夢はちょっぴり、でも忘れられない
ヒライス 1/2
午後7時過ぎのマッチングセンターは人影が少なく、あぶれた人々がラウンジで手持ち無沙汰に茶をすするなどしている。行き場を失ったペット、売れ残りの生菓子のように落ち着かない。強制処分の期限を控えている人間であれば尚更だ。陽の光を目一杯取り込めるように全面ガラス張りになっているラウンジは、この時間では宵闇を映すためにかえって冷たく希望がなかった。羽山和人(はやま かずと)も期限切れ間近の一人で、今日も、と繰り返される虚無感を潰している。
男女の性別だけでなく、第二の性としてアルファ・ベータ・オメガの3種類に分けられたのは一体いつの頃か。人口の二割を占め、社会を牽引するに相応しい優れた才覚と容姿を持ち、見た目の性別に関わらず他の種族を妊娠させることのできるアルファ。才覚や体の頑丈さが他のどの種族よりも劣り、どの種族の子供も妊娠できるーーそしてアルファを生み出せるのはこれだけだーー人口の一割にも満たないオメガ。そしてどちらでもない、外見のままに過ごせるベータだ。
この仕組みをふまえて、より一層能力の優れた人間を残そうと、アルファとオメガに国を挙げて番を作らせるシステムが出来たのがいつの頃か、和人は知らない。生まれた頃はすでに制定されていたもので、ベータ同士の親から生まれた希少種であるオメガの和人はオメガとして社会の別枠で育てられてきた。それで両親には補助金が降りるらしい。らしい、と言うのは和人が両親とではなくマッチングセンターで過ごしているためだ。親の顔も、親らしい愛情もよくは分からない。オメガにありがちな現象である。マッチングセンターはオメガを待機させ、家畜よろしくアルファに選ばせるための施設だった。和人が選ばれることは、まだない。もうすぐ35歳で、強制的に妊娠だけ求められ続ける処分を執行される一歩手前だ。
選ばれない理由はいくつかある。まずは顔立ち、落ち窪んだ分厚いまぶたはその下にある小さな瞳の輝きを隠してしまっている。出産に当たって栄養が行き届いていることを重視される中で、どれほど管理されても悪印象を生んでしまう特徴だった。他はこれといって記憶に残るようなものは何もない。身長はやや小柄で、軍役にもついていただけあって(これも国家の義務の一つだ、オメガのみの部隊とはいえ些か乱暴に思う)多少筋肉質だ。腰つきや尻は安産型だが、そこにたどり着くまでに他のオメガに目移りしてしまうだろう。声は少々甘いが、話ぶりは訥々としていて愛嬌が不足している。一番の問題は和人にやる気がないことだ。誰だって一緒に暮らす相手には妥協であっても幸せになる努力をして欲しいと願う。和人はそうしたものを諦めきってしまっているのだ。
ハーブティーのポットを傾け、最後の一杯をカップに注ぐと和人はぼんやりと窓の外の庭を眺めーー不意に目の前に現れた青年に目を丸くした。一目見たならばすぐにわかる。この男はアルファだ。和人の頭一つ分は高い身長に、キリリとした顔立ちは高貴さを匂わせている。オーダーメイドらしい上質の生地で作られたスーツは青年のフォルムを綺麗に際立たせていた。さぞやモテるだろう、とちらりと辺りに目をやれば、すでに何人かのオメガがこちらを食い入るように見つめていた。あの中には、和人よりも取っつきやすい人間もいる。検分するだけで去るだろうとたかを括っていたが、青年は当たり前のように向かいの席についた。
「35番はお前だな」
「はい」
「……思ったよりもひどい」
吐き捨てるようなセリフに、和人はどう反応すべきか迷った。番号だけを頼りに来たこの青年を可哀想だと思うべきか、それとも目の前にいる人間に対してあんまりなセリフだと鼻白むべきか困ってしまう。傲岸不遜な青年は、いきなり手を伸ばすと和人のハーブティーを奪って呷った。そんな所作までも上品で、筋金入りのおぼっちゃまなのだなと和人は感嘆した。様々なアルファを見て来たが、ここまで見場が優れた青年は中々いない。
「仕方がないな。ついて来い。お前を連れて帰る」
「別の奴にすればいい。もっとマシなのがいるはずだ」
「決まっているから仕方がないだろう。お前も嫌かも知れないが、俺も不本意なんだ。マッチングシステムで強制的にお前と番にされたんだよ、俺は」
「……御愁傷様」
双方にとって不幸だと思いながら和人は青年に続いて席を立った。と畜場に連れられていく家畜を思い出してしまう。処分には変わりないが、相手が性格に難がありそうでも外見は申し分ないだけ幸運と言える。アルファにマッチングシステムの強制執行が下されることは稀だから、おそらくは何か問題を起こしたアルファなのだ。肉体を破損されるような真似だけはしないで欲しい。あまり持たないようにしていた私物を送ってもらうよう手配し、和人はセンターを抜け出た。門を出れば青年を待っていたのだろう、黒服を着た運転手が高級車の扉を開けてくれた。青年に示されるままに乗り込み、外を眺める。外に出ることは久々だ。どこへ行くのか。どこまで行くのか。和人は何も知らないが、知っても何の足しにもならないので尋ねもしなかった。
「35番。羽山和人、34歳。見た目の割には歳を取っているな。性格は……ソツがないが愛嬌も際立った特徴もない。経験はなし。最低限の条件は持っているようで安心した」
「それはどうも」
センターのスタッフに渡されたのであろう履歴書を読み上げられ、和人はうんざりとした表情を青年に向けた。自分の立場は弁えているが、面と向かって家畜扱いされることは耐えられない。青年は和人にフン、と鼻を鳴らすと小首を傾げた。和人よりも余程若々しい青年は、そうした所作をすると年下らしさが顔を覗かせる。少しだけ、和人はこの男を可愛いかも知れないと思った。好きになれそうな要素が少しでもあることは幸いだろう。
「お前は何も聞かないのか?黙ってついてきて殺されでもしたらどうなる。もう少し警戒しろ」
「あのままセンターに残っていたら、死ぬのと同じ目に遭うことは決まっているから、どこへ行っても同じだよ。知りたいとするなら、貴方の名前くらいだ」
「死ぬのと同じ目、というのは何だ。そんなものを聞いたことは一度もないぞ」
「一般の人が知る必要のないものを公表するほど政府は暇じゃない。妊娠できなくなるまで延々誰のものかわからない子供を生まされるだなんて、外聞も悪い」
「……そんな」
ひどい話だ、と青年は顔を歪めた。どうやら本気で同情しているらしい。育ちが良い証拠だ、と和人はかえって青年の方が可哀想だと思った。知らないままでいればいくらでも能天気でいられただろう。アルファにしてみれば大して気にも留めなくて良い存在のことなど、忘れてその優れた能力を世に広めた方が余程良い。
「俺は春野宮篤(はるのみや あつし)だ。春野宮子爵家の次男に当たる。離婚歴が三回、どれも番には至らなかったのだが、連続で断りすぎたことに目をつけられて今回の強制執行だ。悪いがしばらく付き合ってもらう。……その、お前が処分されないように支援するから安心して欲しい」
息を飲むのは和人の側だった。春野宮といえば名門中の名門である。世間に疎い和人ですら知っている、春野宮グループと呼ばれる企業集団を掌中に収めていることでも有名だ。玉の輿だという事実よりも、面倒くささが際立って和人は顔をしかめてしまう。第一、相手には自分の始末をつけてくれる気がないのだ。
「”しばらく”ということは、貴方については知らないままの方が良さそうだな。離婚歴が清算される二年が目安……念のため寝室は分けて欲しい」
「随分詳しいな。そうだ、俺たちは不幸にして子供ができなかったために番を解消したということになる。寝室の方は、申し訳ないが無理だ。俺の家族は子供を産んで欲しいとさ。お互い薬を飲み忘れなければ問題ないだろう?お前は物分かりが良さそうだ」
「はあ」
何とも非常識で乱暴な話だった。篤にどんな言い分があって確定した離婚を望むのかわからないが、事故を防ぐ最善の方法は寝室を分けることである。だが、と和人は少し気を取り直した。家族の側だって、和人の顔を見れば考え直すはずだ。オメガだからこそアルファの子供を孕めるとはいえ(ましてや男性体でオメガというのは割合として少ない)、和人では生まれてくるアルファの質など高が知れている。早晩篤と同じ考えに到って寝室くらいは分けてくれるだろう。
窓の外を見やれば、車は広大な森のような私有地に入らんとするところだった。ここが篤の家なのだ、と和人は物語に入り込んだような心地でいた。生まれて初めて得た家が、仮の牢獄に過ぎないにしても絢爛豪華であることは幸いではないか?篤の顔を見ながら、和人はラベンダーの心地よい香りを感じ取っていた。外の世界にろくに出たことがないものの、センターではフェロモンの香りと他のものを嗅ぎ分けられるように簡単な基礎知識を教えられている。おそらくはこれが篤の匂いなのだろう。アルファの匂いは強力だから、誰にでもそれとわかるはずだ。
「貴方は抑制剤を飲まずに、これまで通りにいた方がいい。匂いが消えたら不審がられる。俺の方はまだ誰にも知られてないから、匂わなくても出来損ないだと思わせておけば問題ないはずだよ」
「それは確かだな。……お前、今は薬を飲んでいないのか?まだ家族に会うまでは間があるから、匂いが消えるように今から飲んでおけ」
「匂い?」
思わず背筋をピンと伸ばすと、和人はすう、と匂いを嗅いだ。相変わらず篤のラベンダーの匂いしかしない。小首を傾げていると、篤がずいと距離を詰めて和人の首筋を嗅いだ。互いに気がないとは言え、首筋は番を作る条件となるうなじに近い。アルファが本気になってうなじをひと噛みするだけで、オメガはたちまち番にさせられてしまう。そうなれば一巻の終わりだ。思わずごくりと唾を飲み込んで耐えていると、篤は頷いてゆっくりと離れた。途端に体から力が抜け、和人はどっと冷や汗が出るのを覚えた。なにせ、生まれて初めてなのだ。恐ろしさを覚えるのは当然だろう。
「白檀の匂いがする。悪くないが、覚えられたら厄介だ」
「待ってくれ、匂いなんかしないはずだ。薬だって毎日飲んでいるし……そんな匂いがするだなんて聞いたこともないぞ。運転手の人の匂いとか、誰かの残り香とかあるだろう、ほら」
「その可能性は考えた。だからわざわざ嗅ぎに行っただろう?お前の匂い以外の何物でもない。……おい日笠(ひがさ)、お前は感じるか?」
不意に前方へ会話が飛び、和人は改めて運転手の顔を斜め後ろから見た。細い眼をした、えびす顔のような異相である。眼鏡をかけることによって愛嬌を生み出しているらしく、和人はこういう人間もいるのだと外の世界に感じ入った。これはベータだ。実に羨ましい。
「いいえ、私には何も。他のアルファの方に伺った方がよろしいかと存じます」
「これだけ匂いがするのにか?今までの奴のはわかっていただろう。なのに、」
他の人間には匂わないそれを感じ取れた、という意味が持つ可能性を考え、和人はぶるりと身震いした。思いもしなかったが、あり得ないことではない。マッチングシステムは、最も子孫を残しやすいDNAの相性を元に導き出しているのだから、つまりそれは運命のなんとやらだということなのだ。運命の番、というのはおとぎ話のようなもので、この広い世界には唯一の絆があるという。出会えばすぐにわかると聞いたが、これという予兆もないので気づけなかった。もとより、経験がないものに気づくというのはなかなか難しい。
