更新は都度、
宝物、貸します
この世は宝物だらけだ。みんなそれぞれ錠がかかっていて、鍵を持っている人間だけが宝を手にすることができる。運、人脈、権力、才能、そして何よりも金だ。大概のものは金で解決ができる。時間も買えれば才能も人脈もどうにかなるというもので、ままならないのは運ばかりとなる。その肝心の運が自分にはなかった、とクリーチャー・ピアソンは天を呪った。本当はもっと色々なものを持っていないのではないか、という現実の声に対しては、すべて覆しようがあるとせせら笑うも、こればかりは何度立ち向かっても跳ね返される強固な壁だった。運だけあれば、手に入らなかったあの心だってもう大事にこの胸にしまいこんで置けただろうに。
ゲーム開始の合図と同時に立ち位置を確認し、クリーチャーは速やかに手近な箱を漁った。場所はおなじみの軍需工場。安全圏にいると分かれば、後々を考えて開けておくなどしばしばである。場合によっては相棒の懐中電灯と交換しても良い。この箱というものは奇妙で、あちらこちらに荘園の主人が入れた気紛れなものが入っている。荘園の魔法は今更驚くことでもない――白紙の地図に、見る間に地形が浮かび上がった時の驚きは忘れ難い。
最初の頃は四人の参加者に割り振られていた地図に工具、注射器と懐中電灯しか出なかった箱は、いつしか住人が増えてゆくごとに多彩になった。機械人形のコントローラー、本、マジックステッキと多才を極め、新しいものが出てくるごとに本来の持ち主(荘園の主人は一人につき必ず特別な魔法の道具を授けている)の講義を聞くことしばしばである。爪楊枝ほどの簡単な鍵開けで瞬く間に開いた箱に、クリーチャーは鼻で笑った。外の世界でもこんな風に宝箱を開けられていれば、どんなに楽だったろう。実際にはいつ見つかるか焦りながら挑んだものだった。宝箱を探すところからして難しく、慎重さを要求される。
「んー?見覚えのない代物だな。なんだこれは」
さて今回は、というと箱から出てきたのは奇妙な革製品だった。筒状で、ちょうど腕にはまりそうである。新しい住人はまだ現れていないので、連絡こそなかったが荘園の主人による遊びだろうか。いつまでもグズグズしているわけにもいかず、クリーチャーは興味が赴くままに腕にはめてみた。なかなかしっくりと体に馴染む。ひょっとするとこれは自分に割り振られた第二の特別な道具なのかもしれない。さて何ができるだろう、と壁に手をついた瞬間――ビュン、と視界がぶれた。
「っ、なななんだ、うわっ」
正確にはクリーチャーの体がゴムまりのように現在進行形で壁にぶつかりながら弾んでいる。脳味噌がグラグラとして目が追いつかない。ハンターに見つからないことを願って小声で叫ぶも、動きが止まらないものだからまいってしまう。あなたは声が大きいから気をつけて、とエミリー・ダイアーに指摘された際は逆手にとってわざと見つかるのさ、と返したが今見つかるのは非常にまずい。ひとしきりガツンガツンと壁にぶつかって止まったものの、頭の周りを飛び交う星で視界が落ち着かないままだ。めまいと同時に気持ち悪さも沸き起こって忙しない。
「何面白いことやってるんです?」
「げ、」
だが、茶番というものは束の間の休憩すら許されないらしい。ゆらりとたなびく霧の刃が右腕を掠め、クリーチャーは慌てて飛び退った。追いついてくる影は飽きるほど追いかけっこを繰り返したリッパーである。細長い影は人の身よりも遥かに伸びていて恐ろしい。落ち着いて見たならば左手が巨大な鋭い爪を纏っていることに気づくだろう。あれにぶち当たってどれほど痛い思いをしたことか。奇妙な道具を外すこともできずに窓枠を越え、外周の塀沿いをぐるりと回る。板と壁と障害物だらけの三角地帯はクリーチャーのお気に入りだった。どんなハンターでも暗号機を1、2台分は確実にごまかすことができる。解読すべき暗号機は残り4台。ハンターが近くにいる、と仲間に知らせて口笛を吹けば、遠くからリッパーの鼻歌が混じる。追いつ追われつする仲で形容するには奇妙かもしれないが、ある意味二人は心が通じていた。赤い光が壁越しに煌き、クリーチャーは壁に手をついて
