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ねえ、どうしたらあなたに届く?



君に恋して幾星霜


 本当に恋だったのか。ぼんやりと歩きながら、ナワーブ・サベダーは手のひらにぶら下がる重みを持て余した。秋風がそよそよと心地よく頬を撫でて行く。夕方に差し掛かる街並みは淡い色合いに溶けて実に鮮やかだった。天気は晴れで申し分ない。今日は結婚式を挙げるには良い日だ。

片方の手には引き出物の山、もう片方の手にはプチブーケを握って歩く自分の姿は街には不釣合いで、なんだか浮いていた。まるで現実感がない。学生の頃から付かず離れず親しんでいた女性が先程結婚をして、苗字を変えたことも、彼女と目が合った時に心が通じたような気がしたことも、取り立てて口には出さなかったけれどもいつかーーあらゆる感情が渦巻いて、本当は手に握ったものをぶちまけて叫んでわざわざ買った礼服だって破いて捨てたいくらいだった。実行しないのは、結局全てが自分の弱さだと知っているからだ。口に出さなかったナワーブをよそ目に、やはり仲のいい親友は彼女に声をかけて、形を成した。誰も責められることなどない。

 いい式だった。皆幸せそうで、自分だって多分、うまく祝えていた。食事は考え抜かれていたし、なんならばナワーブの苦手な食材を綺麗に弾いてくれていた。あの二人ならばありうることで、素直に礼を伝えられたのは我ながら褒めてやりたい。仕事があるからと二次会を途中で抜けたのは、もう演技を続けられなくなることが恐ろしかったからだ。

「おー、若人。今日はまた随分と悲惨そうな顔じゃないか」
「うるさい。俺に構うなよ、おっさん。歩きタバコはやめろって言っただろ」
「悪い口だこと」

自動的にたどり着いたアパートの前で、しわくちゃの服を着た男に声をかけられナワーブは顔をしかめた。クリーチャー・ピアソン、彼こそはこの荘園一号館の古株で、怪しげな商売をする胡散臭い人物だった。ちょうどどこかからの帰り道らしく、片手に火のついたタバコを、もう片方の手には新聞を持った姿である。多分競馬だ、と思ったが特にツッコミはしない。こちらは疲れているのだ。さっさと部屋に入って寝たい。

「かっこいい服着てさ。よく似合ってる」
「そういうあんたもな」
「これでも見栄えのする服くらい持ってるんだぞ?悪くないってウッズさんに褒めてもらったことだってあるんだからな」
「社交辞令でしょ」

つい返事をしてしまう自分が呪わしい。軽口を叩きながら並んで歩くのも全てはクリーチャーが隣室に住んでいるからだ。ふざけた男だ、なんだって自分に絡むのだろう?ネクタイを乱暴に緩めて解き、紙袋に突っ込むと、ナワーブはクリーチャーの目がこちらに注がれていることに気づいてはっきりと舌打ちした。

「何。言いたいことあるならさ、早く言ってよ」
「いやあ、その……なんだ、一緒にお茶でもどうかと思って」
「はあ?」

言うに事欠いてなんの話だろうか。先ほどまでの非日常感がまだ尾を引いている。クリーチャーは自分の部屋の鍵を取り出して、かちゃかちゃと扉を開けた。似つかわしくない、てるてる坊主のような小さいぬいぐるみが鍵にぶら下がっている。誰かにもらったのか、と何故だか気になってナワーブは首を振った。このお誘いと言い、どれもこれも馬鹿げている。構うだけ無駄だ。

「お断りだね。俺は見ての通り疲れてんの。大体、あんたの部屋なんてどうせ汚いに決まってーー」
「はずれ。確かめてみろよ」

どういうわけか、そんな風に言われてしまうとつられて覗きたくなるのだから不思議だ。隣の高級マンションに住むらしいあのセルヴェ・ル・ロイ、テレビでも引っ張りだこの稀代の魔術師が観客を誘うような魔力がある。クリーチャーがそっと開いた扉の向こうは予想とは違ってひどく綺麗に整頓されていた。正確には、物が少ない。弄んでいたタバコを掌でもみ消すと、クリーチャーは乱雑さのかけらもない部屋を顎で示して、笑った。小憎らしい。

