ありがとう。これが『幸せ』だ。
sea change
指輪は湖に放り投げてやった。このクリーチャー・ピアソンの人生の中で、あれほどスッキリしてムカついて居心地の悪い気分はなかった。だからついでに自分も湖にドボンと落ちてやった。あいつの顔は見ていない。見たくもない。冷たい水は心底気持ちよかった。嘘のような現実よりも、よほど真実に近い息苦しさが体を包み込む。一番深くまで潜って、奥底の暗さを嘲笑ってからゆっくりと岸辺に浮上した。どういうわけだか指輪が波打ち際に流れ着いていたように見えたが、無視をした。
それが昨日の話。
人は太陽よりも気まぐれだ。自然は移り変わり、人も目に見えない部分含めて変わってゆく。変わらないものなんてないのだ。よって、その場限りの現実を見極め、活路を開いてゆく――なかなかかっこいい言い方だろう?――ことが大事だと私は弁えている。向日葵が太陽を眺めるように、より良い方、更なる高みを目指して行けば万事間違いはない。いつしか粘土の王冠も、本物の黄金でできた重たい王冠と変わらなくなるはずだ。
私はあまり恵まれた生い立ちではなかった。生まれた時点でスタート地点のはるか後ろに置かれた人間は他にも多くいるだろうが、なんにしたって不公平な話だ。銀のスプーンを咥えて生まれてこなくたって、もう少しマシな始まりもあっただろう。神様なんていない、ああ、私を依怙贔屓してくれる神様はいない。私は運命論が嫌いだ、だから確かなものしか掴まないことにしている。例えば?答えは一つに決まっている。金だ。
金のいいところはいくつでも挙げられる。一切れのパンにエールに美女にショー、果ては御伽噺のお城まで何にだって交換できる。ほとんど魔法と言っていい、誰でも頷ける公正な手段だ。なければ明日もない。お先真っ暗だ。幸い私と同じ考えの人間は多かったものだから、話が早くて助かる。金に関する私の嗅覚は本物だった、だからこそ他人に邪魔された運命だって捻じ曲げる方法を見つけられたんだ。
『荘園』のゲームは妙だ。ただの鬼ごっこだと聞いていたのに、殴られ血まみれになって怪我をする。ロケットチェアにくくりつけられて飛ばされた経験がある人間は少ないだろう――文字通り、体が空中でバラバラになる。痛いなんてものじゃない。何度死んだと思っただろう?死んだはずで、それで終わりでいいと弱音を吐いたことさえあった。答えは否、荘園に戻れば(あるいは戻らされていれば)まるで何事もなかったかのように五体満足な状態の時間が再開する。
誰だって頭がおかしくなりそうな話だ。実際、頭がおかしくなっていたのだとは思う。賞金だなんてものが鼻先に吊り下げられてなかったなら、捨て鉢になって逃げ出そうとしたに違いない。一度脱出を試みたことがあるような気がするが、これは私の記憶違いだろう。ナイチンゲールは私に賞金を見せてくれた。あんな大金を目にするのは初めてで、盗み出したい気持ちを抑えるので精一杯だった。荘園の主人は魔法めいた力を持つ。参加者たちのゲーム用に配られた持ち物は、妙な機能が満載だ。外の世界で売り出したらば相当な値打ちがつくに違いない。持ち出せないだろうか?