「その匂いは消せないのか?嗅いでいるとおかしくなりそうだ」
「貴方にしか感じられないものはどうにもならんさ」
篤は可能性について一毛も考えていないらしい。呑気なものだと和人は扉を開けられるままに降りた。くだらないやりとりをしているうちに到着してしまったのだ。いかにも家令といった様子の男に頭を下げられ、不格好にならないようにお辞儀を返す。するりと横合いから篤の腕が滑り込んで和人の腰を掴んだ。すり、と撫でられて震えれば低い笑い声が響く。恐らくは無自覚なのだろうが、相手が和人のフェロモンに当てられてきているのは確かだった。首筋が熱い。お前は自分と清いまま二年間を過ごすつもりではなかったのかと罵りたくもなる。
「あら、仲睦まじいこと。マッチングシステムは優秀ね。あれだけ駄々をこねてたのが嘘みたいじゃない」
豪奢なホールを眺める間も無く、和人の好奇心は新たな登場人物に吹き飛ばされた。篤をそのまま女性にしたような雄々しい女性で、身長も和人より頭半分ほど高い。ぴたりとしたパンツスーツが実によく身体に馴染んでいた。当たり前のように堂々たるアルファである。
「私は春野宮雅(はるのみや みやび)。このボンクラ男の姉で、この家の次女。貴方には是非長続きして可愛い甥っ子や姪っ子を見せてもらいたいわ。お名前は?」
「羽山和人と言います、雅様。ご期待に添えるよう努力いたします」
「今までの子も皆同じことを言ってくれたわ。貴方は期待を裏切らないでちょうだいね……そうでもしないと、弟を海外にやらねばならないから」
「勝手に話を進めないでくれ、雅姉さん。大体、番になっても子供ができるとは限らないことはわかっているだろう。俺はまだ子供を持つつもりもない」
つまるところは自由で居たいだけらしい。ストレスからなのか、腰を撫でる手つきがペットを撫でるようなものになっていた。ラベンダーの匂いが和人の頭を蕩かせる。抑制剤を飲んでいて、かつ発情期でもないというのにこれなのだから、次の発情期にどうなってしまうのかと考えるだけで恐ろしい。篤は自然に受け入れているらしいが、寝室を共にしたならば何が起きるのかわかったものではない。相手ができる人間がそばにいる発情期が初めてなことも相まって、和人はどうすべきかわからずにほとほと困ってしまった。
一方、雅はやれやれと首を振るばかりである。おそらくは何度となく繰り返されたやり取りなのだ。和人の前にいた三人の番候補達も目にしたのかと思うと、なんとも言えない居心地の悪さを覚える。篤の相手として選ばれたオメガたちはどんな人々だったのだろう。自分のことをひどいと言うほどだから、余程良い条件だったに違いない。ついでに言えば、相手のオメガは相当に意気込んでいたはずだ。今はどこへ行ってしまったかわからないが、幸せであってくれと願うより他にない。引き剥がそうと篤の腕を叩いたが、逆に取り込まれてしまって和人は息を呑んだ。これが無意識だとすれば相当なものである。
「貴方は玩具部門を伸ばしたいと言っていたわね。どんなに頑張っても、貴方一人には限界がある。可能であれば同族に継がせたいと思うのは当然でしょう。もう25になるんだからそろそろ観念なさい。和人さんにも失礼だわ」
玩具部門、というのは随分と夢のある話だった。篤から感じ取れる子供のような無邪気さはそこに依るものかも知れない。情熱を捧げたいものがあるというのは羨ましい話で、何もかもを望まないことによって平穏を維持している和人とは大違いだ。項垂れた篤は少々可哀想で、自分の夢のために現実に折り合いをつけられない子供のように見える。もうとっくに大人なのだから諦めなければならない、というよりも選ばなくてはならない時が来るのだ。それが自分とだとは心底可哀想だった。
「こら、匂いを出すな」
「っ」
小声で囁かれると同時に後ろから抱きすくめられ、和人は今度こそ頭が真っ白になった。その様子を雅が面白がっている目で見ている。匂いを出している自覚がない上に、出したことがないので引っ込める方法もわからなかった。もっと強力な抑制剤でもあればコントロールできるようになるかもしれない。春野宮家ほどの大家であればツテも富もあるから、迷惑料がわりに買ってもらおう。篤のラベンダーの匂いが強まり、和人は頬の内側の肉を軽く噛んだ。
「ともかく、今日は疲れてるでしょうから部屋で休んでもらったらどう?父さん達は明後日戻って来るのだし。他の家族は……会った時に紹介なさい。篤、和人さんに最初から無理をさせてはダメよ。乱暴な男は相手に逃げられるわ」
「俺が乱暴だったことはない。誤解を招くようなことを言わないでくれ。……行くぞ、和人」
「あ?はい」
這々の体でついていった先の篤の部屋がどんな装飾だったのか、和人には全く知覚できなかった。頭がぐらぐらし、体はぐにゃぐにゃと頼りない。こんな風になったのは生まれて初めてだ。流石の篤もおかしいと思ったらしく、ベッドに運んでくれたのだが事態は更に悪化したように思う。何故ならば、様子を伺ってくる篤の吐く息が妙に熱い。朧な視界では彼の目が爛々と光っていることが伺えた。
「匂いを出すのを止めろ!発情期だったのか?気づかなかったが、お前、もしかして父さん達と組んでいたんだろう。その匂いで子供ができるとでも思ったのか?だったら計算違いだな」
「発情期?そんなの2週間前になったばかりだよ……大体、俺は貴方の名前も親も知らなかった!」
発情期ならば車に乗った後も、その後もずっと誰かに気づかれてもおかしくはない。流石の篤もそれには納得したらしい。うう、と唸るとどさりと頭を和人の胸の上に落とし、ぐりぐりと擦り付けてきた。匂いが強く感じとられるからやめてほしいが、腕に力が入らないのでどうにもできない。
「ああもうわからん!だめだ、これはもう、その……勃った」
「は?」
急に恥じらい出す篤に、和人は頭が痛くなってきた。篤が和人の上にのしかかり、自然と重みとあらぬ部分の硬さを感じさせられる。腰と腰とを疑似性交のように擦りあわされるとじんわりとした快感が和人の体を駆け抜けた。誰かにこんな風に触られることも初めてで、とてつもなく抑えがたい。自分を許せばこの上もない喜びを得られるだろう。だが今はだめだ。その時ではない。
「だめ、やだ、だめだ、」
「お前も勃ったくせに?避妊薬も飲んでいるんじゃないのか」
「ない、初めてなんだ」
それに、番にしないという話だったではないか。このままでは興奮のままに全部崩されてしまいそうだ。幸せまでは望まない、だが安穏な日々を送らせてほしい。ふわふわとする頭でなんとか話し続けていると、ゆっくりと篤が和人の上から退いた。そのまま和人の横に寝転び、ぎゅっと抱きしめてくる。再び篤の匂いが充満し、呼吸困難になりそうだった。ラベンダーはリラックス効果があるというのは嘘かもしれない。
「悪かった。お前がセンターの外に出るのは初めてだったな。少し休んでいろ。落ち着いたらまた来る」
「ん」
「しかし驚いたぞ。和人は興奮すると瞳が大きくなるんだな。その顔の方がずっとマシだ」
わずかながらに理性が取り戻されて良かったと安堵するのも束の間、ひどい言いようである。最早反論することもできず、和人はただじっと寝転がっていた。篤はそのまま勢いよく身を離すと、どこかへと出て行った、らしい。らしい、というのはもう何が何だかわからなくなってしまってーー和人は漸く気を失ったからである。
「あんたが新しいお義兄さん?初日から兄貴がトんでたって聞いたから慌てて見に来たよ」
「どうも、初めまして」
和人がはっきりと覚醒したのは翌朝だった。隣では篤が何事もなかったかのように寝ており、身辺を見たが特に異変はなく安堵した。その後は篤に風呂場であるとか食堂であるとか屋敷の細々とした生活に必要な場所を教えられ、朝食前にと慌てて風呂に入ったのがつい先ほどである。脱衣場で髪を乾かしていると、子犬のように愛嬌のある顔立ちをした青年がふらりと入ってきた。篤同様に育ちの良さをにじませた挨拶をすると、青年はこの家の三男である幸宏(ゆきひろ)だと名乗って微笑む。この青年はアルファに見えるがベータだな、と和人は冷静に判断した。
「前の人は結構好みだったけど、あんたは大分毛色が違うねえ。兄貴の好みにも見えないし。マッチングシステムのお世話にはなりたくないなあ」
「ご推察の通り、俺はセンターで最低ランクの部類だと思うよ。つまり、殆どは俺よりも優れている。余程のハズレくじじゃなければ悪くない話だ」
「そこまではけなしてないよ」
「いや、単なる事実だ。貴方はお兄さんに同情してあげてくれ、幸宏様」
ドライヤーを止めて脇に置くと、和人は着替えようとして戸惑った。通常ならば気にも留めない存在だが、昨日のこともあり裸になることが些かためらわれる。
「はは、まるでアンドロイドだ。そういうのはちょっと好きかもね。じゃあお義兄さん、着替えを手伝ってあげましょう」
「丁重にお断りする」
「なんで?いいじゃない、どうせ兄貴はあんたと番にならないんだしさ」
「……俺はこういうお遊びが嫌いなんだよ」
肩をつかもうとする幸宏の手を払い除けると、きょとんと目を丸くさせてこちらを見て来る。子供のようなあどけない表情をすると、彼が篤の兄弟であることがつくづく納得できた。ただ、篤よりも本当に子供である分だけ厄介である。それに、雅は知らなかった篤の目論見を幸宏は知っていることは気がかりだった。
「なんだ、本当に真面目なのか。うちの家でぬくぬくしたいとか、兄貴と番になりたいとかさ、そういうのもないの?なんでここに来たのさ」
「マッチングシステムが勝手に決めたんだ。大体、俺は外に出られるとも思ってなかった。時期が来ればいなくなるし、その間問題は起こさないと約束するよ。着替えたいんだ、出てってくれ」
「……悪かったよ。兄貴に言い寄って来るのは下心があるやつが多いから、またかと思ったんだ。和人さん、だっけ。あんたは真面目だから、兄貴がなんで番を作らないか教えてあげる。兄貴はね、運命を信じてるんだ」
「運命?」
「そ。姉貴もそんな感じだったっていうのもあるんだろうけど、運命の相手だと思える奴としか番になりたくないんだってさ。ロマンチックだろ?」
「ああ」
その運命が和人だと知ったら相当ショックを受けるだろうな、と数とは冷めた気持ちで結論付けた。ついでに腹立たしさすら覚える。自分の運命すらままならないという和人を差し置いて選り好みできるとは!さすがはアルファといったところか。気が済んだらしい幸宏が漸く脱衣場を出たことを確認すると、和人は大きなくしゃみを一つした。
「おはよう。和人さん、かな?妻から話は聞いているよ。私は雅の夫の静馬(しずま)という。朝は好きなものをとって食べる形式だから、自由にするといい。よく眠れたかい?好き嫌いは?悩み事があればなんでも私に言いなさい。同じオメガだ、多少は助けになれるだろう」
「あ、ありがとうございます」
