これは毒だよ。食べてはいけない。
熟した味を知っている
欲しいものが欲しいの、というセリフは傲慢で贅沢だ。欲しいものだらけの世の中で、十分に手に入って有り余る上に飽きている状態をよく表している。そんなにも持て余しているならば、欲しい人間に機会を、可能性を、資源を分けて欲しかった。もちろんありえない話であり、クリーチャー・ピアソンは身を以ってよく知っている。大事なのは自分が何を欲しがってしまうのかを理解することだ。そしてそれが手に入るか入らないかを判断し、入らないならば欲しがらない術を身につけねばならない。
だから、クリーチャーは今自分が直面している事態から目を背けようと日々努力を続けている。ひょんなことから夜のお遊びの相手としてナワーブ・サベダーを引っ掛ける事に成功し、いつものように深入りを避けるためーー彼はあまりにも純粋で真面目すぎたーー潮時と見て打ち切った。簡単な話、クズであるとか人でなしであるとか、そういった侮蔑の言葉も軽蔑の眼差しも受け入れる心算の上である。ゲームをこなすことに支障さえなければどうということもない。いっそそうであって欲しかった。紙切れを真っ二つに裂くようにわかりやすい。彼は彼の、自分は自分の日々を生きるのであって、道は最初からすれ違いさえしていなかったと嘲ることができる。こんな事態は望んでいなかった。
「ピアソンさん、そろそろクリーチャーって呼んでも良い?」
「しれっとねじ込むな。ダメに決まっているだろう」
子犬のような目をして作業台にしがみついているのは件のナワーブで、目下執念深い口説きの最中である。愚かなことに、彼は本気でクリーチャーを想っているらしい。将来の展望が豊かで、もっと正しい愛や心そのものを傾ける出来事は山ほどあるだろうに文字通り時間を潰していた。かつて親密だった頃の物言いで手を握ろうと忍び寄るのを払いのけると、クリーチャーは先ほどのゲームで集めた部品の鑑定を続ける。習い性で解読中に抜き取った暗号機の部品はどれもガラクタにしか見えないが、物は使いようだ。種類別に分けていくと、工具箱をしまいにきたカート・フランクがのほほんとメモを置いていく。ずらりと並んだ部品名の羅列は存外几帳面な字で綴られており、クリーチャーはいつもの注文主だろうとカートに目を向けた。
「クリーチャー、トレイシーが欲しいってさ。今は機械人形の調整にかかりっきりだから、僕が代わりに頼まれてきたよ」
「右から三番目の列と、こっちのやつだな。どうせあの子のことだ、多分……こいつも持って行ってやってくれ。何を作るかは知らんが、あとでまた欲しがりそうだからな」
「君って結構人のことを見てるよね。道理で」
「何がだ?」
「ナワーブ君がベタ惚れなわけさ。僕も分からなくもない」
バチンと片目をつぶってみせるカートは無自覚なたらしだ、とクリーチャーは舌を巻いた。もしこの男と遊んでいたら、遊んだつもりでこちらの方が引き込まれてしまいそうだ。無論、カートは誠実に紳士的に対応するだろうが、それはクリーチャーの望みというよりは掌の上で転がされた自然な流れと言えよう。幸せかもしれないが、不思議と先が想像しにくかった。幸せ、という空疎な言葉が宙に浮いている。自分の頭から溢れでるにはあまりにも無意味な代物で、どうして思い浮かんだのかとクリーチャーは首を傾げた。日々ころころと移り変わる感情の波が打ち寄せる浜はいつだって不安定で、砂の上に絵を描くだけ無駄だ。考える時間すら惜しい。
思い起こすだけで胸がいっぱいになるような、心が充足して満腹で毎日それが続くと確信できる日などありやしない。どんな神様でも約束ができない、勝手気儘な人間たちに託された自由だ。だから、目先のものに、可能性を広げ続けるものに手を伸ばそうとするのは道理だろう。例えば、金は将来たどる道のりを豊かにする手段であるし、他人の心という曖昧なものに忖度せずに孤独であることは生き延びるための術だ。欲望を発散したければお遊びの相手で良い。病気や面倒ごとがなければ誰だって良いのだ。なのに、どうしてこの青年はクリーチャーを許してはくれないのか?クリーチャーは、ナワーブに自分に縛られることのない自由を与えるべく解放した。人生の教訓にしてくれたって構わない。そのつもりで放棄して、誰かと歩んでいく道のりをぼんやり視界の端に入れる気でいた。