ともかく、まともなフリをするために私は他の参加者としたくもない協力をし、できるだけ円滑に過ごそうと努めてきた。お高く止まった連中が、自分をどんな目で見ているのかはよくわかっている。外だろうと中だろうと、ああいう態度は同じだ。汚い野良犬を見るような目で、蹴られないだけマシだと子供の頃は思ったものだ。
そんな目をしたって、私がゲームで一仕事をすれば見る目が変わる。この点、外の世界よりはわかりやすい。本当か嘘かはわからなくても、死ぬ経験をすれば、誰だって二度と同じ気持ちを味わいたくはないと考えるのだ。死んだら何もかもが終わってしまう。悔しくて、惨めで、全てが無駄だったような気がする。最近ではあまり考えなくなった――死ぬことに慣れたというのは変な話だ――が、あのウィラ・ナイエルが香水を何度振っても恐れるのだから、死は人間の根深い恐怖にあたるのかもしれない。
幸いなことに私はこの荘園での最初期のメンバーだ。基本はもちろんのこと、ゲーム内での駆け引きやハンターの癖、そして何よりも生活の知恵を蓄えている。次々とやってくる新入りは須く私の弟子になった、あるいはお優しい弁護士先生の。エミリーは要領が良いし、ウッズさんには矢鱈と誰かと親しくなるような時間は増やしたくないから不向きだ。面倒といえば面倒だが、私にとって都合の良い人間を増やす環境づくりだと思えば十分やっていける。
人が増えて人が増えて人が増えた。忙しさから取り繕うことを忘れてヒヤヒヤする場面もあったものの、多少の軽蔑を買ったくらいで済んでいる。もちろん、根本的なクリーチャー・ピアソン像は惨めな野良犬のままだ。外の世界に出たら、新しい身分を手に入れよう。正しい姿で、あるべき王国を自分の手で作り上げるのだと思えば、彼らがどう思っていようが関係ありやしない。私は私のままだ。
「ピアソンさん」
だが、こればかりは私の予想外だった。焼き上がったマドレーヌから顔を上げると、私は厨房脇の窓の方角を向いた。若さに苦さをわずかに混ぜたような声の持ち主はナワーブ・サベダーだ。おやつ時ともなれば必ず顔を見せる人間で、もう新入りとは呼べない程に慣れ親しんだくせに未だに私を追いかけ回している。子供でもなし、可愛いわけでもなし、こちらとしても良いことは特にない。肉体労働を手伝ってもらうことはあるが、それだけだ。
にっこりと笑顔を浮かべたまま、元傭兵はこともなげに窓枠を乗り越えて侵入してきた。ギョッとしても何も言わなかったのは、いざとなればこの男が何をするかわからないからだ。少年のような幼い顔立ちなので騙されそうになるが、力の強さは間違いなく戦場を潜り抜けてきた人間そのものだった。ウッズさんの前で幾度か我を忘れた際にあった出来事は、そう簡単には忘れられない。力づくで常識を説かれて従ったのは、サベダー君が私に情状酌量の余地があると認めてくれたからだろう。そうでなければ、今頃私はとっくのとうにすり潰されている。
今度こそ殺されるんじゃないだろうか。我ながら卑屈な想像が働くが、サベダー君は矢鱈と気さくに接触をしてくるものだから混乱する。一体何が目的なのかがわからない。自分が作る料理や菓子の類、あるいはちょっとした修繕の手伝いを歓迎する傾向は他の人間にも見られるが、それにしたって距離が近いのだ。笑顔の下に何があるのかわかったものではない。
「そろそろおやつかなと思って。何か手伝えることはある?」
「良いタイミングに来たな。あとは食べるだけだからお手伝いはなしだ。食堂に持っていくといい。途中でトレイシーの部屋によってやってくれ」
「……別に、ただ食べに来ただけじゃないんだけどな。人を食い意地が張ってるだけみたいな言い方はしないでよ」
「事実だろう?」
距離を置くようにして皿を掴み、マドレーヌたちを招待する。可愛らしく陸に打ち上げられた貝たちは、胃袋と言う名の暗闇に連れ込まれるのだ。ちっちゃな牡蠣が出かける話はどこで聞いただろう?物を知らない純粋さだけでぬくぬくと育った生き物は、可哀想にも全てセイウチに食べられてしまうという、納得のいく落ちだったと覚えている。あれは可哀想ではなくて、当たり前の間違いだろう。
「あんたが作るものは何だって好きだから、間違ってはいないけどね」
「そいつはどうも」
