BL NOVEL
  / HOME



こんな続きはもうたくさん


つづき/3


 六十三日と八時間二十七分五十五秒。サンルームの扉越しに柱時計を見やると、ナワーブ・サベダーは今の状況に至るまでかかった時間を数えた。四十三日もかかっておきながら、ちっとも当初の目的を果たせていない。普段の任務では考えられない進行速度であり、信じ難いほど手間をかけている。即断即決で淡々と任務をこなしてきた元傭兵とは思えぬ事態だった。なかんずく問題なのは、ナワーブ自身がそれを楽しんでいる点だ。

 純粋に仕事ではないからかもしれない。あるいは、いつ本来の依頼をこなせるかも『ゲーム』が終わりを迎えるかも見通しが立たず、来る日も来る日も同じことを繰り返してばかりいる状態に刺激を必要としているのかもしれない。つまるところは遊びにして暇つぶしである。生産性は度外視だ。

 だが、たとえ仕事であったとしても、クリーチャー・ピアソンという中年男性を犯して性処理を順風満帆に終わらせるという案件に手をつける人間は少ないだろう。余りにも得られるものが苦労に比べて乏しい。今の状況――噴水の縁に腰掛けて、クリーチャーに口で”奉仕活動”をさせている時点で眩暈がする。第三者的に見れば悲惨な地獄絵図だな、とナワーブはクリーチャーのゴワゴワとした髪を撫でて耳裏をくすぐってやった。途端、興奮に溶け切らぬ瞳が強い力を持ってこちらを見上げて来る。

「睨むことはないだろ。上手だったら褒めるのは常識でしょ……そうそう、手も使わないとね」

くぐもった音が喉奥から発されているようだが、ナワーブの陰茎を心地よく刺激するだけとなっていた。きっと彼のことだから、あらゆる罵詈雑言を吐いているのだろう。残念ながら、耳障りな言葉を睦言として捉えるには自分の異国語に対する言語能力は不十分だった。それに、行為は楽しむものである。クリーチャーの演技は好きだが、時折感情を抑えきれないのか、演技に酔いすぎて暴走する点はいただけない。ねぎらいを込めて相手の肩を軽く叩き、腕をなぞると、見る間に強張る様子がおかしかった。

「この前はやりすぎちゃってごめんね。でも、話が早く済んで良かった。あんたほどじゃないけど、俺も急いでるからさ」

先日、擦り合いと素股だけでは面白くないというわけで、ようやく口での奉仕の話をクリーチャーに思い出させた。マッサージやら風呂やらでうまく体を柔らかくさせながら、先にナワーブから入念にお手本を教えたのは至極親切と言って良いだろう。ついでに尻にも多少手をつけ始めた。ナワーブを抱くつもりで声をかけただけあり、頑なに尻を守ろうとするクリーチャーだが、口戯でとろとろになった尻は全くの無防備で易々と指を飲み込みコツを覚えつつある。

 クリーチャーの体は物覚えが良い。何でもない、廊下でのすれ違いざま、催し物の飾り付けの最中、『ゲーム』が終わった後、そんな日常の中で無知を装って触れた時、瞬く間に思い出す様を見るのは楽しかった。真っ赤になる耳を噛んでやろうと何度思ったことだろう。カヴィン・アユソに怪訝な目を向けられるようになってから頻度は減らすようにしたが、当面悪戯はやめられそうにない。

 彼の体が持ち主の意思を裏切って真情を吐露するほど、ナワーブの手引きは順調な流れだったとは思う。先日最終目的のためにクリーチャーの服の上から尻穴を押した際、体を強ばらせはするもののどこか甘い震えのようなものが走ったことを確認できていた。管理は上々、さっさと捻じ伏せても良かったのだが長持ちを優先させたナワーブの判断は正しい。問題はごっこ遊びを続ける相手の方で、性行為への誘いを食事などの追加サービスによって誤魔化そうとする向きがある。懐柔されることはないが、彼の柔らかな接触は心地良いので多少甘やかしてやろうとナワーブは仏心を出した。遊びは楽しい方が良いものだと、公平性を期したのだ。しかし、やはり少々甘すぎたのかもしれない。