部品を包みにまとめてカートが鼻歌交じりに出ていくと、後には恨めしげな目をしたナワーブと、やるべきことを失ったクリーチャーが残された。机の端を、ナワーブの手が滑る。あの指の感触はよく知っている。皮が厚く、武器を握り慣れたタコがあって、ゴツゴツしている。同じ男であってもクリーチャーのものとはまるで異なるのだから面白い。これまで様々な手がクリーチャーの上を通り過ぎていったはずだが、なぜだか直近の指先ばかりが目に浮かぶ。じわじわと思考を侵食していく思い出を振り払うようにして首を振ると、ひた向きな瞳にかち合ってう、と思わず怯んだ。視線が痛い。
「……そう、恨みがましい目で見ないでくれないか」
「俺には名前で呼ばせないのに、なんでカートさんは良いの」
少しの間、はくはくと動いたナワーブが続けようとして閉じ込めた言葉は容易に想像された。寝たのか?勘違いさせることは簡単だが、先ほどのカートとのやり取りからでっち上げるのは少々荷が重い。面倒ごとの風呂敷は広げないが吉だ。言葉は不思議なものだな、とクリーチャーはナワーブの唇の端につづられた過去を見やった。カートから名前を呼ばれるのは、そこらの猫を呼ぶように他意がない。しかし一度ナワーブが口にすれば特別なのだとありありと伝わるのだ。もちろん、二人きりの時にだけ名前で呼ぶよう躾けたのはクリーチャーなので身から出た錆である。
同時に、今ナワーブがセリフを続けなかったことにも心の底からほっとしていた。もし、口に出されたならばひどく傷つけられるような気がする。実際、想像だけで胸に幻肢痛のようなものが走るのだから深刻だった。こんなにも、この青年は自分にとって煩わしいほどに大きな存在感を放つようになっていたのかと思うと悩ましい。道すがら、拾っただけの小石を宝石だなんて勘違いするほどクリーチャーは愚かではない。ーー誰かが、いつか誰かが手にとった時にどれほど悔やむか、想像するだけで恐ろしい話だ。ため息をつくと、ここは一歩譲るべきだと判断してクリーチャーは唇を緩めた。
「君はこれまで普段、私のことを名字でしか呼ばなかっただろう?急に名前で呼び出すようになったら勘違いする奴が出る。だ、大体さっきのカートの話はなんなんだ?どうして君が私にべ、べ、ベタ惚れだなんて他の奴が言うんだ!まさか私たちのことを他所で話したのか?」
「落ち着いて、落ち着いてよピアソンさん。ほら深呼吸して。息が苦しくなっちゃうでしょ」
「これが落ち着いていられるか!」
言いながらも呼吸が苦しくなってきたのでおとなしくナワーブの勧めに従い、クリーチャーはゆっくりと深呼吸をした。息を吸う。長く、長く吐いていく。思えばこんなことをするのはベッドの上でナワーブのものを体内に受け入れる時くらいだった。あの時もまだ大きさに慣れないクリーチャーに、ナワーブは一丁前なセリフを吐いたのである。全部入りきった時に頭を撫でてきた手は好きだったな、とポロリと思い出が溢れてきたのを慌てて拾って封じ込めると、クリーチャーは三回ほど深呼吸を繰り返した。すうっと頭が冷えたような気がする。もう良いだろう。
「……それで?申しひらきはあるのか、サベダー君」
「むしろピアソンさんが一切気づいてない方がおかしいよ。俺は納得してないって言ったの、覚えてるよね」
「ああ」
不愉快ながらも覚えている。あの時の、絶望の中でまだ愛を信じている瞳を、苦い声を全部覚えていた。ナワーブとのやり取りは耳にへばりついて、ふとした時に頭の中で再生される。一体いつになったらこの呪縛は解けるのだろう。荘園から出て、彼の姿を感じなくなったら初めてクリーチャーは自由になれるのだろうか。早く以前の自分に戻りたかった。