食堂に入るなり見知らぬ男に連続射撃を浴びせかけられ、和人は呼吸困難に陥りそうだった。七三分けの柔らかな茶髪がウェーブを描いている。確か、春野宮電鉄の社長である男だ。パッと見たところはベータのようだが、驚いたことにオメガであるらしい。きっちりとした角度でなされたお辞儀は和人をまごつかせるのに十分だった。もっと自分に対して拒否感をあからさまにされるだろうと構えていただけに拍子抜けしてしまう。あるいは、多少の嫌悪感を脇に置いてでも、今度こそ篤の子供を作ろうという意気込みが一族に蔓延しているのだろうか。
従僕が皿を渡してくれたのをいいことにその場を抜け出し、コールドミートから順番に朝食を眺めていく。ドラマや映画でしか見たことのない豪華な朝食だ。恐らくは昨晩の残りであるローストビーフは今朝になってもしっとりしており、ヨークシャープディングとのハーモニーは完璧に見える。チーズもフルーツが入ったものから、ピンクペッパーがピリリと効いたものまで色とりどりだし、シリアルもコーンブレッドもパンケーキも選り取り見取りである。浮き足立つようにとれたての果物が朝露のようなきらめきを纏って剥かれるのを待っていた。そのほとんどが初めて目にするものであり、和人は食べるよりもただただ眺めていたいような心地だった。
「おはよう。さっさととらないとなくなるぞ?とっておくから、もう座るといい。席はあそこだ」
「おはよう、篤さん」
知らない人間が勢ぞろいする中で構われた安心感だろうか、今の和人は篤の登場が心底ありがたかった。思えば名前も初めて呼んだように思う。ほんの少し篤が微笑んだような気がしたが、確認することはなかった。大食堂のテーブルで、ではなく春野宮家では雅にも今日は庭で食べるらしい。あちこちに置かれたテーブルに二脚ずつ椅子が添えられている。恐らくは自分が来るまで待っていたのだろう、篤に示されたテーブルにはハーブティーの飲みさしが載っていた。
そばに寄って来た給仕に自分用のハーブティーを頼むと、すうと庭の空気を吸い込む。森のような庭は完璧な自然の一角を作り出していた。手前にはひらけた花壇が見え、色ごとに丁寧に植えられた畝が愛らしい。何もかもが本物だ、と和人は感嘆した。目が喜んでいる。幸宏とのやり取りで沈みかけことが嘘のように心が沸き立った。居られるうちにあちこちを観ておきたい。そうすれば、その後の人生でも思い返して喜びを感じ取れるはずだ。
「庭が気に入ったのか。後で西沢に案内を頼んでおこう。ここだけじゃない、もっと奥まであるからな」
「ありがとう」
とん、と篤が置いた皿には山盛りの食事が鎮座し、和人は目を丸くした。センターでは、必要最低限の栄養がとれる食事しか出なかったので、こんなにも大量に食べられるとは到底思えない。ぼんやりしていると、篤はせっせと和人の取り皿におかずを載せていった。どうやらこの傲岸不遜めいた青年は世話好きでもあるらしかった。そう言えば自分が気を失う寸前も一応は世話をしてくれていた。ふわりと柔らかくラベンダーが香る。自分もそうであるように、向こうも全くの無意識なのだ。信じられない運命を棄却するためにはどう手を尽くすべきか、全く見当がつかない。そんなことはセンターのどんなオメガに対する教育でも受けられなかった。そもそも運命など誰も信じてはいなかったのだ。
コーンブレッドとサラダ、ハムとチーズを手際よく重ねると篤は即席のサンドイッチを美味そうに頬張り始めた。凡そかっこいいだとか綺麗だとか形容されるような場面ではない。ないのだが、食事をするだけで絵になるのがこの春野宮篤という男だった。彼が食べているだけでとんでもなく美味しそうに見える。同じようにサンドイッチを作ってみると、和人はそれだけでウキウキとした。料理は一通り仕込まれたものの、自分が食べたいと誰かの真似をするのは初めてだった。
「今日は出てないが、炙ったソーセージとスクランブルエッグも良いぞ。その時はイギリスパンにしておけ」
「良いね、朝に起きるだけでご褒美だ。……右側、そうそのあたりにヨーグルトがついてる。取ろうか?」
「この程度は自分でやる。センターでは何を食べて居た?栄養はあったみたいだが」
「ああ。栄養バランスは最低限満たされているよ。シリアルバーとか、錠剤とか、面倒にならないものが出るんだ。たまに調理訓練がある時だけ、こういう料理を作って食べるくらいかな。いつでも呼び出される可能性があるから、味気ないものだよ。篤さん、貴方のせいじゃないんだ、一々気にしないでくれ」
「……ここにいる間、嫌という程美味いものを食べさせてやる。調理訓練と言ったな?どういうものが作れるんだ」
「ええと」
大変ありがたい申し出に口元を緩めると、和人はサンドイッチを齧った。予想に違わず美味しい。ふんわりとしたコーンブレッドのしっとりとしながらもざらりとした歯ざわりで始まり、新鮮なレタスのシャキシャキとした食感に甘み、口中で弾けるインゲンの青さに香ばしいロースハムが追いかけてきて、チェダーチーズがしっかりとした塩味で全体を引き締めてくる。文句なしの出来だった。では自分が作れるものは、といえば家庭料理大全集の3巻くらいまでだろうか。おぼろげな記憶をかき集めて話すと、十分すぎるくらいだと篤が口笛を吹いた。
「それだけ作れても食べれないだなんて勿体ない。そのうち作って見せてくれ」
「わかった。好き嫌いとアレルギーを教えてくれればいつでも作るよ」
オメガであること以外で自分の価値が認められることも、求められることもとても嬉しいものだから自然と前のめりになってしまった。途端に篤が凍りつき、んう、と妙な呻き声を漏らし始める。また、自分は匂いを強くしてしまったのだ。同時に篤からもラベンダーの香りが強く立ち込め、和人はなんとか理性を総動員して後ろに体を戻した。そうでもしなければ触れたくてたまらなくなってしまう。
「最悪だ。前はこんなに簡単に勃たなかったのに、お前の匂いを嗅ぐだけで勃つ」
「その気持ちはわかる」
和人も軽く勃ちかけており、気持ちと相反する生理現象に悩まされて居た。元々、相手のいない純粋培養のオメガである和人は性欲すら完全にコントロールされている。どう対処すれば良いかは学習しているが、実践するには今ひとつ勇気が足りなかった。せっかく学習したというのに、使えないのでは無用の長物というもので、自分と違って経験豊富な篤はさぞやがっかりするだろう。がっかりさせないためにも気を引き締めねば、という和人の意気込みを余所に、篤は額にしわを寄せて唸っている。
「だから不用意に近づくなと……いや、今のは半分俺のせいかもしれん」
「どういう意味だよ」
「笑うなよ。お前が俺の昼食を用意するようになったらどうだろうと思ったんだ。そうしたらお前があんまり嬉しそうにしていたから、つい」
多幸感に包まれて本質が見えていないようだが、どうやら篤は自然とこの連れ合いを受け入れつつあるらしい。当初の目的に適わないという頭が働いているので可能性は無視されたままだが、和人はそれで良いと思っていた。かさついた生活の中に潤いがあったと思えるようになりたい。彼と別れた後のことを、和人はずっとシュミレートしている。篤がどんなに手を尽くしてくれようとも、二度と運命の相手には出会えないのだ。相手に好かれるように、愛せるように努力するつもりだが、こんなにも心が浮き立つことはあるまい。だから、篤は気づかないままで終わらなければならないのだ。気づいた彼の失望や軽蔑を見てしまったら、それから先はどん底でしかない。要するに、自分は彼を自然に愛し始めているのだ。生まれて初めて抱いた感情に行き場がないことは大層辛い。
「良いんだよ。気に病まないでくれ。春野宮家なら、今俺が使っているものよりも丁度良い抑制剤を手に入れられるだろう?副作用のことは気にせずに、早い所俺にくれれば問題ない」
「簡単に言うんじゃない。副作用は重要な問題だからな、安全を確認するまでは絶対に渡さん。……俺はお前を不幸にしたくはない」
何よりも誰よりも、篤自身が和人を不幸にさせるとは知らないで真面目な話は続く。うんうんと感謝しながら、和人はしくしくと痛む胸を黙らせるのが精一杯だった。
「うん、良い匂いがする。お前にしちゃまともな相手を連れてきたな、篤。和人さんだね?よろしく」
「よろしくお願いします」
甘いテナーの声とともに優雅にパンケーキの載った皿を持って歩いてきたのは、白い麻のスーツがよく似合う偉丈夫だった。篤よりもさらに背が高く、金茶のくるりと巻いた髪の毛が、顔立ちの甘さを一層引き立てている。彼ならば、他のオメガが見ていたアルファ名鑑に出ていたから、世間に疎い和人にもわかった。この春野宮の跡取りである長男の俊哉(としや)である。言わずもがなアルファの俊哉は、どうやら和人自身が認識していない匂いがわかるらしい。確認するように近づこうとしてきた俊哉に怯んでいると、篤が素早く腕を伸ばして押しとどめた。
「俺の連れ合いに手を出さないでくれないか。兄貴なら腐る程愛人だっているんだ、何もここから連れて行くことはないだろう」
「おや、雅に聞いていたが随分情熱的だな。後がないから焦っているのか?それともマッチングシステムの出来が良いのか」
俊哉が悪い笑顔を浮かべると、ぶわりとジャスミンのような香りが漂ってきた。この男はふざけたことに、篤への嫌がらせのために和人を誘うつもりでいるらしい。篤が盛大に舌打ちし、ちらりと心配そうに和人を見てきた。ラベンダーの香りが強くなる。この二つの匂いは調和する良い香りだったが、混ざり合わさったことで効果が薄れたのか和人の体にはこれという変化は起きないでいた。
「あの、パンケーキが冷めると思います。早く食べてあげないと」
「……効かないのか?初めてだな」
「兄貴!」
「はいはい、僕はご飯を食べてくるよ。冷めちゃかわいそうだ。せっかく作ってくれたのだからね。和人さん、今度は二人きりの時に試させてくれ。君一人落とせないようじゃ、僕のアルファとしての沽券にかかわるからね」
「趣味が悪いな。他所に行って試してくれ」
しっしっ、と篤が追い払う仕草をすることが可笑しい。去りゆく俊哉の背中を見送ると、和人はゆっくりとハーブティーを楽しんだ。ひどく喉が渇いている。
「兄貴は趣味が悪いんだ。義姉さんは苦労している。……雅姉さん達も気づかなかったのに、兄貴にだけお前の匂いがわかったのは面倒だな。さっきは大丈夫だったか?兄貴のあれは強烈だから、泡を吹いて倒れる奴もいたんだ」
「何もないよ。良い匂いだとは思ったんだけど、お前のだけを嗅いでいる時みたいには、ならなかった」
むらむらしなかった、と言いかけて和人は止した。自分がはしたない物言いをするのは嫌いだ。もっと事務的に淡々と日々をこなさなければ。篤は和人の返答に安堵したらしく、兄に誘惑された愛人のオメガ達の末路について端的に教えてくれた。ハーレムのような囲い方で、天国と地獄が同居しているのだという。どれにも子供がいるので、俊哉の死後は揉めるだろうとも。強いアルファというものも厄介ごとは避けられないのだった。
「だが、お前が行きたいならば止めはしない。気になるならいつでも言ってくれ」
「そういう面倒なところはお断りだ」
「了解。お前がまともで安心したよ」