 次に進むべく当然な要求として、ナワーブは正々堂々とクリーチャーに口での奉仕をするよう”頼んだ”。彼の好む方法で甘えるふりのようなものさえしてやった――余計な手間ではあるものの、ことがうまく運ぶならばそれで良い。だが返されたのは強い拒絶と逃亡で、追い詰められた鼠のような男の振り上げた腕は、偶然ナワーブの顎を殴りつけた。傭兵時代の経験から、咄嗟にクリーチャーの腕を捻じ曲げて体重をかけ、考え違いを指摘しても尚男はわからずやのままだった。甘やかすばかりでは駄目だ、と部下を育てる際に上官から受けた忠告を思い出す。ならば仕方がない。ナワーブは迷うことなく全体重をかけ――物慣れぬ一市民の腕は鈍い音を立てた。

 悲鳴は全て手で覆い隠し、わからせるためにそのまま素股をした後、尻に向けて思い切り射精してやった。自分の精液を使い、無理矢理尻穴に指を二本突っ込んで驚いたのは、意外にもこの状況下でクリーチャーの陰茎が兆していたことである。俄然こちらも興奮したのは異常としか言いようがない。丁寧に状況を説明した上、最終的に陰茎には触らず射精させた。色を交えながらも混乱と絶望を隠せずに青ざめた男の情けなさと言ったら!敗者はかくあるべきというもので、ナワーブは寛大にも許してやった。勝者として当然の行いである。

 ただ、やってから気づいたのだが、折るのは腕よりも脚の方が良いらしい。クリーチャーは大人しくなったが、家事とゲームのツケは全住人に満遍なく及んだ。食事の質が下がったのは少々寂しい。手懐けたクリーチャーから調子に乗った明るさが失せたのは、別にどうという感慨も抱かない。周囲の人間には、いつもの暴発による喧嘩が悲惨な結末になった、よくあることだとすんなりと納得させることができて一安心だった。クリーチャーはなかなか上手く周囲に取り入っていたものの、やはり自分に比べて信頼度は低いようである。憐憫の情は同情も伴い、ナワーブにほんの少しの優しさを取り戻させた。

 だから優しく、日を改めてもう一度提案をしたのだ。教え導くので余計な心配を抱くまでもないと。今度はクリーチャーもすんなりと受け入れた。教え方が良かったのか、見込んだ通りに彼の技巧は上達し、現時点では大満足である。腕も自由に使えるようになった今では、滑らかに鍵を開ける器用な手も熱心にこちらに応えてくれている。自分が育てたのだ。成り行きは何にせよ、自分にとって都合の良い性処理相手を作り上げたというのはひどくそそる。射精感が高まり、ナワーブは愛弟子の頭を掴んだ。

「大きく息吸って、一気に行くよ」
「ぐぁ、ぇ、っぁ、っ、はっ、」

思い切り前後に腰を揺らして陰茎を叩きつけると、相手の喉奥が締まって心地良い。怪我をせず、しかし適度に荒々しいやり口は戦場にいた頃を思い出す。興奮が増し、懸命についてこようとするクリーチャーに対して言い知れぬ愛しさが芽生えた。最初の頃よりも上手に受け止めているためか、慣れた男の目は光を失わぬままで歓喜した。マグロ相手よりも、やはり生きた人間相手でなければ、わざわざ遊ぶ意味もない。

 口を使うのは今日で十回目だ。最初はあまりにも下手くそで哀れみすら抱いた。仕方がないので噛まないように丁寧に指導し、体を甘やかしてこれが自分自身にとっても気持ちの良い出来事なのだと覚え込ませてやった。教えた分だけナワーブも良い思いができる。なかなか良く出来た話ではないか。今では腕も治り、完治も間近だとエミリー・ダイアーから聞いている。耳の中がジンジンと痺れる。全く、遠回りだと分かっていてもやめられそうにない。

 多分、今日も尻には手付かずで終わるだろう。足先で嬲るクリーチャーの陰茎が確りと盛り上がっていることに目を細め、ナワーブは最後の高みへと登った。




 認識が甘かった。あるいは気が緩んでいたのだ、とクリーチャーは自分を呪っていた。口中に男臭い体液が広がり、慌てて噴水に向かって全てを吐く。口を濯いでも濯いでもベトベトとした感触と、言い知れぬ敗北感が拭えない。背中を撫でるナワーブの手の優しさに理解が追いつかず、下衣を脱がされるままの自分にはもっと理解できなかった。怖い、恐ろしい、気持ち悪い、嗚呼――気持ち良い。自分はどうなってしまったのだろう。どうかしている。

 行為が重ねられるにつれ、尻が狙われ始めた際の恐怖と緊張感が、優しさや気持ち良さで結局相手も人間なのだから大丈夫だと安心感へとすり替わりつつあった。乱暴に強姦しようとした挙句、素股で終わらせたことに感謝しろと発言したり、強引に関係を続ける人間がまともであるはずもない。単に、クリーチャーがこの不運に対して精神的に楽になりたかっただけである。

