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肩が濡れる


 その傘を手に入れたのは、確か月に一度だけ立つ市場であったように思う。謝必安と范無咎はいつものように掘り出し物はないか、目新しい物はないかと心を浮き立たせて歩いていた。何もなくても二人でいることは嬉しいものだし、この市場でしか食べられない揚げ菓子はたまらなく美味しい。できたての熱さにかぶりついた范無咎が、上顎の皮がめくれてしまったとヒイヒイ小さな涙を零したものだから、謝必安は慌てて冷えた茘枝(ライチ)を探して買い与えた。

「あなたはどうしていつも考えなしなんです。この前だって小籠包を一口で食べたから舌が火傷したでしょう。少しは学習してください」
「出来立てが一番美味いんだ、最高の時に食べなきゃ失礼なんだよ。……茘枝、買ってきてくれてありがとな」
「どういたしまして」

口を開けて見せるように言えば、ぱかりと大きく范無咎の口が開く。彼はこんなところも元気が良くて、謝必安よりも余程大きく開くのだ。飲み込まれてしまいそうだ、とその深い穴を見やると、やはり一皮むけて痛々しい様相である。当面熱いものは控えるようにときつく言い置いたが、きっとすぐに范無咎は忘れてしまうに違いない。

約束という形にすれば守るだろうが、そうでなければ判断は范無咎に委ねられている。謝必安の目から見た范無咎の本質は好奇心と行動力、これに尽きる。思うがままに真っ直ぐに動くものだから見ていて気持が良い。そんな彼が永劫懸念している対象は謝必安だけであれば尚更だった。

「いつか、あなたがどうにかなってしまいそうで心配ですよ」
「例えばどんな風に?」
「馬に撥ねられないか、荷車の下敷きにならないか、落ちたものを食べないか、」
「おいおいおいおい」
「――私を庇って死んだりしやしないかと」

茘枝の皮をむいていた范無咎の手が止まり、ハッとしたように謝必安の顔を見つめてくる。ありえそうな話だと、ようやく彼も思い至ったのだ。

「考えすぎだ、謝必安。大体、お前が気をつけてればそんな目にはあわないよ。考え事は得意だから、どうせなら自分の身の安全に気をつけてくれ」
「善処しますよ」

確かに、謝必安は考え事に夢中になって歩いている最中につまずいたり、溝に落ちてしまったり、心配しすぎて寝込んでしまったりと范無咎にからかわれる材料がわんさか存在する。だが、考えることは手放せないのだ。范無咎があまりにも考えないものだから、その分も自分が考えてやらねばならないように思うのである。

茘枝を食べきると、二人は再び並んで歩き始めた。市場はますます賑わい、中央の場所では競りが始まっている。どうやら二つ向こうの街から来た豪商が結婚式の引き出物を買いあさっているとかで、縁起物が飛ぶように売れているのだ。赤と金の験担ぎに相応しい品々が人々の手に渡ってゆく。そんな中、謝必安の目を引いたのはなんの色もない、縁起物とは正反対の真っ黒な長傘だった。

「ん?傘が気になるのか、謝必安。確かまだ持ってただろう。それに、大きすぎやしないか」
「今のものでは不十分です」

店の商人に声をかけると、快く手渡してくれる。ばさりと開けば、予想に違わず大きく、一人には有り余る広さが覆われた。ちょうど、范無咎と肩を並べてほんの少し肩が濡れるかもしれない、そんな程度の傘である。まさに望んだ理想的な大きさで、謝必安は至極満足して買う旨を告げた。范無咎が威勢良く値切りに入り、おおよそ当初の言い値から三割引にさせることができたから上首尾だろう。

「あなたはよく忘れますからね。これ一本あれば丁度いい」
「別に濡れたって良いんだけどな」
「この前風邪を引いて寝込んだじゃないですか。私はね、范無咎。あなたが苦しむ姿を見たくはないんですよ」
「謝必安。お前は俺の媽媽(ママ)か?よちよち歩きの子供と一緒にしないでくれよな」
「あなただから心配しているんですよ、范無咎」

