BL NOVEL
  / HOME




世界で唯一の特別だから、許してね


オランジェットの夜


「これでよし、と。今回はまあまあかな……ギリギリになっちゃうから、経理のお姉さん、怒らないでくれると良いのだけど」

アジムステップきっての商社であるオロニル社唯一のドマ担当、エスゲンは見積書が最終盤であることを確認して一つのファイルに入れた。諸経費の仮払い精算書も確認済みで、あとは提出を待つばかりである。毎度のことながら、この出張後の経費のまとめ作業は億劫だった。

 出張は窮屈なオフィスを抜けて開放感を齎すし、年中パソコンの画面を眺めるよりも目も肩も楽だ。おまけにエスゲンは取引先と丁々発止のやり取りをする事が好きだった。第一、アジムステップでは味わえない種々の食べ物はエスゲンの舌に刺激を与えてくれる。これが一人ではなく、好いた相手とならばというのは、仕事にしては欲張り過ぎかもしれない。否、不埒だ、と苦笑してエスゲンは首を振った。

 仕事に恋愛を絡ませて考えるなど、これまでのエスゲンではありえないことである。1週間の長期出張は骨だった。おまけに通信制限を受けた僻地にも足を伸ばしたので、エスゲンは恋人と呼べる人ーー年下の後輩にして社長であるマグナイに長らくお目にかかっていない。恐らく自分は寂しかったのだろうな、とエスゲンは唇を綻ばせた。たまには思い切って自分から甘えるというのも良いだろう。

「ああ、やっちゃった……私ってどうしてこう、ああもう、どうしよう」

オフィスに辿り着くなり、エスゲンは上機嫌も何処へやら、さあっと顔を青ざめさせた。どこの部屋からも甘い香りが漂う。牛乳のまろやかさ、甘さの根源の砂糖、そして主役を張るのはカカオ、チョコレートの香りに相違ない。昨日はここで一大イベントが起きていたというのは間違いなく、エスゲンの席の上にさえ普段のお礼に、とのメッセージつきの可愛い袋が置かれていた。今日ではない証拠に、人々は普段通りの仕事を黙々とこなしている。

世はバレンタインデーだったのだ。これまで恋人たちの日などという潮流に乗るつもりはなく、縁のなかったエスゲンだが、今年はそうも言っていられなかったのである。

「マグナイ君、怒ってるだろうなあ」

きっと拗ねているだろう可愛い恋人を思うと、エスゲンは生きた心地がしなかった。付き合う以前から薄々気付いていたのだが、マグナイはイベント事にこだわる男なのである。年越しをクガネの秘湯で過ごしたことを思い出し、エスゲンはほんのりと頬を染めた。入念に練られた心づくしの持て成しに自分は何も返せていないままである。何か今度こそ、と2週間ほど前に思い立ったはずだというのに、出張を言い訳にするわけではないがすっかり忘れてしまっていた。おまけに自分は何の連絡もとっていない。大変まずい。

「よし」

何事も思い切りが必要な時というものがある。挽回策を練ると、エスゲンは経理に書類の提出に向かった。




 たった1日の出来事が、気分の上下を左右するとは奇妙な話である。机の横に祭壇の如く積み重なった菓子やら何やら気合が入った代物を丁寧に退けると、マグナイは低い声で唸った。どれ一つとして自分の望むものではない。後でバートゥに整理させよう、と決めるとマグナイはもう一度だけプレゼントの山を検分した。8割はチョコレート、手作りから高級ブランドの限定品まで幅広い。1割は酒類で内容はチョコレートと同じだ。そして更に残る1割はネクタイとハンカチで、贈り主たちとしては少しひねったつもりなのだろう。どれにも誠実に、だが慇懃に断りを述べなければならないが、今年は本命がいるのだから苦ではないと思った自分は愚かだった。

 どうにか付き合い始めたエスゲンからはプレゼントもなければ連絡もない。最初こそ苛立ったが、あのエスゲンに限ってまさか、という暗雲が厚く垂れ込めるようになり始めていた。付き合っている上に恋人らしいことは一通りしているのだが、エスゲンの方に実はその気がない、ということはないだろうか。時折ダイドゥクルにからかわれる話だが、この道に不慣れなマグナイに飽きている可能性すらある。調べ上げて心尽くしの対応をしてきていたが、独り相撲だとしたら何と愚かだろう。