 目先のガラクタで本来の目的を忘れるなど、以前の自分では到底考えられない出来事だった。それほど異常な状況なのだろう。擦り合うことを違和感なく受け入れ、腰骨を掴まれるとじんわりと腹の奥に燻りを覚える。毎度執拗に弄られていた乳首はすっかり肥大してしまって、シャツの隙間から見えやしないか、シャツ越しにでもわかってしまうのではないかと恐れたこともあった。強めに何かに触れた際に、背中を走ったのは紛れもなく快感で、存在を主張し始めた下腹部に絶望したものである。自分は変わってしまった。今ではナワーブの口内に招き入れられる心地良さと、彼に奉仕される申し訳なさで指先を尻に受け入れている。異物感にも慣れた、それどころか鈍い心地良ささえ覚えつつある。つまり、自分の終焉が間近であることを意味していた。

 食事で取り入り、直接的ではない触れ合いを増やして誤魔化せば彼を騙せると、どうして思ったのだろう。頭が綿菓子でできていたとしか言いようがない。誰も、あんな風に自分に触れることはなかった。商売女を相手にしたことは一応ある。それでもどこか自分に対する蔑みをはっきりと感じ取られ、心地良さをどす黒く惨めったらしいものに塗り替えた。消化不良のまま金を払うだなんて空虚な散財は全くの無駄であり、自分を愛する存在などそう都合良くは現れない。とは言えクリーチャーの身体機能は健康そのものであったので、結果的にいつでも空想――存在しない優しく愛と快楽に溢れる相手――と右手が自分の連れ合いだった。

 ナワーブはクリーチャーの歴史上、誰よりも近く深く触れ合い、恐怖と屈辱と快感と満足の全てを与えた男である。彼との行為は感情が嵐のようにぐちゃぐちゃにかき乱された。虚脱し、空虚だと思いたかった行為は悲しくなるほどに気持ちが良い。

「こっち向いて」

言いなりになるのは、もう大丈夫だろうとタカを括って断った際、腕を折られたからだ。残酷で躊躇いのない、至って当然の出来事だという相手の態度はただただ恐ろしい。幼い頃に自分に”教育”を施した人間たちと同じだ――常人のフリをした狂人、それがナワーブ・サベダーである。骨折をすれば当然、二人の間に何かがあったのだと隠すことはできない。問い詰めたエミリーに言い淀んだクリーチャーに対し、ナワーブは理路整然とこの事故に至った経緯を説明して丸め込んで見せた。あの時、自分は最後の機会を失ったのだと気づいた時にはもう遅かった。誰もがそれでは仕方がないと、クリーチャーに憐れみを向けることさえなかったのである。自分のささやかな”慈善活動”など、大胆に人々の間を泳ぐ元傭兵の足元にも及ばないと薄々勘づいてはいたが、それでも深く落ち込まずにはいられなかった。

「気持ち良くしてくれてありがとう」
「ん」

クリーチャーの乳首をシャツ越しに弄びながら、ナワーブが口付けてくる。彼の出したもので口周りはベタベタしているはずだが、上機嫌な青年が何度も口付けて来るものだから理解に苦しむ。きっと本気で『感謝』しているのだ。それがナワーブ・サベダーの『常識』なのだろう。理解はできないものの、クリーチャーは彼が振りかざす理論を読み解けるようにはなっていた。すっかり裸に剥かれた下半身を割り開き、ナワーブが蹲る。たったそれだけで体はだらしなく震え、目も当てられない。

「今日も覚えていこうね」

内股を触るナワーブの手つきがいやらしい。マメだらけの手に劣情を催すようになるなど、クリーチャーはついぞ考えたこともなかった。背骨を数えるように滑り、執拗に肩口の傷を撫でられ、全てが鮮やかに思い起こされる。ゲームの最中に思い出した時には自己嫌悪でいっぱいになった。涼しい顔をしていられるナワーブが信じられない。この非日常は、彼が当初口にした通り戦場では『よくあること』の一つに過ぎないのだと改めて思い知らされる。一市民の自分には非常識のオンパレードで、ややもすると四六時中尻の心配と目眩く快感にいっぱいになってしまう。

