かくてロマンスは別れを告げる。
積み木崩し
嘘をついた。ささやかながらも決定的な嘘をついた時、覚えたのは罪悪感ではなく満足感だった。かじりかけのドーナツをゴミ箱に向かって投げ、ナワーブ・サベダーは小さく親指を立てた。罰当たりな行為はあやまたずに正鵠を射る。さて、嘘の話をしよう。半分は冗談で、半分はもちろん嘘でどちらと捉えられるか、その判断を鷹揚に待ち構えさえした。
「なあ、サベダー君」
だいたい、相手だって嘘をついていたか、冗談を言っていたかのどちらかで本物などどこにもあるはずはなかったのだ。自分ばかりが悪いだなんて思うのは損だろう。なあ、クリーチャー・ピアソン。彼は何をトチ狂っていた?
「君のことが好きだ」
「俺も」
朝食の片付けを二人でやっている時、ふと思い出した様にクリーチャーが突拍子もないことを言い始めたのだった。その前には何を話していたのか、阿吽の呼吸で皿を片付ける自分たちはすっかり手馴れていて夫婦のようだと冗談を言ったような気もする。こんな毛深い嫁さんで良いのか、という声に良いよと答えたのは確かに冗談だった。それがどうして微かに色を変えてみせたのだろう。
「……今のは忘れてくれ」
怯えた様な声に、ナワーブは景気付けをしてやろうと思っただけだ。クリーチャーとふざけ合うのは好きだし、彼の作る料理はナワーブの好みだ。チェイスの連携だって地獄のゲームが遊びの様に楽しい。夜中に愚痴を言うのも、故郷の話をするのも好きだった。だから、ここで妙な空気を残してしまうのも哀れに思えたのである。
「俺は、ピアソンさんのことが好きだよ」
あたかも彼が望む答えのふりをしてやった。クリーチャーを元気付けるには十分で、ぱっと顔が明るくなってついでに目が泳いだ。照れている時の癖で、ナワーブは素直に可愛いものだと目を細めた。さあ冗談を混ぜっ返してくれ。もう一度馬鹿をしよう。だが、結局ナワーブに返されたのは熱っぽい眼差しだけだった。嘘だろう?
「私もだ」
平たく言えば、ナワーブは残酷な満足感を抱いたのである。自分に常日頃何かを与えてくれる男に、仮初めであっても何かを与え、そして振り回すことのできるという事態に浮かれたのだ。だからこの嘘は実にささやかで、そして罪悪感は抱かなかった。一つ、嘘を積む。その上にもう一つ、嘘が乗せられる。危うげな積み木遊びに入り込んだことはだがしかし、ナワーブを愉快にさせるばかりだった。
楽しかったら、もっと続きをしたいと思うのは人の子だろう。ナワーブはこの偽りの踊りが気に入ったし、梁の上で綱渡りをする様なやり口は実に好みだった。クリーチャーとならばこの遊びも上手にできるような気さえしたのだ。だからクリーチャーを安心させるために抱きしめて、もっと嘘を積んでやった。ささやかな一手をどこまで積み上げられるのかを見たくて、ナワーブは自分にこう言い聞かせた。まあ、ある意味嘘ってわけでもないーー何しろ遊びたいと思う程度には好きなのだから。
とは言えお付き合いをしようという話ではなかったので、二人は恋人の様な振る舞いをすることはなく今日に続いている。確かにクリーチャーはナワーブに別のお菓子を用意してくれていたり、味付けを一つだけ変えたものをくれたりしたが、それは前からのことなのだ。前からこの茶番をしていたのかとナワーブは鼻白んだが、自分にとって無害である上に利点が多いので甘んじて受け入れる。今もドーナツが多すぎて結局飽きて、捨ててしまったほどだ。食べ物を粗末にするなんて、故郷の母が知ったらひどく叱責するだろう。だがいささか食傷気味なのだ、多少は許してほしい。
可愛いと毎日言ってやると、人は自分が可愛いと思うようになるらしい。ならば好きだと言ってやれば、いつしか好かれていると本当に信じるのだろうか?クリーチャーはあれから、折に触れて好きだな、と言うようになった。君といるのは楽しくて好きだ。青空を見れば君の瞳に似ているから、明日は晴れて欲しいと言う。この人は本当に自分のことが好きなのだと呆れてしまったほどだ。これまで自分に黙ってずっとそんな気持ちを育てていたとはいじましさと気持ち悪さと哀れみが増す。
