あなたに会いたい!
包み、包まれ
とても、とても疲れてしまった。人間、疲労が溜まり過ぎると幼い子供のような表現しか頭に思い浮かばないものだ、とマグナイは苦笑した。場所は彼が社長として君臨するオロニル社の本社ビルは社長室、深夜零時近い現在、働いている社員はほぼ存在しない。夜遅くまで働くことはあっても、零時を越えないことをマグナイが強く命じたためでもある。元より営業職の多い商社は体力が肝なので、健康第一こそが基本なのだった。
ただ、どうしても皺寄せというものは存在しており、頼る先のないマグナイであったり、全ての皺寄せを集めきってしまうエスゲンであったりする。
「顔が見たいな」
このところ、想いを寄せる相手として、何よりも自分の安らぎの拠り所として大切にしている(少なくとも、そのつもりだ)エスゲンを思ってマグナイはため息をついた。恐らく彼は今日も自分の机で働いているだろう。そんな彼を助けることはあっても、寄りかかるような真似はあまりしたくはない。要するに、マグナイは格好つけたかったのである。今のところデートも順調に進んでいるし、エスゲンの反応も悪くはない。彼の仕事を手伝う時もある、が、頼り切ることだけはまだなかった。
とは言え疲れているのである。子供のようだとは思いながらも、マグナイはエスゲンを求めて止まなかった。少しでも話ができたら、だが今の自分の疲れ切った顔を見たならば心底心配されるだろう、他人に気を使ってばかりのエスゲンに負担をかけたくはない、会いたい、今すぐ会いたい。想いが巡って頭痛を覚えてきた頃、トントン、と社長室の扉がノックされた。上半分がスモーク加工された透明なドアの向こうに覗く、あの少しくたびれたスラックスには見覚えがある。否、そんなまさか!
「何用だ。入るがいい」
「お疲れさまです。……今、少しお話ししても宜しいでしょうか」
「構わん」
努めていつも通りの傲岸不遜を通して出迎えれば、会いたくてたまらなかったエスゲンが申し訳なさそうに入ってきた。ネクタイを解き、シャツのボタンを三個ほど開けた状態が何故か眩しい。その先を暴きたい欲望を抑えると、マグナイはエスゲンに座るよう示した。
「ええと、お忙しいところすみません。今日の外回りで見かけたものを差し入れたくて。すぐに戻りますね」
「エスゲン」
「はい」
座り心地のいい椅子から立ち上がると、マグナイは応接ソファに座るエスゲンの隣に腰掛けた。外の、青い草のような香りがする。自然と寄りかかると、ほんの少しだけエスゲンの体が硬くなりーーふっと和らいだ。たったそれだけで何故だか泣きそうになり、マグナイは己の情けなさが悔しくて下唇を噛んでしまう。格好つけたいという思いよりも、今はただただ甘えて寄りかかりたい。そんな自分をエスゲンは良しとしてくれるだろうか。
「……本当に、お疲れさま。会いにきたら迷惑かと思ったけれど、会いに来てよかったみたいだね」
入社したばかりで、エスゲンの世話になりっぱなしだった頃のように、エスゲンは優しい先輩の声で癒してくれる。腕が回され、肩をポンポンと叩かれるのも心地が良かった。自分が欲しかったのは、こんなにも僅かなことなのだが、いざ口に出そうとするとどうにも出せない。マグナイはオロニルの頂点に立っているのだから、誰にも告げることはできないのだ。
だが、そんな強がりも優れた営業マンである(地味なためか誰も気づいていないようだが)エスゲンには隠せないらしい。マグナイが額をエスゲンの肩に当てると、エスゲンは黙って頭を撫でてくれた。許されている。許してほしい相手に許されることはなんと幸せなのだろう。