 気持ち悪さだけであれば良いのに、脚がすがるようにナワーブの体に絡む。いつぞやチェイス中に、ハンターのリッパーが暇潰しも兼ねてですよと話し始めた女性たちの物語が脳裏を過った。あの人でなしが話した内容が確かであれば、彼が手にかけた女性たちは歓喜と恐怖と絶望の中で絶頂しながら殺されたのだと言う。あなたのような人では少しも楽しめないでしょうね、と言いながら霧を投げつけられた際には冷や汗が出た。全心全力で逃げ回り、お陰様でリッパーに対するチェイス時間は誰よりも伸びたが、ちっとも笑えない。

 ナワーブの舌が陰茎の裏筋を撫で、サリサリと擦るたびに新しい快感が生まれた。睾丸をぷにぷにと揉まれるのも、指先が陰部と尻穴の間を彷徨うのも心地良い。会陰と呼ぶのだと、先日ちょっとした好奇心でエミリーの本を読んで学んだ。信じ難いことに、何も存在しない場所をくすぐると全身がゾワゾワし――腹の奥がムズムズするのである。口から漏れ出た声と正直な陰茎が、これは快感なのだと知らしめる。そうして自分で確かめたついでに自慰をした結果、終始ナワーブとの行為を思い出して暗く落ち込んだのは記憶に新しい。

 陰茎の先端を吸い上げられながら、皮をゆっくりと剥かれる痛みにはもう快感の方が優っている。自分の手では到底得られない刺激で、どこかでこれが欲しかったのだと喜ぶ体に苦笑が漏れる。身体はすっかり力が抜けてしまって言うことを聞かない。否、聞いたからどうだと言うのだろう。勇気をかき集めて力で抗おうとした時には、遥かに上回る暴力によって捩じ伏せられた。大声を上げて叫んだならば、廊下を通りがかった誰かが気づいて助けてくれるかもしれない。この痴態をナワーブ以外に見られた挙句、荘園中に知られて――自分の姿を見かけるたびに誰もがこの忌まわしい出来事と結びつけるだろう。ナワーブは少しも気にせず懲りずに関係を続けようとするだろうし、クリーチャーが惨めな思いをするだけで終わるのは目に見えていた。全く勝ち目がない。

 やり方を変えようと努力をした。彼の人間性に触れて、対等に交渉できるのではないかと大それた未来図を描きもした。無駄、無駄、無駄、無駄だった、全くの無駄だ!どう足掻いても自分は逃げられそうにもない。気持ちが良くて気が狂いそうだし、年中ナワーブのことばかり考え始めるようになってすっかり狂ってしまっている。言いなりになっている間の青年の手は優しく、今も素知らぬ体で軟膏に濡れた指を(彼は職務経験上、怪我に備えて軟膏を常備しているのだ)尻穴に侵入させている。前の刺激が強くなり、異物感を塗りつぶしてゆく。ニチャニチャグチャグチャクチュクチュ、噴水の音だけではこの水音を隠し果せやしない。

 その気になれば、ナワーブはいつだって思うままにクリーチャーを甚振ることができる。彼にはその力があるのだと、腕を折ることで簡単に証明して見せた。彼の言い分では怪我や病気を防ぎ、何度でも性交渉を可能にするためだそうだが、クリーチャーが彼の立場であればそんな無駄なことはしない。そもそも自分が観察してきたところ、彼は最小限の力で効率良く目的を果たすことを好むはずなのだ。こんな風に丁寧に性技を教え込むのはなぜだろう。暇つぶしにしても酔狂が過ぎる。入り込む指が増えた、もう三本目だ。冷静に数え上げる間も、情けない嬌声がだらしなく口から漏れ出る。腹の奥が、もっと直接的な刺激が欲しいと訴える。嫌だ、穴を拡げるな、入り込んで来る空気が気持ち悪いだろう、イキたい、イキたくない、頬が噴水の飛沫で濡れる。そうだこれは涙などではない。クリーチャーはこんなことでは泣かない。もう大人で、立派な男で、誰にも馬鹿にされないのだから。か弱い被食者の時代はとうに過ぎ去ったはずで、

「気持ち良くなれて偉いね」

これは屈辱的な行為なのに、どうして嬉しいのだろう。クリーチャーにはもう、自分自身がさっぱりわからなくなっていた。




 部隊長に配置された際、部下の管理は当然上官に課せられた任務の一つだった。技術を高め、規律を守らせ、そして精神的にも肉体的にも健康状態を保たせる。適度な敵がい心を抱かせることも成果を上げやすいので良い。そのためにも、性格や好み、動きの癖などを見抜くことも必要だ。ナワーブはそう回数は多くはないものの、部隊長を経験したことがあるし、管理された経験は十分豊富だ。

