この世でただひとつでありたい
スペア
世の中には替えが効くものがある。歯磨き粉は別にこの企業のものでなくとも、よく似た包装の他の企業のものであっても別に困りはしない。パンの代わりにはもっと安いブリオッシュを食べれば良い。ビールの代わりには、というのは少々悔しいがよく似たものはどこにだってある。そして人間も。正確には人間の中には、その人ではなくとも替えが効く場合がある。クリーチャー・ピアソンが幼少期に知ったのは、自分はその『替えが効く』人間だということだった。誰かでも良い、そんなお粗末な事実だ。
物心ついたばかりの頃、すでに両親はおらず身寄りもなし、幸いにして死ぬ前に教会で養育される『かわいそうな子供』の一人になれたクリーチャーは神様のなんたるかを知らずにいた。朝から晩まで働いて、合間にありがたい聖書の話を聞かねばならない。文字を覚えることはたやすく、また自分の将来にも役に立ちそうだと思ったのでどんどんと体に染み込ませていったのだけれども、数百年生きる人間であるとか、増える魚やパンといったありもしない奇跡は眉唾だと既に懐疑的に捉えていた。
なぜ、こんなにも世の中は辛いというのに神様は奇跡を起こさないのか?賢い神父様はこう解釈する、『今の人間たちは罪深く、その罪を意識させるためにも救世主が辛い目にあったあの日々をひしと感じなければならない』。既に教会に収められるワインやパンとのやりとりで計算高くなっていたクリーチャーは幼心に、神様は商売が下手だと考えた。言うことを聞かせたければ直接的には暴力で、長期的にも時折甘い飴をくれてやりながらやることが効果的だ。実際神父様は素知らぬ体でそれをやってのけているではないか。クリーチャーがワインをちょろまかした時、怠けた時、募金箱からコインをかすめ取ろうとした時に容赦ない贖罪のための暴力が振るわれた。当然の報いである。クリーチャーは飼い慣らされる羊なのだった。今はまだ。
「良さそうな子じゃないか」
「健康状態も良いですし、頭の回転も早いですよ」
「良いだろう」
さて、季節は巡ってくるもので、クリーチャーはなんとかやりくりしていた誰かのお古の服がどうにも直ぐにつんつるてんになる頃にさしかかっていた。贖罪を果たした神父様は豪勢な食事をとっていたが、クリーチャーは救世主になりきるために最低限のものしか口にしていない。そのためひょろひょろともやしのような体型になったものの、天はこればかりは平等にクリーチャーに嘉した。そして、もう一つの道のりもあるのだと唐突に教会からの出口を指差したのである。
「やあ、君がクリーチャーだね。今日から我々が君の親だ」
「よろしくね、クリーチャー」
しっかりやるんだぞ、という神父様の声を背にして連れ出された先は中産階級の中でも少し上、といった夫婦の家だった。彼らに子供はおらず、慈善活動もかねてちょうど良い子供を探していたのだという。教会で食べた料理よりもよほど上等なものを口にし、クリーチャーは初めて別世界に開眼した。世の中は不公平なのである。同じ人間であっても、どこに生まれたかという偶然によってこれほどの差が生まれるのだ。
柔和な養父母は生まれも育ちも中産階級であり、なるべくしてなった現状らしい。そして自分の子供が長年できなかった(実はいたのだが放蕩息子はどこかにいなくなってしまったとあとでクリーチャーは近所の噂で聞いた)ので、理想的な子供を作るべく養子としてクリーチャーを選んだのだった。だが理想を知らぬものに理想を叶えることは難しく、クリーチャーは日増しに養父母を落胆させるより他になかった。衣食住は満ち足りていても、神父様の下にいた方がまだましだとクリーチャーが思い始めたのは無理もない。話し方、食事の作法、歩き方、字の書き方、どれをとっても不合格で、養父母はほんの些細な歪さも許さなかった。不合格だと告げる時の目を、クリーチャーは今でも夢に見る。あれはーーあれは蛆虫、下等な生物を見る目だ。
