか。私を助けてくれたそうだね。あ、ありがとう」
「記憶喪失……」
助けたことを忘れられたのはショックだったのだろうか?呆然と呟くナワーブは心許なさそうで、クリーチャーは痛くもない胸がちくりと傷んだような錯覚を抱いた。他人に同情するほど落ちぶれてはいないはずである。同情など時間の無駄ではないか。とは言え、妙な借りを作らぬためにも先手を打つべきだろう。肩をすくめると、クリーチャーは殊更申し訳ない風を装って見せた。
「本当にすまない。その、荘園に来るまでの記憶しか今の私にはないんだ。ここで君とどういう関係だったのかわからないが、助けてくれたことに感謝するよ」
「覚えてないんだ」
「あ、ああ」
急に語気を荒げたナワーブに、クリーチャーは第一印象を塗り替えることを決めた。この男はお人好しなどではない。何か目的があって動く、ゲームの参加者に相応しい人物だ。
「俺とのことも何も覚えてないんだ。あのね、ピアソンさん。驚くかもしれないけれど、俺たちは恋人だったんだよ」
「は?」
瓢箪から駒の発言に、今度こそ度肝を抜かれた。恋人?自分に?否、万が一できたとしても何故一時的に身を寄せた荘園で、その上同性を相手にするというのか?無意味に危険を冒すような真似を自分がしたなど、到底信じられない。答えの鍵を握るエミリーはと言えば、先ほどから変わらず面白がっているばかりである。真偽の別をつけられる状態では到底なかった。
「大丈夫だよ、ピアソンさん。そのうち思い出せるし、思い出せなくたって良いんだ。俺と一緒に生きて、無事ならそれで良いんだよ」
「……忘れたままで側にいるのは心苦しいな。思い出せるようになるまでは、ゆ、友人!そうだ、友人でいるだなんてどうだ、なあ」
どうかそうであってくれ。だが、クリーチャーの祈りは天に届かず、代わって届いてほしくはない相手に真っ直ぐに届いた。ナワーブがゆっくりと自分を抱きしめ、背中に腕を回してくる。先ほど観察した以上に筋肉のついたがっしりとした腕は、驚くべき力を秘めていた。ここで絞め殺されることも大いにありうる。冷や汗をかきながら、クリーチャーは続くナワーブの言葉にただ頷くことしかできなかった。
「大丈夫。俺が一緒にいるからね」
神はこの世に存在する!天に向かって朝から万歳を唱えて止まないナワーブは、目下絶好調だった。念願の恋人を手に入れたのだ。なんて、なんて、なんていい日なのだろう!生きていて本当に良かったとは正にこのことだ。荘園に来たばかりで枯れていた自分にも教えてやりたい。世界は薔薇色、素晴らしい!咄嗟にクリーチャーに嘘をつき、丸め込み、面白がるエミリー含めた荘園中を抱き込んだ自分は人生の中で最も冴えていると言って良い。朝日を浴びて身支度を整え、鏡の前で自分の様子がどこから見ても絶好調だと確認すると、ナワーブは鼻歌まじりに厨房へと突撃した。
「おはよう、ピアソンさん」
「お、おはよう。きょ、きょ今日も嬉しそうだな、な、ナワーブ君」
「呼び捨てでいいよ。ピアソンさん……ううん、クリーチャー。今日もあんたの顔が見られたんだ、嬉しいに決まってるでしょ」
朝から一緒に起きて、とは行かないが、並んで朝食の支度をするというのは夫婦めいている。パトリシア・ドーヴァルに習ったというトウモロコシ粉を用いたパンケーキを作るクリーチャーの横で、ナワーブは指示に従ってベーコンを焼いていた。ここ数日間の指導のおかげで、今ではどの程度がカリカリと焼きすぎの合間なのかの見極めは完璧である。自分を仕込んだ分、クリーチャーにも余裕が出たのか、食事の質が上がったとは口が奢ったエドガー・ワルデンの評だ。
「前の私は一体何を教えていたんだ……」
「俺が手伝いたいって言っても、良いからってなかなか手伝わせてくれなかったよ。あんたは一人で出来るから」
クリーチャーが厨房に立った初日も、ナワーブの誤魔化しは完璧だった。あながち嘘ではないのだから良いだろう。何ら思い出せるものがないのか、哀れな恋人は黙って受け入れるまでである。少々同情したが、こんな事故がなければ到底手に入れられなかった相手なのだ。一生このまま何も思い出さずに墓場まで向かっていってほしい。『クリーチャー・ピアソン』は、今やナワーブの恋人として生まれ変わったのである。
「……幸せそうですね」
「幸せだからな。はい、フライドエッグとフライドトースト。できるだけ焼き過ぎめ」
「ありがとうございます」
朝から不景気な様子のイソップ・カールに、頼まれていた朝食を給仕すると非難がましげな目とぶつかってナワーブは目を曇らせた。何が言いたい?手に入れたかったものをようやく勝ち得たのだから良いではないか。ゲームも人生も何ら変わることがない。ゆっくりとマスクを外すと、イソップは芸術的な美しさでナイフとフォークを動かした。
「僕が納棺で、蘇生ができることはご存知ですね」
