誰かにとって必要な
パンと水。それに雨風が凌げる寝床。ワインにチーズ、毛布に安全が確保されていたら御の字で、使いきれないほどの金が詰まった財布があれば極上だろう。それ以上に必要なものなんてあるだろうか?友情?愛情?なるほど、世の人には必要かもしれない。クリーチャー・ピアソンのそう短くもない人生では、今のところ答えはノーだ。あれば良い、という気配はわかる。だが、
「誕生日、ねえ」
こればかりは意味不明だった。出生証明書があやふやなため、孤児院で一括取得された身の上では年齢さえもいささか怪しい。その癖一度社会に出れば、やれ誰それの誕生日だの、節目の年だので祝宴が設けられる。そうした時には人々の気持ちも懐も緩まるというもので有り難く利用させていただいたものの、自分の誕生日には少しも色気を出さなかった。
人は誰しも生まれたからこそここにいる。生まれた日がいつであろうともいつかは死ぬし、それだけの話だ。一々祝う意味がわからない。君が生まれてくれて有難う、今日まで生きてくれて有難うだなんて綺麗事にも程がある。当たり前のこと――例えば今日生きていることには何も言わないというのに。
よって、クリーチャーの誕生日は長らく空白のままだった。必要になったのはチャリティ・パーティに参加するやんごとない人々に問われたからである。どうだって良いことであろうとも、実利が伴うならば話は別だ。自分のためではない。誰かのために必要だから、仕方なく作り出した架空の物語である。
相手に応じてクリーチャーの過去は作り替えられたが、誕生日の日は面倒なのでそのままにしておいた。過去は引き出しがいくつもあるが、誕生日は一度きりということくらいは覚えていたのである。年齢は相変わらずあやふやだったが、誕生日が来た回数くらいは覚えられるようになった。
通り過ぎて来た日の一つだ、なんの意味もないというのに覚えていたのは、もしかしたらという期待が芽生えていたのだろうか。荘園に足を踏み入れて以来、クリーチャーはこのなんでもない日に意味があるような気がし始めた。当たり前だが、荘園に住まう誰しも誕生日があり、どれほど悪態を吐き合ってもこの日ばかりは笑顔で迎える。
「今日はラズベリー・ケーキなんだ。二段?三段?」
そして、俄の菓子職人となったクリーチャーは忙しい。厨房で今日支度するケーキの材料を並べていると、つまみ食いの常連であるナワーブ・サベダーが顔を覗かせた。相変わらず勘がいい。昨日の食事のあまりで作った、ごたまぜパスティを渡せばふわりと笑みが浮かんだ。かつての厳しく寂しい様子からは一変した雪解けは、幾度目にしてもないはずの心がじんわりと暖かくなる。
「二段だ。モウロは相棒と一緒に祝うからな、一つ別に用意する予定なんだ」
「豪華だなあ」
「誕生日はそういうものなんだろう?」
世間の人々にとっては必要な。心の中で付け加えつつ告げれば、ナワーブはしばし静かにパスティを咀嚼した。何が気になるのか、珍しくも難しい表情である。残り物に苦手な食材でも混じっていたのだろうか。クリームの準備に取り掛かるべくボウルを取り出した頃、閉じた貝がパカりと開いた。
「ピアソンさんの誕生日っていつ?」
「私のなんて、知っても意味がないだろう」
別になんでもない日なのだから、わざわざ祝われる必要はないのだ。荘園に暮らして何度目かを迎えたが、敢えて黙って過ぎ去らせている。誰も気づかなかったし、自分も何も言わなかったから、荘園では全く無意味の日なのだ。ナワーブが来てからは少なくとも一度過ぎ去ったように思う。何を今更問うのかと肩をすくめれば、青年の唇がへの字に曲がった。
「気づかなかったのはごめん。あんたがどう思ってなくても良いけど、あー、なんで気づかなかったんだろ」
「なんでもない日なんだから、当然だろう。君が気にする必要もないさ」
「あるよ!」
最後の一欠片を口の中に放り込んで、ナワーブは真っ直ぐにこちらを見つめてきた。射抜かれるのではないかと思うほどに強い瞳で、クリーチャーは思わず息を呑んだ。
「好きな人が生まれてきた日は特別だから……あ」
「え」
いきなり横面を叩かれた様な衝撃に、クリーチャーは目を白黒させた。好きな人?誰が、誰の。探せどもここにはたった二人の人間しかいない。思わず口を滑らせたと慌てふためくナワーブに、クリーチャーは唇の端を上げた。
「あー、その……好きというのは」
「色々な意味で」
「つまり?」
「思いつく限りの全部だよ」
子供っぽい台詞は至極真剣だった。笑い飛ばすには余りにも熱い。ナワーブは手を伸ばすと、クリーチャーの手をぎゅっと握った。
「あんたの誕生日を祝わせて」
なるほど、誕生日は誰かにとって必要なものだ。そして自分の誕生日もまた、誰かにとって――訳もわからず胸の奥が痺れる――必要なものであったらしい。全くの架空の日付が脳裏に瞬き、ゆっくりと唇からこぼれ出た。
思いつく限りの好き、はいくつ挙げられるのだろう。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。生きるのには不要にも関わらず、面倒だとさせ思わなかったのは、ナワーブがもたらした雪解けだ。好きだなんてものなど余り多くは知らない。きっと教えてくれるその日を待ち侘びて、クリーチャーは生まれて初めて心の中で指折り数えた。
〆.