罰点をつけられることにびくびくとしたクリーチャーは一層卑屈になり、胡乱な動きになった上、最悪なことに吃音まで出始めた。生まれつきあったのだが、教会で生活しているうちに少しずつおさまっていたのである。クリーチャーの中にあるまとわりついた汚点、罰点という土をかきわけ何も隠すものがなくなったために根っこが露出したというわけだった。それは養父母にとって、理想の子供を作り出すには決定的な瑕疵であり、思春期の少年をいとも簡単に教会へと突き返したのである。
「もっと良い子に替えていただきたい」
自分の代わりに誰をつれていったのかをクリーチャーは知らない。ただ、養父が放ったそのセリフだけは耳にこびりついて離れなかった。自分は、替えが効く存在だったのである。かくて少年はごみのようにごみ箱に戻った。灰は灰に、塵は塵に。そのまま教会で寺男にでもなるならば、それはそれで比較的穏やかな生活を営めただろう。しかしクリーチャーの不運というものはまだお釣りがくるほど残っていたのである。
「……だから、ピアソンさんじゃなくて俺が行った方が良いと思う」
記憶の中から現実に戻り、クリーチャーは自分が今どこにいるのかを確認した。ここは荘園で、自分はもうあの頃のがりがりで痩せっぽっちの子供ではない。恐ろしいゲームに参加している真っ最中であり、今は仲間内でどの組み合わせでゲームに出るべきかと真剣に論じ合っているところだった。どうしてそれが深い淀みの底から記憶を引っ張り出すことになったのか、と首を振るとクリーチャーはさかんにクリーチャーとの交代を主張するナワーブ・サベダーに気づいてああ、と帽子をかぶり直した。どうやら自分と彼とを交換した方が良いという台詞が引き金となったらしい。
今回新しく来たトレイシー・レズニックと誰が一緒に行くのかというのは中々の難問だった。彼女の抱える目新しい技術(操作すれば何処にでも行ける機械人形など夢のような話だ)に解読に特化した能力はさしものフレディー・ライリー先生でさえも口をつぐむより他にない。トレイシーを補佐するために、古株である自分が行こうかと話した矢先のナワーブからの提案だった。
「トレイシーは人の痛みに弱いんだ。だったら、怪我を引きずるのが少しでも遅れる俺の方が良い」
「一理あるわね」
ならば回復を早くした方が良いと医師であるエミリー・ダイアーが名乗りを上げる。ゲームが開催された当初は自分は高みの見物を決め込む方が良いのよ、などとすましていたというのに今では立派な古強者の面持ちであった。間をとってエマ・ウッズが出ることが決まり、結局クリーチャーは調子を崩したまま何一つ声を発することなく会議は終わった。
左目がチクチクと痛む。慈善活動すらもただ自らを飾るための道具にした中産階級の養父母の姿が脳裏にちらつく。お前たちが、お前たちに、一体慈善の何がわかるというのか?慈善とは自分のように痛みを知っても尚その痛みに手を出すような人間に与えられるべき言葉だ。教会に出戻ったクリーチャーを待ち受けていたのは、かつて世話になった神父と交代した新しい神父であり、教会の方針が変わったので別の施設に行くようにという門前払いだった。もちろん紹介状はつけると手渡された先に行った時の驚きは今でもありありと覚えている。
左目が痛い。痛みがどんどんと増しているような気がする。自室に戻って乱暴に扉を開けると、クリーチャーは洗面台の前に立って自分の顔を見た。何を怯えているんだ、クリーチャー。今では怖いなんてものはもうないだろう?左目に指を押し当て、義眼を取り出す。蜂蜜色の目玉がぐるりとこちらを向いた。本当の瞳とは違う、金貨と同じ色を選んだのはちょっとした自虐であり戒めである。水で丹念に洗い、ぽっかりと空いた眼窩も手入れをする。他の荘園の人々が見たならば、その丁寧な所作に驚いたことだろう。