「ああ。よく世話になってる」
ゲームにおけるイソップの驚異的な能力は、彼が捧げ持つ棺桶に納棺することにより、対象者がハンターに倒されても蘇生できるというものである。自分の脱出マジックに採用したいと、あのセルヴェ・ル・ロイ垂涎の妙技だ。わざわざ救助に行かずとも勝手に助かってくれるのは、誰にとっても大変ありがたい。納棺される感覚としては、蘇生と言うよりも移動に近い。だが、それと何を結びつけようと言うのだろう。
「初めて棺から出た後、自分が自分でなくなるのかと思っていた時があります」
良い焼き上がりですね、と褒めつつ不可思議な弁は続く。暗い箱の中に閉じ込められる様子を想像し、ナワーブは少なからず嫌な気分になった。折角意気揚々と朝を迎えたと言うのに、突如として北風が吹き始めたかのようである。
「けれども、違った。僕は僕のままでした。……香水を使っても、杖を使っても、どんな魔法を使っても、誰も変わらない。人というものは、救い難いほどにその人のままなんですね」
「難しい話は苦手なんだ。わかりやすく言ってくれないか」
「どんなに都合が良くても、嘘は嘘だということです」
誤魔化せるのは自分自身だけだと、ありのままを描き出す男は言う。叩きたくなるほどにすました顔だった。嘘は嘘だと?そんなことくらい誰よりもナワーブ自身が承知している。他の誰が救えよう。誰が自分の夢を叶えてくれるというのだ。求めたところで、クリーチャーは自分に魔法をかけてくれはしない。
「まあ、何です。僕は応援しているんですよ」
万が一にでも奇跡が起これば、世の中捨てたものではありませんね、と他人が笑う。痛みを感じぬ立場だからこそ紡ぎ出せる言葉は何ともチクチクして痛い。片頬をひくつかせながらも、ナワーブはもう返事もせずに厨房へと踵を返した。背中に他人達の目が幾重にも張り付いていく。好奇、嘲笑、期待、どれをとっても自分勝手でめでたいことだ。良いではないか、何にしたって自分たちは幸せなのだから。束の間の楽園の扉を開けば、何も知らぬ恋人がナワーブの朝食を整えたところらしかった。
「お疲れさん。ナワーブ君の分もできてるぞ。ベイクドポテトを、その、お前が話してた故郷の味わいに似せてみたんだ。口に合うと良いんだが」
「クリーチャー!」
「うわっ」
嬉しさのままに飛びつけば、恐る恐る抱き止められる。慣れるまではカチコチに固まっていたあのクリーチャーが!もう他人のことなどどうでも良かった。蕩けた顔でぐりぐりと胸のあたりに頭を押し付ければ、気分は瞬く間に高揚していく。嗚呼、自分を助けてくれるのは矢張りクリーチャーだけなのだ。頭を撫でる手の優しさが嬉しい。もの慣れない様子で自分の名前を呼ぶのも、何もかもが夢見たままだ。全てが失われる日なんて来るのだろうか?
「ありがとう。すっごく嬉しいよ」
「そりゃ良かった。言っとくが、まずくても文句は言うなよ」
「口が裂けても言わないって。いただきます」
ありがたく頂戴して天国を味わう。食べ終わったら一緒に片付けをして、洗濯をしようと話し、新しいハンターについて情報を交換し合う、何もかもが日常風景だ。この日常が壊れるとしたならば、それこそ全て葬り去れば良い。一度できたことは何度だってできるのだ。幸せの絶頂にいるナワーブに、もはや迷いはなかった。
人間、悪いことはすべきではない。口を酸っぱくして他人に言われても尚鼻で笑っていた箴言を、クリーチャーは生まれて初めて噛み締めていた。一体何をどうしたらこんな地獄に自分を突き落とすのだろう。ぼんやりとオーブンの中で転がっていた七面鳥と同じくらいに自分は間抜けだった。
「最悪だ……」
ゲームの最後、地下ハッチを落ちることで何とか脱出できたクリーチャーに訪れたのは、驚くべき真実だった。ホワイトサンド精神病院で止まっていた記憶が、地下に落ちた振動で一挙に脳裏を駆け巡る。荘園への招待状を受け取り、なけなしの金でたどり着いたこと。説明にはなかった予想外のゲームに参加する羽目になり、リディアやリサの面影を感じる少女に出会ったこと。仲間が増えてゆく中で、程よい距離を保ちながら過ごしていたこと、何もかもが鮮やかに浮かび上がった。そしてもちろん、記憶を失って以降も綺麗につなぎ合わされている。
「何の冗談だ」
最大の疑問はもちろん、何故ナワーブ・サベダーは自分を恋人だと偽ったのかだ。ナワーブには何の益もない上に、体を張って自分にベタつくことは場合によっては精神的ダメージを受けることになりかねない。そうであって欲しい。他の面々が真実を指摘しなかったのは、自分に無関係の楽しいショーを楽しみたかったからに決まっている。同じ穴のムジナたちのことをクリーチャーはよくよく理解していた。
