無題
エドガー・ワルデンにとって、賞賛は当たり前のものだった。最高の芸術を見せるのだ、そんなものは空気と何ら変わらない、あって然るべきものなのである。はなから天賦に恵まれ、ふんだんに富を注がれてエドガーの才はいよいよ際立った。神さえ自分の前では裾をからげて逃げ出すだろうし、芸術の神は自分の座椅子に成り下がった、そんな物足りなささえ覚えるほどにエドガーの手はあらゆるものを生み出せた。絵は、世界である。自分の作品以上に価値があるものなど、あるわけがあるまい?
愚昧で迷妄な観客たちに、エドガーが示唆してやったのは実に親切心からである。高みに至ったものは慈悲深くあらねばならないと、わずかばかりの時間を割いた自分は慈悲の心に満ち溢れていた。まずは作品で、次は言葉で。繰り出した世界はだがしかし、生ぬるい偽善に包み込まれて終わった。哀れな人間たち!ある意味において、自分は愚かだったのだ。蒙を啓くなど、人に期待するものではない。自分の芸術は他人のためのものではない。この世界は、完成されようとする完璧な世界はただ一人、自分だけのためのものなのだ。
エウリュディケー荘園からの手紙は、現世の題材に行き詰まりを覚えた矢先の福音である。渡りに船とばかりに画材に服に一切合切を携えて、エドガーは少々落胆した。なんということもない田舎屋敷に、ぴったりの鄙びた有象無象の人間たち。これまで触れ合わなかった低俗な人々は、興味深い観察対象になりうるかとしばし検討し、エドガーは首を振った。ここに真の芸術は見られない。自分が求めるのは、ありきたりではない完璧な世界だ。よって、先客たちに自己紹介を求められても、エドガーは寸毫も興味を抱かなかったのである。
「エドガー・ワルデン。僕の邪魔をしないでくれ。以上だ」
「そうか、エドガー。これからよろしく頼むとしよう」
「よろしくね、エドガー」
「エドガー」
「ワルデン君の方がいいか?」
「エドガー!」
到着するなり、くだらない歓迎パーティに引き込まれたエドガーの気分は最悪そのものだった。わざとらしいまでの連帯感が嫌気を誘う。世界はどこに行っても同じと言うならば、もはや全てが限界だ。出されたヴィクトリアスポンジを一刀両断し、その庶民的な味わいを嘲笑う。味はともかく、形が歪なのはどうにかならなかったのだろうか。まるで絵に描いたような『幸せな家族』の空気を醸し出す人間たちは、やけにわざとらしく陳腐に見えた。
次々に沸き起こる喧騒も、沈み込む気分に拍車をかける。作品への賛美と同じくどこへ行っても自分に付き纏うものだ――何しろエドガーは、自分自身もまた最良の作品として磨き抜いている。審美眼がありそうな人間は少数のようだが、至高のものに自然と賛美の気持ちが沸き起こるのは自然の摂理だ。ただ、外の世界で煩わしいと思って振り切ったはずのものに囲まれるのは如何ともし難い。荘園の主人は自分に芸術的な刺激を用意していると言う。まさか、こんなくだらない連中のことを指しているのだろうか?順々に自己紹介を続ける面々を聞き流しながら、エドガーは今更ながらこんな場所に辿り着いたことに後悔した。この旅は失敗だ。
「……荘園の主人はどこにいるんだ」
「ほう」
文句をつけてやろうと心に決め、隣に座る中年男性に話しかけると、面白いものを見るように相手の目が細められた。確か、セルヴェ・ル・ロイという名前だったか。置いていった世界で耳にしたことのある、かつての名うてのマジシャンだ。しかし最早落ち目ではなかったか。負け犬への軽蔑が沸き起こるも、エドガーは冷静に質問を繰り返した。
「あれには関わらないことをお勧めする。本当にいるのかいないかも怪しいものだがな。君は画家だったか」
「ああ」
「ふむ。君の目的が何にせよ、ゲームに参加してみればわかるだろう。言っておくが、ここからは出られないぞ」
「何を馬鹿な」
来るのが自由であれば、出るのもまた然りだ。何ら拘束力のない、監視者もいないどころか主人もいない場所に何があるだろう。荘園の主人があやふやであるならば、明朝に出ていくまでの話だ。マジシャンだなんて詐欺師の仲間に声をかけたのが間違いだった。子供騙しを生業とする連中が、まともな思考回路を持つはずもない。乱暴に紅茶を啜ると、エドガーは屋敷の外へと向かった。せめて、田舎の自然くらいは描いてもいいだろう。