小さく笑うと、篤は残りのサンドイッチを瞬く間に平らげ、出社するから良い子にしておけと告げた。思わずうっとりとしかけた和人は軽く自分の太ももをつねって自戒した。ここでは何も得られない。夢はほどほどにしなければならないのだ。機械的に自分も残りのサンドイッチを食べたか、どういうわけだか今度は味がしない。どうしても集中できないまま、朝食の時間は終わった。
やりきれない朝食を終え、篤とも別れた頃に従僕がゆっくりと機会を窺うように声をかけてきた。自分の荷物が届いたのだという。手伝おうとする手を押しとどめ、和人はたった二つばかりのダンボール箱を抱えて従僕に案内された部屋に入った。今朝方篤と寝ていたような豪奢な部屋ではなく、少し小さな落ち着いた部屋である。のっぺりとした顔の従僕が言うには、なんでも前の奥様方もそこを利用されていたそうだ。顔つきと言い方から察するに、この従僕は和人が番として連れてこられたことに納得がいかないのだろう。それはこちらも同じだ、と和人は嘆息した。
しかし、別に部屋があるのであれば最初からそちらに運べばいいものを、わざわざ自室に運んだ篤を和人は迷惑に思った。寝室は別にできないと言いながらも、他に部屋はいくらでもあるのではないか。おまけに他の部屋に行くことが当たり前だというようなあの従僕の様子も和人の心に影を落としていた。明らかに自分一人用だとわかる部屋は、センターで暮らしていた部屋よりも余程恵まれているというのに今は寂しさを覚えてしまう。篤の部屋で、彼と寝転がったことが影響しているのは明らかだった。ここはラベンダーの匂いがしない。ポプリか何かでも作ったら少しは慰められるだろうか。
和人は生まれてからずっと、自分がオメガであることを理解しているつもりだった。オメガとはどういう生き物で、どう振る舞うべきかというあるべき姿を散々叩き込まれてきたのである。理解していないと考える方が難しい。だが、篤と出会った今、和人は自分が全く理解していないことを知ってしまった。こんなことは誰も言っていなかった、本当はセンターから連れて行かれた数多くの先達や、世に溢れるオメガ達は知っていたのかもしれないのに知られていなかったのである。自分が誰かのために生まれて、それが思いもしなかった幸福と絶望の両方を味わせることなど、和人は願うことならば気づきたくはなかった。
ダンボール箱の中身はわずかな衣類と書籍、それと親だった人が義理で渡してくれた何度目かの誕生日の時の誕生日プレゼントの箱だけである。多くのものはセンターに所属している、つまり公共のものというわけだ。情報端末も連絡手段の類もすべて取り上げられている。衣類だってこの家には不釣り合いなので早晩捨てられるだろう。私物の少なさはそのまま自分の人としての厚みのなさのように感じ取られて、和人は顔を顰めた。自分が誰にもふさわしくない人間だと、たとえ真実なのだとしても思いたくはなかった。幸せになりたい。ふ、と脳裏を過ぎるセリフに和人は首を振った。それは受難への入り口だ。忘れ去るに限る。
衣類をクローゼットへ、書籍はひとまず据え付けられた書斎机の上に置き、古びた誕生日プレゼントの箱は迷ってクローゼットの中に入れ込んだ。いまだに開ける勇気がない。開けたならば、両親に想いを馳せるのではないかと子供心に思っていた。親を覚えている子供達が泣くのを見たことがあるからで、自分はあんな風に惨めな気分を味わうことなく過ごそうと心に決めたのである。両親だった人が、誕生日プレゼントをくれたのは後にも先にもこれ一度きりで、会いにきてくれたことは6歳になるまでの3回ほどだった。向こうは和人というよりもセンターに興味があるようで、実際に助成金などの手続きをするついでに顔を見にきてくれたらしい。いい子にしている?早く落ち着く場所を見つけなさい。そうすれば、
「今頃幸せなのかな」
アルファに連れ出され、問題なく2年間を過ごせた場合、また子供を産んだ場合、特にその子供がアルファである場合はその親に遡って報奨金が出される。どこまでも家畜扱いなのだった。金銭が幸福の多寡を決めるのであれば、センターから和人が連れ出されたというだけで両親は喜んだに違いない。それに、篤が宣言通りに実行したならば、子供は生まれないとはいえ二年間は夫婦関係となるのだから万々歳のはずだ。なんと簡単な話だろう。和人はこれまで、必要なもの以外を入手するという考え方はまるでなかった。最低限の会話はできるように叩き込まれていても、それはカリキュラムをこなすことが主眼であって楽しむことは重要視されていない。
これから先、自分は楽しむことを学ぶだろう。何故ならば、篤とのささやかな会話を思い出すだけで口元が緩んでしまうのだ。篤もそう思ってくれたならば尚更良い。誰かにそうであって欲しいと願ったのは生まれて初めてで、和人は心底外にいる全ての人が羨ましくてたまらなくなった。彼らは幸せを知っている、幸せになれる、それを生得権としているのだ。今からでも自分がなれるのか、和人にはどうにも自信がない。篤と自分とには将来がないのだからーー目先にある幸せは失われることが前提だ。喪失感は耐え難く、和人はいつまでも思い返して求めてしまう可能性が高い。惨めだ、否これがこの程度のオメガに許された生き方だ。心の平穏を保つために、求める期待値を下げていく。今までもこうしてきた。これからするのは今更の話だ、慣れている、そうではないか?
「難しいな」
自分の思考能力を超えて巡る想いにやり切れず、和人は考えることを放棄した。今は必要なものを申し付けるようにとの家令からのお達しに従わねばならない。書斎机の引き出しを開けると、メモ帳とペンが入っている。ありがたく使わせてもらおうと引っ張り出したところで、何かが引っかかった。手を引き出しに差し入れて探ると、小さなノートらしきものが奥から転がり出た。どうやら、引き出しの奥のところに挟まっていたらしい。パラパラとめくれば、疎らではあるが日記のようなものが綴られている。誰がとは言わずもがなわかる。過去三人いた篤の妻の誰かが書き綴ったものだ。
『篤様はお優しい。今日も私の好物を見つけて分けてくださった。お父様は早く番いになれというけれども、今はこのささやかな時間を楽しみたいと思う。篤様は私をどう思っているのかしら?私は篤様の運命の相手だと思いたい。そうでなくても、納屋橋家との結びつきは篤様も望むところだと思う。……今夜も御渡りはなかった。けれども、これから先、ずっと未来があるのだから気にはしない。今夜は美容体操をやってみよう』
納屋橋家というのは、確か古い素封家の一族だと記憶している。生粋のお嬢様を想像し、和人は微笑んだ。今時では古風とも言える、日記を紙の束に書くという行為、そして丁寧で読みやすい字が和人の胸を打った。一体どんな女性だったのだろう。必要なものを書き出すという作業を放棄し、和人はしばし過去の残滓に触れることにした。
日記は納屋橋家の令嬢がこの家に来た日に始まっている。どうやら二番目の妻として、『園遊会でご紹介頂いて以来、忘れがたい素敵な方』に求められたとある。篤の様子からすると、大方家に求められた相手だったのだろう。令嬢の方は夢のようなことだと何度も繰り返し喜びが書かれていた。まだ誰とも付き合いのない、大切に育てられて来た生粋のオメガ。ついてきた姉やにあれこれと聞いては世間をもう少し知ってほしいとお小言をもらう様はまるで子供のようだ。実際、成人手前の女性である可能性は高い。篤はあれこれと食事に出かけたり遊びに行ったりとともに時間を過ごし、何くれとなく気にかけてくれたと書かれている。楽しかった、こんなにいいことが世の中にあるなんて!
『今日も、御渡りはなかった』
だが、このくだりがだんだんと重みと暗さを増して行く。半年が過ぎ、自分たちは接吻もしていないのだと改めて悟った悲しみや怒り、自分で求めることは恥ではないかと悶々と悩む様は、読んでいてひどく辛い。二度ほど発情期の頃を迎えたが、それでも篤はこの部屋に来なかった。否、篤の部屋にこの日記の主人は行ったこともないに違いない。子供が欲しい、愛して欲しい、自分を見て欲しいと延々と続く日記は血の叫びのようだ。直接訴えかけたこともあるらしく、その返事については『お父様たちになんとお話しすれば良いのか、お父様たちはご存知でしたろうか、あまりにもひどい』といびつな字で綴られている。字があちらこちら滲んでいるのは、書きながら泣いたからだと知れた。
結局、日記はこのひどい話のところで終わっていて、この後のいつ時点で離婚が成立したかはわからない。だが、確実に別れたのだ。こんな思いを自分はしたくなかった。愛されないものを愛してなんとしよう。ああ、と和人は戻ってきた思考にイラついて少しだけ伸びた髪の毛をぐしゃぐしゃにした。やりきれない、どんなに恵まれていても、他人を前提とした幸せは不確実性が高い。とは言え、この日記は悲しみだけでなく、ほんの少しだけ意地悪な喜びも和人に与えていた。納屋橋家の令嬢は篤の匂いを嗅いだ風がない。反対に、全くなびくことのなかった篤が、令嬢の匂いについて気づいた風もなかった。篤が自分の匂いを抑えていたことは大いにありうるが、気づかなかったとは本当に相性が良くはなかったのだろう。日記を元どおり引き出しの奥にしまうと、和人はメモ紙に情報端末、とだけ書いた。当面はこれだけで十分だろう。
窓の外を見ればすでに陽が傾き始めており、壁に掛けられた細工時計を見れば五時を指している。昼食に呼ばれた記憶はないので、まだ家族にも正式に披露されていない身の上のこと、忘れ去られていたのだろう。朝食をたっぷりと食べたので気にしてはいなかった。センターにいた頃も、必要な栄養を摂る以上の意味がなかったので、実際に口に入るものの量は少なくても空腹を感じない術は得ている。部屋を出ると、がらんとした長い廊下いっぱいに夕陽が差し込んでいた。むわりとした暑さと光に顔をしかめると、和人は夕陽が左手に見えることからここは西で、自分は北を向いていると記憶した。無事にここまで一人で戻れるのか心配でたまらない。センターと違ってこの建物は人為的にごちゃごちゃとしている。
篤は必要最低限の部屋を教えてくれたと思うが、この奥方達が利用していた部屋は案内されていなかった。最初から番にしないと決めていたのだから、他の適当な部屋を与えるつもりだったのだろう。現実の生活のなんと不規則で、予想がしにくいことか!前方から、微かにクチナシのような香りがすることに気づき、和人は足を止めた。ひっそりと誰かを誘うような甘い匂いだ。どこかの部屋から漏れ出しているとすると、発情期のアルファかオメガが籠っているのかもしれない。変に互いに影響を齎してしまうことは躊躇われた。木彫りで表現されたアラベスク模様が狂気的な美しさをたたえる大きな扉がこの突き当たりにある。根源はあそこだ。足が重くなった瞬間、ぶわりと冷や汗が出た。これ以上深入りは禁物だ。慌てて回れ右をすると、和人はできるだけ静かに、敷かれた絨毯に音を吸い込ませるように早足で進む。南へ、多分どこかで人に出会うはずだ。こんな時に情報端末を持っていないと困ってしまう。どこへ行けば良い?何をすれば良い?