 よって、目下の管理対象であるクリーチャー・ピアソンが予期せぬ方向で変調を来していることにはすぐさま気がついた。他の人間の目には、普段通りの姿に映っただろう。家事をし、催事を楽しみ、冗談を言い合い戯れ、ゲームに興じる。ナワーブとは、それに加えて定期的な性交渉を持つ。彼はすっかり感じやすくなったし、従順で、こちらへの奉仕も躊躇いもなく行う。貞操を守ることにはまだこだわりがあるようだ(何しろ拡張が不十分だ)が、以前のような抵抗する演技はすっかり鳴りを潜めていた。

「ピアソンさん」

ゲームの最中、積まれた木箱の裏に隠れた彼の肩に触れると、暗い熱の籠った目が返され背筋が震えた。躾の成果が目に見えてわかるのは喜ばしい。このまま最後まで行ってしまおうかと、危うい誘惑に駆られそうになる。ゲームの最中に余計な欲望を暴走させるなど、自分にあるまじき行いだ。ぐっと堪えて、彼の様子を観察する。

「……あ、あっちの暗号機を解読するんじゃなかったのか」
「うん」

根負けしたのか、ようやく口を開いたクリーチャーの目に浮かんだのは、熱でも恐怖でもなく――虚だった。管理しやすくなって結構ではないか、と思う。自分達の間に必要なのは円満かつ互いの利害が一致した楽しい行為だけだ。時間は有効に使うべきで、ナワーブは手間ひまかけてクリーチャーに教え込み、彼はスポンジのように全てを吸収した。

「サベダー君?」
「うん」

これは違う。素晴らしい結果だと評価する理性に反して、ナワーブの熱は急降下していった。クリーチャーがこちらを怪訝そうに伺う眼差しが煩わしい。何をしているのかと、セルヴェ・ル・ロイが苛立たしげなメッセージを送って寄越してきたが、右から左へと素通りしていった。繰り返される日常よりも、目の前の非日常の方が優先順位は高い。クリーチャーに抱きつくと、ナワーブはぴたりと彼の胸に耳を寄せた。どっどと心臓が忙しなく動いている。それだと言うのに、どうしようもなく悲しい。悲しい?唐突に浮かんだ単語を理解できず、ナワーブはクリーチャーの喉元に吸い付いた。

「おい、今はゲーム中だぞ!」
「そうだよ」

うわずった声の中に色を聞き分けて、ナワーブはようやっと気持ちを落ち着かせた。なるほど、どうやら彼には生気が不足していたらしい。俄に活気づいた様子に昂るものを覚えながら、名残惜しくも離れることを選んだ。このまま抱きしめていたらば、間違いなく事故を起こしていたことだろう。他人に知られることはどうでも良いが、職務怠慢だと思われるのは心外だ。問題が判明した今、まずは個人ではなく任務が優先されるべきだろう。

 後でね、と声をかけて走り出す。足には後悔がまとわりついていた。わからせるためとは言え、自分は加減を間違っていたのかもしれない。心臓の高鳴りはハンターの接近を知らせるものだったが、体の奥底から震えているような心地がした。クリーチャーは一般市民だ。ひょっとすると、自分の考えは軍外では噛み合わないのかもしれなかった。もっと良いやり方があったのかもしれない。時間をかけて、手間ひまかけた結果、自分の手で全て滅茶苦茶に歪ませていたとしたら失笑ものだ。冷静に考えれば考えるほどどんよりと足取りは重くなる。

 窓枠を越え、回転する車輪をやり過ごす。今回のハンターはウィル三兄弟、場所はうってつけの湖景村だ。この兄弟は変幻自在の高速回転が売りで、いくらなんでも棘が生えているのは凶暴だろうと呆れたのはもう随分前のことだ。『荘園』には外での常識など通用しない。同じことが、自分とクリーチャーの間にも起こっているのだろうか。否、だからと言って彼が誘ってきた事実には変わらないはずだ。少なくとも腕を折るまでは穏便に進んでいたのだし、腕を折っても彼の反応は良かった。ただ、腕を折って以降に彼の士気を失わせたことは確実だろう。