「慈善活動もほどほどにした方が良いと思うわ」
「なんの話だか」
こんこん、と床を叩く音と共に談話室に入り込んできたのはヘレナ・アダムスだ。目がほとんど見えないはずの彼女は確りとナワーブに目を合わせて微笑む。彼女の目を逃れられるハンターはいないという事実が思い起こされ、なぜかナワーブの背中がぶるりと震えた。
「私たち、ここでうまくやっていると思うの」
「……そうだな。うまくいかなかったら終わりだ」
荘園に住み暮らす人々を結びつけるのはただの仲良しごっこではない。『ゲームに参加して勝利し、賞金を手に入れる』という至上命題のために全てはある。他の付随する目標がある人間もいるが、概ね基調は同じで共同戦線を張っている形だ。だから不和は避けねばならない。戦力は限られており、ハンターという化け物たちを相手取るには数の少なさは痛手となる。ヘレナがこつこつと白杖で床を叩いて回りながら歩く姿は実に優雅で、ナワーブは彼女の目は本当に見えないのだろうかと疑念を抱いた。あまりにも迷いがない。
「私はね、知らないことが多いの。だからかしらね、勉強することや知ることはとても好き。学んだことは嘘をつかないものね」
なるほどとナワーブは得心がいった。彼女に迷いがないのは、迷う要素が目に入らないからなのだ。すでに濾過された必要最低限の情報の中で生きていれば、迷うどころではないだろう。まるで目が見えている自分の方がものを知らないかのように錯覚されて、ナワーブはぶんぶんと首を振った。積んでいる木のおもちゃの姿が見えているのは自分だけだ。崩すのも積むのも全て自分の思うがままである。
「知ってる?心臓の音ってごまかせないのよ。どんなに上手に嘘をついても癖っていうのかしら、隠せない動きがあるんだわ。例えばねーーピアソンさんは、嘘をつく時必ず一回呼吸を置くの。あの人、根は正直なのね。ずいぶん練習したみたいだけれど、嘘は下手なままだわ」
「……それを俺に教えたのはどういうつもりなんだ?」
「さあ」
私もお人好しではないの、とヘレナが優雅に一回転する。ハンターに居場所がばれることを承知で杖を使うだけあって、実に肝が据わっていた。歯噛みをしながらも彼女が去るのをただ黙って見送るに留めたのは褒めて良い。ここにクリーチャーがいたならばきっと褒めてくれるはずだ。
そんな彼はどうやら嘘をついているらしい。どこから?どこまで?
嘘をついている。土塊をいじりながらクリーチャーはまだ見ぬ花畑を思った。荘園の主人がエマ・ウッズに新たに提供した花畑はだだっ広く、ひょっとすると養蜂家でも連れてくるのではないか、あるいは染料やら木綿やらを作って自給自足に勤しめとでもいう示唆なのかと憶測は絶えない。与えられた側は一向に他人の思惑に頓着しないエマなので、不幸にして花畑は彼女の趣味で色付けられることになった。クリーチャーは花の種類など知らない。綺麗か、汚いか、良い匂いか、実をつけるか、せいぜいそんなところだ。
花を贈る人などいなかった。贈られることもなかったし、慈善家として常人のふりをしていた時には花屋に任せれば良い様にしてくれたのだ。考えなくて良いことが一つでも多いとはなんともありがたい。あの頃、自分はどれもこれも手いっぱいで、自分の抱えた嘘の分だけ誰にも任せることができなかった。おかげで随分嘘をつくのがうまくなったのだけれども、最後の最後で収拾不能になり、バベルの塔は崩れ落ちた。風呂敷はたためる程度に広げる方が良い。今、クリーチャーは自分の風呂敷の広さを見極める所に来ていた。
エマに渡された種を、一つ一つ丁寧に等間隔に土の中に埋めていく。再び空を見上げる頃にはクリーチャーのことなど忘れてしまっているだろう。それを恩知らずとは呼ぶまい。花には花の一生がある。クリーチャーにはクリーチャーの。そして、ナワーブにはナワーブの。一畝全ての作業を終えると、クリーチャーはカニ歩きをしていた足をゆっくりと伸ばした。ずっと前かがみに折りたたんでいた膝が悲鳴を上げる。流石に同じ姿勢でい続けたのは体に酷だったらしい。色々と無理が効かない年齢になったことを感じて、クリーチャーは少々物悲しくなった。なんとか痺れと痛みを克服すると、二つ向こうの畝に屈んで作業をしているエマに声を掛ける。
