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ああ、こんなところに。


忘れ物


 長年取引のある企業との商談と言う名の接待を終え、ようやく自由になった肩を回すと、マグナイは自社のオフィスを見上げた。宵闇の中でも美しい建物で、思わずため息が出る。最高の結果を叩き出し続けてきたマグナイにとって、まさに自分の会社、である。マグナイは社長なのだ。これで肩の荷が降りたと笑った前任者の顔は忘れない。栄光に輝くと同時に、この立場は苦痛を伴うものでもあった。

明日の苦しみを少しでも減らそうと、稟議の決裁目的で戻ってきたのだが、こんな遅い時間だというのにポツリとオフィスの一室に明かりが点いている。まさか消し忘れか、と舌打ちをしながらマグナイは自分の部屋に戻らずにまっすぐ件の場所へと足を運んだ。

「何をしている」
「……お疲れ様です、社長」

消し忘れかと思いきや、意外にも勤勉にただ一人の社員が残業をしていたのだった。控えめで寂しそうな顔はマグナイも慣れ親しんだもので、突然の社長の来訪に戸惑いを隠せないようである。

「他の皆はどうした?エスゲンだけいるのか」
「はい。皆さんは壮行会に行きましたから」
「お前を残してか?」

はい、という返事を当たり前のように、行くことなどありうべくもないという態度にマグナイは胸がずきりと痛んだ。大方他の皆は罪悪感のかけらもなく雑務をエスゲンに押し付けたのだろう。明日やってもいい、どうでもいい仕事を一人に押し付けて陽気に振る舞う精神はマグナイには信じられない。同時にそれをよしとすることに慣れきった様子のエスゲンは、マグナイに憐れみと苛立ちを抱かせた。

「あとどれくらいで終わりそうだ?何が残っている」
「一時間はかかりますね。あと2つ、資料の修正と会議の準備がありますから」
「一つ寄越せ。余輩が行えば30分で済もう。夕餉は取ったのか?」
「だ、だめです!ありがたいお話ですが、これは私に任されたものですし、社長の手を煩わせるわけにはいきません」
「エスゲン」

できる限り優しい声を出しながら、マグナイは彼と初めて出会った頃を思い出していた。マグナイが入社して間も無く、覚束ない頃の世話をしてくれたのは未だに心地いい思い出として残っている。背広を脱いで椅子にかけると、マグナイは椅子に座ってエスゲンの隣に張り付いた。

「余輩が入社した時のことを覚えているか?今、余輩は暫し社長を休もう。目の前にいる余輩をあの頃の余輩だと思ってくれ」
「社長……マグナイ君、君には敵わないな」
「当たり前だろう?余輩は優れているからな」
「わかっているよ。君は最初から輝いていたものね」

懐かしむ眼差しが面映ゆい。自分の申し出が功を奏したことに唇の端を持ち上げて、マグナイはそっともう一押しした。

「……だから、余輩が頑張ったならば褒美をくれなくてはな。覚えているだろう?」
「もちろん。君がまだ覚えているとは思わなかったな。本当に、そんなものでいいのかい?」
「エスゲン。お前であっても、余輩の気に入っているものを貶めてくれるなよ。キノコは無しだ、よいな」
「はいはい。帰りにスーパーが開いてるといいね」

新入社員の時。親元を離れて始めた一人暮らしに調子を崩していたマグナイを救ったのは、エスゲンのささやかな心尽くしの手料理だった。どんな贅沢をも可能となった今でも、マグナイはその味をありありと思い出せる。一体何年口にしていないかもわからない。そもそもエスゲンと話すのはいつ振りだろうか。こんなにも孤独な背をしている彼を見殺しにしてきたという事実はひどく辛かった。

 罪を犯したわけではない。ただ、自分の記憶の中で大切にしていたものを、自ら裏切っていただけだ。救いようがない、だが間に合わないものではない。明日は土曜日、時間は十分にある。優秀な自分であれば完璧にこなせるミッションだろう。パソコンを立ち上げると、マグナイは久方ぶりの地道な作業に力を注いだ。


〆.