 もっと大きな間違いがないことを願う。引き攣るような笑い声に気を取られた瞬間、ガッチリと足首を罠に掴まれて下唇を噛んだ。続け様にゴーン、と重い一撃が脳天を直撃する。自分のしでかしたことに舌打ちするも、どうせまた一からやり直せばいいだけだ、と投げやりな考えも浮かぶ。悪趣味なことに、『ゲーム』ではさまざまなむごたらしい死が用意されている。ロケットチェアで花火のように打ち上げられ、爆発四散する感覚は何度経験してもゾッとする。あるいは引き裂かれた身から流れ出た夥しい血が体を冷たくする。これは戦場でも起こりうる出来事であるため、余りにも現実味が強い。殴られ、電磁波で痺れさせられ、杭で引き裂かれて糸で窒息死させられる。

 なんたる非日常!これで一人も狂っていないだなんて不思議で仕方がない。ゲートやハッチをくぐり抜け、屋敷に一足先に”帰った”仲間に出会う度――あるいは自分が一足先に”帰った”時、全てがリセットされたことを実感する。五体満足で、自分は何一つとして変わっていない。『ゲーム』は所詮『荘園』が見せた幻、一瞬の悪夢に過ぎないのだと安堵することで狂気から逃れられるのだと、誰もがわかっていた。あんなこと、なんでもないさ。ちょっと怖い思いをしただけだろう?

 だが全てが現実であれば、一体何を意味するのだろう。どんどんと感覚が麻痺していく。その癖、クリーチャーと自分のように、育まれていった関係はリセットされることはない。椅子に固定されながらも、ナワーブの現実逃避は着々と進んだ。ワイヤーが腕に突き刺さり、ダラダラと血を流してゆく。この痛みが現実でないならば、クリーチャーに対して抱く思いのどこまでが現実なのだろう。

 ナワーブの傷に触れる度、彼が浮かべる面映い表情が脳裏を過ぎる。直接快楽に結びつくものでなしに、穏やかで満たされるような心地は初めてだった。死に近い時、人は最も印象に残ったもの、執着するものが頭を支配すると聞く。ならば今の自分は依頼や家族のような血の絆でもなしに、あの草臥れた男に執着しているのだろうか。それはあまりにも人間くさい。乾いた笑い声は、全く音を発することはなかった。

 ハンターに狙われたセルヴェが駆けずり回る様子が、メッセージでしきりと送られてくる。ルカ・バルサーがヒャラヒャラと笑いながらも、解読に集中できてありがたいと言い放ったものだから、プライドの高い魔術師はすっかり頭にきているようだ。血が膝頭を濡らした。浜辺の端に捨て置かれた――否、解読に集中させるために戦略的に移動したのだ――ため、自分を助けるために仲間が動くかは至極怪しい。残る暗号機はあと三台もある。

「おい」

パッ、と眩しい光に貫かれ、ナワーブは深い思考の海から浮かび上がった。イライラした様子のクリーチャーが乱雑にワイヤーを解き、ナワーブの手を引いて椅子から起こす。長らく締め付けられていたためによろけた体をそっと支えられ、ナワーブは迷わず彼の肩に腕を回して寄りかかった。生きた人間の温もりが、現実と妄想の狭間を彷徨う意識を繋ぎ止めるような気がしたのだ。

「ありがとう、ピアソンさん」
「どういたしまして」

まだ怒りが冷めやらぬらしく、ぶっきらぼうな物言いをされたが気にならなかった。寧ろ、なぜ怒っているかが不思議で仕方がない。下手を打ったからか、その前にちょっかいを出したことか、それとも何だろう。クリーチャーの感情は、一体何をきっかけに暴発するのか今ひとつ不明だとは、荘園の住人たちの間で周知の事実である。二人三脚のようにして安全な場所まで遠ざかり、応急処置を受けながら、ナワーブは優しい手つきに目を閉じた。

 治療を終えて離れたらば、彼はまた虚に戻ってしまうだろう。怒りは挫け、快楽に蕩けてもそれは思うような手応えからは程遠い。穴に入れて、気持ち良くなって、スッキリすれば良いだけの行為にはどれも瑣末な出来事だとはわかっている。戦場で余計な思考は命取りだ。しかし――ここは違う。無骨で器用な手に触れられたいと、ずっとこの瞬間が続いて欲しいと思う自分は、もはや戦場の外に立っている。

 間違っていたのだ。どうボタンを掛け違えたかはさておき、ナワーブは打開策を練る必要があった。彼を思い通りに動かすには何が必要だろう。悦ばせる以外に、一体何が二人の間に必要なのか、戦場の外に放り出されたナワーブはちっとも思いつかなかった。