ならば毒入りの手料理でも振る舞ってやろうか。得体の知れない男は引き離した分だけ近づいてくる。自分が何かしたとでも言うのだろうか?記憶をさらってみたが、罰される真似は特にはしていない。マドレーヌを載せた皿を渡せば、落ち込んだようにサベダー君の眉根が下がる。そうなると一層拗ねた子供のようにも見えておかしい。これがウィリアム・エリスあたりなら揶揄ってやるんだが。
「俺、あんたが○○だよ」
そうして、サベダー君は私にはわからないことを言う。不思議な話だが、彼は時折私には聞き取れない言葉を話すのだ。あるいは彼の母国の言葉なのかも知れない。相手に伝わらない言葉でわざわざ話す必要があるだろうか?多分、悪口だ。私がわからないと思って平気で言っているに違いない。まあ、わからなければ腹立ちもいくらか和らぐから良しとする。私はいつも通りに無視をした。
サベダー君の距離は不用意に近い。じわじわと私の生活を脅かしていくような恐怖が募る。自分を殺しかねない相手に付き纏われたら、誰だって怖いんじゃないか?おかげさまで理性がしっかり私の感情にブレーキをかけてくれた。以前のような不意の暴発で殴られるようなヘマはしない。案の定サベダー君は残念そうだ。ひょっとしたら、私に近づくのはストレス発散を目的としていたのかも知れない。
暴力は私にとって顔見知りだった。荘園の外にいる時には、ことあるごとに殴られ、蹴られ、やり返して生き延びてきた。人間は野蛮だ。野良犬を追い払うには暴力が一番効くと思っている。そしてそれは、あまり間違ってはいない。特に私のような体つきの人間は格好の標的だった。逆の立場なら、自分だってそうしただろう。彼らを憎みこそすれ納得しないわけではない。
私の体つきは、自分で言うのも残念なことに貧弱だ。おまけに片目を失っている。幼い頃に十二分に栄養を得られなかった――それもこれも生まれた場所が悪かったからだ――ために、ろくろく育たなかったのだ。愛情が人を育てるのではなく、栄養が人を育てるのは言うまでもない。アンドルーは少し事情が違うかも知れないが、私の場合は栄養さえ与えられていれば、せめてフレディよりも逞しくはなっていただろう。
「ピアソンさん、もっと食べなよ」
「食べているさ」
何度目かの緊張でピリピリとした昼食時、サベダー君はまた妙なことを口走った。私の食事量を観察されていたかと思えばゾッとする。食べられる時には食べられるだけ食べる癖がついているので、私の食事量はなかなか多い方のはずだ。消化しきれずに吐いた時には罪悪感でいっぱいになるので、荘園に来てからは胃に負担のかからない程度を目安にしている。健康に良いわよ、とエミリーが珍しく褒めたので医者のお墨付きのやり方だ。
「だって、あんたちっとも太らないでしょ。抱き心地が悪いんだよね」
「ぶっ」
度肝を抜かれた私の代わりに、牛乳を吹き出したのはビクターだ。可哀想に、哀れな被害者の存在を悟ってしまったんだろう。サベダー君の発言の意図は、どう考えても『殴り甲斐がない』のそれだ。異国の言葉に不自由なので、少し言い方を間違えてしまったに違いない。間違いをしてきたらば羞恥心から何をされるかわかったものじゃない。いつも通りに平静を装って、私は無視をした。暴力的なものに繊細なビクターは誠に気の毒である。が、人間の本性を垣間見るのは良い社会勉強になっただろう。
「もう少し肉付きがいい方がいいなあ。まあ、そのままでも俺はピアソンさんのことは○○だけど」
「直接的な表現は避けられないのか?公共の場だぞ」
またよくわからないことを口走ったサベダー君を注意したのはガンジだ。確か彼はサベダー君とは出身地が近かったように記憶している。ならば私にはわからない悪口の内容もわかるに違いない。一人でも良心的な人間がいて何よりだ。空になった皿を持って立ち上がると、サベダー君から距離を取る。彼の皿にはまだこんもりとハギスが載っていた。できるだけ食事の時間を伸ばすために多めに盛っていると言うのに、それでも食べる速度が速いのだから恐ろしい。自分に降りかかる暴力にではなく、ゲーム中に馬車馬のように働いてもらうためだと思わなかったらやりきれない。
「心配してくれてありがとう」
「……どういたしまして」