 希望を込めて、エスゲンが持ち前の天然気質でバレンタインデーの存在そのものを忘れていてほしいのだが、社内がこの様子では外ではさらに盛り上がっていたはずだ。マグナイもここ1週間は特に準備に勤しむ人々を街中で見かけたものだった。流石のエスゲンも見逃すはずはない。おまけに、エスゲンからは連絡もない。自分からすることも恐ろしい気がして、マグナイはただスマホを握りしめるにとどまっていた。

「勘弁してくれ……」

こんなにも自分を振り回せるのは、この世で唯一エスゲンだけなのだ。机の中にしまっておいた箱を取り出すと、マグナイは溜息をつきーーパッと瞬いたスマホの画面に目を輝かせた。勿論エスゲンからのメッセージだ!戦慄く手を抑えながら読みとり、マグナイは長々と安堵のため息を漏らした。

「場所は……悪くないな。まだ望みはあると思って良いのか?エスゲン」

自分からの返事は諾、それだけで十分だった。




 再会の市に、ひっそりとビルの屋上に鎮座するビストロがある。かつて取引先の社員にエスゲンが教えてもらった店で、何年経っても客は少なく、心地よく落ち着いた空間を保っていた。ビル風が少し冷たいが、天上に広がる自然の舞台を楽しめる場所はそうない。いわゆる展望レストランではなく、自分も自然と一体化した心地になれる、気取らない場所なのだ。

長らくエスゲン一人のための息抜きの場であった店は、今は大切な人と共有する場所となっている。いつもの席で水一杯で待っているのも、相手が大事なマグナイだからだ。彼より先に何かを味わっても、彼とともに楽しむ程美味しくはない。これだけでも半休をもぎ取った甲斐がある、とエスゲンは夜風に目を細めた。

「すまない、遅くなったな」
「ううん、急に呼び出してごめんね。忙しいのに、来てくれてありがとう」

息を切らせて駆けつけたマグナイがいつにも増して眩しい。贔屓目に見なくともマグナイは美しく雄々しいとエスゲンは思う。そんな存在が今、ただ自分のためだけにここにいるとは何という幸福だろう。ウェイターに予め頼んであった飲み物を持ってきてほしいと伝えると、エスゲンはマグナイに頭を下げた。

「マグナイ君。ごめん、ずっと連絡してなかった。出張で電波が届かない場所に行っていて……ううん、これは言い訳だね。仕事に夢中で、君に連絡することを忘れてたんだ。帰ってすぐに寂しくてたまらなくなったなんて、都合が良すぎるよね」 「……話はそれだけか?」
「え?あ、ううん、まだあるんだ実は」
「別れ話なら聞かんぞ。理由だけなら聞く」
「何言ってるの君?私、そんなつもりじゃ」

きゅっと細められたマグナイの目に、エスゲンはどうしようもないほどに愛しさを感じた。この完全無欠のような男が心底恐れている!寂しいと拗ねる子供のように振る舞う彼を、一体誰が知るだろう。エスゲンだけ、エスゲンだけなのだ。ああもう、ともごもごすると、エスゲンはぎゅうと人目も憚らずにマグナイを抱きしめた。こんなにも愛しいとはなんとずるい存在だろう。どんどんと深みにはまっていく一方で、却って自分の先行きが心配になってしまう。

「君と別れたくなんてないよ。ずっと、君が飽きるまで一緒にいたいもの。……寂しがらせてごめん」
「そんな言い方をするな。謝るのは止せ……余輩からも連絡をすれば良かったのだ、お互い様だろう?それに、お前に飽きるなどない。お前は余輩のナーマなのだぞ」
「な、ナーマって、君!」

流石のセリフに、エスゲンも赤面を抑えられなかった。頬が熱い。オロニル族にとってナーマは真実大事なものだ。この世に二つと無い、人生の宝物、運命の相手である。夜風では到底冷やせないほどに熱くなった顔が恥ずかしく、エスゲンは慌ててもう飲みきってしまった水のグラスを掴んだ。他に何をするか思いつかなかったのだ。一方マグナイはと言うと、どうやらこのエスゲンの失態で余裕を取り戻したらしく、いつも通りの傲岸不遜さを取り戻していた。