「別に誰にも言いふらしたりしてないよ。ただ、ピアソンさんに花をあげたり、好きだって言ったり、そばにいるだけ」
「それだけであんなことを言うもんか。普通は冗談だと思うはずだぞ」
「ピアソンさん」
喜びを含んだ声でナワーブが笑う。自分のわからないことを全部知っていて、受け入れている人間の声がクリーチャーは嫌いだった。どうかすると相手の思うツボにはまっている気がしてしまう。ベッドの上でのリクエストや駆け引きは織り込み済みだから問題ない。だが、一度ベッドを降りたならば話は別だ。
「俺は冗談を言わないんだよ」
指が、クリーチャーの指を掴んで放り出した。その先を追いかけたい気持ちをこらえて、クリーチャーは遥か昔のことを思い出す。追いかけて、振り払われた日の痛みはいまだにぬぐいきれない。ただ段々とその痛みは薄れたようにも思うが、何故かはわからなかった。あるのは、教訓だけだ。
「また後でね」
欲しがるな。思い出してはいけない。言い聞かせているうちに、倉庫で誰かが来るかもと話しながら立ってやったことを思い出して、クリーチャーは部品を思い切り壁に投げつけた。
欲しいものは手に入れる。ナワーブは常に心がけていた。欲しい物が欲しいのであれば努力をすべきだし、手を尽くしても手を尽くしてもダメであった最後の最後で諦めるべきなのだ。粘り強さにおいては自分の右に出るものはなかなかいない。あまりにもしつこくしすぎて、クリーチャーがもう勘弁してくれと泣いた日のことを思い出し、ナワーブはヘラりと笑った。あの時は本物の涙で、申し訳ないが大変興奮したものである。
「なんでかは聞かないけれど、あなた今相当ひどい顔をしてるわよ。浮かれるのはそろそろやめて真剣になってちょうだい」
「ん、悪い、マーサ」
現実に戻ってナワーブは素直に謝罪した。マーサ・べハムフィールがやれやれと首を振りながら机を叩いている。もうすぐゲームが始まるのだ。ゲーム。クリーチャーと自分の間のゲームはいつ終わるのだろう。いつ現実になってくれるのだろうか。どうやらクリーチャーの中で、自分の存在が自然と大きなものとして入り込んでいるらしいことは確かだが、彼に意識させるには未だ至っていない。
「どんな顔をしてるの?全然想像できないわ」
「知らなくても大丈夫なの。気にしないの」
ヘレナ・アダムズとエマ・ウッズが呑気なやり取りを繰り広げている。思えばナワーブ以外は全員女性で、カヴィン・アユソであれば諸手を上げて自分に代わってくれと言い出しかねない面子だ。そうとも、自分が出回るよりもよほどその方がいいのではないか?腰を浮かして立ち上がると、ナワーブは制止の声も聞かずに扉に手をかけた。確かカヴィンならばそう遠くない場所でウィリアム・エリスとビリヤードで遊んでいたはずだ。
「試合放棄なんてカッコ悪いわね。あのナワーブが落ちたものだわ」
「は?」
我ながら下品な声が出たとわかっていたがもう遅い。マーサの安い挑発に引っかかって振り向くと、規律に厳しい軍人らしい目が目が鷹のように鋭く光っていた。
「愛しのピアソンさんが聞いたらなんて言うかしら。ねえ、エマ」
「ピアソンさんはがっかりするなの。前にナワーブ君が庇って完勝した時にドキドキしてたの、エマは見たの」
「確かにあの時心臓がうるさかったわ。なんでかと思っていたのだけれど、そんなことがあったのね」
「ぐ」
こんな風に言われて揺らがない人間がいようか。見え透いた罠だ、とは思う。しかし可能性が完全にないかと言えばゼロではない。検討の価値は十分にある。クリーチャーは簡単に落ちてくれる人間ではないが、材料は常に与えておきたいし、少なくとも自分の株を下げずに済ませたい。嫌々ながらも席に戻ると、パリンと鏡が割れた。
「はあ、こんな時に限って」