朝は、やはりつつがなく訪れた。昨日の乱痴気騒ぎも嘘のように静まり返り、澄み切った空気が美味しい。顔を洗い、身だしなみを整えてエドガーは窓の外を確認した。少し霧が出ているものの、出立には差し障りがないだろう。こんな馬鹿げた場所とはおさらばだ。
階下に向かい、床をぎしぎしと言わせるも屋形はしんと静まり返ったままである。人々は遅寝が許されているらしい。全く優雅な話で、不景気の気配が漂う昨今では到底考えられない。昨晩見た住人の中には労働者階級以下の人間もいたはずで、彼らには怠惰の暇もないはずだ。誰かが厳しく教育し直す必要があるだろう。
自分には関係ないが、と食堂に辿り着き、香ばしい匂いにエドガーは知らず笑みを浮かべた。誰か行き届いた使用人がいるのか、長テーブルに英国式の朝食がずらりと並んでいる。大好物のマッシュポテトのグレービーソース添えを見つければ、口中に唾が湧いた。少し食べてからでも良いか。相変わらず誰もいないことが不思議で、飲み物を持って来させようと声を張り上げるも返事がない。用意をするだけして、どこかに出かけているとは不届きな使用人である。後で荘園の主人に文句の手紙でも書くとしよう。
「無駄だ。ここには誰もいないよ。飲み物は自分で用意すると良い。なんなら場所を教えよう」
仕方なしに水でも用意するかと腰を上げたところで、昨晩も聞いた声が響いた。貧相な、粗野な顔立ちの男が戸口に立っている。名前は忘れてしまったから、興味があるような肩書きも特徴もなかったのだろう。きっと労働者の類だ。直接口を聞くことの気持ち悪さに顔を顰めていると、男は意地悪げな笑みを浮かべて見せた。
「エドガー君。ゲームでは君と協力する必要があるから、私はこうして話しかけている。それだけだ」
男は、自分はクリーチャー・ピアソンというのだ、と猫撫で声で付け加えた。人の心のヒダをなぞる様な手口にゾッとする。正直な物言いは偽善よりもよほど良い。良いのだが、この男はどこか得体が知れなかった。
「……使用人はどこにいる。主人がいなくても、使用人はいるだろう」
「さっきも話したが、ここには誰もいない」
「だったら何で、」
完璧な朝食が並んでいるのだろう?まさかクリーチャーが用意したとでもいうのか。目だけで問えば、男はさっさと自分用の朝食を皿によそいながら首を振った。
「覚えておくと良い。荘園には魔法がかかっている。食事は毎日いつのまにか用意されているんだ。もちろん、自分で用意することもできる。足りないものは注文すれば玄関に届くぞ。ただ、配達人を見たことは一度もないな。……信じるも信じないも自由だ。君もゲームに参加すればわかるさ」
「僕には関係ない。食べたら出ていくよ」
「そうか」
クリーチャーはそれきりこちらに興味を失ってしまったらしかった。背中合わせの様にして席を取り、食べ始める姿は完璧にエドガーを締め出していた。この自分を?馬鹿にしてくれたものだ。大きくとられた食堂の窓の外では鳥が囀っている。自分は、あの鳥よりも遥かに自由だ。温かなマッシュポテトの出来は良く、芳醇なバターの香りにエドガーはしばしとろけた。
木、曲がり角、塀、鉄格子、花壇、わずかに降りた霜。持てるだけの荷物を詰め込んだ鞄を手に持ち、エドガーはぐるぐると庭を歩いていた。玄関先から門扉が見えなかったときには訝しく思ったものだが、今では嫌な予感が頭を占めつつある。自分は一体どれほど歩いただろう。三十分は優に超えたのではないか?ここに来た時は、長いながらもまっすぐな道を歩けばそうかからずともたどり着いた。逆もまた同じであるはずが、薄靄と共に有耶無耶になってしまっている。どうして外界への門が見えないのだろう。心臓がゾワゾワと波打った。
「まさか」
魔法だなんて嘘くさいものが本当にあるのだろうか。あるならば、なぜ自分が望む様な魔法が見えない?与えられるべきものは、もっと違う形であるはずだ。自分はそのためにここへ来たのである。セルヴェはここからは出られないと言っていた。彼もまた、脱出を試みたのだろうか。
「おかえり。丁度いい時間に帰ってきたね。ゲームに行こうか」
