起風了
生まれてこのかた共に育ち上がった人間というのは、同郷にも学堂でも幾人もいた。立ち止まり、過ぎ去りゆく記憶を脳裏に流しながら、范無咎は瞳に憂いをたたえた。記憶に残る彼らの、その幼く垢抜けない顔立ちがどれほど美しく、頼り甲斐のある姿に変わったかを語れば、育ち上がった姿しか知らぬ人間にしてみれば意外な心持ちであろう。もちろんその逆も然りだ。范無咎がかくも背が伸び、武辺の人となるとは誰も思うまい。やんちゃでこそあったが、自分は今よりもずっと内向的であったと范無咎自身が認めている。
さて、育ち上がって武挙を潜り抜け、都に登って共に武進士となったいわば戦友のような友の話をしよう。こちらは非常に限られ、この苦労を解るのは互いだけだとさえ思わずにはいられない。范無咎にとって、無二の友である謝必安を得たのはこの苦しい試験に耐えた成果の一つであった。現場で叩き上げてきた人々が重んじられる軍隊で、必死に門を叩いた范無咎たちは曲芸師並みの軽んじた扱いをまま受ける。遠くの塔に掲げられた球を馬に乗って駆けながら射るとは非常に困難だが、現場では当たり前のことだと鼻で笑われる始末だ。一応は孫子や司馬法にも通暁し、書くことさえも出来るというのに、現場で役に立つのは現地の知識だと吐き捨てられる。所謂新人いびりのようなものだが、中央官庁からは進士の扱いを受けるだけあってまた違った含みを持つらしかった。
苦しみを分かち合い、共に喜び悔しむだけでなく、食や音曲の好みも似通っているとなれば謝必安との話が盛り上がらないはずがなかった。彼は海辺から、自分は深い山間から出てきたものだが、なるほど都というものは人を吸い寄せる魔力というものがあるのだった。感謝なさい、と故郷の母は心配しながらも手紙で話す。親友とは得難いものよ。深く頷きながら、范無咎は謝必安もそう思っていると良いのだが、と糖蜜を包んだ干餅をかじった。仕官して三年目にしてようやく得られた自由時間である。のんびりするに限る、と范無咎は市場をぶらぶらと歩いて菓子を摘むなどしていた。
本来隣で並ぶだろう謝必安はそばにいない。遊びに出ようと誘ったのだが、同郷の友人が商売の途中で会いにきてくれたのだと出かけてしまったのだ。今回を逃せば、次があるとも知れない。故郷は遠いもので、北方民族が度々国境を脅かしてる現状からして、いつ謝必安が去るとも限らないのだ。理屈はわかる。大いにわかるのだ。多分、自分が逆の立場であれば同じようにしたろう。今朝方のやりとりを思い出し、范無咎は呻いて最後の一口を噛み砕いた。
「約束しただろう。茶館に川劇の一座が来たから観にいこうと」
謝必安から急な予定の変更を告げられ、范無咎は寝耳に水とばかりに跳ね除けた。言った端から子供のような駄々だとわかって恥ずかしくなる。ついで、以前にもこんな言葉を投げつけてしまったような奇妙な既視感が過ぎった。発言を取り下げねば、と舌を縺れさせるうちに謝必安が心底申し訳なさそうな、苦悩した表情をその穏やかな顔立ちに浮かべる。
「すみません。私もあなたと観ることは本当に楽しみなんです」
「だったら、」
「わかってください」
それから自分が何を言ったかはよく覚えておらず、カッとなったままに言い切った言葉はひどく鋭かった、その余韻が范無咎の胸を切り裂いていった。真っ向から受けた謝必安は笑って許してくれるだろうか。そんな図々しい考えも、謝必安が今どこかで自分の知らぬ過去と楽しんでいるという苛立ちですぐさま燃え立つ。彼と自分の時間は、ずっと分かたれて流れてきた。ここで混じり合ったことが奇跡だなんて――机上の空論に舌打ちして飴細工を買う。傘を模した飴は、滴までもが再現されていて実に美しかった。
謝必安が気にいるかも知れない、と壊れぬように慎重な手つきで傘を持つ。武侠ものの講談を聞きに行くことがせいぜいの范無咎と異なり、謝必安はどちらかと言えば繊細な心のひだをくすぐるような劇を好むようだから、思わぬ土産を許しの言葉に添えれば喜ぶ可能性は高い。打算的かもしれないが、范無咎は仲直りがしたいのだ。友が、他の友と過ごして楽しかろうと良いではないか。お気に入りのおもちゃを取られたと寂しがり怒るような年頃ではもはやないのだ。
「また今度があるからな」
何せ二人は肩を並べて日々生活しているのだ。積もった過去がなんだろう。これから降り積もる未来に比べればなんと軽いことか。
「どいたどいた!」
「あ、」
車馬が隣を囂々とすり抜け走り去ってゆく。ポキリと嫌な音が手元でしたが、それどころではない。半鐘の音からするに火事が起きたらしい。仕事の顔つきになると、范無咎は手に張り付いた飴の滴を振り払って走った。また買えば良い。謝って、どんなことがあったのかを聞いて、こんなことがあったと話して。火事をうまく収めたとなれば喜ぶかもしれないと皮算用は広がってゆく。
対不起、と小さくつぶやき、范無咎は囂々と燃え盛る茶館に突撃した。
〆.