瞳を抉り出したのは、新たな住処となった孤児院の慈善家だった。偶発的な事故により眼球を傷つけてしまった子供の目を取り出すのは純粋な治療だーーと当時は解釈することにしていたが事実は異なることを今のクリーチャーはよくよく理解している。クリーチャーが眼球を傷つけたのは確かだが、さして大げさなことをせずともある程度までは回復可能なものだった。目玉を取り出したのはなんということもない、その方がずっと可哀想に見えるからという親切心による。可哀想なものは可愛い。可愛いものは可愛がられる権利がある。ただの浮浪者は疎まれるが、片端の浮浪者は憐れまれる。善き心とは仕方がないと納得される形に対してのみ発揮されるものであり、善きサマリア人として生じた人間などいないとクリーチャーは理解していた。それに目玉は二つある。一つだけにしたのはまだ良心的ではないか。
以来、クリーチャーは愛など信じなかった。孤児院でなされる話も、聖書の話と同じで現実にはなんの意味もなさない。世知に長けていく中で、クリーチャーは赤の他人を素直に信じ込んだ自分の愚かさを呪い、世の人々よりもはるか上手を行くことを固く誓った。同時に、自分であればもっと公平に子供達に手を差し伸べてやれるという淡い夢のようなものを抱いたのである。それは救われなかった自分を救う、世間を見返す一世一代のチャンスでもあった。
「ピアソンさん、ちょっと良い?」
コンコン、というノックの音に合わせてクリーチャーは速やかに義眼を眼窩に収めた。いささか滑らかさにかけるような気もするが、多分にただの幻肢痛の類だろう。本来ないはずの眼球が痛む感覚が続いている。振り向くと、開けっ放しだった扉にナワーブが寄りかかっていた。彼がいる場所にだけ色があるような気がして、クリーチャーはぎゅっと瞼を閉じては開くという運動を繰り返す。全て幻だ、自分は随分と疲れているに違いない。
「調子悪そうだね」
「まさか。ドブネズミは病気にかからないって、弁護士先生なら言うぞ」
「あんたは人間だよ」
「っ」
ずいっと加速して近づこうとするナワーブを避け損ね、クリーチャーは無様にも足をもつれさせて床に尻餅をついてしまった。こんな様子ではチェイスもおぼつかないと思われても仕方がない。クリーチャーがこなしている役どころは他に替えがあるのだ。ナワーブの豆だらけで硬い手のひらがクリーチャーの額を覆う。じっとしばらくそうして、ナワーブは長々とため息をついた。
「やっぱりね。ピアソンさん、熱出てるよ。それも結構高めだ。だるいとか、自覚なかった?」
「君には関係ないだろう」
「そりゃあんたのことが好きだからね。知ってるでしょ」
知っている。概ね毎日伝えられているし、十回に一度くらいはクリーチャーも自分の気持ちを伝えている。ここでナワーブを突っぱねるほどにクリーチャーも人でなしではなかった。確かに愛は信じていない。今でも本当にこれが愛なのか、何が愛なのかわからないままに居心地の良さだけを確保したいと願って手を伸ばしている。中産階級でも、学究の徒でもなく、若さと体の強靭さだけを売り物に、精神的にずたぼろになりながらも最前線に立つナワーブなら信じても良いという気がしたのだ。
もし、本当に善きサマリア人がクリーチャーのためにもいるならば、それはナワーブの姿をしているだろう。腕を引っ張られて立ち上がると、ぐらぐらとした。なるほど、自分は体調が良くなかったのだと今更のように実感される。極貧の浮浪児として生活していた中で、多少の具合の悪さは常に同居人だった。自分があのまま養父母に気に入られて学問をおさめでもしたら今頃はこんな咳もせずに綺麗なガラスの窓をきっちりと閉めて部屋の中にいられたかもしれない。かもしれない、というのは魔物だ。自分の不運が一層不幸に見えてしまう。現実は何一つ変わらず、ただ感じようだけが変わるというのは不思議な話だった。
「ほらほら、病人は横になって。ゆっくり寝なよ」
「……いつから気づいてたんだ?」
クリーチャーが諦めて大人しくベッドに寝かされると、ナワーブに帽子が取られ、上着が脱がされる。靴を脱がす手つきはどんな従僕よりも恭しく丁寧だ。エミリーに薬をもらってくる、というナワーブを引き止めると、一昨日あたりから疑っていたなどとのたまう。その一昨日には激しい行為があったはずだが、普段と違う様子でもしていたのかクリーチャーにはさっぱりわからなかった。左目の痛みが緩み、頭痛へと変わっていく。もともとこちらの方が痛かったのだ。