「感想をどうぞ」
「まだ玄関だけだ」
「それじゃ、奥まで確かめてみたら良い」

歌うように言い放つと、クリーチャーがさっさと玄関から中へと入って行く。靴は端っこに寄せるようにして乱暴に脱いだが、それでも汚らしさは感じなかった。お邪魔します、と呟いて足を踏み入れる。この部屋からは懐かしい匂いがする。洗剤と柔軟剤、それと何かご飯の匂い。この男は独り身で、子供もいないはずなのだがとナワーブは不信感を増した。しわくちゃのシャツを着て、怪しげな商売をしているらしい男の生活空間というよりも、所帯を持った若夫婦の家に入った心地がする。

奥に引っ込んだクリーチャーを追いかけると、小さなソファにダイニングセット、壁にかかっている汚い落書きには『クリーチャーへ』の文字がある。ひょっとしたら、この男には別れた女房との子供がいるのだろうか。そもそも結婚していたとは到底思われないが。どこもすっきりとしていて、ものは少ない。さらに奥にはベッドルームがあるらしく、一度引っ込んだクリーチャーが少しこざっぱりとした服で戻ってきた。

「綺麗だろ?」
「……悔しいけどね。俺の部屋よりも綺麗だから、びっくりした」
「お褒め頂きありがとう」

仰々しい挨拶をすると、クリーチャーが椅子を勧めてくる。くるりと背を向けてキッチンをいじりだすところからすると、本気でお茶を淹れるつもりらしい。そんな気持ちは少しもないのに、まだ胸の中では式場で流れた曲が塩水になってせり上がってくるというのに、目の前で繰り広げられる日常が強引に手繰り寄せてくるのだ。玄関先で話すこととは訳が違う。仕方なしに花を置いて、紙袋も置いて上着を脱ぐ。思えば窮屈な服だった。慣れないことはあまりするものではない。

 ポットが沸騰を知らせる。ついでやわらかな茶の香りが鼻をくすぐり、クリーチャーが戻ってきた。ティーセットではなく、黄色と青のマグカップが一つずつ。空の皿にフォークが一本添えたセットも並べられ、ナワーブは首を傾げた。と、先ほどの視線を思い出してようやく思い当たった。やられた。

「もしかして、あんたの狙いはこっち?」
「かもな」

いたずらげに笑うクリーチャーを、不気味とも図々しいとも思わずにナワーブは小さく笑った。この男ならば、許せるような気がしたのだ。何を言っても仕方がなさそうな、暖簾のような男なのだから。第一煙のようにつかみどころがない。ガサガサと紙袋から包装紙でがっちりと守られた箱を取り出し、乱暴に開ける。破いたのはナワーブの心だ。今時、引き出物はカタログから来賓が好きなものを選べるようにすることが主流になっている中、今日の主役たちは自分たちが一番好きな思い出の一品にすることにしたらしい。中身については、ナワーブが誰よりもよく知っている。バウムクーヘン。幸せの丸なのよ、と言っていた彼女の声が耳元で蘇る。箱をクリーチャーに渡すと、ちゃっかりとした男は意外にも神妙な面持ちで受け取った。

「ああ、ここのは美味しいな」
「知ってるんだ?」
「エミリーが……知り合いの女性がこの前食べさせてくれたんだ」
「ふうん」

特定の女性の名前に、ナワーブの中に新たな靄が広がった。『ウッズさん』ことエマ・ウッズならば知っている。駅前の花屋の看板娘で、クリーチャーがしつこく声をかけてはすげなくあしらわれる様をよく見かけたものだ。ナワーブは駅前のジムでトレーナーをしていることもあり、肩を落とすクリーチャーが妙な真似に出ないように牽制をかけたり(エマの父親に頼まれたためだ、それもまた友達の知り合いだからである)そのまま何故かクリーチャーに焼き鳥屋に連行されるなどしていた。

 何度も顔を合わせているし、部屋は隣であっても他人は他人であってクリーチャーのことなぞよく知らない。女性に子供の影、あたたかな家庭を思わせる部屋。落ち着かなくなってくるナワーブを他所に、クリーチャーは嬉しそうに包みから中身を取り出してナイフで切り分けて行く。黄色くまるいバウムクーヘン、真ん中は心のように空っぽだ。皿の上に載せられるも、ナワーブは見つめることしかできなかった。