場所は思い出深い軍需工場である。クリーチャーが初めて意味ありげな行動をナワーブに投げかけ、まるで夜の灯りに吸い込まれていく羽虫のように追いかけてしまったのはまだゲームに慣れずにいた数度目のゲームの時だった。あれは緊張を和らげようとしてくれていたのだろう。大体、あのクリーチャーに誘いかけられたと受け止める人間の方が少ない。クリーチャーの鑑識眼は確かで、同時に彼にしてみれば大きな誤算だった。ナワーブは既に恋に落ちていたのだし、まるで愛しい相手に薔薇の花を投げられたように心も受け止めた心地で夢に入ったのである。
自分の場所を知らせながら壁際を目指す。真ん中のあたりではすぐに鉢合わせる可能性が高かったし、必要がなければ隠れん坊だけで済ませるに越したことはない。いいかい、とクリーチャーは言っていた。自分の切り札は最後までとっておく方がかっこいいんだ。そう言った彼がどれほど鮮やかなチェイスを決めようとも、本気か嘘かわからない愛を捧げるエマは微塵も揺らがなかったのだけれども、ナワーブの心は激しく揺れた。好きだと告げた時、彼が何も返さずに黙って手を握ってくれたあの気持ちは決して忘れることはないだろう。一方的で、押し付けがましく切実で狂おしいほどの愛をナワーブは注ぎ続けていた。それが双方からもたらされているものだと感じたことは本当に全てナワーブの思い込みだけだったのか?解読機に触れて暗号を解き始める。浮かぶ汗は気のせいだ。ゆっくりと深呼吸をする。二度、三度。
と、ドン、と響き渡る音と同時にハンターの姿が浮かび上がる。もっさりとした姿に頭飾りからベインだと知れる。どうやら運悪くヘレナは見つかってしまったらしい。 そう遠い場所ではないことから、自分の場所を再度知らせるとナワーブは数々のゲームで培った経験を生かしてハンターまでの最短位置を測る。うまく間に割り込めないかと考える時にはどんな思いでも潜り込まず、ただ純粋に目の前のものだけが鮮やかに瞳に映る。ヒュン、とベインのチェーンが飛ぶ音を聞きながら、ナワーブはただ一人の傭兵として走った。
八面六臂の活躍だったらしい。カーテンにぶら下がるタッセルが解けてしまっているのを結び直していたクリーチャーは、なんの感慨も浮かべずにイライ・クラークの報告を受けた。先ほどまで行われていたゲームの観戦をしていたイライはどこか嬉しそうで、ナワーブがどうしたのこうしたのと話すそぶりは微笑ましさすら起きる。同時にモヤモヤとした暗い塊が胸の内に広がり、クリーチャーは小首を傾げて手元に目を移し、結び目を間違えたことに気づいて盛大に舌打ちした。全く集中できていない。たかがゲーム、毎日行われているものに対して何を思うことがあろうか?
「そいつは良かったな。ウッズさんに何事もなくてホッとしたよ」
「……本当にそれだけですか?」
「何がだ」
思わせぶりな物言いは嫌いだった。占い師という職業柄、イライの物言いが何かを言わせようとする調子になってしまうのは理解できる。だが、クリーチャーが乗ると思ったら大違いで、ましてや目下悩みの種であるナワーブが絡んでいるとなれば慎重にならざるを得ない。他人が何を求めるかは自由だ。そして、自分が求めないこともまた自由なのである。
「あ、帰ってきましたよ。戸棚の右から三番目ですね?」
「……妙な時だけ能力を使うな。三番目のはゲームから帰ってきた彼らのものだ。君のはそうだな、二番目のところに昨日のオートミールクッキーが残っているから食べるといい」
「わかってましたよ」
にこりと笑うとイライは颯爽と厨房に向かって歩いて行った。戸棚の中にしまった菓子に気づかれたのは失態である。人の脳裏を読み取る力のことをすっかり忘れていたことに舌打ちすると、クリーチャーは自分が先ほど作っておいた労いの菓子を思い浮かべて片眉を上げた。杏子にチェリー、ラズベリーにマーマレードと色とりどりのジャムが挟まれたジャムビスケットは、今日ゲームに参加する女性たちに向けたものである。だがどうしてその中にわざわざレモンカードを作ってまでレモンカード入りのビスケットを入れたのかはーーナワーブの好物はレモンカードではなかったかーー忘れることにしよう。どうしても思考の隙間にするりと入り込んでくる存在が面倒でたまらない。やめろ、やめろ、やめろ!