今までの人生で一度も自由になったことはなかった。今この瞬間も厳密には自由とも言い難いのだが、和人はただ真っ白な自由さに恐れすら抱き始めている。篤はまだ仕事をしているだろう。最適な労働のあり方が散々議論されたとは言え、篤は好きな仕事を中途で放り出す男ではない。夢中になったならば、どうでもいい和人のことなど忘れてしまう。納屋橋家の令嬢が日記に書いていた。
『今日は私が眠る間に帰り、起きる前にお仕事に行かれたと聞く。姉やに問いただせば、私のことは気にも掛けなかったということが明らかだった。篤様にとって私は何なのだろう?篤様は優しい。けれども、何をお考えなのかがわからない』
令嬢と違い、自分の立場を理解している和人ではあるが、滲み出る不安は拭えない。篤に会いたい。一目見て、あの匂いを嗅いで落ち着きたかった。残念ながら、和人が嗅げば落ち着くことを通り越してしまうのだが、一般的にラベンダーはリラックスする作用があると聞いている。グロテスク模様の壁紙を乗り越え、玄関ホールにたどり着くことができた時、和人は玉の汗が顎を伝っていた。
「出迎えてくれるとは、可愛いところもあるのだね。僕に靡いてくれる気になったのかい?和人さん」
「俺を迎えに来たんだよ、兄貴。勝手に都合のいい解釈をするのはやめてくれ。俺がいない間、大丈夫だったか?」
「あ、お帰りなさい、ませ」
自分が勢いよく玄関ホールに飛び出てしまった気まずさ、よりにもよってそこにちょうど篤と俊哉が帰って来た間の悪さ、俊哉のニヤついた笑みに頭が真っ白になり、和人はかろうじて当たり障りのない挨拶をするのがせいぜいだった。むしろできただけ褒めて欲しいほどである。和人の様子に違和感を抱いたのか、篤は近づくとズボンから取り出したハンカチで和人の額を拭った。仄かにラベンダーが香る。それだけで頬が緩んでしまい、和人は自分のだらしなさに舌打ちしたくなった。こんなにもあからさまではいけない。だが、篤がぎゅうと抱きしめて来たことでその決意は瞬く間に霧散してしまった。品の良いラベンダーの香りには様々な外の香りが混じっているが、やはり良い。別々の部屋になってしまったら、この匂いは嗅ぐことができないのだ。頭がぼうっとするのを他所にスンスンと嗅いでいると、篤も同じように首筋を鼻の先で舐めるようになぞって来る。あちらも自分の匂いを嗅いでいるのだ、と思うと身体がカッと熱くなり、和人は慌てて篤の腕を叩いた。
「……何か不安になるようなことでもあったのか?少し匂いが苦くなってるぞ」
「え、なんでそんな、」
「匂いで相手の調子を理解するのは、優れたアルファなら当然の能力だよ。全部のアルファができるわけではないがね。篤、夢中なのはわかるが場所は選びなさい。和人さんがまた倒れてしまうよ」
「わかってる」
カリキュラムで習った覚えのない事実がまた一つだ、と和人は目を白黒とさせた。強い感情が匂いにも滲み出るのだ、と篤は笑う。笑いながら耳を指先で弄るのをやめてもらいたい。この男は本当に自分を番にせずに終わらせるつもりなのかさっぱりわからなかった。匂いが強くなっている、というからかいの声に対して少々強めに腕を叩くと、和人はゆっくりと午後いっぱいに起きた出来事を話した。
「西の部屋?」
「ああ。篤さんの相手を置いておく部屋があるって言われて……案内されたんだ。窓から夕陽が見えたから、あっちが西で合っていると思うけれども」
前妻の日記を見つけたのだから確かだ、とは言わずに和人は努めて理性的に説明した。だが、西の部屋である時点で春野宮兄弟の禁忌に触れる事項であったらしい。柔和な俊哉の顔が心なし強張り、篤も緊張の面持ちで何もなかったかと和人の体を検分し始めた。おそらくはあの匂いがする部屋がいけないのだ、とは思うけれども、篤があちこち触れることの心地よさに和人は聞き出すことをしばし忘れてしまう。何もなさそうだと安堵する篤が少々恨めしかった。
「匂いの元に行かなくて正解だよ、和人さん。だいたいあの部屋はもう二度と使わないと指示して置いたと言うのに。相変わらず、あの人は強引なことだ。僕が言うことではないが、気をつけると良い。おそらく、あの人の好みではないとは思うが、万が一ということもある」
「ああ。……和人、前にも言ったがお前の部屋は俺の部屋だ。他には行かなくて良い。荷物はあとで取らせるから心配しないように。それと、二度と西側に行くな。何かあってからでは遅いんだ」
「ん、わかった」
あの匂いの元に行ってしまったらどうなっていただろう。恐ろしさから逃げ出したが、どうやらそれは正解だったらしい。昼を食べなかったことに、俊哉が盛大に舌打ちして家令を呼びつける。家令の説明から察するに、どうやら和人を誘導した従僕は特別な人に専従していたらしく、誰にも縛れないようだった。同時に、一応は和人を探したらしいこともわかり、和人は少々驚いた。自分のことをきちんと認識するとは、なんとまあよく躾けられていることか!春野宮家だからと言われたならばそれまでだが、あんな仕打ちを受けたものだから和人には目から鱗だった。
「明日は休みだから、この家を詳しく案内しよう。ずっと部屋の中にいてもつまらないだろう?父さんたちも帰ってくるから、挨拶もすると良い」
美味しいものを食べさせてやる、と篤が微笑む。ちょうどお腹がぐうと鳴って、和人はようやく頬を赤らめた。
とはいえ、夕飯も穏やかにというわけには行かなかった。篤に指示された服に着替え(やはり和人が持ってきていた服では駄目であったらしい、今度一揃えを用意させると篤が約束してくれた)、隣同士に長い長い食堂のテーブルに着いたが、和人は緊張のしどおしで何が起きているのか把握できないほどである。緊張すると匂いが変わるのか、その度に篤がからかってくるので余計に混乱は深まった。おまけにテーブルの下では器用な篤の足が、ちょんちょんと和人の足をつついたりなぞったりしてくるのでたまらない。
まるで和人の集中を乱すことが目的のような行為に、この落ち着かなさはわざとそうさせられているのだと和人は結論づけた。先ほどの西の部屋がそんなにも都合の悪いものなのか。二年後にはここを去る身であって、特段知る必要もないものだが気にはかかる。外、にはこんな不気味さも待っていたのだ。さまざまな思考が入り乱れ、人参の甘いグラッセに集中できなくなった時、和人はとうとうテーブルの下でいたずらに動いていた篤の脚を軽く叩いた。悪ふざけにもほどがある。
「篤さん、あんまりいじらないでくれよ。折角こんなに素敵なご馳走を食べているのに集中できない」
「このくらいで?慣れないと横に並んで寝られなくなるだろう」
「貴方と違って、俺には経験がないからな。それに」
いたずら気に笑う篤が忌々しい。耳を寄せるように指示すると、和人はひそりと耳打ちした。
『立ち上がれなくなりそうで困る』
切実な訴えだったが、篤には十分伝わったらしく、ぴたりと蠢いていた足の動きが止まった。ちらりとテーブルの下に覗く篤の足を辿って行くと、わずかに膨らみが見られる。何が慣れだ、こんな状態でまともなまま朝に繋げていけるとでも言うのかとせせら嗤いたくなってしまう。多分、本人はよくある悪ふざけの一環であって、番にするしないという重大事に関わらないと思っているのだろう。理性を飛ばすのはこの二人であれば簡単で、納屋橋のお嬢様相手であれば篤は誰よりも紳士として振る舞ったはずだ。和人はお嬢様ではないが、ひょっとするとお嬢様よりも世間を知らないし、人間同士のやりとりは知らないことの方が多い。からかって良い相手ではないとどこかで理解させねばならない。
「参ったな」
勃った、と気まずそうに篤が額に手を当てる。小さな声だったが、どうやら斜め前に座っている雅の耳に届いたらしい。可愛らしい双子の子供達(もちろん雅たち夫婦の子供だ、よく似ている)が気づいていないことを確認すると、キッと篤を睨んだ。
「良い歳をして恥を知りなさい、恥を。今まで一度もなかったでしょう?その程度の自制はしてちょうだい」
「情けないことは十分理解しているとも。……和人、部屋に行くぞ」
「え?まだ食事は途中だろう。まだお腹が減ってるから、篤さんだけ先に帰ってくれないか」
「お前に来て欲しいんだ」
はっとするほどに綺麗なセリフだった。これまで命令口調で話されることはあっても、要請されたことは一度としてない。求められていることの嬉しさは運命の番であるが故なのか、気づけば和人は頷いて立ち上がっていた。あとで夜食を作ってもらうより他にない。残された夕食を恨めしげに見ると、和人はこれから何回食べられるだろうかと計算して心を慰めた。強欲なまでに食べない限り、この不運とその後の人生を慰める術はない。埋めきることはできないだろうが、せめてもの試みだった。先をずんずんと歩く篤は未来があるから呑気としか言いようがない。下半身に疼きを抱えたまま、よくもまあ上手く歩けるものだと和人は呆れるのを通りこして感心した。見覚えのある廊下を曲がり、渡って渡ってたどり着いた先に、和人は心の底から安堵した。篤の部屋だ。部屋の近くに来ただけで彼の匂いがすることがわかり、ゆっくりと体の力が抜けて行く。夕方のあの部屋とは大違いだ。
「他にやり方を思いついたら教えて欲しいが、薬を飲んで効かないなら、お互いに慣れていくことが一番の近道だと思う。さっきはからかい過ぎたかもしれんが、追々何も思わなくなるはずだ」
「特に良さそうなやり方はセンターで習っていないな。だいたい、こんな風に匂いがするだなんて誰も気にしていなかったんだ。心臓に悪いけれども、篤さんの言う通りにしてみよう。お手柔らかに頼むよ。貴方は経験者だけれども、俺は何も知らないから」
「できる限り努力しよう。上着とズボンを脱いで、そこに座れ。ああ、皺を作ったら面倒だからだ。他意はない。怯えるな」
「本当に?」
「慣れたいのは俺もなんだ、嘘はつかないさ」
落ち着いて、と微笑まれると言うことを聞いても良いような気持ちになるのは、篤が和人の運命だからだろうか。それとも彼が経験のない人間を手玉にとる経験が豊富だからか?自分の服ではないこともあり、もたついついると、とうに自分の服を脱いで寛いだ篤の手が伸びてきて上着を剥いだ。麻のさらさらとした白シャツの下に、引き締まった脚がすっと伸びている様は美しい。全体が見えないことで一層美しく見えることもあるのだ、と和人は初めて理解した。流石にズボンはなんとか自分の手で脱いで、さっさとベッドの上に乗る。昨日も並んで寝ていたというのに、横に並んできた篤の体温を感じることが恥ずかしい。ラベンダーの匂いは心地良く、ぽかぽかとした体熱で和人は寝入ってしまいそうだった。苦笑した篤が左手で和人の右手を搦めとる。直接触れた箇所からぬるりと存在が割り込んでくるような熱さで、和人は思わず目を見開いた。
