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一針一針、大事にチクチク縫いましょう。


縫い目


 多分、見間違えだ。こう暑いと人はまともな頭の回りが難しくなってしまう。炎天下でチェイスをするだなんてまともな人間のやることではない。しっかりしろ、ナワーブ・サベダー。昼日中の死闘から帰ってきたナワーブは、そのままの足でシャワー室に駆け込んだ。今は湯だった頭を冷やして泥やら汗やらからさっぱりお別れをしたい。大体、見たのはほんの一瞬、いや三度見したので三瞬というわずかな時間だ。視力の優れた自分だって見間違えることはある。

「おつかれさん」
「うわぁっ」

ぽん、と肩を叩かれて、シャワー室の扉に手をかけたナワーブはお化けに出会ったような声を上げてしまった。グルカの兵士として名折れと言える情けなさが悔しい。それもこれも頭の中があれでいっぱいだからだ。恨みがましげに振り返り、ナワーブは一層後悔した。クリーチャー・ピアソンが、よりにもよってシャツをはだけさせて立っている。リッパーの攻撃を真正面から受け止めてしまったせいでシャツはジャキジャキだ。面白いことにハンターからの攻撃で受けた怪我は割合すぐに治るものの、衣類は直らない。よって新しいのを注文することになるのだが、つくづくこの荘園は奇妙である。はだけたシャツを惜しげもなく脱ぎ捨ててゴミ箱に捨てると、クリーチャーはへらりと笑って棚からタオルを取った。

「おいおい、驚かせるなよ。なんだって急に叫ぶんだ」
「いやあ、それはその」

ちら、とナワーブは正面から見る羽目になったものを見てゴクリと喉を鳴らした。間違いない。ゲームの最中にうっかりと見てしまった秘密。やっぱり自分の目は正しかったのだ。なんて背徳的なのだろうーークリーチャーの、胸はいささか女性的である。女性の胸をかほどにまじまじと眺めたことはないが、薄いもののどこか柔らかそうな線を描いた胸の頂はふっくらと大きめに膨らんでいて存在を主張している。少しカサついているようだが、やや長めの乳首を摘んだら良い感触が返るだろう。

 ナワーブの食い入るような目に気づいたのだろう、はっとしたクリーチャーが慌てた様子でシャワー室の一つを選んでドアを開けようとした。今ならば、まだ何事も起きずに済む。シャワーを浴びたらば日常が舞い戻るという寸法だ。だがナワーブの理性に反して腕は自然とクリーチャーの横をすり抜け、彼をシャワー室に押し込めた。後ろ手にカチャン、と閉めた鍵の音がやけに大きく響く。いけない、こんなことは間違っている。大体相手は胡散臭い年上の男だ。貧相で、ずるくて、でも可愛いところのあるーー可愛い?小首を傾げて、ナワーブはあわあわと口を開閉させるクリーチャーを正面から観察した。びくりと震える表情は確かにそそるものがあった。

 例えていうならば、小さな生き物を手のひらに収めた時のような残酷な欲望だ。ほんの少しだけ力を込めれば、手のひらの命は握りつぶされてしまう。どうすることもできないくせにぬくぬくと手のひらの上に縮こまる命はたまらなく愛しい。間違って殺してしまうかもしれないというゾクゾクした思いと、そんなことは許されもしなければありえないのだという思いとが戦い合う。腕を組んで胸を阻むクリーチャーの肩をタイルの壁に押さえつけると、ナワーブはぺろりと舌舐めずりした。いけない。だが、やってみたい。

「ピアソンさん、よく見せてよ」
「断る」
「なんで?隠さないで見せてたのはそっちでしょ。あ、それとも気づいて欲しかった?ごめんね、俺、鈍感でさ」
「やめろ、近づくな」
「だーめ」

可哀想な生き物。とても愛しい生き物。ナワーブは空いた片手をするりとクリーチャーの股間へと持っていった。男のものを触るなど論外だったが、暑さと異常事態にトチ狂ってしまっている。ふにゃりと柔らかなものを撫でてやると、きゅっとクリーチャーが息を殺すような音が聞こえた。なりふり構わず叫べば、暴れたらばあるいは助かるかもしれないというのにこの理不尽な状況に震える男を見て、ナワーブは一層哀れでたまらなくなった。この男は、慣れているのだ。そして嵐が過ぎるのをただ我慢して待とうとしている。乱暴にベルトを緩めてズボンを下に落とすのは最早ただの陵辱だ。どうして、と胸が悲しみでいっぱいになる。どうしてこんな風になってしまったの、と。危害を加えておきながらなんとも虫のいい質問だった。