 平和とは戦いの末勝ち取るものではなく、神が気まぐれに投げ与えるものであったらしい。肩の力が抜け切ったクリーチャーは、読書室の長椅子にだらりと伸びた。硬めのクッションが程よく迎え入れてくれる。ベルベットの滑らかな感触も見事で、荘園の外に出て成功した暁には、自分の家に一つ、二つ、いや三つは設えようと欲望のリストに書き入れた。

 荘園に来たのは一つの野望を果たすためだが、いつまでも繰り返しを続けているうちに欲望が一つ、また一つと付け加えられて行って今では長いリストに変わっている。果てしなく豪奢な生活に身を置き、本来ならば決して交わることのない人間たちと身近に接していることも一因だろう。

 そのリストの最後に、五日ほど前までは『尻の貞操が守られること』が記載されていた。心の中に歪んだ文字で書かれた目標を何度確かめたことだろう。怒涛のように押し寄せる快感と、得体の知れない他人の欲を肌身に受け止め続けるうちに文字は滲んで、掠れて、ややもすると消え失せそうだった。

 ナワーブの支配と管理は完璧だった。一時期、クリーチャーは自分が施設で養育されているのではないかと錯覚を抱くほどに悍ましく、逆らい難い恐怖を植え付けた。言うことを聞けば気持ちよく、時に楽しく過ごせる。それで手打ちにしようと陥落しかけた気持ちは迷える羊よりも救いがなかった。他人に助けてもらうことも、目の前の男を説得し丸め込むことも許されず、ただ嵐が過ぎ去るのを待っていた、ああ何て居心地の悪い時間だったのだろう!

 その全てが、唐突に全て打ち切られたのだった。あれほど『続き』に拘っていたナワーブが触れてこない。硬くも熱を孕んだ声で呼びかけることもない。当たり障りなく同じ空間に存在し、不思議なほどに混じり合わない。これまで濃密に秘密を交わし合っていたことが嘘のようだった。

「妙なことを企んでないと良いんだが」

接触を断たれてからも、いつ襲われるか、あるいは機嫌を損ねやしないかとビクビクしていたものの、四日目に突入した今日はだらりと伸びている。無駄に警戒しても仕方がないと開き直ったのだ。相手は話の通じない狂人である。気が変わったならばそれで良いだろう。どうせ他人のことなど理解できやしない。

 これでも一応相手の心配はしたのだ。何しろナワーブはクリーチャーに性技を教え込むことに熱心で、その性欲たるや最低でも三日に一度は思い切り晴らさねばならないとでも言うような荒々しさである。最悪の事態として、下半身に問題が生じたのではないかとも推測したが、それとなくエミリーに受診の探りを入れてもナワーブは健康優良児であるとして逆に不信がられるに終わった。

 ひとまず、クリーチャーの身は安全になったのである。しかし理由がわからないままでは、再び襲われやしないかとうすらぼんやりとした不安が残ったままだ。問題はもう一つある。あの有り余るナワーブの欲望はどこで発散されているのだろう?

 彼の巧みに快楽を引き出す手触りを思い出し、腹の奥底が熱くなる。ソファに押し付けた乳首が硬さを持つような気がして、クリーチャーは慌てて身を起こした。気だるさが足の付け根に溜まり、肩口を噛まれてジンジン痺れた瞬間が蘇る。二月前には何も知らず、おざなりな自慰で十分だった体が貪欲に刺激を求めていた。

 よろよろと立ち上がり、自分の部屋へと向かう。最早思考によって熱を冷ますことは難しい。どう足掻いたところで、四日前までの習慣を体は忘れられないのだ。自分の知らない、自分自身の楽しみ方はナワーブが全て教えてくれた。過ぎた刺激に溺れた体に、今更何も知らない頃に戻れと命じるのは難しい。そもそもクリーチャーは欲望に弱いのだ。胸の内に刻まれた、長い欲望と夢のリストがそれを証明してくれるだろう。

「まさか」

埃っぽい部屋に入り、乱雑に服を脱ぎながら手を止める。ナワーブがつけた赤い痕や引っ掻き傷、腰の骨を強く掴まれてついた痣も薄れて消えつつある。これらが皆――皆他の誰かにつけられている可能性が脳裏をチラつく。彼はことあるごとに、なんら後腐れのない健全な性欲処理をしたいのだと話していたし、外面も造形も整っていれば、クリーチャーのような相手でなければ話をうまく合わせることだってできるだろう。つまり、ここのところクリーチャーに気まぐれでかかりきりになっていただけであり、他に候補がいれば十分変更可能なのである。