「五分間、このままじっとしていろ」
「このまま?」
期待していたわけではないが、わざわざ脱ぐ必要もない試みに和人は拍子抜けしていた。じわじわと上がってくる熱が辛くて振り払おうとすると、しっかりと指を絡められて逃げられなくなってしまう。利き手が封じこれられる圧倒的不利から、和人は口を尖らせて枕の山に身を預けた。同じように寝転がった篤は和人の匂いを感じているのか、どこか潤んだ瞳をしている。
「触るとフェロモンが染み込むらしい。兄貴に聞いてさっきも試してみたんだが、どうせやるなら直接の方がお互い良いそうだ」
たしかに、自分自身で出すフェロモンを調整できるアルファであればできそうな話だ。相変わらず和人には自分のフェロモンがどう出ているのか、少しもイメージがわかない。すりすりと篤の指先が手の甲を撫でたり、掌をゆっくりと擦るだけで頭の中がぐらぐらとする。さっきよりもずっとひどく、ただ手を握りあってるだけだというのに下腹部が濡れてきた。五分。五分経ったらトイレに行こう。篤の前で処理するなど言語道断だ、どんな醜態を晒して強請ってしまうか知れたものではない。自分自身に経験がないとは言え、発情したオメガがどう振る舞うかは流石に習ってはいた。
「染み込んだら、ワクチンと同じで段々慣れていくとさ。量を少しずつ増やしていくんだ」
「……あと何分残ってる?」
「三分だ。もう我慢できなくなったのか?」
からかいの声が腹立たしい。まだ半分も過ぎていないなどとんだ拷問ではないか!無意識に脚を擦り合わせてモジモジとしていると、わずかにぐしゅりと水音が立って和人は顔を赤らめた。篤を見遣れば、耳まで真っ赤にしてこちらを見ている。音が聞こえていたのは明白だった。前だけでなく後ろも濡れる自分の体が恨めしくてたまらない。早くトイレに行きたくて、和人は意を決して篤の手を握った。
「も、我慢できない、できないから離してくれ、なあ、離してくれよお」
「まさかお前、俺の手だけでイけるのか?」
「うう」
冗談ではない。このままでは本当にそうなってしまう。篤の方はというと、勃ってはいるが和人ほど切実ではなさそうだった。これが経験の差だとすれば泣きたくなってしまう。スッと篤の目が細められ、軽蔑するのか実に冷たい眼差しを向けてきたものだから、いよいよ和人の眼は震えた。
「イッていいぞ、和人。見ててやるから安心しろ」
「だからいやだって、あ、ああっ、やめ、いっちゃう」
全身をブルブルと痙攣させると、和人は懇願するように体を起こして頭を下げた。だが、篤の手は万力のように和人の手を離さないばかりか、ますます締め付けーー
「イけ」
「やらああっ」
ちゅ、と軽く手のひらに口付けられた瞬間、ばっと世界が弾け飛んでぐるりと裏返った。熱が広がってうねって冷えて、目まぐるしくてたまらない。下半身からはだらだらと粗相するのと同じ要領で体液が溢れ出た。初めて発情期を迎えた時だってこんなに惨めではない。荒い息の中篤を睨み付けると、真っ赤に蕩けた篤がニヤニヤと笑っていた。
「悪くないな。目が大きくなるのも、イく時の声も俺の好みだ。イったらどんな匂いになるか試してみて正解だな。……そう睨むな、俺もイったから安心しろ」
「うそ、」
「確認してみるか?」
どこか誇らしげに言う篤がおかしくて、和人は救われた思いがした。二人とも滑稽ならば問題はない。恥ずかしかったのは確かだが、次がなければもう良かった。確認するために触ったならばどうなるかは考えるだけに恐ろしそうなので丁重にお断りをした。濃く立ち上る匂いを嗅げば一目瞭然である。もう良いだろうと手を離そうとしたが、篤がぎゅっと手を握るものだから躊躇してしまった。圧倒的に間違った判断である。薄々感づいてはいたが、自分はどうも他人から求められるということに弱いらしい、と和人は己に舌打ちした。
「今日は手だけでどこまで慣れるか試すぞ。最悪な気分だが、最高に気持ち良いからやれるだけやってみよう」
「……手以外は絶対に触らないんだな」
「なんだ、積極的だな。触って欲しいならば触るが」
「結構です!」
もちろん、和人は間違っていたのだ。手だけというのがどれほど恐ろしく恥ずかしく、そしてこれ以上先に何が起きるのか想像するだけで気が遠くなる出来事であることを何も予想できていない。生まれて初めて手に入れた目先の快楽や優しさ、求められているという錯覚が喜びを前面に押し上げてしまって正常な判断などできやしなかった。白目を剥くほどに狂い、ベッドの上で踊った和人に満足できたよと嗤う篤は、悔しいほどに格好が良い。夢うつつに相手の手に爪を立ててやるのが精一杯で、和人はそれでも心地良いこの地獄に微笑んだ。
本来ならば翌朝、と言いたいところなのだが、情けないことに和人が起きたのは昼過ぎのことであった。仮初めとはいえ番扱いになっている相手の親が来る日だというのに些か気まずい。なんとか頭を振って覚醒し、自分の体が綺麗になっているーー当たり前のように裸であるため一目瞭然だーーこと、その原因が横に並んで未だに寝ていることで一層気まずさは増した。本当にあんな試みで自分は慣れたのだろうか?寝ている間は匂いがしないことを良いことに、和人は篤の頭をぽんぽんと撫でた。何も感じない。では次は手を、と握れば、寝ている人間にしては存外強い力で握り返されてパチリと篤の目が開いた。
「なんだ、昨日あれだけしたのに足りないのか?今夜またするから我慢してくれ」
「……本当だ、何も感じない」
昨日は今こうしていたずらにぎゅっと指先を摘まれたりしたらば、それだけで柔らかくも下半身が反応していた。ところが昨日一晩頑張った成果か、今の和人の下半身は凪いだ海のようにおとなしい。感動を噛み締めながら篤のものをチラと見て、和人はギョッと目をい開いた。柔らかくではあるが、数と同様に何も隠すものがないのでよくわかる。篤の物騒な代物は勃っていた。それは恥じらいと言うよりは恐怖をもたらすもので、知識としては知っていたものの、初めて目の当たりにした現実に和人はぶるりと震えた。まず、長く、太い。のみならず根元にはこぶのようなものがついており、これがどううまく下着の中に収まるのだろうと首をかしげる代物だった。まだ完成形ではないのだから、一体どうなってしまうのか想像したくもない。
「馬鹿、そう熱心に見るな。あまり見ていると同意とみなすぞ」
「わ、悪い。その、初めて見るものだから目が離せなくて」
言いながらも、自分の体が裸でかつ綺麗なのはこの男が後始末をしてくれたはずで、要するに自分の裸はまじまじと見られているはずだと思い至り、和人は解せないと唸った。和人の体は、オメガにしては少し男性寄りで、小ぶりな陰茎と睾丸を備えている。人によっては睾丸がまるでなく、その分だけ見た目は女性のようになるのだ。ちらと自分の股の間を見れば、先程目にした篤のものとは比べものにもならない。
「半分は冗談だ。……俺も、オメガの男の体を見るのは初めてだから気持ちはわかる」
「えっ」
「オメガでなくても、そう男の裸を見たりはしないぜ?割と普通なんだな」
「もう少し小さかったり、これがない奴もいるよ。俺たちオメガにはお飾りみたいなものだからかな」
「なるほど」
名称を直接言うことは憚られて、和人は自分のものをちょんちょんと示して見せた。子供のように無邪気な他意のない行いなのだが、篤には逆効果だったらしい。もごもごと呻くと、乱暴に手を離してベッドを出て行った。どう言うわけだかお気に召してしまったことだけはわかる。わかるが、何が原因かはわからない。何故篤ばかり反応が良いのかも不可思議だ。
かなり時間が経った後に戻ってきた篤はすっきりとした顔で、しっかりと服を着込んでいた。休みの日のためか、薄手の青いセーターに黒いジーンズという軽装で、一層篤を若く見せている。まだ裸で先ほどと同じ位置に座っていた和人に、篤はできるだけこちらを見ないようにしながら下着やら服やらを渡してくれた。こうした行き届いた配慮は、これまでの妻たちを喜ばせ、また落胆させる種になったに違いない。渡されたのは異国風のゆったりとした白い布の塊のような服で、正確には一枚の長い布をあれこれして服に仕立てるらしい。器用な篤はせっせと世話をしては触れても大丈夫なのかと尋ねた。ほんの少し触れるくらいであればお互い大丈夫らしい。また今晩、少しでも長く耐えられるようにしてみよう、と篤が囁く。できるはずがない。もう何も出そうになくて干上がってしまう。無理だ。
「時間を置いたら、その分だけ元どおりになるぞ?発情期が来るまでにできるだけ慣らさなければ、辛いのはお互い様だ。薬で抑えられるとは思えん」
「何も出ないと終わりがないから怖いんだよ!アルファは底なしかもしれないけど、オメガはそんなに出せるもんじゃないんだ、昨日だって倒れたのに」
「倒れていたのは確かだが、反応は良かったな。寝ていても十分慣れることは今の状況が証明している。問題はない」
「……寝たきりになるようになったら、責任をとってくれよ」
篤を説得する労力を想像し、結局和人は最低限保証されるように頼むことで手を打つことにした。どうせいつかは潜り抜けねば許されない道のりだ、気持ちがいいだけマシなのかもしれない。当たり前だという調子で頷かれるだろう、と服を最後まで完成させてくれた篤を見れば、ううむ、と変な形に唇を捻じ曲げて唸っていた。つくづく理解しがたい。
「どうしたんだ?似合わないかな。大概の服は似合わない見た目なんだ、気にしないでもらえれば嬉しい」
「服は似合っている。俺の見立てだから問題ない。問題があるのはお前の、その……また勃った」
センターというものはそこまで仕込むのか、と訳のわからないことを言う篤はどこか怒っているらしかった。先に立って歩いているので表情まではわからないが、腕の動きがどこか力強いのでわかる。何か特別なことをしたようには思わないが、自分に落ち度はなさそうなので和人は放置することに決めた。そのまま軽い昼食(と篤は説明したが、和人には昨日の朝食同様にふんだんに饗されていると感じた)をとり、夕方には篤が選んだ和人の服などが届くことを教えられた。確かに、和人が寝ていてもつつがなく物事は進行しているらしい。だが納屋橋のお嬢様が日記に書くほどには篤は紳士ではなさそうで、相手がお嬢様と比べ物にならないほどに下の立場である和人だからではないかという事実がひどく重く胸にのしかかる。昼食の間も篤はいたずらをしてきて昨晩の成果を確認し、結局なぜか篤だけが反応する羽目になってしまって唸っていた。