「何、これ」
「…………君に言う義理はない」

パンツを指に引っ掛けてふと感じた違和感に背筋が震える。恐る恐るずらしたパンツの下からゆっくりと露わになったのは焼印だった。それもさながら家畜がされるような代物で、隠毛が生えるギリギリに佇んでいる。さぞかし痛かったに違いない。そろりと指を這わせると、ナワーブは確かに刻まれた傷にぎゅっと心臓が締め付けられた。

「誰だよ、こんなことをあんたにしたの」
「君には関係ない!」
「っ」
「君は何がしたいんだ!わた、私を辱めて楽しいか?放っておいてくれ。なあ、そんな目で見るな!」
「いった」

耳元で突然破裂した叫びに、ナワーブは顔をしかめたが、クリーチャーを撫でる手は止めなかった。この手を止めたならば、二度と運命の女神は微笑まなくなる。自分は何がしたいのだろう?ただの仲間だと思っていたこの男の傷の向こうに胸が痛み、腹が立ってグラグラと頭が茹で上がるのは何故だ?クリーチャーがナワーブの腕に縋るようにして離してくれと懇願する。

「ピアソンさん」
「やめてくれ、やめて、やめてください」
「大丈夫、あんたは俺が守ってあげるよ」

するりとこぼれ落ちた言葉は本心だったが、返されたのは追い詰められた男の拳だけだった。




 間違いだ、何もかもが狂っている。タオルを被って逃走を果たしたクリーチャーは、今さっき自分の身に降りかかった災いを処理しきれずにいた。頭がぼうっとする。そして何よりも怖くて恐ろしい。通り過ぎていったいくつもの手が何度も体の上を這い回り、記憶を強固にしていく。廊下で誰にも見つからなくてよかった。自分の部屋に滑り込み、クリーチャーは自分が裸足で、ズボンが足元でもたついたひどい状態であることに気づいた。それほど慌てていたということだろう。チェイスの最中でさえもこんな恐怖は訪れない。心臓が痛いほどに脈打つ。ズボンを履いで、乱雑にベッドの上に乗ったクリーチャーはようやく大きく息を吐いた。するりと被っていたタオルが滑り落ちる。

「なんで、バレたんだ」

これまでだって誰かに正面から見られることはあっても、気づかれることは決してなかった。ちら、と自分の胸を見て切なくなる。一度こんな風になった胸は戻らないし、覚えてしまった喜びは忘れられない。それがどんなに恐ろしい出来事が生み出したものだとしてもだ。肩口に目をやると、ナワーブの手が押さえつけていたところが真っ赤になっていた。欲を孕んだ目を思い出し、情けなさと恥ずかしさで頭がクラクラする。自分は男だ。本当の男なのだと、エマ・ウッズに見せつけようとしていたはずだった。自分よりも年若い男にやすやすと秘密を暴かれるだなんてあってはいけない。

 ズクン、と疼くものを下腹部に覚えて、クリーチャーは低く呻いた。恐る恐るパンツの縁を持って中を覗く。おぞましい傷跡の下、恐怖で縮こまっているはずの愚息は何故か持ち上がっていた。ナワーブに見られるうちに興奮してしまったのだとしたら涙が出てくる。大体ナワーブはおかしい。どうして自分を馬鹿にするだけでなくあんなセリフを吐いたのだろう?守ってもらわなくて結構だ。自分はあの頃とはまるで違う、一人の人間で男なのだから。

結局パンツを脱ぎ、傷跡をなぞって陰茎を握る。これを使ったことだってある、と頭の中に過去を思い浮かべるのだがどうにもうまくいかない。先ほど近づいたナワーブの熱のせいなのか、恐怖に震えたはずの日が皮膚の上に思い起こされる。下腹部の奥がキュンと切なくなって、クリーチャーは舌打ちしながら陰茎から手を離した。枕を腰に当てるようにして寝転がり、天井を仰ぐ。足を大きく開いて片手は睾丸の後ろあたりへと伸ばす。尻の穴までの間の滑らかな大地は、やわやわとした刺激で徐々に甘みを帯びてくる。体の裏側から奥底を刺激されるような感覚はたまらなくクリーチャーを惨めに喜ばせた。もう片方の手は胸元へ、ナワーブがじっと見ていた頂を摘んだり、柔らかくこねたりする。まるで女だ、とこうした遊びを叩き込んだ相手は言った。お前は男を捨てたんだ。