ああ。現実は実に残酷で徒労に満ちていた。ようやくまともに道を歩けたと思えば、待ち構えていたのは見覚えのある館と女性である。太陽に焼き尽くされた様な黒い肌に怯むも、エドガーは果敢にもついていくことを選んだ。呪わしい魔法に振り回されるくらいならば、芸術的な刺激を探しに出かけた方が余程気分が良い。パトリシア・ドーヴァルなる女性が『ゲーム』について説明を述べるも、荒唐無稽な夢の類には辟易した。ハンター?サバイバー?鬼ごっこをしながら死ぬ様な思いをするだなんて、青髭公に追いかけ回された子供のような御伽噺だ。
小部屋に連れて行かれると、中ではすでに妙齢の女性と今朝出会ったクリーチャーが席についていた。この四人で参加するんだ、とパトリシアは空席にエドガーを導いた。
「私は『呪う』ことができるの。エミリー先生は治療、ピアソンさんは懐中電灯で……なんだろうね」
「目潰しさ。他にもいろんな道具が扱えるとも。やあ、新人君。今朝ぶりだな」
一体なんの話か、見当もつかない。やってみればわかるわ、とエミリー先生なる女性が付け加える。ゲームだなんてふざけたものに、自分が参加すると本気で思っているのだろうか。こんなことならば大人しく、部屋でスケッチに励んだ方がマシだ。迷いながら見た館周辺の森は見るべきものがある。門扉が見えれば言うことはなかったが、それにしても――
「なんだ、これは」
ガラリと変わった風景に、思わず驚きの声が漏れる。小部屋も椅子もどこへやら、ボロボロの礼拝堂のような場所に立っていた。確かにこれは魔法以外のなにものでもない。床の冷たさは紛れもなく石であり、ベンチも演壇も触れても消えない。あらゆる場所に触れ、自分の手元にパレットと絵筆があることに安堵した。カンバスがなくとも、これだけあればどこにでも描ける。幸い、パレットについた絵の具はまだ使えるようだ。魔法というならば、自分の道具にも魔法がかけられているのかもしれない。芸術的な刺激とは、なるほどこういうことだったのかも知れなかった。
「随分のんびりした人ですね。新人と聞いたので楽しみにしていたんですが」
「っ」
ヌゥ、と枠しか残らぬ窓から巨大な蜘蛛のようなものが這い出し、エドガーは反射的に後ずさった。こんな気持ちが悪い動きを目にするのは初めてである。人語を話す――魔法だ――仮面をつけた化け物。かろうじて人間らしい姿を保っているが、巨大さからもうかがえる通りに人間ではない。
「お前が、『ハンター』か」
「まあ、そうでしょうね」
見たことのない題材に胸が高鳴る。確かに!確かに昼間見る夢よりも刺激的!しかも『これ』は見た目とはまるで違う姿を持っている。目の奥に力が篭り、エドガーは瞬く間に脳内に素描を描いた。描きたい、これを描いてみたい。
「はは、」
「お喋りはここまでにしておきましょう」
スゥ、と吸い込まれるようにしてハンターの手が伸びる。きらりと光る鋭い鉤爪の存在に、エドガーはようやく気がついた。パトリシアはハンターが何をするものだと言っていた?頬が熱い。パレットが赤一色に染まり、追いかけるようにして痛みが全身を駆け巡る。打たれた、切り裂かれた、この僕が、完璧な芸術品を生み出せる僕が!獣のような咆哮を聞きながら、エドガーは筆を走らせた。自分の声だとは信じたくもない。歩きながら筆を動かせば、見えないカンバスが少しずつ姿を表してゆく。
「ははは、ははははは!」
もっと色が欲しい。全部を凝縮した汚泥よりも深い闇には、世界すべての色が必要だ。ハンターとやらの姿のなんと面白いことか!逃げ惑いながらも描いた絵を置けば、相手が興味を抱いたのはすぐにわかった。化け物をも畏怖させる絵。自分がたどり着くべき次の場所だ。だが、しばし見入ったハンターのセリフは打って変わって辛辣に響いた。
「……十点。嘘です、三十五点くらいですかね」
「お前の目は節穴か?」
そんなにもしげしげと見ておきながら、なんと太々しい言葉だろう。外の世界に出れば手放しに賛美される、神を超えた作品に!化け物に審美眼がないのももっともか、と思うも、血が失われていく頭は冷静に怒りを蓄えていた。違う。これはもっと重要な啓示だ。
「私はこんな顔じゃありません」
こんな男など知りません――言うなりハンターはカンバスを切り裂いた。どす黒い怒りが頭の中を渦巻く。足りない、足りない、まだ、まだ!
「なら、何度でも描くまでだ」
いつか平伏させてやろう。唇の端を上げると、エドガーはささやかながらも荘園の主人を称賛した。大した芸術的刺激だ、間違いない。
題材は決まった。あとは描くだけだ。
〆.