「俺が無理させちゃったから悪化したかもね。ちょっとそこのところは反省してる。だから今度は治るまでゆっくり休んでてよ。俺がその分走ってくるから」
「なるほどな」
ナワーブが客観的に彼の方がクリーチャーよりも適任であると申し出たのはその実、より情けない事実を覆い隠してくれていたわけだった。ナワーブはクリーチャーの上位互換ではない。クリーチャーを尊重した上での交代だと思えばいくらか頭痛が和らぐ。掴んでいた手を緩めると、ナワーブはほっとしたような笑顔を浮かべて待っててね、と部屋を出て行った。どっと疲れが襲いかかり、クリーチャーは頭の中がめちゃくちゃになるに任せた。こんな気持ちはベッドの上で激しい行為をしている最中以来だ。暗号機の音が身体中で鳴っている。鐘の音が響き、足元は血だまりでいっぱいだ。土の匂い。
ちょろちょろと聞こえる水音の向こうには、川面に流れ着いたお仲間の土左衛門が浮かんでいる。下水道の中は匂いがひどいが雨露をしのぐにはちょうどいい。だが、朝の水門が解放される時間を忘れてしまうと鉄砲水に押し流されて溺死することがあるのだ。この辺りでようやくクリーチャーは自分が幼い頃に記憶を引き戻されていることを理解した。往時死は野の花よりも多く転がり、救いはなく、諦めとこの道で生き延びるという覚悟だけがクリーチャーを活かしていた。いつか自分を救うために、クリーチャーはあるべき天国を作るのだ。愛だなんて不確かなおもちゃを振りかざす連中に頼らずとも、寄る辺なきもの達が寄り集まって一つの大きな樹になればいい。そのためにはかわいそうな振りだってしてもいい。手段を選んではいられなかった。がむしゃらに拳を振りかざし、救えたと思った端から世間はせっかく作った天国を取り上げた。
だからクリーチャーは荘園に来た。さまよえるオランダ人は最後の審判の日まで航海を続けるのだという。ならばクリーチャーもまた、死ぬまでこの旅路をたどるだろう。なぜなら、救われたかったのだ。そして誰も救ってはくれなかった。他にもっと良い選択肢があるせいでクリーチャーには選ぶ権利がない。エマ。彼女を幸せにしおおせれば自分が完結できると思っていたのに、ナワーブは完全に流星群のように突然頭にぶつかってきた事故だった。買いもしなかった富くじが当たったという表現にふさわしい出来事である。愛なんて、というクリーチャーにナワーブはただ差し出した。裏側を確認しようと何度も試みたが結局見ることは叶わずなしくずしになっている。愛なんて、一体それがなんなんだ。
ナワーブと出会ったことで、もしかしたら自分にも理解できるかもしれないという仄かな希望を自覚した時、クリーチャーはひどく自分に絶望したものである。他人を信用してろくな目にあったことはないだろう、と。あったかもしれない家庭、左目、自分で手ずから作った楽園、その全てを他人に寄りかかった瞬間取り上げられたのではなかったか。呻吟に呻吟を重ねて、クリーチャーは未だに答えを出せずにいる。出してしまったらば、何が起こるかわからない明日が怖くなるような気がしていた。うっすらと目を開け、窓の方を見る。傾きかけているあの太陽が再び上ってくれば明日がやってくるのだ。一人なら、明日なんて怖くなかった。けれども、この不安な二人はたまらなく心地が良い。
「起きたらこの薬、飲んでね」
静かな声が光のように脳裏に差し込む。飾らない言葉が嬉しいと伝えたらば、それは愛を理解したということになるだろうか。彼に応えるものを持つ、唯一の存在が自分であると思えるだろうか。クリーチャーはいつだって言い淀む。まどろみの中でもそれは変わらない。はっきりしたものを出せば、晒されるのは自分の内臓だけのような恐怖がある。額に祝福のような口づけを受けて、クリーチャーは静かに目を閉じた。
ナワーブ・サベダーは慈善家ではない。優しさを無駄に振る舞うような八方美人でも偽善家でもない。ただ、好きなものは好きだと伝えた方が何かと生きやすいことを知っているだけだ。逆に、嫌いなものはそれとなくやり過ごし、ここぞというところで遠ざける戦法で生き抜いている。自分をしっかり守ってさえいれば、あとはどうでも良い。よって、クリーチャー・ピアソンはナワーブの好意の庇護下にあった。一応、恋人という立ち位置である。