「ウッズさん、こっちは終わった。他にもやろうか?」
「お疲れ様なの。次はジョウロでお水をあげて、ピアソンさん。あげすぎないように注意してなの」
「わかった」
立ち上がったエマの膝は実に緩やかで、そんなところからも若さが溢れる。笑顔でいるようで何者でもない、不可思議な表情に手を振ると、クリーチャーはこれも嘘だと水場に向かった。エマを幸せにしてやると豪語したし、実際そのつもりはあるが、とっくのとうに彼女は彼女なりの安らぎと幸福を得ているし自分自身で獲得できるらしいことに気づいてもいる。彼女が誰かの手を必要としたのは、もうずっと昔のことなのだ。それでも虚勢を張る理由は簡単で、クリーチャーは銀色のジョウロの曲面に映る自分の顔から目をそらした。
本当に幸せになってみたいのは、自分だ。けれどもいつも答えがわからない。幸せとは結局何なのだろう。わからないから魅力的で、欲しくてたまらない。花が羨ましい。どんな種でも芽が出てそれなりに世話をされれば、必ず花を咲かせることができる。クリーチャーは今更育てられるということもなければ、未来は曖昧模糊としたものだ。他人の物真似のつぎはぎはいつか限界がやってくる。
それでも少しの間は幸せの絵面を拝めると思って、クリーチャーは種を植えてみた。実際に好意を抱いていたナワーブにその気持ちを告げたのだ。もちろん冗談に付されることを想定した上での賭けである。
「君のことが好きだ」
「俺も」
嘘だ。ナワーブの返答に、クリーチャーは速やかに嘘を見抜いた。長らくじゃれるようになってからというもの、クリーチャーはナワーブの感情の変化が概ね見て取れる。同時に嘘であることがとてつもなく悲しくて、忘れてほしいとかすれる様な声で言ったのは逃げの一手だった。
「俺は、ピアソンさんのことが好きだよ」
また嘘だ。それでも嘘が嬉しかったから、クリーチャーは積まれた嘘の向こう側を見ることをやめた。これ以上何を望もう?花はいつか咲くものだと思えば、もしかしたら幸せになるかもしれない。思いたいように思えば良いのだ。かくて、クリーチャーは嘘を見抜けなかったふりをして嘘をついた。
「私もだ」
嘘ばっかり。幸せを装って、本物を味わったふりをするべく、クリーチャーは素直に好きだと思うことを数え上げた。毎日呪文のように繰り返せば、嘘も本物になると信じたかったのだ。いくつかは本当で、いくつかは無理やりひねり出した嘘の感情だが、今となっては気に入っている。深みにはまっているのは自分ばかりだとはよくわかっていた。話を聞いている最中のナワーブの様子と言ったら!あれは孤児院の子供たちを可哀想だと言って寄付する人間と同じだ。憐れまれている。それだけはごめんだった。
毎日嘘を重ねた、クリーチャーが、ナワーブが、向こうの思惑はよくわからないもののすれすれのやり取りは実に気分が良かった。そのくせ夜はちっともうまく寝付けないほどに不安ばかりが胸に溜まる。土の中が空っぽだったらどうしよう。種の中身なんてなかったら?こんな気持ちは楽しさからは程遠く、幸せからはずんずん外れていっている様な気がしていた。そんな自分をだましだまししながら踊ったけれども、クリーチャーの目の前で嘘の塔がぐらつく。
「ピアソンさん、元気がないなの」
「へ?陽に当たりすぎて疲れたのかもな。あとでエミリーに診てもらうよ」
「ううん。ずっとよ」
気づけば空になったジョウロをエマが取り上げていた。足元を見やればとうに川が流れ、せっかく埋めた種がむき出しになってしまった。あげすぎないようにと言われた端からこのざまだ。謝れば、エマは意外にもなんの動揺も見せずに種を埋めなおしにかかる。まるで何もなかったかの様に。クリーチャーがなしたことなど幻だった様に。陽光で視界がぼやけてくらりとする。