「ん、美味しい」
「……気に入ったなら、あんたに全部あげるよ」

眦を下げて舌鼓を打つクリーチャーが羨ましい。フォークの端についた菓子クズを舐めとる舌が存外赤く、妙に艶めかしくてどきりとした。

「嬉しい申し出だが、断る」
「なんで」
「食べきれないからさ。甘いものだらけは無理だ。あとで食べればいい」
「食べられないんだ!」

当たり前の台詞が、まるで自分への拒絶のように響くだなんてどうかしている。カッとなって吠えてしまい、ナワーブは自分の子供っぽさに恥ずかしくなった。頭の中はぐちゃぐちゃで、もはや収拾がつかない。

「食べられないんだよ……」

全く無関係の赤の他人にぶつけるには余りにも理不尽な感情だった。かと言って、クリーチャーは事情を話す相手ではない。唸るようにしてナワーブは押し黙った。

「それじゃあ、私が君の代わりに食べなかったら、このバウムクーヘンはゴミという訳だ」
「あ、」

ナワーブの皿を引き寄せると、クリーチャーはさっさと他の切れ端とともに袋に放り込んだ。あれほど美味しいと言っていた自分の分も袋に戻して、箱の中にしまう。そしてそれを持ってーー

「待ってよ!」
「君は最初からこうしたかったんだろう」

ゴミ箱に。彼らの幸せも、何もかもを踏みにじって今日なんて破り捨てたかった。立ち上がってクリーチャーの手元から箱を取り上げると、どこか冷たい目がこちらを向く。こんな目をする男だったのか、とナワーブは今更のようによく知らない男の根城に上がった自分のうかつさに気がついた。

「……そのバウムクーヘンは幸せ者だな。羨ましいよ」
「え?」

この茶番など何でもなかったかのように、クリーチャーが椅子に戻る。紅茶をすする音に呼び寄せられるようにしてナワーブも席に着くと、恐る恐る箱をテーブルの上に戻した。蓋を開けると、少しぐちゃぐちゃになったバウムクーヘンがお目見えする。袋からかけらを取り出して口に入れると、さりげない甘さが滲み出た。この蜂蜜の味が自分もとても好きだったーー彼女も、彼も。

「美味しい」
「だろう?」

目を細めるクリーチャーの顔を見て、ナワーブは彼が美味しいと言った瞬間を思い出した。あれは良い表情だった。

「ピアソンさんも、食べてよ」
「良いのかい」
「多いからね。一緒に食べてくれる人がいないからさ」

袋から再び取り出して、幸せのかけらを拾い集めて貪り食う。スカスカとした空気のような他人の幸せは、たまらなく悲しく甘かった。紅茶で流し込みながら、ナワーブは今更のようにクリーチャーに感謝と疑念の両方を抱いた。自分に優しく手を差し伸べる理由は?バウムクーヘンを羨ましく思う理由は?何もかもが不明のままだ。

踏み込む機会を伺えないまま時間は過ぎて、結局ナワーブは食べ切っても肝心の話はしなかった。




 本当に、恋なのだ。歌に登場する乙女でもあるまいしと皮肉な笑みを浮かべると、クリーチャーはやたらと綺麗な自分の部屋を眺めた。かつての滅茶苦茶で、便利なようでなかなかものが見つけられない部屋の面影はどこにもない。一度綺麗にすると、あとは維持をするだけなのだから簡単なものだ。知り合いのエミリー・ダイアーに頼んだならば、フィオナ・ジルマンやイソップ・カール(彼は心底嫌そうだった)も呼び集めて片付けてくれたのである。もちろんそれ相応の礼金は弾んだ。

 クリーチャーがナワーブに出会ったのは夜が始まった街角で、店じまいをするエマを手伝おうとしたところで無理やり引っ張られた時だった。最初には怒りを、羞恥を、そしてこの青年ならば自分は勝てないと思ってしまった絶望と悲しみが怒涛のように流れて一気に疲れてしまったのである。頭の中はぐちゃぐちゃで、後々焼き鳥屋で(クリーチャーは何とか鉄拳制裁を許してもらおうとナワーブを連れ込んだのだ)ナワーブがエマの恋人でも何でもないと聞いても尚スッキリとはしなかった。