精一杯の嫌味をこめて告げれば、サベダー君はなぜだかそっぽを向いて頬を赤らめた。ひょっとすると癇に障ったのだろうか?ことの顛末が恐ろしいのでさっさと退散することにした。ルカが口笛を吹き、サベダー君が食ってかかる。そそくさと退散した背後では、乱闘の音が響いていた。
「あなた、意外と焦らすのが上手なのね」
「何の話だ?」
だが、一難去ってまた一難、私に安寧はなかなか訪れないらしかった。廊下に出た私を待ち受けていたのは妖艶さと清楚さを併せ持つツェレで、面白がるような顔つきからして、食堂の様子を伺っていたらしい。悪趣味め。この荘園は小さいが、人が困難にさらされるのを楽しむ人間は、外の世界を凝縮したように多い。エミリーは一番の例だ。
「何って、ナワーブ君でしょう?あんな熱烈な告白を受けても平気な顔をしていられるだなんて、人は見た目によらないって本当ね」
告白?ピンとこないが、もしかしたらあのわからない言葉のことを言っているのだと気がついた。彼女は世界を巡業したサーカス団の花形だ。ならば、異国の言葉を聞き齧っていてもおかしくはない。意味を聞くには面倒な相手だ――それに、わかったならば苛立ち紛れにサベダー君にうっかり当たってしまうかも知れない。そんなことをしたらば返り討ちにあってひどい目に遭うのが関の山だ。五体満足でいたい私はこの会話を打ち切ることにした。
大きな影響がなければ、人にはいいように思わせておく方が楽だ。ツェレの言いっぷりからすると、私に対する印象は悪いものではなさそうで、『慈善家』の看板はそのままにしていられるだろう。一応、私は親切で比較的優しく、真の紳士らしく振る舞える数少ない人間なのだから。人は優しさに弱い。恩知らずでも、優しさを覚えていればほんの一瞬の不意を突かれたり気が緩んだりもする。つまり、私が生き延びられる確率が上がるということだ。賢くて参ってしまう。
食堂での一件以来、サベダー君はやけくそのように、顔を合わせる度にあの言葉を告げるようになった。ひょっとすると呪いの類いかも知れない。それとなくパトリシアに聞いてみたが、私の健康に影響はないらしい。寧ろ発言者であるサベダー君の方が近頃は顔色が悪い。集中力が欠けているのか、ゲームの最中でもミスが目立つようになった。カートが相談に乗っていると聞いて、絶対に解決しないと理解したが黙っておいた。
あんなに弱っているのだから、今なら多少おいたをしたって逃げられるんじゃないか?そんな軽はずみな気持ちになったのも、サベダー君の監視の目が緩んだからだ。まさか罠ではないだろう。あるいは、いいかげんサベダー君も私の正しさと幸福を理解してくれたのかも知れない。大金を手にした暁には、たまになら私の王国に足を踏み入れても良しとしよう。王国には屈強な門番がつきものだ。彼が何を目的としてここに来ているかは知らないが、仕事があれば喜ぶだろう。人は労働によって輝くのだから。
庭の花々を切り取って、両手に抱えきれないくらいシーツに包んだのは気分が良かった。花の匂いに包まれる中での告白!なかなかロマンチックで、ウッズさんはきっと喜んでくれるだろう。庭の花がなくなって悲しいと言われたら、一緒に植えようと誘えば良い。紳士的な申し出に彼女は感動するはずだ。引き出しから見つけた、昔の誰かのリボンでシーツを結わえて爆弾を抱え込む。心臓が初めて盗みをする直前のようにドキドキした。終わった後は、あの時よりも満足感が高いに違いない。楽しみだ。
花束を抱えて温室に向かう。彼女はいつだってそこにいるのだし、庭の異変にすぐに気づくはずだ。話のきっかけはいくつあっても困らない。廊下を抜けて、洗濯室を横切って、と順調に進んだところで私は盛大に頭から床に転んだ。
「何、」
洗濯物でも床に置きっぱなしだったろうか。もっと固いものに当たったような気がする。クラクラする頭をどうにか起こしたところで、今度はぐいと後ろに体を引かれた。耳に届いた吐息にゾッとする。物に躓いたんじゃない。これは、人間だ。
「ピアソンさん、ひどいよ」
「サベダー君?」
「俺の言うことは聞かないし、あんたを○○じゃない女のところには平気で行こうとするし」
間違いない、サベダー君だ。まだ未遂だから殴られる謂れはない。上手く言いくるめれば彼だって理解してくれるだろう。逃げ出そうともがけば一層強く抱きしめられて、潰れた蛙のような声が口から漏れる。このまま私は抱き潰されるんだろうか。いつぞやサベダー君が、私は抱き心地が悪いと言っていたことを思い出して苦笑した。なるほど、こんな拷問を想像していたとは考え付かなかった。
