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少しくらいの楽しみは、あってもいいじゃありません?



■最高の取引


 足音、キーボードを叩く音、コピー機が唸って汚物を吐くように立てる不気味な音、怒鳴り声、給湯器が湧いた音、不快な噂がたなびく音。閉塞されたオフィスの中では耳という耳を打ち、精神をめちゃくちゃにするほどに煩いもので渦巻いている。資料の整理をしながら、エスゲンは小さくため息をついた。今日も、昨日と、一昨日と、い週間前、一ヶ月前、もっともっと前と何も変わらない。あれは入社してから三年目くらいだろうか?慣れたと思っていた、同時に自分は描いていた将来とは別のものに慣れるしかないのだと思った日は。

トントン、と書類を机に叩いて端を揃え、左上にホチキスを止める。めくると現れる色とりどりの円グラフも、力強いキャッチコピーも全てエスゲンには関係がない。アジム地域最高と呼ばれる商社、オロニル社に勤めているからといって、全員が全員綺羅星というわけではないのだ。他の社員が胸を張って傲慢とまで呼び征矢されるほどに前のめりに営業をかけている間、エスゲンは淡々と雑務をこなしている。

出来上がった資料を確認すると、次の資料の束にかかる。その数30。午後一時に始まる会議の資料に必要なのだ、と誰かが言っていた。エスゲン、お前ならできるだろ?俺忙しいからさ、やっておいてくれ。エスゲン、調査会社から上がって来たデータをエクセルで加工しておいてくれないか?資料の誤字をチェックしておいてくれよ、エスゲン。お前、そういうの得意だろ。

 止せよ、という相手の手が入る時もあるが、それも含めて全て嘲弄が滲んでいることをエスゲンは知っていた。第一、こんな雑務は新入社員か二年目までにやらせるべきであって、エスゲンのように二十数年勤め上げている社員に任せるものではない。三年目、違和感を覚えながら続け、四年目五年目以降はもう考えたくはない。オフィスはうるさすぎる。

エスゲンだって、営業なのだ。人気のないドマ地域を担当している唯一の社員であるために忘れられがちだが、地道に二十年程担当している。売上高は少なく、半期毎の営業成績では常に最下位。華々しさのかけらもないけれども、日々を過ごすことには慣れている。クビにされないのは、他にこの地域を担当したい人間がいないからだろう。エスゲンは、もうこれで良いと思っていた。花形のクガネやリムサ=ロミンサ、さらには遠くのイシュガルドまで伸びたこの商道の末端にいることは、地味ではあるが過酷ではない。生まれつき体が弱いため、体育会系気質のあるオロニルに入ったこと自体がすでに奇跡だった。

「資料、できたよ。おいておくね」
「おう」

出来上がった資料を頼んで来た社員に渡すと、こちらを向きもせずに受け取られた。ありがとう、もない。ごく稀に新入社員はありがとう、と同時に先輩中の先輩に雑務をお願いしてしまったと慌てるのだが、数年経てば皆同じだ。傷つきはしないが、寂しくは思う。自席に戻ろうとすると、通りすがりに声をかけられた。まさに新卒から中堅へと変貌したクズクで、もうすぐクガネ支社に出向になるのではないかと噂されている。やんちゃそうな顔立ちにはまだ幼さが残るが、年上の女性に持て囃されていることを噂に聞いていた。

「おっさん、午後は空いてるか?」
「いや、アポがあるので往訪して直帰するよ」
「……そうかよ。それじゃ、明日な」
「お疲れ様」

きっと何か雑務を頼みたかったのだろう、残念そうというよりは面倒そうな顔になってクズクが下がる。そう、エスゲンにはアポがある。ただ、自分だけがしていることは内緒だ。




 アジムで有数の商社であるドタールの戦略は、新規取引先の拡充である。当然ながら体力を要するこの任務には、がむしゃらに働ける二年目三年目が充てがわれていた。マウシもその一人で、今ではその拳で戸口営業を切り開くと”七拳”と呼び称される期待の三年目である。もっとも、本人にはさほどの自負はなく、派遣された先で額に皺を寄せるばかりであった。今回の任地はドマ。今年の頭に独立運動が功を成し、古の王国が蘇った新天地である。当たり前だが、復興景気に湧くものの、まだまだ国力は貧しい。さて何を買って何を売れるものなのか、これまで派遣された紅海地域との違いには頭を悩ませてばかりだった。

「こんにちは、マウシ君。今日もお悩みかい」
「エスゲンさん!こんにちは。もうお昼食べた?」
「ううん、これから食べようと思ってたところ。君も一緒に食べるかい?」
「ぜひ!」

パッと陽光が差したような喜びに震えてマウシは目の前の中年男性を見た。彼こそはエスゲン、このドマ地域を長年担当して来たーーライバル商社のベテランである。本来ならば二人は出会っても険悪になるか、無視しあうかが常道なのだが、現状マウシはエスゲンになつき、エスゲンはそんなマウシを受け入れている。今日もエスゲンお勧めの店に入ると、マウシはエスゲンと快い挨拶を交わしあう店長に向かって頭を下げた。

「お、今日は若いお兄ちゃんを連れてるのか。エスゲンさんが部下を連れてくるのは初めてだな」
「いや、彼はどちらかといえば上司のようなものですよ。ランチのカツ丼ってまだ残ってます?」
「エスゲンさんにだったら、残ってなくたって出すさ。二つでいいかい」
「お願いします」