「しまった、」
「ヘァア」
ビュン、と再び視界がぶれてリッパーの眼前を過ぎる。飛距離は障害物の多さと関係があるのだろうか?ぶつかればぶつかるほどに先へと進むような気がしたが、自在に操れるほどクリーチャーも冷静ではいられなかった。普段とは調子の狂った二人がグルグル追いかけっこを続け、さながらバターになろうかという児戯を思わせる。当人たちは至って真剣だが、事態がそれを許さない。あちらへ、こちらへ、どこにたどり着けるのかは誰も知らなかった。
「もうあなたは結構です」
「おい!」
「そのよくわからないものについては次回対策しておきますからね。覚えておきなさい」
埒が明かないと判断したのだろう、残りの暗号機が二台となった時点で先に音を上げたのはリッパーだった。当人さえ訳のわからない動きを続けるものを追いかけ回しても無駄だろう。せっかく時間稼ぎになったというのに、苛立たせるというよりも呆れさせてしまったことにクリーチャーは唇を噛んだ。普段であれば軽快に滑り出す嘲り文句の一つも思い浮かばない。背を向けたリッパーを見送って新しい箱を開けにかかる。中から出てきたのは懐中電灯だった。もう遅い。
「なんだっていうんだよ……」
まだあと2回使用可能、と記された革製品(本当に呼び方がわからないままだ)を見つめると、クリーチャーは意を決して端の糸をベルトに結びつけた。これは帰ってから再度研究するべきだろう。
ひょんな宝物から始まったゲームは、フレディ・ライリーによる予想外の粘りによって引き分けに持ち込まれた。チェイス時間がクリーチャー以上を記録するという、不名誉極まりない結果である。終了後のフレディはいつもどおりの尊大な態度ではあったものの、具合でも悪かったのか、といつにない心配までしてきたものだからクリーチャーの面目は完全に潰れた。その場で暴れ回らなかったのは、頭の中があの忌々しい道具の使い道を明らかにすることでいっぱいだったからに過ぎない。
「……大丈夫だ。ご心配ありがとう、先生」
「これは本格的な診療が必要だな。ダイアー先生、あとは頼んだ」
「わかったわ」
エミリーまでもが優しく接して来るとはもはや奇跡の域である。柔らかく、だが確りと断ってクリーチャーは夕食もそこそこに練習場に繰り出した。ゲートを潜った後も冷や冷やしていたが、ベルトに結え付けた道具は無事持ち出せた。もう直ぐ夜を迎える明るい闇の中、得体の知れない道具はまるで異世界の住人のようでさえある。もし、この持ち物にも誰かを割り振ろうとするならばどんな人物だろう?いや、これは自分のものだ、とクリーチャーは判じた。他の面々から新しい道具の話はついぞ出ない。気づいているのはクリーチャーだけで、新しい参加者の話もなかった。荘園の主人の気まぐれか、自分の働きが認められたのかはさておき、まずは自分に新たな所有物ができたことはクリーチャーをひどく喜ばせた。ものが多いことはいい。埋め尽くされる空間は贅沢の表れだ。富だ、豊さだ、安心だ、目を瞑って安心して眠れる日々が直ぐそばに控えている。
落ち着いて道具に触れてみる。硬い革細工は熟練の手によるものだ。ナイフや弓矢くらいならば十二分に防げるに違いない。では防具か、と言えばあの弾ませる起爆装置のような働きからして異なるだろう。よくよく調べてみれば、ぴったりと腕にはまった脇に切り返しのようなものがついている。恐る恐る引っ張ってみればボン、と軽い音がして道具が縮んだ。
「なるほど」