「う、ウッズさんを悪く言うな」
「事実でしょ」
女は女だが、他人に言われるのは癪に障るので一応訂正を試みた。が、返ってきたのは冷笑で、私は自分の失敗を悟った。感情の赴くままに話すべきではなかった、だなんて後から悔いたって遅すぎる。花束が床に落ち、サベダー君がいきなり拘束していた手を離した。たちまち、当たり前のようにしてむせかえるような花の匂いが私を包み込む。頭を何度も揺さぶられるとクラクラするのだ。そのまま白痴になった子供のことを思い出して、冷たい過去が私を手招きする。逃げなければ。
「せめて俺が言っていることに答えてくれれば、こんな、こんな、」
「君は何を言っているんだ」
這って逃げ出そうとしたらば腰を掴まれ引き寄せられる。殺されるのか?力を抜き、逃げ出すタイミングを図ることにしたのは、私がまだ冷静でいられた証拠だ。サベダー君が何を言っているのか、一言も理解できない。彼の言い分では私が悪いらしい。あの悪口にどう反応すれば正解だったんだ。わかるわけがないじゃないか、他人の気持ちなんて。私たちは別の人間だぞ?
「もっと優しくしたかったのに」
こんなはずじゃなかったんだ、と言いながらサベダー君が私のズボンを脱がした。破られなかったのがせめてもの救いで、そこから先は知らないでもない惨めな出来事のオンパレードだ。詳しくは思い出すまでもない。洗い立てのシーツも、洗っていないシーツも全部汚れたし、汚した。洗うのは相手に任せた、それだけの話だ。
ここまでされて流石に気付かないほど私は間抜けじゃない。考えてみれば簡単に説明がつくことだらけだった。サベダー君は軍隊上がりで、荘園の女性と深い関係になるには危険がつきまとう。一方で貧弱かつ、何かしたところで誰からも同情されない相手がいた――私だ。サベダー君は私を女性の代わりにしようと考えついたらしい。吐き気がするほど最低だ。ビクターやイソップ、ルカあたりは見た目も良ければ貧弱そうだが、何しろ同情を買いやすい。私は時折いざこざを起こしていたから、助けてはもらえないという確固たる予感がある。おまけに私は慣れていた。
「○○」
未だに告げられる言葉の意味はわからない。幸せそうな顔をして、サベダー君は私を身代わりにする。理想の女性には程遠いだろうが、誰しも幻想に生きる権利はある。だったら私がウッズさんにちょっかいを出すのは目溢ししてくれないだろうか。サベダー君がゲームに出かけている以外の時間、ほぼ全て彼の監視がついているような気がする。意中の人間に対して束縛が強い性質かも知れないが、私は身代わりなのでやめてほしい。殺されるんじゃないかと気が気ではない。
間違った形で幸せを得ているサベダー君の姿は、私の中での『正しい幸せ』を考え直す良いきっかけにはなった。わかってもらえなければ主張を通すべきだし、わからない相手が可哀想だとは思う。その点は同意するが、やはり無理矢理と言うのはいけないのかも知れない。少なくとも、私は嬉しくはない。行為だけは100歩譲ってどうとでも相手をする。近頃では加減を覚えたサベダー君が、私もスッキリして気分よく終われるように触れられるようになった。人間は進歩するものだ、素晴らしい。
今ならば、前よりもウッズさんに正しく接することができるような気がする。手痛い経験だったが、結果に繋がるならば痛みだって忘れられる。サベダー君の監視の目を掻い潜り、そっと花畑に突っ伏した。忌々しい花の匂い。初めてはあまりにも痛く、苦く、えづくほどに気持ちが悪かった。今でもあの時のことはありありと思い出せる。サベダー君のがむしゃらな暴力、辿々しい言葉、あのよくわからない言葉、そして背中に当たった熱い汗。あれはもしかしたら涙だったのかも知れない。悪人が自分本位に無体を働いた挙句に泣いたって、事情を知るつもりも同情する気もないが、私はその可能性を却下した。
このまま待っていればウッズさんが来るだろう。早く来てくれないか。少しやり方を学んだからとは言え、私だって自分をいつまでも抑えておけるかどうか自信はない。人間は獣じみている。サベダー君が良い例だ。温室の扉が開く音がする。ウッズさんだ!