「ピアソンさんが私と話すの、とっても久しぶりなの。それにいつも寂しそうで、」
「……言うな」
「ピアソンさん」
「言わないでくれ、お願いだ、やめろ!」
静かな声音が恐ろしくてたまらなかった。近づこうとするエマを振り払おうとして失敗し、ぎゅうと抱きしめられる。身体中に鳥肌が立つ。そうだ、確かに昔子供達が自分に張り付いてきたその度に震えていたものだ。幸せにしてやると言いながら実を持たずに生き続ける自分の足にまとわりつく重石はいかほどか。背中を撫でられながら、クリーチャーは自分のぜえはあという喘ぎ声を聞いた。今の状態を幸せと呼んで喜ぶべきだというのに、エマを抱き返そうともしない。
「大丈夫、きっとうまくいくの」
「……君は間違ってる。うまくいくもんか」
駄目なものは駄目だ。何者にもなれない種は最初から存在しないか、そうでなければきっと腐っている。積み木を放り投げて、クリーチャーはうなだれた。エマが静かに背中を撫でる。ああ、この子はすっかり花盛りだ。羨ましさを通り越してただただ眩しさが溢れ、クリーチャーはもっと彼女を好きだったら良かったのにと思う。こんな時にでも頭の中をナワーブが駆け巡る。好意を告げてから、二人は言葉を積み重ねたが触れ合うことはけしてしなかった。触れたらば崩れてしまうから、ゲームの終わりを告げる時にようやく触れるくらいがふさわしい。
「でも、ありがとう」
やっぱり幸せになりたい。この手で触れてみたい。ふと、クリーチャーはカート・フランクに教えてもらった言葉の意味を思い出した。ロマンス、それはただの恋愛話というよりも元々は架空のお話を意味するそうである。まさに自分のついた嘘にふさわしい言葉だ。エマの背中に手を回し、子供の頃にそうだったように抱きしめる。ただ感謝だけの触れ合いは、おとぎ話よりも穏やかだった。
嘘だ。ナワーブは目の前で繰り広げられた喜劇に目を疑った。空想と妄想は散々目にしてきたが、現実になってしまえば話は別になる。ヘレナの思わせぶりな発言に落ち着かず、クリーチャーを探しに花畑まで出かけたのは大失敗だった。どうしてよりにもよってあのエマとクリーチャーが抱き合っているのだろう。かつて暴力的な関わりを持っていたことなど嘘の様に二人は穏やかに触れ合っていた。声が静かに土に降り積もるのでこちらまで届かない。
確かに、クリーチャーはエマを付け狙って自分こそが彼女を幸せにするのだと豪語した。それも全てはナワーブに好意を告げる少し前までの話である。ナワーブとふざけたり、タッグを組んでゲームを乗り越えるうちに消滅したはずの粗暴な関係だった。愛と呼ぶにはあまりに稚拙で、狂気的で、喜劇に見える。実際、クリーチャーは彼女に好きだと告げてはいないらしかった。何せナワーブのことが好きなのだから当たり前だろう。あんなにも不器用な感情を抱える人間が追えるのはせいぜい一人が良いところだ。
にも関わらず、だ。どうして彼らは抱き合っている?嘘か。あんなにも真に迫った好意は最初から虚無だったのか。それこそ冗談だろう?ゲームをしているのは自分で、嘘を積み重ねるのは自分だけの特権だった。あぐらをかいていた自分の傲慢さに嘲笑われた心地で、頭がおかしくなりそうになる。バラバラと思い出が崩れていく。エマはずっとクリーチャーの特別だった、それは誰もが知っている。エマにとってもクリーチャーは浅からぬ仲である風を匂わせることも多々あった。それでも心は別れ別れで、暴力と暴言だけが橋渡しをしていた。ナワーブが入り込んでそれらはピタリとなりを潜めた。
「ピアソンさん、」
かけた声があまりにもか細くてナワーブは自分を叱咤した。こんなことくらいで動揺してどうする。戦場ではもっと危険な命のやり取りだってあったのだ。心一つがなんとしよう?こちらを振り向いたクリーチャーの目があまりにも平然としていることが憎らしい。自分には触れようともしなかったくせに、どうしてエマには触れられる?