こんな男だったらば、とつくづく思う。自分の人生にはかすりもしなかった生き方をする男に羨ましさを抱くのは浅ましいだろうか。彼になることはできないけれども、少しでも彼のような要素があればあの子にも振り向いてもらえるかもしれない、そう思って部屋を片付けた。最初からこうだったら、あの子はずっとここにいられたかもしれないのに、というエミリーの講評は聞き流しておく。預かった子供をろくに世話ができずに他所の、『真っ当な家庭』なるものに引き渡さねばならなかったことは苦い思い出だ。健気なあの子は今でも時折手紙をくれる。服はこれまで持っていたもの以外にもまともそうなものをウィラ・ナイエルに頼んで見繕ってもらった。仕事は相変わらずーーピンク街の客引きなんてことをしてはいる、のだけれども。

 そうしてナワーブを自分の中に取り込んだはずが、気づけば彼ばかりを見ていたらしい。エマに薄ら笑いを向けられて、クリーチャーは顔から火が出るかと思った。もとより中身がないような恋だったのだけれども、どこで折れ曲がってしまったのだろう。焼き鳥屋のカウンターで酔いつぶれたナワーブの頬についた食べかすをおしぼりで拭き取ってやった時、クリーチャーの胸に去来したのはこれが欲しいという強い願望だった。この気持ちがずっと欲しい。

恋だと自覚した時には、一瞬にして宇宙の遥か遠くへと希望は飛んで行ってしまった。クリーチャーは、聞いていたのである。酔いが深くなったナワーブはまま自分と親しい、本当にいつ家族になってもおかしくはない女性の話をするのだ。彼女といる時にどんなに幸せを感じているのか、これから何がしたいのか。余りにも近づきすぎて、かえって先へと進むことが恐ろしいとも。クリーチャーは結局、せいぜいがとこ飲み仲間で面倒臭い中年男の立ち位置だった。彼女になることはできない。この恋はきっと実らないだろう。

 だが、ここしばらく顔を合わせないうちに事態は急変を迎えていたらしい。今にも慟哭しそうな、はちきれた感情を持て余したナワーブの顔を見た瞬間、クリーチャーは残酷な喜びで胸がいっぱいになった。彼女は遠くへ行ってしまったのだーー全ては彼の妄想だったのだろう。礼服を着たナワーブもまた格好良く、一瞬だけ見とれてなんとか平静を装った。片手には、祝福されたプチブーケ。もう片方の手にある紙袋の中身はなんだろう。バウムクーヘンかな、とクリーチャーは苦い思いで眺めた。彼はこれから、どんな顔をしてこれを平らげるのだろう。

「一緒にお茶でもどうかと思って」

このセリフがどれほど勇気のいるものだったのか、ナワーブにはきっとわからないだろう。彼には日常的に耳にする言葉なのだ。いつかこの日が来て欲しいと、クリーチャーは部屋を綺麗なままで維持させた。茶葉はあるし、なんやかや炊事も板についている。彼女とクリーチャーは雲泥の差だろうが、それでも縋るならばこの機を逃すわけには行かなかった。さりげなく、まるで客引きをするような間合いで誘えば著しく精神的ショックを受けたナワーブはホイホイと乗ってきた。彼を慰められるだろうか、自分はただの飲み仲間よりも前に行けるだろうか。そんな気持ちはナワーブがバウムクーヘンを見た目つきで地に落ちた。食べられないと叫ぶ彼が悲しい。自分よりもはるかに存在感を保つ菓子が憎たらしくて、クリーチャーは本気で捨て去りたかった。ナワーブが止めなければもちろん完遂したことだろう。

  けれども、ナワーブは自分の過去を捨てなかった。彼女を自分の中に受け入れーー他愛もない話ができるようになったのだ。シラフの彼と話すには少々くすぐったく、クリーチャーは誰かとこうして向かい合う自分が今更ながら信じられない。確かに彼の言葉は正しかった。近づきすぎると、どう踏み込んで良いものかわからない。ましてや彼は元々あの星々よりも遠い存在で、落ちた星をどう扱えば良いかだなんて地を這うクリーチャーがわかるはずもなかった。何を話せば良い?どうしたら目を合わせられる?