「ナワーブは間違ってるの」
突然飛び込んできた単語に、私は思わず身を固くした。サベダー君?何だって撒いてきたはずの存在がここに登場するのか。まさか本人が来るだなんてことはあるまい、見つかったら何をされるのか、
「だったらどうすれば良い?好きなんだ」
「好きでも何でも許されないの。ナワーブだってわかっているの」
好き?誰が、誰を。瞬間全てが繋がって、頭を殴られたようだった。ウッズさんに近づこうとする私に制裁を食らわせたサベダー君。身代わりにするサベダー君、彼女のことを想ってあれこれ手を尽くす私の行く先々に現れるサベダー君。なるほど彼も同じ人間を好いていたのだ。情けなさに涙が出そうになる。いくら何でもひどいだろう。ウッズさんの代わりに私を、だなんて馬鹿馬鹿しくて笑えない。
ここで飛び起きて罵ったら気分が良くなるだろうか。今のところウッズさんはサベダー君の本性を理解しているようだが、はっきりと目を覚まさせてやった方がいい気がする。それで?それで……我を失ったサベダー君が私を殺す。だめだ、死ぬのは最悪の手段だ。全部破り捨ててどうにでもなれと思いたい気持ちでいっぱいだが、生きてここから出なければ、何のために耐え忍んできたのかがわからない。自分ばかりが損するのは大嫌いだった。私は負け犬ではない。
流石にウッズさん相手に暴力は振るえないのか、押し問答を繰り返したようだがサベダー君は去っていった。ウッズさんもどこかに行ったようだ。残されたのはどうしようもない敗北感と屈辱感、ついで羞恥心だった。好きな人の身代わりになって辱めを受けた気持ちなんて言葉にできやしない。
その日私は彼の誘いを無視し、強引に行為は続けられた。ほら、私相手だったら気を使わなくていいと思っているんだ、そうだろう?○○、○○、なあ、お前は一体何を言っているんだ?