もう一度切り返しを引っ張れば今度は最初のように道具が膨らむ。腕にはめてもまるで同じで、試しに腕にはめた状態のまま縮め、そのままそうっと練習用の板壁にぶつける。ガン、と軽く音がするだけでゲームの中でのような目覚ましい働きは見せなかった。では今度はと道具を膨らませる。息を吸って、吐くと同時に壁にぶつければ、クリーチャーは風と一体になった。
障害物が多ければジグザグを描くように、少なくても素早く遠くに離れることができる。ただ移動するだけでは物足りないようにも思うが、リッパーの慌てた様子からして撹乱するにはなかなか良さそうだ。何より、頬を撫でる風が心地良い。こんな軽快な気持ちは、汽車の尻尾を捕まえてよじ登るよりも楽しい。残り一個になってしまった道具を愛しく撫でると、クリーチャーはこの記念すべき宝物を取っておくことに決めた。最初に手にした懐中電灯も、後ほんの少しつくかつかないかというギリギリの状態で保管している。魔法の道具はありがちのように使えば消えて無くなってしまうが、これだけはクリーチャーのものなのだ。
一瞬、本当は別の持ち主がいるのではないかという理性的な予感が頭をよぎってクリーチャーは首を振った。先に手に入れたのは自分なのだ。後から来た人間には既得権とやらをわからせてやれば良いだろう。
全く魔法だ。ナワーブ・サベダーは目の前に並べられたおもちゃ達に目を丸くした。一風変わったゲームをするので是非いらしていただきたい――勝った暁には莫大な賞金を進呈いたしましょう。苦難を乗り越え戦地を抜け出したナワーブの手元に届いたのは目を疑うような胡散臭い手紙だった。本来、ナワーブはあからさまに怪しい手紙を信じて出向くような人間ではない。しかし手紙!そう、手紙なのだ。手紙などナワーブに届くことは決してあり得ない。封を開ければ誰にも自分の居場所を知らせていない、本名さえも知らせていないにもかかわらず名指しで、それも読めば読むほどナワーブの人となり、とりわけ戦地での事件について詳細に書き綴られており心底肝を冷やした。いったい誰が自分の場所を突き止めたのだろう?下手をすれば命の危険にも関わる。
厄介ごとはごめんだった。何かと注文の多い雇い主に悩まされた挙句に地獄を見たのだから無理もない。とは言え無視はできなかった。もし、手紙の送り主がナワーブについて誰かに漏らしでもすれば明日をもしれない身の上である。それになんと言ってもどこへも出られないほどに手元不如意だった。異国におけるナワーブの身の上を証明するものも保証するものも何一つとしてない。金も人脈も情報もなければ運もないのだ、否、考えようによってはこの手紙こそ自分の運が上向いてきた証拠ではないか?
なけなしの金を使ってたどり着いた田舎の荘園はまるで物語の世界のようだった。汽車が駅に停まるたびにこの駅だろうかと一睡もできずに乗り継いでやって来た先には既にお仲間たちが戯れに身を投じており、故郷でなければなかっただろう程に柔らかに迎え入れてくれたのである。にわかには信じ難い。
「……あー、あんた、本気で言ってんの?こんなもの使ってその、ハンターから逃げ回ってるなんてさ」
「疑う気持ちはわかる。残念ながら事実だ」
胡散臭いと言えばにこやかな荘園の住人達も同じだったが、一際気になるのはこうしておもちゃについて説明するクリーチャー・ピアソンなる『慈善家』である。他の誰もが何某か本当の素性を述べているようには感じられる中で唯一彼だけは嘘をついているとナワーブの勘が告げていた。ナワーブへの親切さは慈善家としての本分というよりも、自分の思い通りに物事を運ぼうとする目的で行っているように思う。マジックステッキをエイッと振ったクリーチャーの姿が幻に揺らぎ、時間が止まったような様子に慌てて近づけば背後で口笛が鳴る。ニヤリと笑うのは生きたクリーチャーだった。
「どうだ?これで信じる気になったか」
「ああ。信じないといけないらしいね」