精神を落ち着かせるため、パウンドケーキを作る。遠く離れたあの子に送るのだ。多分、向こうの里親は捨ててしまうに違いないと心のどこかでわかっているのだが、それでも贈ってやりたい。これは、ただのエゴだ。よくわかっているし、手紙のやり取りを僅かながらもできることは幸せだろう。それもいつ失われるかわからないのだから、束の間の嘘を楽しませてほしい。オレンジシトロンにポピーシードのパウンドケーキに、杏とアーモンドスライスが散りばめられたパウンドケーキ。思わず二つ作ったことに顔を手で覆うと、クリーチャーは職場に持って行けば喜ばれるかと気を取り直した。ピンク街の案内所で客引きをしているクリーチャーの元には、夜のお嬢さんにお兄さん、それに関する商売の人々が頻繁に出入りしている。エマにだって、夜の花を届ける宛先を教えたり紹介したりする際に知り合ったのだ。

ピンポン、とドアチャイムが鳴り、包む手を止めて玄関に向かう。カメラ付きのインターフォンだなんて洒落たものがないため、ドアスコープから直接外を覗けばまさかの人物が目に入った。ナワーブだ。一体どうして?嬉しさらか、緊張からか震える手で扉を開ければ、はにかんだ様子のナワーブがくん、と部屋の匂いを嗅いだ。

「良い匂いがしたから、気になったんだ。ね、この前のお返しをしてよ」
「……君が甘いもの好きとは知らなかったな」

そしてクリーチャーの作ったものを食べても良いと思うことも。どうしよう、頬が熱くなっていないだろうか。勘違いをするな、この恋は本物でも、届くことなんてありやしない。クリーチャーの手元には、バウムクーヘンの悲しみなんて得られやしないのだ。生来の育ちの良さからか、ナワーブがお邪魔しますと言って部屋に上がってくる。スタスタと歩き始めたナワーブは速やかにテーブルの上に並んだパウンドケーキに目を輝かせーーついでラッピングの準備に怪訝そうな顔を浮かべた。

「い、一本は人に贈るんだ。どちらか君の好きな方を食べよう」
「ふうん。誰に贈るのか聞いても良い?」

意外な質問が続くことに驚いて、クリーチャーは僅かに仮面を崩した。どこまで話そうか。否、どうせならば洗いざらい話して自分の恋を殺すべきだ。無駄に希望を抱いて努力しようとする、そんな時間を過ごさずに済むようになる。そうしてまたエマにつっかかろう。エミリーあたりに大いに叱られるだろうが、他に感情を発露すべき場所が思い当たらない。自分にはそれくらいしか残されていないのだ。

「昔、子供を預かっていたんだ。両親に死なれて、知り合いだった私が一度引き取ることになってね。ーー今は、その子の姉さんが引き取られた家に養子に入ったよ。壁にかかってる絵はその子のものだ。手紙のやりとりだけはできるから、この前送ってきてくれたのさ」
「あんたが子供の相手をしてる姿は想像できないな」
「私もだよ」

それでも、あの瞬間はとても幸せだった。ロビー。もっと正しく愛せたなら、彼に居場所を提供できたなら幸せを手元引き止めていたというのに。壊したのはクリーチャーがクリーチャーだったからだ。ナワーブならばしくじらなかっただろう。質問者は居心地が悪そうに椅子に座り、じっとパウンドケーキを眺めている。

「じゃあ、あんたは結婚もしていないし、子供もいないんだな」
「天涯孤独ってやつだよ。私がここで死んでも、気づくのは大家さんくらいだろう」
「俺だって」
「え」
「俺だって、それくらい気づくよ」

唇を尖らせてムキになるナワーブはおかしい。今日は調子が狂ってばかりだ。はいはい、と適当に返せた自分は偉かった。エマの父親に頼まれてクリーチャーを排除しようとするくらいだ、お人好しなのだろう。そんな彼だから、好きで、ああもう何度でも好きだと思ってしまう。愚かな男。

「で、どっちにするんだ?」
「杏の方が良い。今度さ、こっちのも俺に食べさせてね」
「君は結構図々しいんだな」
「美味しいって確信したからさ。それに、奥まで部屋を確かめてみろって言ったのはピアソンさんでしょ」
「それはそうだが」

お茶を用意するも、混乱は解けない。前回と同じマグカップを用意すると、奇妙なほどに収まりが良かった。あの子に使ってあげたかった食器をナワーブが使っている。こうして自分の部屋で目の前に誰かが、それもナワーブが二度も位置するなど奇跡に近い。パウンドケーキを切り分けると、まだ暖かいためか生き物のような湯気がわずかに手に触れた。