まるで夢から覚めたように、サベダー君は私に触れなくなった。強く握られすぎてあざになった私の腕に、エミリーが気付いたからかも知れない。流石の先生も患者には優しい。原因を赤裸々に語るのは些か屈辱的ではあったが、彼女は見る目を持っているから、答えが出るまでそう時間はかからなかった。何事か注意を受けたのかも知れない。サベダー君がそれくらいでやめるような塩らしい人間とは到底思えないが、事実彼の触れ方は変わった。
「ピアソンさん、○き」
ただ、よくわからないが公然の場で口付けてくる。ウッズさんに見られても平気な顔をしているのが信じられない。近頃の若者は――ナワーブ・サベダーという男は気が狂っている。そうとしか言いようがない。私だったら死んでも願い下げだ。口付けくらいならば痛い目にも遭わないので好きにさせている。
サベダー君が呟くあのよくわからない言葉は、部分的に耳に届くようになった。ただ、刻まれた音は何の意味もなさない。優しげな響きなので、もしかしたら悪口ではないのかも知れないという可能性を感じるようになったくらいだ。
暴力に対する反省の意味なのか、贈り物もよくもらう。そんなものよりも金にしてはくれないかと思う。ハンカチ、香水、星図、虹色に輝く懐中電灯、玩具箱をひっくり返したってこんなにもめちゃくちゃな選び方にはならない。もしウッズさんに贈るための練習だとしてもセンスがなさすぎる。いつか返してほしいと言われた時には金で譲るとしよう。その日に備えて、もらったものは全て部屋の隅にある箱の中に収めている。
無理矢理な夜の訪がなくなった私の体は、どこか穴が空いたように物寂しかった。そのうち気が紛れるとは思うが、一度開いた体とはなかなか閉じられないものだ。誰かの代用はごめんだし、かと言って特定の誰かに話を持ちかけるには危ない橋を渡る真似になりかねない。夜があまりにも持ったりとして朝が来ない時は湖に向かう。岸辺に座礁した船の上でのんびりすると、涼しい風に吹かれていつの間にか安らぐのだ。水音が耳に心地いいのかも知れない。夜空はとても美しい。
そんな私の静かなひとときにも終わりというものはやってくるもので、風のない穏やかな夜には先客がいた。船の上で星空の下二人、となれば一般的にはロマンチックという形容詞が似合う。ウッズさんとは一度くらいはやってみてもいい。特に用がないから敢えてやろうとは思わないが、女性には好まれるのかも知れない。
「ピアソンさん、待ってたよ」
最悪だ。待っていたのはサベダー君だった。なんだってこんな時間に現れる?その口ぶりだと、私がここに来ることはわかっていたようだ。ひょっとしなくとも、以前と同じようにずっと私を監視していたに違いない。ウッズさんに近寄ることも余りない――彼女を見るとあの日庭で耳にしたことを思い出すからだ――というのに、心配性なことだ。見張るならばウッズさんを見張れば良い。いや、気分が悪いから誰も監視しないでくれればそれで良いか。
「待ってた?何のために」
「あんたにちゃんと伝えようと思って。いつまでもこんなやり方じゃいけないから」
「……君から聞きたい話はないね」
つるりと本音をこぼしながら、前回はこの狂人に酷い目に遭わされたことを思い出してハッとした。現にサベダー君が幼い顔にはっきりと傷ついた表情を浮かべている。子供の暴力は加減がなくて嫌いだ。
「あー、いいさ。聞こう。聞くよ」
「よかった」
ほっとしたサベダー君は、ズンズンとこちらに近づいてきた。船のヘリに近い場所にいたため、このまま湖に落とされるのかと思うとヒヤヒヤする。このくらいの高さであれば、落ちても死なないだろうが、刺されたらばひとたまりもない。私の心配をよそに、狂った青年はポケットから小さなものを取り出して私の手を引く。おとなしくされるがままになっていると、ころりと落とされたのはシンプルな銀色に光る指輪だった。
「ずっと話していたつもりだけど、改めて言わせてね。俺はピアソンさんのことが好きなんだ。その、色々順番は逆になったけど……よかったらそれも受け取ってほしい」
「は」
一度も聞こえなかった単語がはっきりと耳に届き、私は我を疑った。好き?私のことを?ウッズさんじゃなかったのか。好きだったら、どうしてあんな真似をした?ああ、私が無視をしたからか。何度も言われても気づかなかったからか。仕方がないじゃないか、私は少しも悪くないんだ、だって、だって、
「嘘だ」