さらりと強調すれば、ムウと范無咎がおし黙る。育ちの良さからか、好意を寄せられればそれを無下にすることができないのだ。手に入れた傘を持てば、長さは自分の体にぴったりで、まるであつらえたようだった。この傘を范無咎に差し出して、横に並べば心配事も減るだろう。そんな頼もしさがある。良い傘だ。今日は良い買い物をできて良かった、と謝必安は心の底から安堵した。

「お!川劇をやる連中が来てるらしいぞ。変面ってどういう仕組みなんだろうな?今日こそ突き止めてやる」
「あんまり前のめりにならないでくださいね」

ジャーン、と鳴り響いた銅鑼の音につられるようにして広場へと向かう。范無咎の好奇心が眩しい。楽しいものを一緒に楽しみたいという好意が暖かい。范無咎の大切さを一層感じて、謝必安は固く傘の柄を握った。

 だが、その傘は生前使われもしなかったのである。本当ならば二人を救い出すはずだった、笑いながら肩を濡らして並んで歩くはずだったというのに、肝心要の傘を謝必安は家に忘れてきてしまったのだ。もっともその日は出かけた際にはカンカン照りで、雨の気配は少しもなかったのだから仕方がないと言える。第一、家から出て間もない。すぐにとって帰れば良いのだからと、范無咎を濡らしたくない一心で橋の下で待つようにと約束した。そうでなければ彼が自分を追ってくるとも限らない。

「范無咎!范無咎、范無咎!天啊!」

轟々と音を立ててなだれ込んできた水流に、范無咎が飲み込まれてゆく。約束通りにここにいるのだと安心させたいのか、范無咎の手がひらひらと波間に見え、そして消えた。

 手にした傘など、何の意味もなかった。彼のためのものだったのに、彼のために万全を期して考え抜いた末に、その約束は范無咎を殺したのだ、と謝必安は膝から力が抜けて崩折れた。橋は見る影も無い。

ただの事故だと、約束を守ろうとし続けた自分の判断が間違っていたのだと、そう笑ってくれる范無咎はどこにもいない。彼の肩はすっかり濡れてしまい、並んで立つなど最早願うべくもない。

「あなたのためだったのに」

それが自分のためでもあった、はずだというのに。彼に傘をさしてやりたかった。いっそ自分の肩だけが濡れるように身を寄せてやりたかった。濡れた三つ編みをほどきあって、また結いあいたかった。范無咎は意外にも手先が器用で、謝必安よりも無骨で力強い指先がキュッキュと結い上げてくれる。そんな時間が永劫失われたことが現実だとわかっていても頭が拒否してしまう。彼はどこかにいるはずだ。早くこの傘を届けなければ。それが自分のできることなのだから。

「風邪を引いたら困りますからね」

苦しむ姿を見たくはない。見るのは笑顔であってほしい。考えすぎだと背中を叩いてほしい。謝必安の肩が濡れている。雨は容赦無く謝必安の体を打ち、顔面に滝のように流れる雨粒は塩気を含んでさえいた。傘は、ささない。これは彼のためのもの、彼と並んで歩くためのものだからだ。

 かくて謝必安は立ち上がる。どこかにいる范無咎を探しに。得意の考え事で導き出した答えにどうしたら近づけるのかを知りに。それは、始めたばかりの頃には決して信じたくない結末だったのだけれども。




「あなたの言った通りだ。この傘は、私には大きすぎる」

荘園に、見えない雨が降り注ぐ。今日も白無常となった謝必安は傘をさすが、隣には誰もいない。傘はどろりとした粘液をまとって濡れそぼり、さながらあの日の涙のようだった。

「あなたのためになっているならば良いのに」

范無咎に伝える術を白無常は持たない。畳んだ傘を優しく撫でると、心なし傘が震えたような心地がした。肩はいつでも濡れている。

この身の罪が洗い流されるまで、きっと肩は濡れている。


〆.