中には個人固有の道具もあるので利用する機会が全くないものもある、とクリーチャーは窓の外でかけっこをする猪らしき獣とヒゲモジャの男を指差して見せた。猪。煩わしかった猪突猛進の同僚を思い出し、ナワーブは顔をしかめた。そもそもあの獣の匂い自体が苦手だ。箱から出てくる道具は選り好みできないと聞いていたから、猪がその対象から外れていることに安堵する。他のものも、一応得手となる持ち主がいるのだ、とクリーチャーはマジックステッキをくるくると振り回した。ゲームの開始時点で本来の持ち主達は道具を持った状態であるらしい。その程度の猶予は与えられるということだろう。
「これはセルヴェ、最初に鳩を出す手品を見せた奴の持ち物だ。この注射器はエミリー、」
「あんたは?」
「私は……そうだな、当ててみてくれ」
笑い声が混じるも笑わない目に、ひょっとしたら自分があんた呼ばわりをしたことでイラついたのかもしれないとナワーブは思い当たって舌打ちした。馴れ合うつもりはないが、恨まれる予定もない。当たらず障らず、賞金に手が届くように手を携える仲でありたいのだ。非常に初歩的な失態を犯したな、とナワーブは慎重に考えを巡らせた。卓上の道具で紹介されていないものは残り五つ。地図、懐中電灯、何かのコントローラー、本、そしてナワーブにとっては最も馴染みのある肘当てだ。最初にコントローラーと本が知的さの点で不釣り合いだと却下する。クリーチャーが纏う空気は教養ある人間のそれではない。どちらかと言えばナワーブにとっては親しみやすい類のものだ。地図は?クリーチャーが地図を広げている姿はまあまあ想像できる。だが、懐中電灯の方がより似合いそうだ、と最後の選択肢に手を伸ばす。どうやったら使い物になるのか、さっぱり見当がつかない道具はクリーチャーによく似ていた。
「ピアソンさんの道具はもしかしてこれ?」
「驚いたな。正解だ」
「当てずっぽうだけどね」
ヒュウ、と口笛を吹くクリーチャーにどう使うのかを問えば、懐中電灯が奪われ鋭い閃光を浴びせられた。目をそらせばやり過ごせるが、目に忌々しいほど突き刺さる。笑って懐中電灯のスイッチを切るクリーチャーの目に浮かんだのは意趣返しをした人間の暗い喜びだった。やはり気分を害していたらしい。つかみどころのないクリーチャーの素直な部分を見たような気がして、ナワーブはほんの少しだけ好感を抱いた。わかりやすい幼さは可愛らしささえ感じる。可愛らしい?それこそクリーチャーには不釣り合いな表現だ。だがこの気持ちを言葉に表すならば最適な言葉は『可愛らしい』に尽きる。玉に瑕ならぬ瑕にも玉といったところか。
次々と道具の使い方と持ち主が結びつけられ、ナワーブの頭の中に刻まれてゆく。本当にそんな真似をしてまでゲームをしなければならないのだろうか?答えは是、死にたくなければ死に物狂いで使わねばならないとのことだった。とりわけ消耗品を扱う人間は、補充分がどこにあるのか(だが中身は不確定だという、全くふざけている)をも把握する必要があるのだという。ゲームのルール、地理、道具の使い方、荘園での過ごし方、覚えねばならないことは山ほどありそうだ。ではそんな自分だけの持ち物とは一体どれだろう?もちろん最後に残ったものに決まっている。肘当てだ。
「俺の道具はこれなんだね」
「違う違う違う!こ、これは私のものなんだ」
自分の得物を手に取ろうとするや否やクリーチャーが間に入って遮る。その勢いは本来ならば避けられるナワーブが動きを止めてしまったほどだ。突然始まった吃音と言い、キョロキョロと動き回る目玉と言い、クリーチャーの言い分はなんとも胡散臭い。異国に慣れぬナワーブにとってさえも嘘であることが明白だった。慌てふためくクリーチャーの手からするりと肘当てを掠めとると、速やかに腕にはめる。まるで最初からそこにあったかのようにしっくりとした着け心地にナワーブは益々確信を深めた。第一、クリーチャーは既に懐中電灯を持っているのだ。一人につき一つの原則の中、彼が荘園の主人からエコ贔屓される風には到底見受けられない。