和人は運命云々をおとぎ話だと思っていたし、実例を目にしたことがないのでわからないが、もしかしたら運命というものは優秀なアルファの感覚を狂わせるものなのかもしれない。篤は、と和人は思う。多少癖はあるものの、十二分に優秀なアルファだ。和人を運命だとは思いたくないだろうから、その可能性すら考えられないほどに優秀だ。いっそ清々しいまでに筋の通った生き方が羨ましくて、それから先の話はうろ覚えである。多分、いよいよ仕方がないことに篤の両親に会わねばならないとか、そんなところのはずだ。この国でも相当上の方に当たる人間を目の当たりにする日が来るとは一毛ほどにも考えたことがない。これまで出会ってきた春野宮家の人々はおしなべて礼節を持って、まるで対等な生き物であるかのように和人に接してくれたが、親となれば気に入らないという態度をあからさまにしてもおかしくはなかった。こんなにも優れた、良い息子を?馬鹿馬鹿しい。
「父さんたちは、お前について詳しいデータがセンターから渡されているし、姉さんたちも報告したはずだ。安心するといい」
「むしろ安心できないんじゃないかな」
「前歴も病気もなくて健康、頭の周り具合や受け答えにも問題はない。それに安産体系だ。次世代を作るには十分だろう」
なるほど、それは理想的な家畜だ、と和人は心の中で呟いた。彼らは皆、和人の顔はおろか、存在自体など見ていないのである。外見はアルファのそれを受け継ぐのだし、子供を産んだ後に廃棄しても良い。より良い人間を増やすために利用するのであって、運命どころか感情の行き所などなくても困らないのだ。そうした意味では、運命の相手がどこかにいるはずだとロマンスを追い求める篤はまだ情がある。ただ、和人にはない、それだけだ。わかりきっていたことではあるが、篤との戯れで吹き飛びかけていただけに衝撃は大きい。旦那様方はオランジェリーにいらっしゃいます、という侍女の答えに従って右へ左へ、篤の言葉も右から左へ、和人はセンターにいる頃と変わらない、と窓の向こうの空を見上げた。変わるわけがない。空が永劫そこにあるように、和人は和人に生まれたことを取り消せはしないのだ。
「父さん、母さん、篤です。和人を連れてきました」
「まあ!いらっしゃい和人さん。もっと近くでお顔をよく見せて」
まるでおとぎ話のお姫様のような小さな女性と、熊のようなたくましい男性とを見て和人は目を白黒させた。てっきり、もっと威圧的な人々を想像していたのである。熊のような男性は黙ったままだが、目の笑い皺からも柔らかい人柄がうかがい知れた。篤につつかれて慌てて頭を下げると、しどろもどろになりながら何事かを言って和人は近づいた。受け答えさえまともにできていない!いつかはここにいられなくなるとわかっていても、彼らに失望されたくないという思いが和人の体の中をぐるぐるとしていた。和人よりも頭一つ分小さな母親は、手を伸ばして和人の顔をペタペタと幼児のように無邪気に触ってくる。こういう仕草は大概歯並びを見られるものなのだが、そこには興味がないらしい。むしろその目つきから、この女性は極度の近眼なだけだと知れた。近年は視力を回復する様々な技術があるのだが、自然のままとしているのは少々意外である。
「俊哉が言っていたけど、良いつくりをしているわね。篤が困らせたりしていないかしら?この子は紳士のフリはできるのに、大事にすることができなくて……躾が行き届いていないものだから、貴方には苦労をかけるかもしれないわ。どうぞよろしくね」
「恐縮です、奥様。篤さんにはとても良くしていただいています。不束ながら、どうぞよろしくお願いいたします」
良いつくりを。親らしい篤への苦言に微笑み返しながら、和人は胸の中が冷えて波打つのを懸命に堪えた。父親は黙って頷いている。完璧な夫婦、母親はオメガといっても一流のオメガだし、父親も申し分のないアルファだ。もっと子供の幸せを願いたいのだが、彼らには彼らなりの果たさねばならない義務がある。いくつかの質問に答え、当たり障りのない話をすれば訪問は無事に終わった。面と向かって罵声を浴びせられることも、軽蔑されるようなこともない、穏やかな時間である。だが、どんな時間よりも苦しく、辛く、誰にもわからないということがたまらなく寂しい孤独な時間だった。
朝は朝食後に散歩、馬の世話、庭の手入れを手伝って昼食、読書の後にダンスの稽古を受けてお茶の時間、幸宏の芸術講義を拝聴(幸宏は芸術学校の大学院生で、来月には欧州に渡るらしい)、帰宅した篤を出迎えて夕食、食後に慣れるための努力をして就寝。篤の両親に挨拶した後、こうした内容で組まれた日程に従って毎日が過ぎて行くことになった。気持ちはあの日以来浮かび上がることはなく、極めて薄曇りのような静けさを帯びている。慣れ、の作業は時間が伸びたり、手だけでなく全身を抱きしめられたりするのだが、抑制できないという気持ちにはなれなかった。これまで自分の感情に注目をしてこなかったが、心にしこりのようなものがあると、身体もその分引き摺られるらしい。
「何が悲しい?何が不安なんだ」
「何も」
匂いが変わっていたのか、篤が深刻な表情で尋ねてきたのは五日ほど経った頃だった。今日は正面から抱きしめられて横になっている。ラベンダーの匂いはこんなにも芳しいのに、気持ちは少しも穏やかにはならない。篤は和人の頭を撫で、額に軽く口づけを落としてきた。それだけでほんの少し気分が浮上する自分は到底許せない。自分を家畜としてしか見ていない人々と何を分かり合えると言うのか。こうして戯れてくるのもペットにするようなものだし、と上の空でいると、いきなり耳を噛まれて目が覚めた。
「痛い、やだって!そんなことまでしなくたっていいじゃないか、」
「やっとこっちを見たな。人と話をする時はーー少なくとも、俺と話す時は俺を見て話せ。一緒にいる間は、お前の全部を俺に預けろ」
「そんなのは、無理だよ」
「なぜだ。俺は頼りにならんのか?」
そうではない。きっと、篤はとても頼り甲斐のある素敵なアルファだ。通りゆく世間の人々が、誰であれ認めるレベルの素晴らしさである。ただ、世界でただ一人、和人だけは篤はどうにもできないのだ。不恰好で、どうしようもない、せいぜい赤子を宿すお腹様とでも呼ぶべき家畜の何がわかろう。ガジガジと耳を噛まれる痛みに顔をしかめると、和人は慎重に選んで一部だけを話すことを選んだ。
「ここではさ、みんな優しい。俺はね、優れた人たちに優しくしてもらえるだなんて思ってなかったよ。でも、優しいけれども違うんだ。……貴方達にとって、俺は子供を産むためだけの生き物なんだろう?いや、貴方達だけじゃないな。この世の誰であっても、きっとそう言うよ。仕方がないんだ、仕方がないのは最初からわかってたのに忘れてて、変えられなくて、俺は惨めな自分が嫌だよ、」
「和人、」
「俺はセンターに帰りたい。貴方には悪いけれども、俺はここに来るべきじゃなかったんだ」
「馬鹿なことを言うのは止せ。それに、泣くともっと不細工になるぞ」
頬を拭われて、初めて和人は自分が泣いていることを知った。これは失望や悲しみだけでなく、怒りも孕んだ行き場のない感情の荒波である。押し寄せるものに和人はなすすべもない。不細工であることを見られたくなくて、篤の胸に頭を埋めたらばポンポンと背中を叩いてあやされた。あるはずの親にも与えられなかった暖かさに、和人はいよいよ惨めになって静かに泣いた。大人になると、涙というものは我慢できるようになる。しかし我慢の堰を切ってしまうともうだめで、理性を裏切ってただただ涙は流れるのだ。篤が足を絡めてガッチリと抱きしめて来るので一層守られているような安心感さえ漂う。これは全て偽物だというのに、夢のように心地が良い。だから嫌なのだ。
「……俺は、言葉が足りないと父さん達に散々怒られてきたが、今ようやくわかった。和人、お前が世間的にはひどい扱いを受けるのが事実だとは知っている。それでお前がどれだけ辛い思いをしているか、考えなかったのも確かだ」
「良いんだ、貴方達は悪くなんかないよ」
「謝るな!間違っているのは俺達だ、お前じゃない。俺はお前にがっかりして欲しくないんだ」
奇妙な話だった。そんなことを出来損ないのオメガに話すアルファなど前代未聞ではないか?首を傾げていると、篤は少し体を離して和人の顔を上げさせた。まだ涙は途切れず、きっと相当に不細工な顔をしているだろうに、篤はどこか温もりのある苦笑をしてこちらを見ている。まるでそこに情があるかのようで、和人は益々泣きたくなった。
「はっきり言っておこう。最初は最悪だと思ってたが、今は和人を気に入ってる。お前で良かった。お前が笑っている方が好きだし、お前には幸せでいてほしい」
「う」
「嘘じゃないぞ。他の家族に聞けばわかる。俺がなんというか……ここまで手間をかけるのも、夢中になって構っているのもお前が初めてだ」
喜んでほしいんだ、と普段の傲岸不遜な鎧が抜け落ちた顔で篤は和人の頬に流れる涙を舐めた。確かに相手に思うものがなければ、精神的にも手間のかかる面倒な作業に違いない。気持ちが緩んだのか、その心地良さにぼうっとしていると、篤が悪かったと謝り始めた。こんなことが現実に起こりうるのか?パチパチと瞼を開閉させ、和人は上手に言葉にならない分を表現するように篤の頬をペロリと舐めた。
「和人」
「なに、ぇ、んんっ、んぁ」
篤の顔つきが怖くなった、と驚くよりも早くに和人は篤に口づけされていた。今のやりとりの一体どこに予兆があったのかはわからない。生まれて初めての触れ合いはゆっくりと、全てを知り合うようになぞり、吸われるような長いもので、和人は目を白黒させていた。気持ちが良い。気持ち良いが、これが自分とすべき行為なのかはよくわからなかった。理性が疑念を次々と沸かせるのを無視し、和人は篤の真似をして舌を絡める。どうやら自分の舌は少し短いらしく、篤の口の中には半ばまでも入ることができない。入り込んだは良いものの、どうすれば良いのかわからず彷徨っていると、まるで手を掴むように篤の舌がぎゅっと奥へと引き込んだ。息ができない。ラベンダーの匂いがどこまでも包み込んで、それこそ毛穴からでも体内に取り込んでいるようだった。苦しいとしても、なんだかこれは良いなあと思う。もっとずっと遠い先まで欲しい暖かさに和人は目を瞑った。唇が離れたかと思うと、篤の鼻先がゆっくりとつむじのあたりをなぞってゆく。かすかに緊張はしたものの、緊張というよりも心地よさから和人の体は震えた。