「だいたいそんなところだろうとは察してましたけど、格好つけ過ぎですね。あと、詳細部分に興味はないので今度から省いてください」
「ほんのちょっとのことが大事で毎日が記念日なんだよ。それもわかってるだろ?ともかく、俺のいない間はピアソンさんの体調を気遣ってくれよ」
クリーチャーと交代したことについて説明するやいなや開口一等ぶう垂れたイライ・クラークに、両手で身振り手振りをしながら畳み掛け、ナワーブはふうとため息をついた。クリーチャーが寝込んでしまった後、ナワーブは急遽気心の知れた面々を見繕って集めた。エミリーには既に伝達済みだが、彼女は実に必要最低限でしか診てくれない上にナワーブと一緒にゲームに参加することが決まっている。頼りになるのはあぶれている人間なのだった。
「死んだら面倒ですものね」
「しれっと言ってるけど、イソップ君が一番怖い気がするわ」
「……死んでないように見せかけるのは本職ですから」
マーサ・ベハムフィールが額を指でつつきながらイソップ・カールに突っ込むが、当人はどこ吹く風だ。一見儚げな美青年風であるというのに、納棺師を生業としている男はどこか生命感に欠けている。が、いざゲームとなれば何よりも頼もしいし、下手をすればどこまでも粘り抜いて救助に走るのだから人は見た目に寄らない。もしかしたら、いつか彼にクリーチャーの人形を作ってもらうかもしれないとナワーブは心密かに考えていた。生きる者には必ず別れがやってくる。時は無情なもので、生死の境目をさまようことも多々あったナワーブは痛いほどわかっていた。イソップの手腕はもはや魔法の域で、別れの後の時間を過ごす、かすかな慰めにはなるだろう。
実は、クリーチャーが体の調子を崩して寝込むことはこれが初めてだった。もとより小康状態で生きている節があり、せいぜい疲労が溜まって長い時間に渡ってひたすら寝ている姿くらいしか見たことがなかったのである。ゴキブリは生き汚いからな、とフレディは悪意のある調子で話していたものの、過酷な状況をくぐり抜けてきたクリーチャーならばありうることだ。断片的に耳に入れたクリーチャーの過去はーー別の過酷な世界に生きたナワーブにとっても聞くに耐えない。悲しみと同時に世の不条理に怒りが湧いてしまう。過去を救い出すだなんておこがましいし、何もしてやれるわけでもないのだから尚更だ。
クリーチャーは断片的に見せたもの以外はけして開陳しようとしない。誰にも受け入れられない、誰にも受け入れて欲しくない、誰も入れることのない聖域を彼は抱えている。その仄暗い場所に光を無理やり当てることはただの拷問だ。ナワーブにだって自分だけの逃げ場所のような地獄があるので、この願いの傲慢さは承知している。それでも、せめて寄り添いたいとは思うのだ。あの熱ぼったいクリーチャーの目が閉じて、ナワーブの手を優しく受け入れた時、ナワーブは母の手に触れた時のことを思い出していた。多分、自分が具合の悪かった時に母は同じことを思ったろう。そして自分のクリーチャーに対する気持ちは別種の重みがある。
「承知しましたから、頑張ってゲームに励んでください。負けたらその分だけ君の分のおやつを僕がいただきます」
「イライ君?」
自分の都合のいいことをさらりと言うイライに、地を這うようなマーサの声が追いかける。やはりマーサは軍人であっただけはある、そんな恐ろしい罰など不公平だと認めてくれたのだろう。なにせ荘園のおやつは絶品なのだ。荘園の主人が送ってくれる菓子に、何よりもクリーチャーが作ってくれた暖かなものは肉厚のローストビーフよりも魅力的である。だが、ナワーブの目に灯された輝きを他所に、マーサはちっちと指を振って見せた。察したイライが慌てて頷いて訂正する。
「いえ、僕たちでいただきます」
「悪化してるじゃないか」
「それだけピアソンさんは価値がある。そういうことでしょう」
