BL NOVEL
  / HOME




そして春とは青いもの


春のめざめ


 長安の都は夕べを過ぎた頃、裏通りは壱日の疲れを癒そうと集う人々でごった返していた。酒を傾けるならばやはりこの時間からが良い。長い夕べで日の名残りを惜しみ、明日への期待と憂とを月とともに吟じる。音曲は何処とも知れずに界隈を流れ、家に帰るならば持ってお帰りよと惣菜を売る声が絶えない。昼の主人公が大路なら、ここ裏通りは夜の主人公だ。大旦那衆は上品な妓楼酒楼に集い、気に入りの祇女遊女と風流を楽しむ。その裾を掴むかどうかという人々でさえも気の持ちようは同じで、格子戸の向こうに居並ぶ女性たちを、通りから薄明かりの向こうを弄るようにして眺めていた。

「長安の都は天下一とは言ったものだな。漢人は言わずもがな、胡人や苗族までいるではないか。どうだ、范無咎。今日はお前だけの美姫を連れ帰らぬか?」

格子戸の前で興奮気味に話す朋輩を、范無咎は見世物を見る目つきで眺めていた。酒も飲まずとも酔えるとはこのような男を言うのだろう。田舎のお坊ちゃんとして育てられてきた羽振りの良い男はまさに趣味人といった様子で、書から抜け出た世界に目を回しているらしかった。先月、上役の世話で結婚をしたと記憶していたが、この都会の熱気に全てが吹き飛んだのも無理からぬことである。

「あいにく、俺は籠の鳥と遊ぶ学も舌も持たん。お前だけで行くが良い。細君には内緒にしておいてやる」
「お前は座っているだけでも、鳥の方は喜ぶと思うぞ。ああ、言うな言うな!今夜はこれで終いだ。また明日会おう」
「遅刻するなよ」
「ああ」

物分かり良く、食い下がらぬ朋輩を范無咎は素直に好ましく思った。手を振って火の中に入っていく羽虫を見送る。ああいった遊びに耽溺するのは、それはそれで才覚だと思う。硬骨漢という字をそのまま人間にしたようだと陰口を叩かれるほど、范無咎はいささか柔らかさに欠けていた。酒は好きだが、女遊びはしない。士官に当たって及第点をとる程度の読み書きはできるが、学に暗い。武技の冴えは褒めそやされるも、人らしさにはあと一歩、などと呼ぶ人物もいる。無論、范無咎はそうした垣根の向こうで交わされるような話を歯牙にもかけなかった。

 帰り道をたどる道すがらで酒を贖い、酒肴にできたての鹵鶏爪を手に入れる。香ばしい醤油の香りが漂う。どんな花の香りよりも強く范無咎を惹きつけてやまない、生活の匂いだ。そうして都会の外れ、外れへと歩んでいくこの道の楽しさよ!自分もまたこの街に酔っている。否、この街で出会えた存在が世界を艶やかにし、范無咎という人間を作り変えたのだ。




「なるほど、それじゃあ雪陽殿は妓楼にでかけたんですね。あなたも行けばよかったのではありませんか?」
「心にもないことを言うなよ。俺はここにいる方が余程楽しいさ。謝必安」

お前だってそう思うだろう、と言う范無咎を謝必安は心の底から可愛いと感じた。何度見ても新しい喜びをくれるこの人を、謝必安は一瞬一瞬取り分けて箱の中に収めてしまいたいと胸が痛くなるほどに願う。人生で出会わなかった長い時間を惜しいと悔やむ心は狂おしく、全ての時間をあらゆるものに刻みつけたかった。謝必安と范無咎が出会ったのはここ長安で、全く異なる地方から推挙されて士官した先が同じだったという気が遠くなるような奇跡を経ている。初めまして、と言う言葉がこれほど重みを持ったことはない。きっとこれから先、どんな出会いも范無咎との出会いを超えることはないだろう。二人とも、それはよく知っている。

 硬骨漢が服を着て歩く范無咎と、雪柳にさえ例えられる文人めいた謝必安の組み合わせは不可思議で、二人ともなぜ互いがこれほどまでに惹かれ合うかを知らなかった。仕事で顔を合わせ、時を盗んで手合わせをし、食事をして別々の家に収まることももどかしく、結局二人は共に暮らしている。ボロ屋であっても二人が揃えばここが世界の中心だった。

