残り物の城
実に不思議な話である。洋の東西を問わず、ありとあらゆる腕が種々様々な素材を扱い、かける時間や手段を変えて全く異なるレシピをいくつも生み出すのだ。おそらく一つ一つをなぞってみれば、一生同じ物を口にせずとも済むだろう。にも関わらず、何故だか人は同じようなものを口にしがちであり、ついでに言えば分厚い料理本片手にとうとうネタが尽きたと匙を投げるなどするのだった。
「フレンチトーストは……昨日作った。スポンジビスケットは四日前、ビクトリアスポンジケーキ?先週出したよなあ。今更クッキーを焼くのも勿体無いしなんとか一工夫したいところだが」
うーん、と唸って厨房で頭を抱えるクリーチャー・ピアソンもまた、悩める料理人の一人だった。別段彼は本職ではないが、流れでこの荘園ではまま食事を作ることが多い。半分は生きやすくするため、残りの半分はさはやかな欲望をはらんでの慈善行為だ。まあ、もちろん、料理を予算も何も気にせず好きなように作れるというのは楽しい。
目の前の皿でこんもりとした姿を見せるのは、昨日計算を間違えて作りすぎたスポンジケーキだ。あのふんわりとした柔らかさはどこへやら、今は歳をとったかのように乾燥して硬めになってしまっている。こうなってしまえば、そのまま食べろと出すのは怠慢となるだろう。捨てるには余りにも勿体無いし、クリーチャーは食べ物を反故にすることが嫌いだった。いつ何時、ゴミに近い食べ物だって、泣くほど嬉しがって貪る羽目に陥るのかわからないではないか。どうしようか、ともう一度本のページをめくっていると、コツコツと柱が鳴った。本から顔を上げれば、ナワーブ・サベダーが立っている。彼の顔を見るだけでふっと悩みが和らぐような感覚に、クリーチャーは自分がすっかり骨抜きにされていることを身に沁みて感じた。このスポンジケーキのようにもう戻らない時間が、気持ちが、全て彼と共に巡り来たのだ。口にするには恥ずかしくて内緒にしているが、クリーチャーはナワーブに感謝の念を捧げてやまない。
「何かお悩み?」
「あー、悩みといえば悩みなんだが」
ナワーブに話したところで仕方がないではないか。あまりにもささやかで、どちらかと言えば彼にはすっと差し出して驚かせてやりたい。口元をモゴモゴさせていると、ナワーブの目がちらっと残り物へと注がれた。
「お、ケーキじゃん。ちょうだい」
「だめだ」
さっとその手が届くよりも先に皿を退ける。全く油断も隙もない。これまでナワーブを始めとした欠食児童相手に食料を守ってきただけあり、クリーチャーの動きは無駄なく滑らかだった。
「まだ完成してないんだ。このままじゃ十分美味しくなくてね」
「残念。でも、俺のために作ってくれてるんだもんね。我慢するよ」
「いつ君のためだと言った?」
「いつもだよ」
そうでしょう?と疑いのない眼差しで問いかけてくる、この曇りなき愛を持つ男がクリーチャーは嫌だった。自分はこんな風にはまだなれない。熱くて、柔らかくて、気恥ずかしくて収まりが悪い。困ったものだと再びページに目を落とせば、ナワーブがにこにことしながら食器棚の上の方を指差した。
「ねえ、あの入れ物って何に使うの?今まで一度も出てこなかったけど、きっとすごい料理が載るんだろうなあ」
「どれだ?……ああ、こんなものがあったのか」
それはガラスの巨大なボウルで、非常に凝ったカッティングがぐるりに施されていた。まるでガラスの花畑が春を迎えたかのような様子である。脚立を使って取り出すと、ずっしりとした重さが両手にかかった。間近で見たボウルは一層重厚感を増し、つまらないものなど受け付けないとでも言うような高飛車な態度をとっている。この容器の類を、クリーチャーは上品な集まりの団欒で見かけた。ぬくぬくと生きる人々の生活の中ではささやかな、しかしクリーチャーとその手にかかる人々には到底手が届きようのないもの。だが、今ならば手に入る。