僕にもわかりますよ、と言うイソップの顔は、棺桶を選ぶ家族にどの棺桶がいくらでどんな種類があってーーと説明する職人のそれだった。ものの価値がわかっているのは素晴らしい。実際、ナワーブは方々に吹聴して回っているのだから、ばれていることはわかりきっていた。
「わかった。後は頼む」
かくて、後ろ髪を引かれながらもナワーブはクリーチャーを置いていったのである。何の悪意もなく、ただ善意によって。
トレイシーをつれた最初のゲームは辛勝といったところで、それでも互いの能力を手探りで把握しながらの中でのことなのだから十分満足のいく結果と言えよう。対戦したハンターのジョーカーが、去り際『新しいお嬢ちゃんもなかなかやるな』と好感触を伝えたほどである。もっとも、トレイシーはそのジョーカーにつられてしまったのでひどく怯えてはいたが。そう、怯えだ。この少女は子供のように恐れている。このゲームの残虐性はわかりきっていたはずだが、ひょっとすると荘園の主人は彼女にまたとない甘い言葉を投げかけたのかもしれない。
「いいか、トレイシー。板を倒す時には焦るかもしれないが、いきなりはだめだ。まず自分の安全を確保する。殴られるのと板当てが同時だと、せっかく倒した意味もないからな」
「こう?」
「頭が出てる。もう少し奥だ」
撤収まで余裕があると聞いたので、飛ばされなかったエミリーも交えてトレイシーに簡単な手ほどきをしようと持ちかけたのはナワーブだった。以前の自分ならばなかったろう。彼女の脆弱さも自分の頑張りで補えれば結局問題ないではないかとまでのたまえたはずだ。今、こうしてナワーブが慈善家のような振る舞いをするのは全て、クリーチャーの影響だろう。もちろん、付き合いの中でクリーチャーが単純な親切心で申し出ているわけではないと承知している。しかし結果、いいものに繋がるのであれば採用すべきだ。多分クリーチャーであればトレイシーに生き抜くすべを教えただろう。それはもしかしたら、彼の生い立ちを重ねているのかもしれない。
かもしれない、は一瞬期待をちらつかせる。かもしれない、を事実に変えるには努力と勇気が必要で、何より行動しなければただの絵空事だ。かもしれない、はきっかけに過ぎないのである。ナワーブは過去幾度となくクリーチャーの目にそれを見たし、自分も見たからこそ行動をしてきた。クリーチャーには、自分が絶対的に必要かもしれない。しかし今だけ、と思わずにつなぎとめていくためには必要だと思わせよう。自らの手で獲得する喜びをナワーブは知っている。だから、クリーチャーに逃げ場などないのだ。
「ここだね!」
「上手よ、トレイシー!あとは歩くのと走るのをうまく使い分けていきましょうね」
「教えるのが上手だからね。……ナワーブ、ありがとう!エミリー先生も、また教えてね」
「ああ」
トレイシーが少年のような笑みを浮かべて板当ての基礎ができるようになったのは、二時間も経った頃だろうか。機械人形を使いながら再現を繰り返した成果が出たのか、ゲームを開始した当初とは明らかに動きが違う。もちろん未だ稚拙であるものの、彼女は確実にサバイバーとしての第一歩を踏んでいた。それじゃあ帰りましょう、とエミリーに促されて帰る頃にはゲーム会場の外でもカラスが遠く鳴く。クリーチャーは少しは元気になっただろうか。
「あの人は眠りが浅いから、なかなか疲れがとれなかったのかもしれないわね」
不安に影を指すようにエミリーの声が響く。ジャリっと踏まれる小石の音がやけに大きく聞こえた。
「……俺が無理させたって言いたいわけ」
「でも、あなたのおかげで少しは眠る時間が増えたのも事実だわ」
どっちもどっちよ、と神の目でものを見るように高みからエミリーが微笑む。一見慈母のようでいて、人を食っていてもおかしくない得体の知れなさがある彼女は、クリーチャーと旧知の仲であるという。エミリーを胡散臭いとは少し思うが、正直なところは羨ましかった。たとえ断片であっても、彼女はクリーチャーの過去を知っているのだ。ナワーブが救えたかも知れない、過去を。