「ただいま、ピアソンさん」
「おかえり」
反射的に返事をしたのだって、ただ世慣れているだけだ。彼とのやり取りが染み付いているだとか、そんなものではない。再びタッセルから目を離して声の主に顔を向け、クリーチャーは心底後悔した。ナワーブの服がいつになくビリビリに裂けていて、血やら汗やらでドロドロになった胸板が目の前に広がる。こんなにも近くで見るのはそれこそ抱きしめられた時や寝ている時だけだ。どんな感触か、どんな風に抱かれたのか、頭の中で記憶が弾ける。
「怪我、してるじゃないか。早く治さないと化膿したらまずいぞ」
「先にあんたの顔が見たかったんだ」
許して、と言いながら抱きしめてくる手をクリーチャーは呆然としながら受け入れた。振り払ったほうがいい。こんな手は、心は、受け入れるべきではない。彼の存在を間近に感じて胸がいっぱいになるだなんて毒が回ったら自分はもう自分ではいられない。理性は何度もクリーチャーを引き留めたが、やはり体はピクリとも動かなかった。
「それじゃ、エミリー先生のとこで治療してもらいに行くよ。ありがと」
「治療なら私だってできる」
「してくれるの!」
頭で考えるよりも先に飛び出した言葉についていけず、クリーチャーはもうまともに結べなくなったタッセルを放棄した。言葉の綾だと言ってももう遅い。ただ他の人間に迷惑をかけまいとしただけだと言い聞かせて、先に立って医療キットがしまわれた備品室に寄って窓辺のソファに座る。どこか密閉された空間に二人きりでいたならば頭が吹っ飛んでしまいそうだった。深呼吸をする。冷静になって、今は目の前のことに集中するとしよう。
「今日のハンターはベインか。派手にやられたな」
「ヘレナが先に見つかったから、少し焦ったかも。でもさ、三人逃げられたんだ。勝てて良かった」
「……逃げられなかったのは、君なんだな」
「痛っ」
丁寧に汚れを拭き取りながら、先に風呂に入らせるべきだったかとクリーチャーは唸った。否、先に止血をするべきだろう。消毒液が染み込んで痛いと言うナワーブはまるで子供のようで、痛みを先延ばしにして耐え続けるゲームでの姿とはまるで異なっていた。そう、先延ばしにするだけであって痛みは確かに存在する。怪我であれば、治せる。だが見えないものはどうだろう。自分は彼を傷つけた、そのくせこうして寄ってくる彼を徹底的に痛めつけるには言い訳があまりにも多く立ちはだかりすぎる。これ以上こじれればゲームを続けていくにあたって不都合だとか、ひょっとしたら殺されるかもしれない(なにせ相手は傭兵だ、とはいえ非現実的であることは重々わかっている)だとか、人間として彼を嫌っているわけではないだとか、クリーチャーは頼まれれば幾つだってひねり出せた。本当のところは、考えずにおきたい。自分本位で生き続けて、これから先も生き抜くために許されたいずるさだ。
「誰も怪我をせずに済めばいいのに」
「そりゃそうだよ。でもそういうゲームだからね。本当に死んでないだけましかも。あ、でもさ」
「なんだ」
「本当はもうみんな死んじゃって、ここは天国だったりして」
「ばか」
敢えて明るく言い放ったナワーブの頭を軽く叩くと、クリーチャーは胸の内で呪いの言葉を吐いた。こんなに痛い天国なんてあってたまるか!ここは地獄だ。死んで、死なれて、怪我をして、傷ついて、癒されて、仲良しごっこで毎日ぐるぐるする。外の世界があるとわかっているから成立する危うい均衡の中でどうにかやりくりした日々をなんと呼べばいいだろう。もし、外なんてなかったらーー自分は選択肢がないと言い訳できるだろうか。包帯を全部巻き終えると、ナワーブがありがとうとへラリと笑う。なんて嬉しそうな表情、まるでクリーチャーが幸せにできたかのような、そんなばかな夢なんてあるはずもない。
「戸棚の右から三番目に、おやつが入ってる。マーサたちと分け合うといい」