「この前は、情けないところを見せちゃってごめん」
「良いさ。私なんて君にしょっちゅう見られているだろう?」
「最近は見てないけどね」

その通りだった。エマに薄ら笑いで指摘されたあの日以来、彼女が怖くて駅前に近寄れもしない。逆にエマはクリーチャーの仕事中、当たり前のような顔をして商談にやってくる。現実に見る彼女はか弱くも何ともなく、寧ろぞっとするほど強かで恐ろしかった。

「良い加減諦めたのさ。君にも散々迷惑をかけたんだし」
「……まあ、焼き鳥屋に行くのは迷惑じゃなかったよ。あの店美味しいから、友達とも行ったんだ」
「それは良かった」

切り取ったパウンドケーキを慎重に皿に移してナワーブに渡すと、嬉しそうにフォークを手に取る。ああ、バウムクーヘンを前にした時よりもずっと明るいとクリーチャーは胸の内に灯がともるような心地になった。自分の分も取り分けて、さて彼が残した後をどうしようかと思案する。一人で食べる気分には矢張り、ならなかった。職場に持って行って一切れずつ配ってやるとしよう。

「美味しい」
「君にそう言ってもらえて安心したよ。これで職場にも持って行ける」
「え、ピアソンさんって食事関係の仕事してたの?食べに行くから教えてよ」
「まさか。君が思ってた通りに胡散臭い仕事だよ」

自分にとどめを刺すように、クリーチャーはずぶりとフォークをパウンドケーキに沈み込ませた。心臓よ、お前もこれで終わりだ。恋なんて無駄だ!ざまあみろ。

「D坂の真ん中くらいに、案内所があるの、知ってるか。私はあそこで迷える子羊を救ってるのさ」
「真ん中って……ああ。なんだ、てっきりパチ屋通いしてるのかと思ってた」
「あれは戻りが悪いからやらないなあ」

賭け事は、のべて運が左右するところも大きい。情報収集や分析能力もさることながら、肝心要の運がクリーチャーにはなかった。腕は悪くないよ、と麻雀屋の主には言われたものである。悪くないがあんたは欲に弱すぎる。今でもたまには競馬に行くし、パチンコ屋や麻雀屋にも出かけるが、財布にちょっと現金を入れてそれきりだ。本職にするにはあまりにも無理がある。ナワーブにはそれほど自分が定職と無縁そうに見えていたのかとクリーチャーは面白く思った。職業そのものにはなんとも思っていないらしいことに、ぎゅっと踏ん張った腹が緩む。パウンドケーキを口に含むと、程よくバターが溶けて杏の甘酸っぱさを強調していた。刻んだアーモンドの食感もちょうどいい。

「職場の人にあげるものなのに、食べちゃってごめんね」
「いや、別に……一人で食べられないから誰かにあげられるなら、それでいいんだ。君が全部食べられるなら持って行く手間も省ける」
「食べていいの!」
「もちろん」

急に目を輝かせた様子はまるで子供で、クリーチャーは思わずくっくと笑い声を漏らした。また好きになってしまう。やめて欲しいが、目眩がするほど魅力的なショーから目が離せない。それから先は何を話したのか、緊張しすぎてあやふやだ。また焼き鳥屋に行こう、お菓子を焼いたり食事を作ったら自分も食べたい、などと言われたような気がする。嘘なのか、夢なのか。ただ結局のところクリーチャーはこの恋心を殺せなかった。まだ宇宙への交信は続いている。




 これは恋かもしれない。移り気な自分をあざ笑うと、ナワーブは坂上を見上げた。もう夕方近くなってきた坂では、昼間以上にピンクに赤に闇色に染まった店たちが活気付いてきている。星の数ほど多い店の中からお気に入りを見つけ出すのは骨だろうし、あまりお安い遊びでもない。手っ取り早くするためには多少店からの色がついているとはいえ案内所が役に立つのかもしれないな、とナワーブは今更のように自分に縁遠かった世界を思いやった。