「うん、良い匂いに戻ったな。気持ちよかったか?」
「すごくよかった。キスってこういうものなんだな」
「気に入ったならもっとしてやるよ」
そうしたいんだ、と篤が付け加える。彼が自分にこんなにも気を使ってくれるとは目がさめるような思いだった。以前のように蕩けるような高揚感も舞い戻り、和人はまた気を失うんだろうなあと太ももをもぞもぞさせた。篤はいつも以上に熱くなっているらしい。多幸感で胸がいっぱいになるものの、どことなく篤から寄せられる期待に応えてはならないことはよくわかっていた。続きはしたい、したいのだが番になれないのであれば無意味であって、残るのは虚しさばかりである。篤が流されようとする傾向にあるのは若さ故にやり直せると思っているのか、単純にこうした行為に慣れていて一つ一つに意味など持たせていないからなのか、おそらくその両方だろうと和人は踏んでいた。自分はどちらも真逆に考えざるをえない。
「今はこのままが良い。疲れたんだ、また明日にさせてくれよ」
「……わかった。明日はもっとしてやる」
篤の眼差しがあまりにも純粋無垢な輝きを放っていて、和人は眩しさで目が潰れてしまいそうだった。二年が過ぎるのはあっという間で、とても寂しい気持ちになるのだろう。篤が運命だと思う相手が見つかる日に居合わせられないことを喜ぶべきか悲しむべきかはわからない。将来味わう虚無と悲哀をたまに忘れさせてくれるような幸せが欲しい。背中を撫でる篤の暖かさにどう返せば良いのかわからないまま、今日という日はことんと眠りに落ちた。
親にその存在を全肯定された子供のように安心したためか、和人は面白いほど彩り豊かな日々を送っていた。このところは少々恍惚としてしまうことが難点だが、自分からも篤に口付けるようにしている。本当は二人の取り決めに対して行き過ぎた行為だとはわかっているのだが、求めてやまない欲望をついつい優先してしまうのだった。それこそ偽りであっても心が満たされたという心地から、過去を解き明かしてみようと思ったほどである。きっかけは、新しく大量に仕入れた服をワードローブに収める際、ものを整理しようと二人で決めたことだった。雑然としたものの大半はもともとこの部屋に住んでいた篤のもので、子供の頃に使ったテニスラケットや集めていたカードゲームのカード、昔付き合っていた恋人が贈ってきた趣味の悪いハンカチ(当たり前だがこの男は順調に経験を積んでいる、わかりきった話だが面白くはない)、一昔前に流行った形の靴、どれもエピソードが付いているので作業は根気よく続けられたいた。
「これは?一度も開けられていないみたいだが」
「ああ」
篤が取り出したのは、和人の生みの親が贈ってくれた唯一の誕生日プレゼントの箱だった。一度も開けられたことのない百貨店の包装紙にきちんと包まれたまま時間が経ってしまっている証拠に、包装紙がうっすらと黄ばんでいる。子供が抱え込む程度の大きさのそれが不思議に感じられるのは道理で、和人はしばし考えた後に正直に答えた。篤には知ってもらいたいような、知ってもらえば何かあるような予感があったのだろう。一方、言われた方は重たい出来事を突いてしまったというバツの悪そうな表情を浮かべていた。
「悪いな、そういうものだとは気づかなかった」
「気づかない方が普通だよ。なあ、開けてくれないか。自分ではどうも開けづらくて、でも捨てられなくてさ。もう潮時だと思うんだ……ずっとそのままにするのも馬鹿馬鹿しいだろう?篤さんに開けてもらえたら嬉しい」
「わかった」
まるで何かの儀式をしているかのように恭しい手つきで篤が包装紙を剥がしてゆく。そういえばこの男は玩具部門を担っているのだ。子供たちの夢を包むのに、これほどふさわしい手はあるまい。包装紙の中に入っていた紙箱も黄ばんでいて、中身もきっとそうだろうなと和人は静かに固唾を飲んで待っていた。蓋が開けられる。何が入っている?手紙がついているだろうか。あの人たちは和人をなんだと思っていたのか、その答えの切れ端はこの箱の中に詰まっているのだ。
「懐かしいな、ラース印のモーティベアだ。うちの商品だよ。夜寝る時に側に寄り添えるようにとお爺様が開発したんだ」
「これだけ?その、手紙とかは……」
「いや、これだけだ」
「そうか」
落胆の色は隠せなかったが、手渡された熊のぬいぐるみは実に愛らしかったので良しとした。子供の頃に受け取ったらば、チラと両親を思い出してしまって泣いたかもしれない。罪悪感からか愛情からか、和人の両親は子供にふさわしいものを贈ったのだ。子供はこういうものを好むと両親は思ったのか、撫でてその柔らかなベロア生地を味わい、少し目がちぐはぐについた顔立ちをじっくりと眺める。子供の気分に立ちもどろうとしたが、できるはずもなかった。このぬいぐるみを篤の祖父が開発したのだということはほんの少しだけ慰められる事実である。誰かと自分は確かに繋がりがあるのだ。偶然の産物に過ぎないとしても。
「センターで育ったと言っていたな。幾つの時からいたんだ?」
「2歳かな。記録にあるから、気になるなら見るといい。それまでは親が育ててくれたんだ、多分」
「多分?」
「忘れたんだ、全部。小さい頃のことだから、今じゃ親の顔だって思い出せないよ……同情しなくていい。何も思わないというか、思えないだけだから」
多分に自分は忘れることにして、成功したのだと和人は判じていた。子供の身の上ではそうするしかなかったのだ。同じような立場の子供たちの中には忘れられずに泣き喚くものも多く、耳にするたびに顔をしかめてしまう。あんな惨めな気持ちを自分は味わいたくなかった。だから、何もないのである。何もない方が安全で、凪いだ海のように穏やかに過ごせるのだ。そうやって期待値を下げていけば、面白みはないかもしれないがどん底には陥らないで済む。口をへの字に曲げた篤に訥々とした口調で説明すれば、ますます形の良い唇が歪んだ。
「嫌だな。俺は、お前がそんな思いをしていること自体が辛い。自分勝手な台詞だとは思うが、俺は」
「こら、妙な責任感は負うものじゃない。変な奴に騙されるのがオチだよ」
「和人」
「うん」
子供のような柔らかさを持った人だな、と和人は篤の甘えるような口づけを受け入れた。そうでもしなければ安心できないという必死さが可愛くてたまらない。こんなにも自分は想うものを持っている、そのことが悔しかった。篤は行為を求める程に和人自体を求めているだろうか?いっそこのまま溺れてくれないか。またぼんやりし始めたあたりで腕を叩いて止めれば、恨みがましい様子で軽く唇を噛まれた。そうやって、これまでも気に入った相手に接していたのか、前も、その前も、その前の前の伴侶にだって!自分とはあまりにも立場が違う彼らにぶつけるには矮小な話題で、和人はそっと心の中で握り潰した。期待値を下げる。これで良い。これが良い。
「このぬいぐるみには、後で俺の匂いをつけておくようにしよう。そうしたら、俺が出張で出かけても寂しくないだろう?」
拗ねた調子の篤は、和人の膝の上のぬいぐるみを奪ってその背中のポケットに手を突っ込んでいた。どうやら子供が寂しくないようにものを入れておける仕組みらしい。何か出てこないかと密かに期待していたのだが、悲しいことに何も出てきはしなかった。何もかもが空っぽだ。
「なくても寂しくなんかないさ。貴方だって俺がいなくても平気でしょうに」
「……俺の匂いは好きか?」
些か奇妙な問いかけだった。思い返せば、これまで一度も篤に彼の匂いについて話したことはない。篤は和人の匂いが良いと、気に入っていると開けっぴろげに話している一方で、和人は拒否をしないだけであった。沈黙がしばし二人の間を訪れ、篤の目に焦燥感が浮かぶ。自信に満ちたことしかないはずのアルファでもこんな表情をするのだ。もっと見せて欲しい、他の誰にも見せないであろうその顔を。和人はしなだれかかるようにして篤に抱きついた。抵抗されないことを良しとして首筋にそうっと鼻先を当ててなぞる。たったそれだけでふわりとラベンダーの匂いが漂い出し、熱で温められた香水と同じ要領で強まる。クラクラするほどに魅力的だ。
「好きだよ。一番好きな匂いだ」
「焦らさないで早く言ってくれよ。嫌われているのかと思ったぞ。だが、好きならば問題ないな。いつでも持ち運べるように何か用意しておこう。万が一の時に虫除けにもなる」
「ひぃっ」
番になっていなくても、特定のアルファの匂いをまとっていれば誰もが紐付きのオメガなのだとわかる。そう説明するなり篤がうなじを撫であげて、和人はブルリと震えた。番の印をつける場所を意味深長に撫でるなど、悪趣味にも程がある。本当に虫除けをしたいのであれば、ここに貞操帯を巻くべきなのだ。させない理由は明白で、篤が家族に可能性があることを示しておきたいだけに過ぎない。
「はは、良い反応だ。ここだけでイケるかもしれないな」
「悪趣味め。イケると思うけど、やるなら夜の方がありがたいな。立てなくなったら困る、し……なんでそんなに大きくなってるんだ!雅様に締まりがないって怒られてたろ。ぁ、だから触るなって!」
「なんでだろうな」
不意に真面目な顔つきになると、篤はぎゅうと両腕で力強く抱きしめてきた。締め出されたぬいぐるみがコロリと床に転がる。この密着の仕方はずるい、全身に篤のフェロモンを浴びることになってしまえば、ややもすると全てを許したくなるような気持ちになってしまうのだ。自分よりは些か余裕のある篤が憎たらしい。せめてもの意趣返しにと、和人はパカりと口を開けて目の前の綺麗な首筋に噛み付いた。果物の皮を剥いた時のように匂いが弾ける。自分で招いたこととはいえ、あまりの衝撃に和人の視界は半ば霞んだ。
「俺も初めてだ、こんなことは」
それは運命だからだ。唯一答えを知っている和人は心の中で嘲笑って、意識は飛ばすに任せた。根本的には紳士であるはずの篤は、そう無碍には自分を扱わないと信じていた。
2に続く
あとがき>>
オメガバースというものが気になって気になって、軽率にセッを本当はさせたくて始めたのに真面目に考えて……しまった!どうにも不条理な部分を孕んだ世界観なので、幸せまでが遠く回りくどい。和人は腰が低いようでプライドが高く、篤は傲慢ですが育ちの良さでカバーしているというどちらも難ありの物件です。彼らが抱く気持ちは特別な体の性質によるものなのか、個人そのものによるものなのかが歴然としないので悩みどころは多そうです。後半部分は篤視点で進みますので、続きもお楽しみいただければ幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!