「あの人、咳がひどいでしょう。ずっと薬を勧めてたのに、このままの方が都合がいいんだ、って飲まないでいたから癖になったのね。実際、彼が具合の悪い様子を見ると嘘みたいに寄付が集まったの。可哀想なものがみんな好きなのよ」
可哀想なものを可哀想と思える自分が愛しいのよ、と言うエミリーはどう思っていたのだろう。目だけで問えば、私は嫌よ、と表情を崩れさせた。
「可哀想と思うのも可哀想と思われるのも嫌。可哀想なんて思われないように手を貸すことはもちろんするわ。でも、それはその人たち自身の力を取り戻すためにするだけよ。可哀想と思われたい人の気がしれないわね」
「……ピアソンさんは可愛いよ」
「あなたがそう思えるなら良いのよ。何にせよ、無理はあんまりさせないでね」
あれは頑健そうでいて、ただの人間に過ぎないのだとエミリーは歌う。宵闇が迫り、影を濃くする。館のポーチには先に飛ばされたエマが待っており、椅子に座らせた誰かに話しかけている。ーークリーチャーだ。
「ピアソンさん!」
「遅い」
慌てて近寄れば、むすっとした顔で言うクリーチャーの目はまだ熱ぼったい。薬はどうしたの、と聞くと、短く飲んだとだけ返事があった。置いていかれたもののそぶりには見覚えがある。そんな顔が見たい訳じゃない。そんな顔が見たくて置いていったわけではなかった。安心して自分に任せて、ただ休むことに専念していて欲しかったのだ。外の風に当たって、一層病状を悪化させたらどうするのだ、と心配から怒りが沸き起こりそうになり、ナワーブはひゅうと深呼吸した。今のクリーチャーは赤子のようなもので、自分がなすべきはただ一つである。
「ただいま」
「おかえり。怪我がなくて良かった」
かがんでぎゅっと抱きしめると、すがるようにクリーチャーの手がナワーブの背中に回る。公の場で、彼の方からかくも積極的に出ることは珍しい。手放そうとしてもクリーチャーの手はいつまでもしがみついていて、ナワーブはなぜだか胸を熱くした。クリーチャーの愛はいつだって、ジョウロで作った川のように細くて頼りない。流れ出す滝のような愛を注ぐナワーブに対してわずかなのだが、彼にはそれが精一杯だということもナワーブは深く理解していた。もちろん当初は物足りなさも寂しさも感じたものの、クリーチャーがどこかで申し訳なく思っているそぶりに許せるような気がしたのである。ひょっとすると、ナワーブは少し哀れんでいたのかもしれない。愛した方も、愛され方も知らない痩せっぽっちの年上男はひどく薄かった。
「……起きたら、君がいなくて」
「うん」
「大丈夫だってわかってるし、他のやつもそう言ってたんだ。けど、けどな、君の姿を見ないと安心できなかったんだ」
いつか、いなくなるとしても。いなくならないでほしい、とクリーチャーが強請る。瞬間カッと血が上り、ナワーブはクリーチャーをさらに力を込めて抱きしめた。一体この人間はいくつ、暖かさがすり抜けていくのを経験したのだろう。少なくともこれから先は、ナワーブだけが唯一彼の側に残るものとなるのだ。世界で、古今東西あらゆるものの中で自分が唯一となれるという心地は天に昇るほど嬉しい。
「俺もね、あんたが恋しかったよ。元気になったらまた行こう。だから早く元気になってね」
「善処する」
くしゃりと顔をしかめるのは、彼が照れた時の癖だ。抱きしめたまま持ち上げて抱きかかえると、常であれば暴れるところをぎゅうとしがみついてくるのだから愛しい。体と同時に心まで弱くなった相手につけいるようで少々気が咎めたが、ナワーブはわざとゆっくりとポーチから館内へと戻る。外の風が冷たくなっていくのも、陽がほとんど落ちかかっていることも何も恐れず、ただこの時間を美しいと思った。
「……あんたといると、世界が一番輝いている気がするよ」
「恥ずかしいから、あんまり言わないでくれ」
けれども嬉しい、とクリーチャーは言う。ナワーブにはもうそれだけで十分だった。夜が扉の向こうに閉め出される。明日はきっと良い天気だ。クリーチャーと並んで寝たらエミリーは怒るだろうか、と思いながらナワーブは自分にとっての唯一を抱きしめた。
〆.