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ああお父さん、海が聞こえるよ



海潮音


 アランは輸血液を入れるアンプルを作る職人である。全てを清潔に、精密に作り上げて医療教会に納品すれば、それが多くの患者や狩人たちを救うことになるのだ。つまり、この街を支えているのは自分と言っても良い、とアランは小さな体いっぱいに誇りを持っている。街行くあの人も、この人も、獣狩りの夜の後馬鹿騒ぎをする狩人たちも、アランなしでは成り立たないのだ。なんと愉快なことだろう!もちろん中身があっての話だということは重々承知している。だからこそ、アランは今日もうやうやしく医療教会の入り口でこうべを垂れるのだ。

「お父さん、医療教会に行くの?」

アンプルを積んだ箱を確認していると、パタパタという軽い足音と共に我が家の天使が顔を覗かせた。アランの二人の子供のうち上の方であるエリアスである。金色の髪の毛と榛色の眼が美しく、アランは時折本当に神が遣わしたのではないかと錯覚するほどだ。

「ああ、エリアス。そうとも。今日は輸血液を作る場所に行くんだ。わかったら学校に行っておいで」
「……ついて行っちゃだめ?」

思えば、子供を職場に連れて行ったことはなかった。取り立てて特別だとは思っていなかったのである。だが、将来息子に仕事を譲ろうとするならば、いつかはどこかで見させるべきだろう。しばし考え、アランは妻に叱られることを承知の上で頷いた。

「良いだろう。お母さんには内緒だぞ」
「やったあ!」

荷馬車に乗り込んだ子供のはしゃいだ声を、アランは決して忘れることはないだろう。これは夢の詰まった声だった。輸血液を製造する場所で時折響くうめき声や恍惚とした祈りの声、アランの背筋を震わせるそのどれとも異なる。親子水入らずのありふれた会話を楽しみ、アランは荷馬車を実験棟の前に停めた。ここは、医療教会のごく一部の関係者だけが知る場所である。アランの眼には病院のようにしか映らないのだが、医療教会はここを秘密にしておきたいらしい。教区長がアランに、今度からはここに直接納品してほしいと言ってきたのはつい二ヶ月ほど前のことである。

「良いかい。お父さんはこの箱を納めてくるだけだから、ここから見ておいで。ここは秘密の場所だから、馬車を降りたり、あちこち見てはいけないよ」
「ええっ、何も見れないってこと?」
「この後に診療所にも届けるんだ。そっちは好きに見ても許されるから我慢しなさい」
「秘密の場所だから?」
「そうだ」

秘密とは時に恐ろしさを秘めている。おぞましいからこそ秘するものがあるのだということを、アランは肌で感じ取っていた。なんということもないはずのこの実験棟はどことなく不気味である。それは通用口を行き来するだけのアランにも響く声たちのせいだ。あれらを息子には聞かせたくはない。得体の知れない不気味さなど子供には相応しくないものだ。不満気な息子を置いて、アランは荷箱を順々に運んでいった。陽気な受付をする女性はかえって不気味さを増す。納品物の確認後に伝票にサインをもらい、今日の一つ目の仕事は無事に終わった。

「待たせたな。さ、次に行くぞ……エリアス?」

あの明るい子供は影形もなく、慌てて荷箱をかき分けても見当たらなかった。大声を出せば医療教会の人間に勘づかれる。だらだらと冷や汗を流しながら、アランは荷を確認するふりをしてあたりを見やった。先程やりとりした医療教会の人間はいない。探すならば今だ。

「エリアス!エリアス!返事をしなさい!怒らないから」

動悸が激しい。自分の心臓の音を、アランは生まれて初めて意識した。息子がもし、と想像するだけで血の気が引く。あのうめき声の中に息子が混じったら?もう既に中に、

「お父さん、お父さん!」
「エリアス!」

草むらから這い出てきたのは、蒼白な顔をした息子だった。幸い、どこにも怪我はないらしい。ぎゅっと抱きしめて無事を確認すると、アランは素早く荷馬車に乗せて自分も乗り込んだ。馬に鞭を当てて後ろも見ずに走り出す。誰も見ていない。振り返らずともわかる、誰も自分たちには気づいていない。

「……怖かったのか?何を見たんだ、エリアス」
「海が」
「海?」

思いもよらない単語に、アランは拍子抜けする思いだった。海。それはヤーナムから少々離れた土地にあるものである。息子はまだ見たことがないはずのものだ。

「海の音は綺麗なんだって、言ってたんだ。小さな子供や、お姉さんもいたと思う」

歌っているんだ、チャプチャプと。どこか遠くを見つめると、エリアスはぶるりと体を震わせた。

「患者の人たちか。あそこには重病の人が治療を受けていると聞いたことがあるよ。他に何を見たんだ?」
「お父さん、僕が病気になっても、あそこには連れて行かないでね」
「エリアス?」
「あそこは嫌だ、あそこは嫌だよ!僕、良い子にしてるから……もう勝手に行ったりしないから、あそこには連れて行かないで」
「わかった、わかったよ。お前をあそこには連れて行かない。約束する」

安心させるために手早く約束しながら、アランは再び冷や汗をかいていた。息子がそんなことを申し出るとは、余程恐ろしいものを見たに違いない。重病の患者たちとは、いったいどんな状態なのだろう?宥めすかし、街中の賑やかなところに差し掛かったあたりで、漸くエリアスは自分が見た恐ろしいものを話した。

「あの人たち、頭がなかったんだ」

でも、何かが頭のところをもごもご動いているんだよ。まるで頭を食べているみたいにーー

それきり口をつぐんだ息子に忘れなさい、と掠れる声で告げたものの、それはアランの脳裏にこびりついて離れなかった。おそらくエリアスもそうだろう。この街のおぞましい部分に二人は触れてしまったのだ。

 アランは今日もアンプルを作る。この街のために。犠牲者がいつしか報われるように。それは誇りではなく祈りで、アランは息子にこの仕事を継がせようという気持ちを既に失っていた。


〆.