「……ピアソンさんってさ、すごく優しいよね」
「どこがだ。君は傷ついたんじゃないのか?」
「傷ついたよ。あんたは残酷だと思った。でもさ、それだけじゃないんだ」
だから好きでいることをやめられないんだ、とナワーブはのたまう。これまで出会ったどんな人間よりも矛盾して、寛容で、自分勝手な態度にクリーチャーは瞬きを繰り返した。答えというものはもっと単純で良い。クリーチャーが配るものは偽善だ。自分が生き延びるための慈善活動で、全部自分が満足するための手段に過ぎない。優しさだと思うのは勝手だが、本当に優しいかはクリーチャーにすら判別不能だ。もっと貶めてほしい。お前になどかまっていられないと運命からふるい落としてほしい。そうすれば期待もせず希望も持たずに欲しがらずに済む。欲しいものなんて欲しくないのだ。ぶどうはいつだって酸っぱい。美味しいものは皆毒だ。
「君はおめでたいやつだな」
「あんたにぴったりでしょ?」
「調子に乗るな」
自分たちはまるで反対だ。誰にでも受け入れられて、愛情をたっぷり持っていて、諦めないナワーブに、選ばれなかった、愛情を捨てて何もかも期待しないことにした自分は月と太陽のように離れている。昼は夜に出会わず、夜は昼に出会わずただ互いの尻尾を追いかけている。ちょうどそんなくらいの関係が良い。近づき過ぎて、現実に打ちのめされる日は遠ければ遠いほど良い。
「そう言うことは、無茶をして怪我を増やさないようになってから言うんだな」
「……俺、また勘違いするよ」
「何を今更言っているんだ?君は最初からずっと勘違いをしてるだろう」
付き合ってるだなんて、二人の間に心が通い合ってるだなんて素敵な勘違いをする彼をクリーチャーは初めて羨ましく思った。同時に、あの熱い口づけやしつこいと散々怒った噛み付く癖が懐かしくなる。包帯を巻いた胸板を指先でなぞって、暴きたくなるような心地をぐっと耐えたが、体はひどくナワーブを求めていた。今、寝てしまったら冗談では済まされなくなるだろう。欲しいと言ってしまいたくなるし、欲しくなったら終わりだ。
「これから先もずっと勘違いするよ。毎日あんたを好きになる。だからさ、クリーチャー、あんたも勘違いして」
「ナワーブ、」
つられるようにして名前を呼びあい、しまったとクリーチャーは顔をしかめた。扉が開く音がする。だめだ、引き返せなくなってしまう。あの向こうに自分は行きたくなんてないのだーーだって締め出されたら二度と入れないのだから。
「ナワーブ、」
喘ぎ声だけが響いた。
何度でも頑張ってみせる。レモンカードの程よい苦味と酸味を堪能しながら、ナワーブは上機嫌でビスケットを一人頬張っていた。女性陣は先におやつを食べ終えていたのだが、気を利かせてナワーブの好物だけは残しておいてくれたのである。ジャムの花畑の中でレモンカードが際立っているのは、あまりにもあからさまだった。こうして散りばめられた一つ一つの物事に、ナワーブはこぼれ落ちたパンくずを拾い集めているような気分になる。これはクリーチャーが落とした、彼も忘れた心のかけらだ。ただ自分だけが知っていれば良い、愛情そのものだと勘違いしたくなるほどに溺れてしまう。
流されるまま、ナワーブは再びクリーチャーを手に入れることに成功した。確かに体だけだと言えるかもしれない。だがそれすらも元は拒もうとしたクリーチャーが共寝をするなど考えにくいだろう。それも誰かが来るかもしれない窓辺のソファの上で、である。自分の体が汚れているのは申し訳なく思ったが、今を逃せば難しいと思われたし、何より試合後に好いた人に触れられているという喜びでナワーブは既に出来上がっていた。彼のシャツをカーテンのようにゆっくりと開いて、肌着の上から撫でたならばもどかしいと言わんばかりに手を引かれた時には心臓が飛び出そうだった。クリーチャー曰くは『セックスフレンド』として遊んでいた頃、ちらほら思っていたがこの中年男性はやたらと甘えるのがうまい。