「決めた。これで作ろう」
「本当?」
「君のためだからな」
あっちで遊んでおいでと追いやると、クリーチャーは棚を漁った。余りものにはあぶれ者がよく似合う。寄せ集められた、取り残された時間たち、思い出、そうしたものを全部詰め込もう。ボウルを洗い、拭ったあとで切り分けたスポンジケーキをそこに敷き詰める。乾いた気持ちも、ほんの少しの出来事で潤うのだと余すところなくブランディーを注いだ。いっそ溺れてしまえばいい。満遍なく湿らせた後、半端に残っていたマーマレードジャムをこってりと盛り付ける。この時点でも美味しそうだが、まだまだ不十分だ。昨日作った残りのカスタードクリームで陽だまり色を覆い尽くす。
「あったあった」
賞味期限の近い缶詰は、常々どうにかしようと思いながらもそのままにしていた。桃のシロップ漬けはまさにこの菓子にぴったりだろう。缶を開け、パカリという小気味好い音を楽しむ。手早く切り分けると均等に並べて、再び黄金色に表面を輝かせる。ビスケットの残りが四枚あったのは幸いだった。別のボウルに置いて乱雑に叩き潰すと、ザクザクとした食感をもたらすべく桃の上に散りばめる。ナワーブは歯が丈夫なためか、硬い食べ物が好きだった。柔らかなだけではない味わいにさぞや喜ぶだろう。
ホイップクリームを載せて完成させてしまうことも考えたが、まだボウルには余裕がある。まるでこの程度で良いのかと試すかのようだ。思えばナワーブも散々クリーチャーを焦らしてきたものだった。好きだと言い始めたのは向こうで、半分は冗談で受け止めてきたクリーチャーの横っ面を叩くようにしてナワーブは身を引いた。その距離を埋めたいならば自分で動けというかのように。馬鹿げた、くだらない、しかし熱のこもったお誘いをクリーチャーは一つとして知らなかった。これまでの人生で自分が選ばれることはなかったし、選んで手に入れられたものは大概どこかですり抜けてしまっていた。自分だけが結局取り残された、いつまでもショーウインドウに飾られたつまらないもののように感じてしまう。そんな人間が、彼が欲しいだなんて言葉を持つものか。どうやって踊れば良いのかわからずまごついて癇癪を起こしたところで、まさかのエマ・ウッズにたしなめられたことはいまだに鮮明に覚えている。
「いつまでも、ただ待ってるのはだめなの」
「待たずに追いかけた奴を拒む君が言うセリフか?」
「私が待ってるのはね、ピアソンさん。あなたじゃないの。全然違うの」
その時のエマの瞳は、沼の底よりも暗く淀んでゾッとするものだった。幼い頃に見た少女の面影はどこで潰えてしまったのだろう?待ち人は彼女ではない。そんなことくらいはわかっている。乱暴に追いやって、結局クリーチャーはナワーブにやけくそ交じりに心を捧げた。他にやり方なんてわからなかったのだが、答えは正解だった。そうして全ては丸く収まって、一つの楽園を築き上げている。
もし、全てのゲームが終わったらどうなるだろう。冷蔵庫を漁ったクリーチャーは、クリームチーズのかけらを弄んでしばし惑った。決め手に欠ける時はチーズクリームだ。半ば無意識に手を動かしながら、クリーチャーは過去の自分が今の自分を見たらなんと言うだろうとぼんやりと思った。なんとくだらないものに悩んでいることよ!いつかは全て失われるものだというのに、いつまでも掴んでいたいと願う方が愚かなのだ。世界に人間はごまんと居る。毎日違う人間にだって出会えるはずだ。けれどもーーやっぱり自分は毎日同じ人に会いたい。
チーズクリームにホイップクリーム、散りばめられるのはスミレの花の砂糖漬け。まるで小さなお城のような存在感を放つ菓子を前にしたナワーブの顔は、正に子供のそれだった。
「これ、なんて言うの?」
「つまらないものさ」
ささやかで、気ままなこの菓子の名はトライフル。あぶれものたちの天国だった。
〆.