クリーチャーはあの中でどんな顔をして仕事をしているのだろう。女や男とどう戯れるのか。彼は他人の商売を手伝う仕事をしているのであって、自身は売り物ではない、そのことに心の底から安堵もしていた。いかがわしい、胡散臭い男だとはずっと思ってはいるのだけれどもーーあの部屋に入ってから、ナワーブの中に聖域めいたものが生まれつつある。

「あら、何かいいことがあったの?」
「マーサ」

ジムの同僚であるマーサ・べハムフィールに声をかけられたのは先週のことだった。後片付けを終えて、さあ最終確認をと思った時のことである。普段通りの動きをしているはずだったが、何故だか上機嫌に見えたらしい。肩を竦めていると、着替え終わった同僚のウィリアム・エリスもひょっこりと姿を現し会話に加わってきた。

「お、それ俺もいつか聞こうと思ってたんだ。待っててくれよ、当ててみせるからな」
「何もないって」
「だったら私が当ててあげる。気になる人ができた、そうでしょう?」
「マーサ!抜け駆けはずるいぞ」
「誰が言っても同じなら私が言っても同じよ。もったいぶったウィルの負け」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」

そんな人などいるはずもない。何せ自分は恋の形を作れなかった愛を失ったばかりで、いまだに時折引きずって思い出すーーいや、本当にそうなのか?振り返ってみれば、ここのところのナワーブはチラチラと別のことばかり考えていた。今日だってこの後は新しく川向うにできたピザ屋に行こうとクリーチャーと約束しており、あまり待たせずに済ませたい心持ちである。クリーチャーが夕飯を一緒に食べられるのは、決まって彼が非番の時だからだ。お互いに曜日に無関係の仕事をしていることもあって、実は夕飯を共にする機会は少ない。今日は何を話そうか、仕事の合間に考えたのは確かで、それは、だがそれは誰に対してでも持ちうる心持ちだろう。以前の失恋もどきについても一通り知っている二人だからこそ正直に話せば、同僚の答えは否だった。

「ナワーブ。ナワーブ、ナワーブ!お前、俺が何が好きかも知らない癖によく言ってくれるよ。まあ、そのなんだ……今までとタイプが違うと混乱するっていうのはわかる。けどな、一度自分のためにも気持ちを確かめておいた方がいいんじゃないか?」
「ちょっとウィル、あんまり面白がらないで。ただ、あなたがその人のおかげで前よりも楽しそうに見えるのは事実よ。大事にしなさいね……大事にしすぎない程度に」
「わかった」

恋だと決めつけずに、またからかいもせずに大事にするようにと祝福してくれた二人にナワーブは心の底から感謝した。同時にまさかともしかしてが重なった時に、またバウムクーヘンを手にしないようにしようと心に決める。あれは美味しい菓子だった、そしてクリーチャーならばきっともっと美味しいものを選ぶか作るかしてくれるだろう。何度も彼の手料理を味わってきたナワーブが誰よりも知っている。だが次に食べる時、自分は一人なのだ。

 想像するだけでどんよりとしてしまう気持ちをはっきりさせるため、決心してすぐさまクリーチャーを観察しだした。これまでも興味は多々溢れ出ていたのでそのままに話してきたし、自分のことも大っぴらにしたものだがいくら知ってもまだ先があるような気がする。今日はその最後の確認だ。ここまで自分に付き合ってくれるクリーチャーの目の中に、ナワーブは何度も星が瞬くのを見た。あの目は恋を歌っていないか?少なくとも、自分が抱くような親愛の情はあるだろう。そして自分の目の中には何があるだろう。

試すような真似をするのは、本来ならば悪手だとはよくよくわかっている。だが、彼のような人間を好きになるのは初めてだったし、そもそも他人に近しい思いを抱くことは、結婚してしまった彼女に紛れてしまってもう随分と久しいことなのだ。許してほしいと言うにはおこがましいが、ナワーブは意を決して坂を登った。

「いらっしゃいませ。なんだ、サベダー君か。ここに用事があるとは思ってもいなかったな」
「うん。ちょっと紹介して欲しくてさ」
「そうか」

キュ、とクリーチャーの唇が一瞬引き結ばれて戻る。ヘラヘラとした笑顔が貼り付けばいつも通りだ。そのどちらもが虚勢だとわかるほどに、ナワーブはクリーチャーに親しんでいる。なぜ。あのバウムクーヘンの日から漂うあやふやな疑問が今、ようやく形になろうとしていた。大切にしすぎないで。