こんな風に、エスゲンが一緒であればどんな店でも好待遇を受ける。マウシ一人であれば中々こうは行かない。何しろ長らく他国の支配下にあったため、ドマの人々は基本的に異国人を敬遠する傾向にあるのだ。その点、エスゲンは他国の支配下にあった頃から細々と行って来ていたこともあり、地元の人々の信頼は信じられないほどに厚い。貧しいこの地域にそんなにも前から目をつけていたとは信じられないことだが、マウシにははっきりとわかることがある。この地域は、この国は必ず十年内に巨大な商業圏を確立するだろう。その時になって漸くこの草の根活動が大きく枝葉を伸ばすのだ。

 無駄とも言える細やかな取引、アフターケア、そういったエスゲンの行う諸々のもの全てがマウシには眩しく映った。オロニルが彼を厚遇しないのは間違っていると思う。一見鈍色に見えるかもしれないが、エスゲンは確かに有能な営業なのだ。そうでなければ、競合他社で露頭に迷うマウシをすくい上げるはずもない。二週間ほど前、比較的大きな仲買人の店を訪ねて門前払いを受けそうになった、その瞬間をマウシは今でもありありと思い出すことができる。

「どうしたんです?珍しいな、他所のお客さんですか。ああ、今日はこの前仰ってたシリンゴルを持って来ましたよ。お嬢さんと食べてください」
「おお、ありがとう。娘が喜ぶ姿が眼に浮かぶよ!今茶を出させるからそこで待っていてくれ。……そっちの人は帰ってくれないか」
「ありがとうございます。怪しいものでも売りつけられたんですか?前にナマズオに騙されたって怒ってらっしゃいましたよね」
「覚えていてくれたのか!あれは全くひどい話だ」

そうしてマウシがぽかんと口を開けている間にエスゲンは店主をなだめ、マウシの分の茶を出させ、今度一緒にご飯に行きましょうとまで約束を取り付けてしまった。もちろん、合間にマウシは尋ねられるまま自分がドタール社から来たことを告げたのだが、エスゲンの顔色は少しも変わることはなかった。驚いたのはマウシの方である。話の流れでわかったが、エスゲンは競合他社の社員である上にドマの地縁がある人物なのだ。むざむざ敵に塩を送るような真似をするとは誰も想像がつかないだろう。

 たったそれだけでもマウシを感動させるには十分だったし、そのあとで連れていってくれた彼の馴染みの店の味は感動しきりだった。おまけに宿もどこそこでとるといい、とより良い場所を紹介してくれたのである。エスゲンの紹介だと聞いて、宿の女将が笑顔で迎え入れてくれたのは言うまでもない。まるで魔法のようだと、感謝とともに感動を伝えたところ、エスゲンは褒められ慣れていないものらしい、実にウブな反応を見せてくれたものだ。あんなにもうまく店主をあしらっていた男とは思えないほどに真っ赤になったエスゲンは、モゴモゴと口を動かして、嬉しいのに嬉しいと言っていいのか、それは本当に誉め言葉なのだろうかと困惑しているらしい。

「もう一度言うけど、エスゲンさんはすごいよ!今すぐにでも社長に言って、引き抜きをお願いしたいくらい」
「おじさんをからかっちゃだめだよ。マウシ君、私はここに長くいるから、ただそれだけなんだ。……ありがとう。褒められたのは、これが初めてだよ」
「そうなの?アジム1って言う割には見る目がないんだね」
「他の人がすごいからさ。ここには他にないから、私がすごく見えるのかもしれないよ」
「卑屈にならないで」

マウシが強く重ねて言うと、エスゲンは両手で顔を覆って呻き始めた。自分よりもはるかに年上の男性を可愛い、と思ってしまったのはこれが初めてで、そして今もずっと続いている。漸く過去から現在戻ると、マウシは出されたカツ丼に目を輝かせた。黄色い卵が黄金のように照り、細かく刻んだ何かをまぶした揚げ物はほわりと肉の旨みを訴えかけている。いただきます、と掴んだ箸の持ち方はエスゲン仕込みのトレーニングですっかり地元の人と同じ程度に楽々と操れていた。ヤンサで作っているという米は一粒一粒がもちもちと弾力があって甘い。先日食べたものとは違う品種ではないか、とエスゲンに問えば、その通りだとエスゲンは目を丸くさせた。

「よくわかったね。マウシ君は本当に舌がいいんだな。美味しいお店を教える甲斐があるよ」
「エスゲンさんの説明が上手だからね。エスゲンさんが言ってること、全部覚えておきたいんだ」
「はは、照れるなあ。……君と一緒にいると、ここから帰りたくなくなってしまうよ。駄目だね、君もここには仕事で来ているのに」
「え」

どう返せば良いのかわからず、マウシはただエスゲンの少し寂しげな顔を見つめた。薄い色彩の瞳を見つめると、スイッと横に流されてしまう。表情は平静を装っているように見えるものの、瞳は明らかに話者の狼狽を伝えていた。伊達に人が欲しがるものを当人に売りつける商売をしている訳ではなく、マウシ程度であってもすぐにわかる。間違えてはいけない時だった。

「俺ね、エスゲンさんに会うのが、会っているのが、すごく好きだよ。楽しいし、エスゲンさんが笑ってるのを見るのが好きだ」
「あ、ありがとう」
「……ここにずっといられないのも、仕事できているのもよくわかってる。わかってるけどさ、俺はエスゲンさんに会いたい。もっと、ずっと、たくさん」
「マウシ君、君は」

君は解って言っているの、という声にならない問いに最適な答えをマウシは知っていた。相手が何か欲しいのかは解る、そういう仕事をずっとして来た。だからマウシは、自分自身の気持ちもよく知っている。態とらしくお茶を飲むと、マウシは人生で最高の取引に臨んだ。



〆.