「外回りをしていた時に、君の顔が思い浮かんだんだ。いつも美味しいお店に連れて行ってくれるから、たまには変わったもので喜んでほしいなあ、とか、色々考えてたら、どうしても今日会いたくなって」
見たら、君がいたから嬉しかった、という台詞はさながら神託のように厳かに響いた。呆気にとられるマグナイと異なり、エスゲンはいつものはにかんだ笑顔を浮かべたままである。エスゲンが、自分と同じように会いたいと思っていた、それだけでもうマグナイは今日の疲れやら何やら全てが報われた気がした。
「エスゲンは、儚い朝焼けの雲のようだな」
「え?一体なんの話だい」
「余輩が好きなものだ。覚えておけ」
それはかつて徹夜をした仕事明けに、エスゲンと並んで見た情景でもあった。思えばあの頃すでに自分の中には確たるものがあったのだろう。エスゲンの青白い肌が朱に染まり、ますますあの情景に似て来ている。体勢を変えて正面からエスゲンの角を撫でると、マグナイは真っ直ぐに自分のナーマを見つめた。
「余輩も、お前に会いたかった。だが、一度見てしまうと駄目だな。ずっと見ていたくなる」
「マグナイ君、あの、その、とても嬉しいけど勘違いじゃないかな?私はただのおじさんだよ。ほら、疲れてるって言ってたし、今日はもう帰って寝よう?それから考えても遅くはないよ」
「……エスゲン」
目を泳がせるエスゲンの反応に、マグナイは今こそ一気呵成に攻め立てるべきだと心を新たにした。流されてしまってはまた元の木阿弥である。下手をしたならば振り出しに戻されかねない。ここまで漕ぎ着けるのに散々遠回りをしたのだから、やり直しなどしたくはなかった。
「エスゲンは、余輩のことが嫌いか?嫌ならば逃げよ。上司だからと気を使ってくれるなよ、却って傷つくからな」
「……その言い方は狡いよ」
「たまには狡くもしなければ、お前を掴めまい?」
「私にそこまで手をつくす必要はないと思うけど」
ため息をこぼすエスゲンの角に口付けると、観念したようにエスゲンがマグナイの角に触れる。エスゲンはやはり優しい。だが、優しいだけでこの手を自分に向けるようでは困る。
「教えてくれ、エスゲン。お前は余輩をどう思う?お前にとって余輩は朝焼けの雲なのか」
「マグナイ君はロマンチストだね」
おじさんに詩心はないよ、と苦笑すると、エスゲンはマグナイの角に自分の角をすり寄せた。突然の大胆な行動にマグナイが息を飲むと、エスゲンがいつもの上目遣いでこちらを見つめてくる。実は手慣れているのではないかと疑いたくなるほどの巧みさだった。
「君は輝ける太陽のようだよ。……いつも、眩しいと思ってた」
「喜べ、エスゲン。お前だけのものだ」
「ふふ、贅沢だね」
勿体無いくらいだという台詞は聞きたくなくて、マグナイはエスゲンの唇を噛んだ。技巧もなく直情的な行動だったが、エスゲンを黙らせるには十分だったらしい。なにせ自分は疲れていたのだ、とマグナイは小さく笑った。もはや格好がつくつかないの話ではない。
「それで?土産というのはなんだ」
「えっ、ここで聞くのかい!君は本当に」
「腹が空いたのだから仕方がないだろう。エスゲンの腹が鳴るのも聞いたぞ」
「仕方のない子だなあ」
何やら言い分はあるらしかったが、結局のところエスゲンは甘い。ここまで許してくれるのは自分だからなのだ、とマグナイは心の底から安堵した。エスゲンが包みを開けて行く。どうせならば食べさせてもらおうなどと考えるマグナイは、エスゲンが一体何を思うに至ったかをすっかり忘れてしまった。
お土産の柿の葉寿司を食べ終わった後、そのまま寝てしまったマグナイについて、首尾を聞いたダイドゥクルが笑い転げたのは言うまでもない。
〆.