「なんでも良いよ。それじゃ、肘当ての使い方を教えてくれる?ピアソンさんのものならよく知っているんでしょ」
「あ、ああ」
笑顔を添え、ちょっと下手に出てものを頼めば誰もがナワーブの願いを聞く。それが通じない相手はもういなくなってしまった。クリーチャーもご多分に漏れず当てはまり、耳まで真っ赤に染めると安堵したように何度も頷く。化けの皮はいずれ剥がれるだろうが、大した話ではない。これは貸しだ、とナワーブは練習場へと案内するクリーチャーの後を追った。いつか返してもらうとしよう。
肘当て。なるほどあの奇妙な道具はわかる人間にはわかる名前がついているらしい。ナワーブの初陣を無事勝利で終え、クリーチャーは自分の幻想を悲しく打ち捨てた。ゲームが始まったばかりの段階でナワーブが腕にはめた肘当てをこちらに示して来た時点で勝負はついている。あれは自分に与えられた祝福などでは全くなく、単に気の速い荘園の主人による過失だった。それでも一度自分のものだと思ってしまうとモヤモヤとした気持ちが離れ難いとクリーチャーの髪の毛を掴んで注意を向かせるのだから困ってしまう。
昔からずっと、利害が表裏一体となったこの癖とクリーチャーは一緒に生きて来た。他に誰も道連れのない人生の中で、家族と言っても良いだろう。このままあの男を放っておいて良いのか、とナワーブが肘当てで描いた華麗な弧を目が追う。片側だけに開かれた視界であっても見失うことのない鮮やかさで、他の仲間からは称賛の声が上がった。既に対策は十分だとふんぞり返っていたリッパーの鼻が明かされたのだから面白い。時折懐中電灯で援護に入ったクリーチャーも舌を巻いた。
「あんたに借りた肘当て、ちょうどよかったよ」
「そ、それは良かったな」
だが、自分の所有物を理解しているであろう男はひどく明るい調子でクリーチャーの横に並んでいた。全く持って得体が知れない。最初、玄関ホールで出迎えた際には随分と警戒された(荘園に来る人間は多くが他人に警戒する、皆後ろ暗い何かがあるのだろうとクリーチャーは踏んでいた)ものだが、騙されたとも嘘つきだとも言わずに迎合するそぶりはどう対応して良いかがさっぱりわからなかった。元傭兵だと聞いているので、ことが露呈した際には舌先三寸で丸め込もうとあれこれ考えた自分が馬鹿のようではないか。
否、ナワーブの態度は単なる罠の可能性がある。傭兵という生き物は腕一本で渡り歩くため、交渉上手でなければならない。相手の懐に入り込むなどお手の物だろう。これまで知り合いに傭兵がいなかったため単なる想像だが、瞬く間に荘園の住人たちに上部だけでも馴染んだのは紛れもない事実だった。上辺すらも取り繕うことに苦労したクリーチャーとは大違いだ。上部だけ、というのはクリーチャーのよく知る薄っぺらさが若干漂うためだろう。他の人間はほぼほぼ気づかず、仲良しごっこに興じているようだった。
「これからも貸してね」
いけしゃあしゃあと注がれる言葉が耳を汚す。まるでお前のことはよくわかっている、だからこそ優しくしてあげようと先回りをされているかのようだ。そんな風に差し出された手を取るのは気分が悪く、例えその手が神のものだとしてもクリーチャーは断るだろう。だが相手はナワーブである。波風を立てて恐ろしい目に遭うよりはほら話で遊ぶ方が安全だ。自分自身が当てはまるということは他人にも当てはまりうるもので、クリーチャーは本心の知れないナワーブの機嫌を損ね、暴力を振るわれることを恐れていた。何にせよ、これは自分のものだから良いじゃないか。ナワーブが余った肘当てをクリーチャーに渡す。行き場のないホラを抱え、クリーチャーは偽物の烙印に頷くことしかできなかった。見かけ上はなんの問題もない。全ては自分が思い描いた通りだ、そうだろう?