私を好きになる人間なんていやしない。周囲の人間が何を考えているかくらい、人生経験が豊富な私には痛いほどわかっていた。好きだからといって、良いことなんてろくにないのだからどうだっていい。好きだったら、どうしてあんな真似をした。どうして、ウッズさんは一体、私は、
「好きだよ」
今度こそ呪いを放った男にカッとなって、私は手のひらに載った指輪を湖に放り込んだ。サベダー君が息を呑む。ざまあみろ。胸が空く思いだった。殺されるよりも先に逃げてやろうと、そのまま私も湖に飛び込む。冷たい水が気持ちいい。訳のわからない現実なんて置き去りにして、私は息苦しささえ楽しんだ。
それが昨日で、ずぶ濡れになった私は風邪をひいて朝を迎えた。夜中にエミリーを叩き起こしたのは大きな借りだったが仕方がない。彼女にはサバランでも作ってやるとしよう。酒飲みの彼女は、アルコールがたっぷり染み込んだ菓子に目がないのだ。
「おはよう、ピアソンさん」
昨日のことはもうあれで終わりにしたかったのに、サベダー君は平気な顔でやってくる。寝込んでいるので分が悪い。あの指輪を返せと言われるだろうか?そうご大層なものではなさそうだが、くれたものなら何をしたっていいだろうと開き直りたい気持ちにもなる。あれは君が私にくれたんだ。良いじゃないか。
「好きな人の顔ならいくらでも見たいけど、具合が悪そうなのは嫌だな。早く元気になってね」
「誰のせいで具合が悪くなったと思っているんだ?」
「え?勝手に飛び込んだのはピアソンさんでしょ」
何もかもが間違っていた。私は全部捨ててやって正解を導き出せたはずだ。サベダー君の言葉が途切れることなく耳に届いて頭が痛い。布団を頭まで被って自分の心音を聞く。ナワーブ・サベダーが上からそうっとなでてくる。夜を思い出させる手つきに、悪寒だけではないゾクゾクとした震えが全身に走った。
この狂った男は私を好きだという。私はウッズさんの身代わりではなく、彼は私の訳のわからぬ言葉だと思っていた『好き』というとんでもキーワードをあたり構わず口走っていた。道理で思わせぶりな発言を他の面々が口にするわけだ。知らなかったのは私だけである。サベダー君が暴力的なのは今後教育が必要だろう。私だってまだ死にたくはない。少なくとも、賞金を手にするまでは。
布団の波間でもぞもぞしていると、指先にひんやりとした感触に当たった。恐る恐るつまんで見れば、捨て去ったはずのあの指輪である。貧乏性が災いして、結局無意識に拾ってきてしまったらしい。だが、考えようによっては悪くないのではないか。
サベダー君は私を好きだと言う。多分、受け入れたらば彼は私に暴力を振るわない。ゲームでは十分活躍してくれるだろうし、その分賞金が近づく。それまで騙しておけば良い話だ。ずっと身代わりにされたと思っていた日々よりは、自分の夢のために代償として差し出してやるとでも考える方がずっと気も楽だろう。未来は明るい。
私とサベダー君の間を挟んでいた布団を掻い潜って、波打ち際から指輪を握った手だけを出してやる。青年がぴたりと動きを止めた。気分がいい。
「これはもらっておいてやるよ」
「それって、」
「君の話は聞いた」
以上だ。あとは思いたいように思わせておけばいい。歓声をあげたサベダー君が、巡回診察に来たエミリーに注意を受ける。これくらいはいいだろう。ああ、胸がスッとした。
私はこれから幸せになるだろう。好かれる意味はよくわからないが、いつか私を好きになってくれる素敵な人が現れるかも知れないと言う幻想の糧にさせてもらう。人は変わるものだし、岸辺に寄せる波の形よりも不安定だ。未来はどうなるかもわからない。
その点、指輪は消えないものだから良い。金ではないが、急に消えたりはしないだろう。喚いたサベダー君が私の指にはめるのを任せ、ゆっくりと体の力を抜いた。今はただ、正しい幸せへの道のりを歩み始めた疲れを取りたい。さぞやいい夢が見られるだろう。
「ピアソンさん、またね。大好き」
それが今日。
〆.
後書き>>
どうしてもわからない・聞き取れない言葉には惹かれるものがあるような気がします。一度ならずも二度三度となれば、何か意味があるはずなのにわからないだなんて!きっと気になってあれこれ考えることでしょう。twitterで募集したキーワードを元に書き上げたお話で、頂いたのは「波打ち際」「落魄フード(悒うつぼ)」「指輪」でした。ありがとうございます!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!