「何か用か?今手を洗ってくるから待っていてくれないか」
「そのままでいいよ」
見れば近づいてきたクリーチャーの手は土まみれで、エマと一緒に庭いじりをしていた証拠をまざまざと見せつけられたような心地になった。エマにはそのままだって触れて良いくせに、自分には取り繕うとする事実が頭の中で弾けていく。エマは何事もなかった様に庭仕事に戻った。クリーチャーと自分の間には二歩分の開きがある。かつては居心地の良かった距離がもう何十メートルも開きがある様にもどかしく、ナワーブは一歩近づいた。自然と下がろうとするクリーチャーの首元に手を伸ばし、ネクタイを捕まえるまではほんの一瞬だった。
「な、」
「簡単な質問なんだけどさ。答えてよ」
ぐい、と掴んだネクタイを引っ張り、鼻と鼻とが触れ合う寸前まで近づける。クリーチャーの瞳の中に浮かぶのは困惑、怒り、躊躇い、不安、そしてーー諦念だった。普段であればおどおどと泳ぐ目は、奇妙なほどに落ち着いて前を向いている。エマの後ろ盾で安心していることが理由であれば、ナワーブは本当に虚仮にされていたと言えよう。ちりりと胸が焦げ付く痛みを抑えると、ナワーブはクリーチャーの心音に耳をすませた。
「ピアソンさん、俺のことは好き?」
「……好きだったよ」
「あんたは嘘つきだ」
確かにクリーチャーはヘレナが言う通り、一呼吸置いた。好き、とだった、のどちらが嘘かわからないところがもどかしい。間髪入れずに切り返すと、自然と舌打ちがこぼれ出る。クリーチャーの顔が強張ったかと思うと乱暴に手が振り払われる。突然の犯行に怒りが沸き起こって、ナワーブは思うがままクリーチャーの土だらけの手を痛いほどに握りしめた。
「俺をからかって楽しかった?俺が馬鹿を見るのは気分が良かったよね。なんだよ、」
慣れていけばその気になるというのは本当の話だ、と今更の様にナワーブは目眩がした。毎日好きだと言ってくれた。呆れるくらいにクリーチャーは自分のことを好きだと感心した、あの瞬間は全て嘘の積み重ねだったのである。汚れた手で抱きしめて欲しかった。もう二度と粗末にはしないから、嘘の上に本物を積み上げさせて欲しい。クリーチャーの手がぶるぶると震える。殴られるかと身構えたが、拳は握られたままで飛び出してこなかった。あの稚拙な触れ合いすらも自分たちの間には存在していないという事実がまざまざと示され、目の前が真っ暗になる。
「馬鹿を見たのはわ、私だ!君は最初から嘘をついていたくせに、今更何を言ってるんだ?ううう嘘つきめ、やめてくれ、君なんか」
「そうだよ!」
呼吸を置かずに雪崩れ込む言葉は血を吐く様な叫び声で、ナワーブは迷わずクリーチャーを抱きしめた。暴れ出す体がこんなにも薄く、脆いことを初めて知って泣きたくなるほど嬉しいと言ったら、イライ・クラークあたりは正気を疑うと手を振るだろう。まるで羽をもがれた虫の様に弱々しい。エマが水やりをする音だけが響いている。もしここで彼の手を離したならば彼女が掴むだろうか。そんな隙を与えるつもりはさらさらなかった。
「俺を好きだって言ってよ。俺も、言うから。あんたは嘘か本当かわかるんでしょ?もう一回言わせてよ」
「虫が良すぎる」
「知ってる」
「……君なんか嫌いだ」
「嘘だね。……俺はピアソンさんが好きだよ」
どうして彼に自分の嘘がばれるかはわからないが、わかっているならそれで良いとさえ思えるほどにナワーブは必死だった。土だらけのクリーチャーの手が、ナワーブの背に回される。呼吸が一つ、二つ、三つ、四つ、ぜえはあという荒さは彼の心臓の音だ。このままぴたりと張り付いて、心臓が一つになったらどんなに楽だろう。
「私もだ」
「うん」
言葉が一つ積まれる。手のひらが重なり合う。いつか過去を振り返って、思い出話に花を咲かせよう。全部本当だったねと笑うのだ。鼻と鼻とを触れ合わせ、ナワーブはもう一度言葉をねだった。
よく聞こえなかったと、もう一度嘘をつくために。
〆.
あとがき>>
twitterで「#リプきたイラストや写真から妄想SSを送り返す」に、腐っかさんから緊張感を孕んだ絵を受け取ったので、挑発する様なナワーブ君といつになく張り詰めた様子のピアソンさんの身に一体何が起きてそれから実を結ぶのかという話を書きました。嘘をテーマにした話は何度か書いた気がしますが、毎度違った嘘のお話が積み重なるのが出会いの不思議の様に思います。嘘が本当になる話が好きなんだ……故に真実は何よりも重くあって欲しい。腐っかさん、素敵な作品をありがとうございました!
そして最後まで読んでくださり、ありがとうございました!