「違う、ちがう、」

自然と涙がこぼれたが、いびつな自慰をする手は止まらなかった。上がりきらない陰茎がピュッと白濁を飛ばす。痺れが脚のあたりに走ってクリーチャーはようやく手を離した。頭の中がふわふわとして心地よい。まるで天国にいる時のようだ。もちろん行ったことはないが、この瞬間がたまらなく好きだったのでそう思うことにしていた。屈服させられ、凌辱され、それでも自我を保つために楽しむことを覚えたのはきっと、間違いではない。しばらくそうして放心した後、ようやっと体を拭いた。願わくば洗いたかったが、またナワーブに出会うとも限らない。シャワーは夜に浴びるとしよう。

しっかりと縫い合わされた傷口の下に、未だ癒えない痛みがある。今よりももっとひょろりとした、栄養のまわりきっていない少年は見るからにひ弱そうだった。こと子供において見た目というのは絶対だし、孤児院と小汚い通りを行ったり来たりする人生の初めの頃では、大人にだって目をつけられても不思議ではない。クリーチャーは、格好の餌食だった。金もなければ体力もなく、ようやく機転を身につけたばかりだった男が差し出せるのは憂さ晴らしの対象となること、ただこれのみである。

 新しい下着を取り出して履く時ちらりと覗いた焼印は、クリーチャーの愚かさの証だ。自分を救ってくれ、かくまってくれると信じてホイホイついていった相手はこれまで出会った中でもとびきりの悪魔だった。それまでは、ただ痛みや怒りが過ぎ去るのを耐えれば良かったというのに、悪魔はクリーチャーも共犯者に仕立て上げたのである。お前だって楽しんでいるんだ、わかるだろうとうねる下腹部を示されて泣いたのはいつだったか。地獄からの脱出は困難を極めたけれども、クリーチャーはなんとか自分の中の”男”を取り戻すことに集中することにした。過去の自分を切り離したいという思いがあったし、何より再び誰かに指摘されるのは恐ろしい。髭を生やし、粗暴になって容易に人をすぐそばまで迎え入れはしない。体はちっとも頑強にならず、あの頃のひょろりとしたままに育ちあがったけれども自分は立派な一人よ男だと肩肘を張ることがやっとできた。

 慈善家を目指したのは、こんな惨めな思いをする子供を減らしてあげようというささやかな親切心に基づく。方法は自分が受けて屈辱だったもの以外であればなんでも良い。腕でも足でも目だって無くしてもいいのだ。実際、クリーチャーも片目はどこかにおいてきていた。こんなことは、この痛みに比べれば大したものではない。誰かを導き、守れるのは男らしさだ、とクリーチャーは思い込むことにした。真の男に自分はなるのだ。そのためには社会的に成功する必要もあったから躍起になったというのに、人生の女神はついぞ自分に微笑んでくれなかった。次こそは失敗しない。その気持ちでクリーチャーは今を生きている。

 だからこの荘園に来た時、フレディ・ライリーの鼻に付く上品さや育ち、教養には苛立ったしそんなものは本物ではないと鼻で笑った。エマに見せつけて、過去に憧憬を向けてくれた少女を幸せにできると証明するつもりで日々を過ごす。ゲームは過酷を極めたし、お互いの失敗を知るエミリー・ダイアーの邪魔もあったが、ゆるゆると気が解けてきたのはまあ、安心していたのだろう。参加者が増えて賑やかになった荘園で、クリーチャーはいつしか男だとか女だとか考えずに呼吸をしていた。あのフレディとさえ当てこすりを言い合っても殴り合いにならない。菓子を焼く時にうっとりする自分はひどく自由だった。過去は、完全になりを潜めたように思われた。しかし全ては思い込みであって、現実には無理やり縫い合わされたつじつま合わせの下で血を流している。

あの目が怖かった。自分に対してぎらついた欲望を孕んだナワーブの目はクリーチャーを射抜き、熱を持った手は肌の下の地獄を呼び起こした。ここに来てからというもの、自慰をしても惨めなやり方ではなかったというのに、あの頃のように体は征服される喜びを求めている。ヒクン、と下腹の奥が震えた。外から刺激しただけでは到底足りないと、あの熱が欲しいと強請る自分の中の弱い部分をクリーチャーは殴りつけた。