「そうだ。改めて問おう、エスゲン。お前は余輩のナーマか?」

自分で良いのか、という問いは彼の心を踏みにじるのだ、とエスゲンはよく心得ていた。違うのか、と畳み掛けられれば詰まってしまうのは自分で、要するにこのやり取りはハナから答えが決まっているのである。ましてやエスゲン自身にとって幸せこの上ない出来事であれば否やはない。だが、ほんの少しだけ捻りを効かせたくて、エスゲンは小さくうなずいて返した。

「そうであってほしい。心の、底から。ねえ、マグナイ君。聞いても良いかな」
「ああ、構わん」
「じゃあ聞くね。……君は私のナーマかい?」
「エスゲン」
「うん」
「狡いぞ」

心底悔しそうな表情にゾクゾクするのだ、とは口が裂けても言えない。だって聞きたいんだもの、と上目遣いで追加すれば完璧だ。毎度のことながら、マグナイはこの戦法に弱い。あまりにも簡単なので、他の人間のそれには反応しないでほしいと心の底から願う。

「わかった、答えよう。余輩はお前のナーマだ。他にはありえぬ。……だが、念のためだ。これを嵌めておけ」
「なんだい、これ……え、わ、指輪って、マグナイ君!」
「安心しろ。俺も嵌める」

虫除けだ、と笑うマグナイは矢張り上手だった。ありがとうとしか最早言えない。仕事ができる男は、という警句がエスゲンの頭を過る。この男は本当に、ソツがない。詰められるところはとことん詰めておこうと言うのだろう。ちらりと卓上を見やれば、いつの間にか飲み物が配膳されていた。ここで乾杯というのも間が悪い。エスゲンは深呼吸すると、この半日間駆けずり回って手に入れたものをマグナイに手渡した。

「ええと、指輪のお返しにならないかもしれないけど、私からのバレンタインデーの贈り物だよ。気に入ってくれたら良いな」
「シャツか。良い柄だな」
「君にぴったりのサイズだからね、安心しておくれ」

一息に告げれば、包みを開いたマグナイの手が止まる。こちらの意図が伝わってくれただろうか。ぽん、と音が出そうな程にマグナイの頬が染まる。どうやら自分の作戦は成功したらしい。

 男性のシャツというのは要点があって、首回りに肩幅、はたまた人によっては腕の太さなどが難関になったりもする。幸いにしてエスゲンはもうマグナイの体を隅々までよく知っていた。目測ではあるのだけれども、そう差異はないと確信できるほどである。チョコレートではありきたりの上に、1日遅れの言い訳にはできない。手作りには時間がかかり、他に洒落たものでも、と考え抜いた末の結論だった。エスゲンだからこそ渡せると自信を持って言える唯一の品であるはずである。

「次のデートでは、これを着ていこう。お前に合う服も探すぞ」
「君の見立てか。それじゃあ私も張り切らなくちゃね」

不思議そうな表情をするマグナイに、エスゲンは君がかっこいいから釣り合いたいんだよ、と笑った。こんなことを思うのは人生で初めてのことである。自分なんて、自分など到底届きはしないと、だが届かないままであることは許せないと幾度足踏みしただろう。だから今、その一歩を踏み出したい。指輪を嵌めれば、これもピタリとエスゲンの指に嵌った。彼もまた、エスゲンの体というものを知り尽くしているのだろう。それが堪らなく嬉しい。

「それじゃあ、遅くなったけれども乾杯しようか。チョコレートは飽きてるかもしれないから、マーマレードのお酒にしてみたんだ……君が気に入ってくれたら嬉しいな」
「マーマレードか。初めてだな。それに、お前らしい」

きっと、マーマレードを見るたびに、その香りを感じるたびに今日のことを思い出すだろうとエスゲンは微笑んだ。重なるグラスの向こうに、完熟したオレンジのような月が丸く浮かんでいた。


〆.