人目につく可能性もあったので、さっさと済ませるべく首を振るとスンと小さく鼻で泣かれた。瞬間カッと全身が熱くなり、ナワーブは低く唸ってクリーチャーの肩口に噛み付いた。痛々しいほどに真っ赤に色づいた肌が愛しい。好きだ、愛してるよ、を何度も織り込みながら夢にまで見た肌を暴く。ずっと、夢の中にいる。でもそれはクリーチャーもだったのだと確信したのは今が初めてだった。夢と現実が入り混じって、訳が分からなくなるまでめちゃくちゃにしてやりたい。クリーチャーの下半身をあらわにさせ、自分のものも取り出してすり寄せる。久方ぶりなので到底入るとは思えないから、ナワーブはひどく優しくクリーチャーをうつ伏せにした。本当は正面から向き合いたいのだが、今からする行為には不向きだった。
「脚、ちゃんと閉じてね」
「ん」
ぴしゃんと柔らかく太ももを叩くと、自分よりも細いクリーチャーの脚と脚の間に自分のものを完全に屹立させて差し込む。ひくひくと蠢く孔が目に入ったが、今は我慢だ。クリーチャーのものが擦れて小さな喘ぎ声が発せられ、ナワーブの耳を甘く穿つ。動くよ、と声をかけ、様子を見極めながらナワーブは快楽の本流へとなだれ込んだ。立ち上る匂いは腐る手前の果実のように隠微で、刺激的でさえある。クリーチャーの骨に刻み付けるように掴んだ手に力を込めた。きっとしばらく痕が残ることだろう。見かけるたびに舌打ちでも良いから自分のことを思い出してほしい。前の方に片手を伸ばして、肌着の上から乳首をつまむと一層声が甘くなった。誰かに聞こえるかもしれないし、誰にも聞こえないかもしれない。すれすれの醜態は確かに二人をおかしくさせていた。まるで貝殻の片割れ同士のように体がピタリと張り付く心地よさがある。
「タッセル、注文しないとな」
「ごめん」
「いいさ」
全てが終わった後で、夢中になりすぎたと反省したのは二人ともだった。汚れたソファはなんとか修復可能だったが、クリーチャーの下敷きになっていたタッセルたちは無残な姿を呈していた。申し訳なさと同時に言い知れぬ満足感がナワーブの胸に広がる。この手でクリーチャーを抱いたばかりか、上気した頬の相手はまだ物足りなさそうな顔をしているのだ。これを勝利と言わずしてなんと言おう。
クリーチャーの心がたどる道のりは複雑で、彼の行動は矛盾しているように残酷で甘い。それも全てだ、と今ならば受け入れられる。第一、別れを宣言したあの日の前も後も、結局彼は彼で何も変わりはしないのだ。ナワーブの気持ちも変わらないーーそれどころかもっと深まっている。最後のレモンカードビスケットを噛み砕くと、ナワーブはちらりと時計を見上げて計算した。後一時間で夕食。その前にシャワーを浴びれば、夕食から二時間もすれば時間が空く。そうすれば、物欲しげにこちらを見つめたあの目にだって答えられるだろう。
機は熟した。あとは延々刈り取り続けるだけだ。確実に掴んだ成果をかみしめると、ナワーブは手についたビスケットのかけらを払い落とした。
〆.
あとがき>>
どこまで書こうか迷って、きりの良いまま未熟で終わらせた前作について、ありがたくも続きを読みたいという声を多く聞いた後押しを受けての続きです。私が力尽きたことをどうして見抜かれたのか……?未熟は私の方でした。ほだされる前に止めようとして、結局は知らないうちにどんどん侵食されていたと気づく、あのゾッとした満足感がピアソンさんの心に広がっていたらいいなあと思いながら書いていました。続きを望んだ方々の口に、熟した味わいが合っていれば幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!