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返書


 文字は良いものだ。人間は様々なものを生み出してきたけれども、文字、そしてそれを封じ込めた手紙というものは画期的な発明品だとビクター・グランツはつくづく思う。もし、この世に手紙がなければ世界からは真心の居場所が失われていた可能性さえある。

幼い頃から口下手だった。自分の心を語るには、時間が必要だと思って考え考えしているうちに他人から称されたのだが、ビクターに言わせれば真正直なだけである。自分は嘘が怖い。あんな風にペラペラと話して、本当のことを言っているのだろうか?思いついたままの言葉はどこまで本気でどこからがでまかせなのだろう。考えているうちに返事はどんどんと遅くなる。気づけばビクターと敢えて話そうという人間はいなくなってしまったが、あれこれ考える手間が省けてちょうど良かったというものだ。

 郵便配達夫の仕事についたのは、話さずともできる仕事だったというのが一番の理由だ。実際、ほんの少しの挨拶だけこなすビクターのことを、手紙を届けられた人々は歓迎しているようだった。その場で手紙を開き、中身を話して聞かせてくれた人間までいる。手紙は良いものだな、とビクターは数十数百の手紙を届けてようやく確信するに至った。手紙を書くためには考えねばならない。そして返事が届くまではひどく間がある。その場しのぎで紡ぎ出された言葉とは重みが違うのだ。

 だが本当だろうか?真心がこもっているのかどうか、まだわずかな疑問が残されていた。検証をするには中身を知る必要がある。中身を。強い好奇心が身のうちから湧き起こるものの、神様の服の裾を踏むような背徳感が聳え立っていてどうにも踏ん切りがつかない。時折中身を教えてくれる届け先や、もらった瞬間に泣き出すような人々の顔を見るだけで満足すべきだ。けれども。

 初めてその一線を超えたのは、さる上流階級のお屋敷に届けた際だった。今日は寒いから上がってお茶を飲むようにとの好意に甘えて、半地下の使用人部屋に連れてゆかれたのである。このお屋敷には何度も届けており、お茶を振る舞われるのもなにも初めてのことではない。それ程までにビクターは信用されていたし、本当に寒かったのだ。配達しなければならない手紙も残り少なく、だからだろう、ついうっかりと長居をしてしまったのである。物静かなビクターに気に留める使用人もいなかった。そして、手紙は階下に降りてきた。

驚くべき事態だった。従僕が手にしていた手紙は、紛れもなくこの館の主人に宛てられたものである。それくらいは記憶に留めていた。固唾を飲んで見つめていると、従僕は慣れた手つきでアイロンを運び、その熱を確かめる。煙を吐くアイロンは見るからに熱そうだ。満足したのか手紙を台に置くと、従僕はゆっくりと蒸気を当て――封を開けた。

「おい、何見てるんだよ」
「……それは君宛の手紙じゃ、なかったよね」
「だからどうした?誰でもやってることだろう」

衝撃的な事実だった。手紙を盗み読む!ビクターが知らなかっただけで、裾布を踏む真似は頻繁に起きていたのだ。呆気に取られたビクターに、従僕は得意げに自分は上手いのだと手紙の秘密を共有し始めた。中身は主人への借金の督促状で、早いところ次の職場を見つけないとな、と悪びれもなく従僕は言う。みんなやってるんだぜ。そうじゃなけりゃ、馬鹿を見るのはこっちだ。

ヤカンの蒸気に当てる方法や、封蝋がついたものは要注意など、次々とカーテンを開けて行ったのはビクターを共犯者に仕立て上げるためのものだったのだろう。だが、その全てがビクターにとっては福音だった。確かに手紙の中には真実が、真心がこもっている!確かめる術もあるのだ。それも誰にも気づかれず。最後に再度封をするコツを学ぶと、ビクターは礼を述べて館を去った。他の使用人たちに手紙の中身が回るのはすぐだろう。実際、翌々月には館の主人は消えていた。家族も、家財も、使用人たちも。届け先がなくなった手紙を、ビクターは安心し切って開くことができた。

 それからというもの、毎日はひどく明るい。上っ面を書くような人間たちのやりとりに憂いても、彼らの中身はこちらに筒抜けである。手紙を書く宛のある人間が、届く宛のある人間がひどく羨ましい。こっそり開けなくたって、これが本心だと自分にだけ打ち明けてくれる人はいないものだろうか。欲望はさらに一歩踏み込んだものとなったが、音を介したやりとりが苦手なビクターに友と呼べる人間などありはしなかった。誰も、ビクターを知らない。知ろうともしない。いるのは相棒犬のウィックだけだ。

 誰かに書けたら、自分の心中を幾らでも書き連ねるというのにもったいないことだ。降り積もった真心は重たく、現実はひどく冷たい。誰かに自分が聞き知った真心を伝えてやりたい。例えば、文具店の奥方には幼い頃に別れた愛人がいる。牛乳列車に乗って月に一度やって来る愛人は筆まめで、次はいつに会えるよと、散りばめられた愛の言葉と共に約束した。奥方は同じく夫ではなく貴方を愛していると言う。表向き、文具店の夫婦仲はとても良いことになっていたものだから、正に真心とは口先ではわからないという良い証拠だ。事実、口では言えないけれども、なんて前置きされた手紙も存在する。

一通封を開けるたびに、ビクターは安心して世界に暮らせる。自分が語る言葉がどんなに遅くて聞き取られずとも、真心の拠り所がちゃんとあるとわかっているのだ。けれども同時に落ち着かない気持ちにもなる。ビクターが知る真心たちは、どれも素通りしてゆくものだと突きつけられているかのようだった。せめて一通。自分にも、嘘偽りのない真心が届いてくれないか?

「……荘園」

蔦の絡まるような封蝋の手紙を手にした日、ビクターは啓示を授けられた。こんなにも切実で、誠意のこもったものに応えぬ道理はない。

この手紙への返事は自分で届けよう。瞳を輝かせると、ビクターは生まれて初めて郵便列車に飛び乗った。


〆.