かくて、クリーチャーの部屋にはいくつもの肘当てが並ぶようになった。最初は茶色の素朴な革細工だけだったが、クリーチャー同様にナワーブにもナイチンゲールから気まぐれな衣装を与えられるようになると一気に賑やかになる。フワフワの赤や青の毛皮を纏ったもの、金細工に変わったものではくるくると巻いた大きなスプリングだなんて奇をてらった代物まであった。これら全てが輝かしいナワーブの凱歌である。彼が余裕を持って勝った時にだけ余り、わざわざクリーチャーに『返して』来るのだ。逆を言えばギリギリまで粘って徒手空拳か他の道具を使って戦った場合には何も残らない。場合によってはナワーブがボロ雑巾のようになって帰ってくることと対になっている。
勝利はクリーチャーにとっても喜ばしい。賞金を手にする機会が近くなるからだ。だがとっくのとうに自分のものではないとわかり切った道具たちの遺骸を並べてどうしたら良いのだろう。この時点でクリーチャーの執着心は消え失せていた。あまりにも何度も『借りていくね』『貸してくれてありがとう』というセリフを聞き続けたせいかも知れない。嫌味のように響くセリフをやり過ごしているうちに挨拶のように気にかからぬものを超えて、もう自分のものではないと認めて良いから手放してしまいたいという衝動にかられていた。だがその度にそれこそ相手の思う壺だと苦い経験たちが囁いて引き止める。部屋の片隅には見て見ぬふりをしたい失敗が積もっていた。
途中まで数え上げようとして飽き、クリーチャーはその使われた痕跡から時間を遡ろうとする自分を制した。全ては無駄だ。どういうわけだか、物がここにあるためか、渡された瞬間の様子まで克明に記憶に焼き付いて離れない。例えばこの猫の手にしか見えない肘当てはかの有名な『不思議の国のアリス』を模した一連の衣装の一つで、何も用意されていないクリーチャーにナワーブはでもこれはあんたのものだから、とよくわからない慰めのセリフまで添えたのだった。
きっと始まりは揶揄と、この束の間の和やかな空気を維持しようという打算だろう。繰り返す意味はあるのかと言えば、もちろんない。何より恐ろしいのは自分の脳味噌がいつしか別の意味を見出そうとすることだ。肘当てを放り投げて頭を抱えると、クリーチャーは自分のぺたりとした髪の毛を指先でぐるぐると捻っていじくりまわした。コンコン、と扉が叩かれても尚クリーチャーは手を止めなかった。声がなくともこの叩き方は誰によるものなのかすぐさまわかる。ナワーブだ。
「今日も借りてくね」
ドアが開く。夕方のゲームに彼が参加することはとうに知っていた。知らなくとも良かったのだが、スケジュール表をなぞると自然に頭に入って来てしまう。今日も肘当ては活躍するんだろうか、どの肘当てなのか、どんな顔で自分の部屋に持ち込んでくるのだろうと続け様に空疎な想像が頭を腐らせる。もし肘当てが自分の手元に返ってこなかったら?自分の背筋が震えたことに気がついて、クリーチャーは無性に腹が立ったものだ。だから、終わらせなばならない。ありもしない親しみなど放り出すに限る。
「……ピアソンさん、いないの?」
そうっと扉が開いてこちらの様子を伺ってくる。まるで幼子のような動きにクリーチャーはついくすりと笑みをこぼした。施設にいた頃、甘え方を知らない子供たちがぎこちなく近寄って来たことが思い出される。自分もまた甘え方など知らないものだから、触れ合いはいつだって下手くそなダンスよりも酷かった。
「なんだ、いたんだ。いたら返事くらいしてよ」
「もうやめないか」
「何を?」
「そこの肘当てと一緒に自分の場所に戻ってくれ、ナワーブ・サベダー。全部君のものだ。私のものじゃない」
