糾える縄の如く
朝が嫌いだ。気を失うようにして忘れ去ったはずの時間を流し込んで再び生きていることを実感させる。何も死に急ぎたいわけでもなければ死に憧れを抱いているわけでもなく、自分の辿ってきた生き方は消せやしないのだという事実が多きかぶさってくるのが嫌なのだ。ノートン・キャンベルという男は些か憂鬱を抱えた人物だった。ベッドから這い出して、顔を洗いに行く。本来身だしなみを整えるに必要なはずの鏡の上半分は取り去っていた。自分の目を見ることは好かない。恐ろしい事故により剥がれ落ちた皮膚は戻らず、深い傷跡となって残ってしまった。人は幸運の証だと言う。まさか。こんなにもどんよりとした気持ちを背負いながら目覚める男のどこが幸運と呼べるだろう。
顔を洗って髭を剃り、整えたところで服を着替える。複数人数との共同生活ならば多少の窮屈も飲むものだ。今、ノートンは荘園に招かれて何とも奇妙なゲームに参加する人間の一人となっている。運を掴んだノートンに出来ることと言ったら金を稼ぐことで、それが生命の危険と紙一重であればあるほど自分の生きる価値を見出せる。実感できない幸運を目にしたいと言う気持ちの表れなのかもしれない。だから、生きている人間達を見るとよぎるかつての仲間達の幻影を追い払うべく口は貝のように閉じて、静かに集中する。なかなか難しいが、命を天秤に賭けた面々はどれも非常識なので何故だかうまく過ごせていた。
「おはよう、ヘレナ」
カツン、という音と共に廊下で鉢合わせたのは目の見えぬ少女だった。顔を合わせた当初はあまりにもこちらを凝視するので苦痛だったが、結局何も見えていないと知った今ではかえって気が楽ですらある。彼女ーーヘレナ・アダムスには、自分の周りを取り巻く暗さも、坑道の奥から唸る声も関係ないのだ。彼女の前にはノートンという一人の男がいるだけで、その簡素さはなによりも救いのように思われる。
「……ノートンさんね。おはよう。これから朝ごはんに行くのかしら?」
「ああ。良ければ隣を歩いても?」
「構わないわ」
ヘレナの隣を歩きながら、ノートンはちらと窓ガラスに映る自分の姿に目を止めた。左右非対称の表情。幸運を喜びたいのか、そらとも不運と呼んで悲嘆に暮れたいのかどちらつかずの気味の悪さが広がっていた。ノートン自身もどちらに振れて良いかはわからない。手にする磁石のように簡単に切り替えられたらば、なんと簡単なことだろう。
「ノートンさん、昨日は助けてくれてありがとう」
「え?ああ、昨日のゲームのことか」
昨日、ジョゼフに散々追い回されていたヘレナを救ったのは偶然の産物だった。それまで磁石は自分とハンターとのチェイスにしか使ってこなかったのだが、ハンターに引き寄せられるならばもしかして、とヘレナを風船に括ったジョゼフに磁石を投げたのである。すさまじい衝撃がノートンを襲い、痛みに顔をしかめているうちにヘレナは無事に逃げおおせた。もちろんジョゼフはノートンへと矛先を変え、散々追い回されてロケットチェア送りになったのはありそうな帰結である。
「幸運児も幸運だって言うけれど、私はあなたも幸運だと思うわ」
「……どうして」
「あなたは生き延びる方法を見つけたから」
盲目の少女は澄んだ瞳でノートンを見つめた。どうやら彼女にはあの一か八かの勝負を理解されていたらしい。口元をもごもごと蠢かせて、ノートンは柄にもなく素直にその賛辞を受け止められるような気がした。
「なら、これからもその運を試していこうか。今日も行くんだろう?」
「ええ。今度は私もできるところを見せてあげる」
暗号機解読だけが脳かと思っていたが、どうやら違うらしい。まさかその手にしている白杖は武器なのだろうか。自分よりも頭一つは優に小さな少女は勇ましく、ノートンはようやく上手に頬を緩めることができた。
〆.