今日は休みをとっていた謝必安は意地悪を言ったことを詫びるように酒器をとって戻った。今日は良い蕪が手に入ったので蒸しておいたので、それも携える。春は蕪の終わり、柔らかな実は消え去った雪を思わせる切なさを漂わせる、最適の食べごろだ。味付けをどうしようかと思案していたところだったので、范無咎の手土産は実に御誂え向きだった。謝必安と生活を始めるまで、食の季節など少しも気に留めなかった范無咎だが、ようようその折々の味わいの貴重さと快さを知るに至ったらしい。蒸篭に載った白い実を見てふ、と唇をほころばせた。

「蕪か。箸休めにちょうど良い」
「鹵鶏爪、買ってきてくれてありがとうございます」
「褒めてくれて良いぞ」

胸を張るのは照れているからだ。硬い殻の下はひどく柔らかい。囀るように笑って酒を飲むと、謝必安は窓の外の夕べを眺めた。陽は蕩け落ちて何処にか行く。また明日生まれるまで死んでいるとは一体どのような心持ちだろう。まことこの世の摂理は不可思議なことが多い。鶏の足を指で掴むと、謝必安は肌に伝わる生き物の名残を惜しんだ。するどい爪は、先ほどの祇女の話もあいまって、謝必安の脳裏で神仙の物語へと結びつく。美しい爪を持った仙女に劣情を催した男が仙人になり損ねるという話だったか。

 目の前で静かに酒を飲む范無咎は、その男と同じ境遇になればやはり劣情を催すだろうかと謝必安は首を傾げた。これまでどのような春を過ぎたのかは藪の中だ。自分に出会ってからは、全ての春を謝必安と分かち合ったのは確かである。二人は同衾するーー鶏姦の仲であった。互いに手探りであり、謝必安も経験は少なかったのだけれども、これが必然であることだけははっきりとわかっていた。范無咎を組み敷いて、初めて謝必安は自分の中の虎狼を知らず、真の悦楽を味わうことなく過ごしていたことを知ったのだ。そして聞き出しにくくはあったものの、范無咎もどうやら同じ気持ちでいるらしい。今更確かめるのは愚問だが、鶏の足を舐りながら謝必安は范無咎に水を向けた。

「雪陽殿ではありませんが、あなたの好みというのは気になりますね。差し支えなければ教えてくれませんか?」
「な、な、なん」
「よもや普段無理を強いているのではないかと不安になることもあるんですよ。ほら、初めの頃は勝手がしれないものが多くて」
「言わなくて良い!……勝手を知らなかったのは俺も同じだからな。今は良いんだ、それで良いだろう」

言外に今、施される愛撫が心地よいと本音を漏らす范無咎に謝必安は自身の俗悪さを突かれたような気がして目を背けた。今は、今だ。過去をえぐりとろうとするこちらが間違っている。とくとくと瓶から盃に酒を注ぐと、謝必安は乱暴に呷った。耳元でざわめく血の音が騒がしい。幼い頃に見た滝のように轟々と情を叩きつけている。

「恥ずかしい話かもしれんが、本当に心が動かされたのはお前がものを食べている時だったと思う。何か間違っているような気がして女を抱いたさ。違うと知った俺の気持ちがわかるか?間抜けだよ。俺は自分の心一つ知らなかったんだ」
「私が食べているところ、ですか?」
「ああ」

頬が赤いのは酒のためだけではないな、と謝必安は范無咎の瞳を見つめながら鶏の足を齧った。ただ味を吸い上げるだけの、腹の足しにならない食べ物は残酷な味わいがする。ごくりと范無咎の喉が鳴る。あなたはそんな目で私を見ていたのですか?間抜けだ、気づかないでいた私はどれだけ時間を無駄にしたことか!一度口にして解けた范無咎はずるずると内臓を吐き散らしている。

「お前に食べられるものが羨ましかった」

柔らかい蕪を噛みしめる范無咎はどんなものよりも柔らかく、どんなものよりも甘い。しゃぶっていた鶏の足を放り投げると、謝必安は嗚呼と歎じた。自分はつくづく食べるべきものを知らない。

「では、教えて差し上げますよ」

食事の作法とはいかばかりか。景気付けに盃をゆるりと飲み干すと、謝必安は范無咎の顎に指を這わせた。


〆.


あとがき>>
 タグはR18のものだったのですが、画面が甚だ美々しくて頭がぱーんとなってしまったのでここまでです。しかし食事とは実際擬似的な行為なので許されたい。范無咎はこの後も平気で謝必安と一緒に食べるものの、時々「あの食べ方はしてくれてないなあ」などと思って率直に後でリクエストしてくる程度の堂々とした様子のような気がします。謝必安の方が意識してしまって、だんだん范無咎とのやりとりに慣れた頃には笑って確認し合うような馬鹿馬鹿しい空気は、きっといつか思い出して泣くのでしょう。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!