唯一わからないのがナワーブだ。恋人だと宣った通り、常にそばにいて甘やかな声を投げかける青年に、荒んだ元傭兵の影はどこにもない。すわ賭け事に興じているのかと疑うも、思い返してもなんら確証を抱くには至れなかった。指折り数えてみれば、おおよそ三ヶ月にも渡る大々的な詐術である。理由に思い当たらない方が不可思議だ。
「まさか本気か?」
もうすぐ地下道を出る。出た先にナワーブが待ち受けていることは容易に想像できた。あの青年はいつだって――恋人と名乗る前からずっとそうしていた。今と昔で異なるのは、迎える態度と声かけの内容くらいだろう。本質は同じだったと考えるべきか、どうにも確信は持てなかった。仮に持ったとしても、ナワーブを恋人にする意味がわからない。相手の気持ちはさておき、最も大事なのは自分だ。
ナワーブを恋人にすれば、彼が自分を守ってくれる可能性は高くなる。何度教え込んでも、以前からゲームの最中に無駄な救助を試みた理由はこれで解決した。次からは勝利を優先させよう。多分に『恋人』の願いであれば聞く耳を持つはずだ……否々。ナワーブを恋人にすれば、惚れた弱みという言葉通りに向こうには盛大に貸を作ることができる。今後後ろ暗いことを手伝ってくれる当てができたが、その分だけ関係を強固にされやしないだろうか?あまりにも危険すぎる。
そもそも自分はエマに対して仄かに恋慕に似た情を抱くも、ついに誰か特定の個人を思慕することはなかった。他人との情のやりとりを要不要でしか判断できない人間に恋愛はできるのか?その可能性を考える時点で間違っている。ここは腹を括って、ナワーブにうまくお断りを告げるより他にないだろう。他人に嘲笑された場合に備えて、できるだけ慎重にことを進めれば解決できるはずだ。まずは対話だろう。薄暗い地下道を抜け出れば、全ての脱出口が待ち受けているはずだった。
「お疲れ様、クリーチャー!」
「ああ。お前さんが最後まで引っ張ってくれたお陰で、どうにか出られたよ。ハッチの位置、教えてくれてありがとうな」
陽の光を浴びるや否や抱きしめられ、流れるように口が開く。言いながらも、今言うべきは違うセリフだろうと頭が痛くなってきた。確かに礼は言うべきだが、大事なことはもっと他にあるではないか。他に、
「クリーチャーに逃げて欲しかったからね」
蕩けるような純粋な眼差しに射抜かれて、クリーチャーは返すべき言葉を失った。正気に戻って振り解くならば今しかないと言うのに、目が吸い付くようにしてナワーブから離れ難い。ナワーブの顔がそうっと近づいてくる。恋人であれば当然の距離感だ。
「クリーチャー」
熱っぽい呼び声は、まるで許しを乞うように耳元に響いた。この三ヶ月でわかったのだが、ナワーブ・サベダーはただの傭兵ではない。相手の心を掴んで落とすことのできる恐ろしい策略家でもあるのだ。ギリギリのところで頷かずに留めたものの、クリーチャーの抵抗にはもはや何の意味もなかった。缶詰に躓いた時と状況はまるで同じで、一瞬が永遠かと思えるほどに伸びてゆく。ナワーブの熱が近づき、段々と唇が寄せられる様を、クリーチャーはただ受け入れるより他になかった。
「恋人でいてくれて、ありがとう」
ゾッとするほど恐ろしく、甘ったるくて逃げられそうにもない。背中に回された腕の力強さに、クリーチャーはぎゅっと目を瞑った。ああ今ならば、生まれ変わりたいという願望の意味がよくわかる。こんな自分になどなりたくはなかった。抱きしめ返して、唇の端が上がってしまう自分になど何の意味があるのだろう。あまりにも無価値で愚かしい。
いつか、何もかも目が覚める日が来るだろう。自分が記憶を取り戻したと知ったらば、ナワーブが何をするかわからない。その時こそお断りの好機であることを願うより他になかったが、もし自分が――自分が惜しいと思っていたら救い難い。やはり生まれ変わる以外に冴えた逃げ道は想像できなかった。
「どうしたの、ため息なんかついて。夕飯の当番がイライなのが不安?」
「それは不安でしかないな……いや、大したことじゃないさ」
ゆっくりと手を握り合う仕草を自然とこなし、クリーチャーはもう一度だけため息をつく権利を自分に与えた。全く最悪だ、最高で、非の打ちようもない八方塞がりの状況である。これくらいは良いだろう。何せ人生は目の前の今、自分自身でしかあり得ないのだから。
「出られて良かったと思っただけだ」
ナワーブがにっこりと笑みを浮かべる。恐怖の夕飯が待ち受ける館まで、あと少しだった。
〆.
後書き>>
ピアソンさんの記憶喪失ものは書いてなかったな、と思って書きました。ただ単純に失うだけではなく、すぐに思い出しても取り返しのつかない状況になっていたらばどんな気持ちになるでしょう?良くも悪くも計算高いピアソンさんは、かえってドツボにハマりそうな気がします。……良かったね!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!