「どんな相手が好みだ?可愛いのか綺麗なのか、それとも素朴な子か。性格とか、もっと突っ込んだ話でも良いからなんでも言ってくれ。きっと君が満足できる子を紹介するよ」
「年上がいいな」
「うん」

クリーチャーがメモを取り出す。その指先が僅かに震えるのをじっと眺めるうちに熱が込み上げて、ナワーブは自分の中に子供を虐めるような残酷さを感じて顔をしかめた。この人を大事にしたい。だがもし、自分が間違っていたならば?全てご破算だ。

「痩せ気味で、おしゃべりは上手で」

この寄せ集めの情報で、彼はどんな人間を思い浮かべるのだろう。おそらくはきっと、自分自身など想像もつかないに違いない。もはや憶測と希望的観測は確信に変わっており、心臓は飛び出しそうな程に高鳴っていた。彼もまた、大事にしたいと思っている。余りにも当たり前のこの距離を崩せずにいたのは、ナワーブがバウムクーヘンを食べた理由を知っていることや、かつてクリーチャーがエマに言い寄っていたことも関係するだろう。だが、大事にしすぎれば何もなくなってしまうのだ。もうあの気持ちは二度と味わいたくはない。

「料理が得意でさ。部屋も綺麗にしてるんだ。それで、子供好きできっと俺のことも好きなんだと思う」
「……なんだ、相手がわかってるのか。誰なんだ?なんとかして融通を利かせるから、私に任せてくれ」
「絶対に?」
「もちろんだとも」

クリーチャーの目から星の光が消える。全部自分のせいだとは言え、ナワーブは泣きたくなった。たった一度だけ、この乱暴な振る舞いを許してほしい。

「その人はね、クリーチャー・ピアソンって言うんだ。俺に紹介してくれるんだよね?早くしてよ」
「は、え、いや、ちょっと待て君は」
「それとも俺を紹介したら良いかな」
「サベダー君!」

からかうのはやめてほしいと、仮面をかなぐり捨てたクリーチャーが叫ぶ。まだ客の来ない時間帯で本当に良かった。可愛い人、彼とならばずっと一緒にバウムクーヘンを食べていられる。逃げ出そうとする腕を掴んで、強引に顔を近づければグイグイと押し返そうとするも無駄な足掻きだ。ジムトレーナーを舐めないでいただきたい。

「俺の部屋に来てよ、ピアソンさん。知ってる?俺の部屋に入るの、あんたが最初になるんだよ」
「……いきなり際どい誘いはどうかと思うぞ」
「大事にしすぎたら逃げられる気がしたんだ。好きだよ、今はっきりわかった。俺はあんたを愛してるし、これからも愛したいしあんたに愛されたい」
「おじさんは人気がないからな」

ふにゃりと頬を緩めると、クリーチャーは初めて照れ臭そうな笑みを浮かべた。この人にもこんな柔らかな笑顔が残されていたかと思うと感動すら沸き起こる。星が再び瞬いて、ナワーブはそこに自分の満足そうな表情が映っているのを見た。

「良いさ。君には絶対調達すると約束したんだ」
「つまり?」
「……好きだよ。ずっと、君のことを好きだった」

だから嬉しいと、自分が選んだ人は言う。嫌いになれなくて、などと頓珍漢なことを言い出すクリーチャーに、ナワーブは心の底から自分の行動を褒め称えた。明日はあのバウムクーヘンを買おう。二人のためだけに食べるのだ。それはきっと、これまで食べてきたどんなバウムクーヘンより美味しくて、馬鹿らしいだろう。これが恋だ。

やっと掴めた想いを、ナワーブはただぎゅっと抱きしめた。


〆.


あとがき>>
 バウムクーヘンネタが好きです。以前にも別ジャンルで書きましたが、正確にはバウムクーヘンをした人のその後が好きらしく、今回もバウムクーヘンになった傭兵の新しい出会いのお話になりました。外に出ていかねばならないこともあっての現代パロディでもあります。泥棒には胡散臭くもちょっと家庭を失った人独特の香りがしたら良いなあという色々好みを詰め込んで何重にもぐるぐるした大きなバウムクーヘン。美味しく楽しんでいただけたならば幸いです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!