大きく見開かれたナワーブの目に、クリーチャーはしてやったりと笑みを深くした。どうだ、自分にだってこれくらいできる!いつもの薄っぺらい平和を引き剥がしてでもクリーチャーは自分の心を守ることができると証明したかった。晴れて自由だ、もう何も心配しなくて良い、返ってこない架空の貸しに肝を冷やす必要もなくなる。扉を閉めて出て行ってくと心の底から願う。だが、返って来たのは少し傷ついたような笑みだった。
「なんだって良いって、俺前に言ったよね」
出ていくどころか一歩ずつ踏み込んでくるナワーブは散らばる肘当てを靴さきで突いた。過去の栄光を踏みにじるような仕草は勝利の似合う彼らしくもない。さながらいじけた子供を思わせ、クリーチャーは知らず知らずのうちにナワーブを注視した。
「使えるなら、誰のものでもどんな道具でも良いって思ってたんだよ。でもさ、今はピアソンさんのものが良いな」
「ど、どういう意味だ」
「どういう意味だろうね」
床に散らばった肘当てを足ですくって拾い上げると、ナワーブはそのままクリーチャーに押し付けて来た。近づいた温もりから日向の匂いが漂う。ああゲーム前だってのにまた外を駆けずり回って遊んでいたんだろう、バテないのは若さか、全く羨ましいもんだ、なんだって――なんだってそんなに嬉しそうなんだ?目まぐるしく思考しながらクリーチャーはナワーブの意図を汲み取ろうとして失敗した。片目だけで世界を見ていることが原因であるならば、これほど悔やんだことはない。忌々しさで舌打ちするクリーチャーに、ナワーブはニッと笑って軽く肩を叩いて来た。
「じゃ、借りてくから。返すの待っててね」
「……この貸しは高くつくぞ」
「それも良いかも」
怒らせようと発した台詞は不発に終わり、結局唸るにとどまる。一体どうすれば思考にかかった靄を振り払えるのだろう。
「っか、返さなかったらただじゃ置かないからな!」
遠ざかる背中にかろうじて投げつけた言葉は、ただ満面の笑みのみが返された。
所有物とは、所有主の一部分でもある。例えばナワーブの肘当ては戦場の名残だ。エミリーの注射器や、ウィラ・ナイエルの香水などはわかりやすい例だろう。本来庭師であるはずのエマ・ウッズがなぜあんなにも工具の扱いに長けているのかは不可思議だが、のほほんとしているようで底知れぬ深みを思わせる彼女には耳にしてはいけない過去があってもおかしくはない。同じく奇妙と言えばあのクリーチャーの懐中電灯だ。
肘当てを使い切ってしまったゲームは悲惨な道のりまっしぐらで、つい先ほどジョゼフに翻弄されたウィリアム・エリスが空を飛んだばかりである。写真世界で麗しい姿を見せるハンターの一撃は優雅さに反してひどく重く耐えがたい。自分が柄にもなく動揺しているせいか、とナワーブは皮肉げに唇を歪めた。手近な箱をあさり、中から出てくるものが肘当てであることを祈る。この際香水でも良い。マジックステッキも良いだろう。いつジョゼフに気づかれるかとハラハラしながら、ナワーブは懐中電灯を操るクリーチャーの手つきを思い出していた。
懐中電灯は慈善家の仕事道具とは思われないが、ひょっとしたら小耳にした光(light)を与える(en-)という言葉が啓蒙(enlighten)とやらを示すことに関係があるのかも知れない。クリーチャーとフレディとのいつもの口喧嘩の最中飛び出した単語で、お前は啓発するんじゃなくてされる側だ、とフレディが吐き捨てたのだった。その場にいたエミリーに尋ねれば、単語を切り分けて『光を与える』という言葉なのだと教えてくれたのである。なるほど懐中電灯は光を投げかけるものなので間違ってはいない。
「その『光を与える』ってどういう意味?」
「正確には『啓蒙する』ね。平たく言えば、誰かに新しいことや正しいことを教えたり、わかるようにしてくれることかしら。頭の中に光が当たるような様子を想像してくれたならば大体正解よ」