 何も知らなかった自分が、今ではあの支配と恐怖のない平穏な日々に虚しさを覚えるくらいなのだ、他人があの快楽を喜んで享受することは容易に想像された。おまけに自分は頑なに尻を守っていたが、易々と股を開く人間がいても不思議ではない。唐突にお前は要らないと突き放された事実は、クリーチャーに穴を開けていった。裸になって過去に肌をなぞらせ全身に感じるのは、一人で自分を慰めるしみったれた虚しさである。

 馬鹿げた、愚かな、食い違いだらけの行いだった。やめてほしいと懇願し、終わらないかと祈っているうちに、何もかもが変わっておかしくなってしまった。勃起した陰茎を、彼のマメだらけの手が触れたように触れても、違うと記憶が邪魔をする。あらゆる場所に触れ、拙い動きを嘲笑う記憶に落胆した。希望は叶ったではないか。今更これ以上何を願いたいと言うのだろう。

 とうとう指先は意を決して尻穴に向かう。助けるものがないので、結局なぞるだけで怯えたが、最早自分の体が何を求めているかは火を見るよりも明らかだった。四日前のナワーブならば、上出来だと褒めてくれただろうか。他人に屈辱的な褒め言葉をかけられるなど、以前のクリーチャーであれば死んでもごめんだと思っていたが、今はただ彼の満足げな表情を目にしたかった。

「あいつのせいだ」

ナワーブが勘違いをしなければ、こんなことにはならなかった。尖り切った乳首を強く摘んで呻く。欲望のリストがどんどんと長くなってゆく。全身が火照って暑くて仕方がない。熱を持っていくシーツはさながらここには居ない人間の代わりを務めるかのように負け犬を優しく受け止めてくれる。

 全てが凪いでいた。平然とした異常な荒々しさは、もうクリーチャーを苛むことはない。求めていた平和は、かえって深く刻み込まれた傷を強く自覚させるばかりだった。ナワーブは勝手に関係を断ち切り、一人自由を謳歌しているのかと思うとたまらなく呪わしく腹立たしい。煮えくりかえりそうになる心臓を掻きむしって、クリーチャーは迷うことなくシーツに全て吐き出した。口からも全て吐き出して、全て忘れ去ることができたらばどんなにか良いだろう。

 熱が冷めることを感じながら、ナワーブが他に誰かを見つけた可能性は一旦棚に上げることにした。早とちりをして、他人に醜聞を知られる不祥事態は避けたい。その程度の理性はまだ残っていた。

「あいつのせいなんだ」

自分を弄び、滅茶苦茶にしたナワーブが責任を取るのは当然ではないか。対等に楽しむどころか、一人だけ熱を放り出すなど礼儀知らずにも程がある。あの青年が、自分とは異なる『常識』で生きていることは骨身に染みてわかったが、彼とてこちらの『常識』を思い知るべきだ。

 確かに力では彼に打ち勝てないだろう。言葉は届かないだろう。それでも、とベチャベチャとした体を拭いながらクリーチャーは静かに決意した。一度全てを失った自分が、今更何を恐れると言うのか。追い詰められれば、鼠だって猫に噛み付くのだ、ボロボロになった自分だって何かできるだろう。

 何かするのだ。暗い炎を瞳に宿して、クリーチャーは自分がどうしようもない蟻地獄にはまり込んだことを改めて呪った。どうせなら道連れは多い方が良い。やけくそ気味であることはわかっている――最後まで守ろうとしたものまで手放しても良いと思うなど。腕を折られても尚心配していたあの頃、結局自分はかつてのように相手を出し抜こうとする気概を失っていたのだということが今はよくわかる。

 どんな勝利も、犠牲無くして手に入れることは難しい。こちらの分前まで掻っ攫って逃げた相手は、地の果てまでも追いかけて思い知らせてやるべきなのだ。腹の奥がずぐりと重みを持つ。汚れたシーツをぐしゃぐしゃに潰して、クリーチャーは裏切り者に唾を吐いた。

 間違いを糺すべきは今だった。


〆.


あとがき>>
 おかしな噛み合わせが、どうにかうまくいきそうになった際に本性が原因で決定的に滅茶苦茶になる瞬間が好きです。正確には、それを踏まえて歪ながらも仕切り直そうとし合う姿が、生命力に溢れて力強いように感じて眩しく感じられます。一方的な関係ではなく、やっぱりピアソンさんには溝を這い回って地上に抜け出す根性と生命力があってほしいな、と思いながら書いていました。意外にもドブの方が居心地がいいのかもしれませんが、結果は次回をお待ちいただければ幸いです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!



#4へ