エミリーは続けてクリーチャーには相応しくない言葉ね、とフレディの小難しい皮肉に同意を示したが、ナワーブは正反対の意見を持った。なるほど、慈善家どうこうはさておきクリーチャーはナワーブをはじめとした面々によく物事を教えている。日常の細々とした瞬間でもそつなく手助けし、何事もなかったかのように離れてゆく様はまさに懐中電灯のスイッチが入り切りされるかのようだ。
自分の頭の中も照らしてくれないだろうか。ナワーブは未だに自分がかけた嘘の中で迷っている。あっさりと本当の持ち主が自分だと知った肘当てについて、面倒ごとを避けるためにクリーチャーのものであると嘯いたのは当て擦りと揶揄に他ならなかった。向こうがこちらの力量を見て及び腰であることはわかり切っていたので、本来ならばこれで一旦貸し借りなしにしても良い些細なことと言える。だがクリーチャーが片目だけでぎこちない表情を浮かべた瞬間、あの『可愛い』という感情が一挙にナワーブの胸に押し寄せたのだった。
面倒ごとは嫌いだ、目的が明確で変なしがらみのない依頼人をナワーブは選び抜いて来た。だが今回の依頼人はどうにも面倒らしく、手段さえも想像がつかない。だが依頼人が自分となれば放り投げることもできず、ナワーブは懐中電灯の光が自分の頭の中を照らし出してくれることを願ってやまなかった。自分曰く、この胡乱な『慈善家』をからかうのは大層楽しいらしい。一つ肘当てを『返す』ごとにクリーチャーの表情に訪れる変化は頭の中を一層混乱させる。本来怒り出してもおかしくはない(クリーチャーがしばしば不器用な感情の暴発を起こす様は何度も見ていた)彼が時に尊大に、時にどうでもよさそうに、嬉しそうに肘当てを受け取るのはなぜだろう?答えを知りたいが故に、白々しい嘘をつくべく必死でゲームに勝とうとするのだからおかしくなってしまう。ここに来たのはそんなお遊びのためなどではなかった。
先に音をあげたのはクリーチャーで、向こうの方からこのほら話とナワーブを締め出そうと試みた。その瞬間に頭が真っ白になったのは確かに『光が当たった』と言い表せるかも知れない。いつでも降りられる馬鹿げたおままごとを続ける理由は簡単だ、他に彼の心をこじ開ける隙間が見つからないからだ。箱の中身が欲しくてずっと鍵を探し続けている。心惹かれる理由は全部クリーチャーの中に眠っているはずだった。光が足りない。まだだと依頼人が叱責する。
「よし」
引き当てたのは懐中電灯だった。今一つ使いこなせず、けれども妙に心惹かれる一品である。返さなければ持ち主はさぞ文句をたくさん言うだろう。そうしたらばこれを貸しにして別の話ができないだろうか。肘当てを『返せなかった』あの日、クリーチャーの目に浮かんだのは純粋な憂慮だった。一度は偶然、二度三度は必然で、ナワーブの心を震わせるには十分である。せめてこの懐中電灯を無事に返せば、少しは明るくできるだろう。
「もっと色々、借りられるといいんだけどね」
そして自分の頭の中を照らして欲しい。殆ど浮き彫りになった答えを見つけて、全部の貸しを帳消しにするのだ。これまで積み上げた貸しを忘れるほどナワーブはお人好しな傭兵ではなかった。ついで、相手に芽生えたものは恐らく見間違いなどではない。吊り紐に腕を通すと、自分のもののように懐中電灯が手に馴染んだ。花火を模した懐中電灯がパチパチと爆ぜる。閃光を目に焼き付け、ナワーブは軽やかに舞台に駆け出した。
〆.
あとがき>>
Twitterタグ募集で、漠丸さんよりいただいた『月極姫』(東京事変)をイメージして書きました。感情に無関係な取引に情が移ったところで、お互いにどう相手に向き合うのかわからずにやりとりを続けて深みにはまるような、大人っぽい甘さが耳に残る印象があります。ならば道具の貸し借りから始まる二人はどんな話になるのか、を考えながら書いていました。打算ができる分だけ迷う二人の不器用な踊りもまた味わい深いと思います。想像を膨らませてくれる素敵なお題に感謝です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!