「守るってなんだよ……」

自分は、守られる立場などではない。クリーチャー・ピアソンは一人で立てるのだ。




 何でもなかった。拍子抜けするほどに自然に取り戻された日常を持て余し、ナワーブは船のへりに片肘をついた。湿った風が通り過ぎて行く。波音にも似た寄せては返す水音の響く、ここは湖景村だ。たまには息抜きをすると良い、と珍しくもゲームではなく娯楽のための娯楽が開かれる村はいつになく明るく活気付いていた。多分、この村が村として機能していた頃はこんな風に色づき鮮やかだったに違いない。昼日中に紙吹雪が舞い、水しぶきをあげて人々が泳ぐ。ハスターの背中に乗ったヘレナ・アダムズがきゃっきゃと声を立ててはしゃいでいる。目の見えない彼女にとって、こんなにも深い水底のある場所に連れて行かれることは恐怖を覚えるはずだが、真の恐怖による庇護で安堵を得たらしい。ピンク色のワンピースが波間に揺れる。

波打際はさながら海水浴よろしくパラソルとベンチが並べられ、フルーツの盛られたカクテルをフレディが供している。背丈ほどもあるパフェを作ったのはリッパーで、どこから食べようかとパトリシア・ドーヴァルとウィリアム・エリスがくるくる周りを回っていた。少し、ハツカネズミに似ている。普段であればこうした食べ物関連の催しに顔を覗かせるクリーチャーは見当たらない。彼は座礁した船の舳先でぼんやりと湖の向こう、ありもしない場所を眺めていた。

 あの日、うっかりと日常の線を越えてしまって以来、ナワーブの胸は思春期のように高鳴っていた。その背中にすがってあらゆる困難をこそげ落とし、傷を癒してやりたくなる。それができるのは自分だけだと言って欲しかった。自分勝手で残酷なわがままであることは承知の上での欲望は、平然といなすクリーチャーによって肩透かしを食らっている。あんなことなんてなかったかのように、クリーチャーは夕食の席でナワーブに微笑みさえした。ただ、瞳の中には恐怖がちらついてーーぶわりと鳥肌がたった。

守りたい、とは我ながら言葉選びがひどいと反省してはいる。普段のクリーチャーの態度を見れば、彼が下に見られることを嫌がるのは明らかだからだ。頼られても、頼ることはしない。場合によっては居丈高になることさえあった。まるで追い詰められたネズミに似た行動は一層ナワーブの心をくすぐる。手のひらの上に乗せて可愛がったらどうだろう。いつでも潰せてしまう、自分だけの命。なんて可愛らしい!ナワーブは、自分の中にこれほど歪んだ欲望が育ちあがっていることに生まれて初めて気づいた。目覚めさせたのは、クリーチャーだ。やはりなんとしても手に入れたい。誰の手も届かないように大事にしてやろう。

「ピアソンさん、そんなところにいたら落ちちゃうよ。レモネードでも飲みに行こう?」
「暑いからな」

君だけ行けば良いさ、とクリーチャーは振り向きもせずに舳先に跨った足をぶらぶらと揺らしている。ほんの少し押しただけで転げ落ちてしまいそうな危うさで、ナワーブは心臓がぞわぞわとして気持ちが悪くなった。そうなってしまえば自分ができることなどない。気持ちのままに近づくと、思いのほか強い目が振り向いてきて怯む。

「君は何がしたいんだ。私をどうこうできると思ったら間違いだぞ。大体、君に守ってもらう必要だってない」
「あれは、俺が勝手にしたいだけだから……必要だとか、必要じゃないとかは、関係ないよ」
「……近づかないでくれ」

化け物を見るような目でクリーチャーの顔が恐怖でひきつる。なるほど、彼を守る人は本当にいなかったのだとナワーブは得心した。同時に一人でここまで育ちあがった、まま虐げられがちな人の姿に愛しさと尊さが溢れる。一歩、近づく。クリーチャーが一歩、突端へとずれる。一歩、そして一歩、もう少しでも動けばクリーチャーは湖の中か、下手をすれば砂浜に打ち付けられることになる。手のひらの上でひよこを撫でる。力を込めて、可愛い可愛いと。

「やめろ!」
「あっ」

危うい均衡を打ち破ったのは、追い詰められたクリーチャーだった。怯えのままにずるりと滑り落ちて行く。世界から音が消えた。駆け寄って突端から下を覗くと、ロープを伝って降り立った男がべっと舌を出して見せた。世界が動き始める。良かった、良かった、良かった!

「死ぬかと思った……やめてよ」
「これで守れないってわかっただろう。君にできることなんかないし、私はしてもらわなくたってどうにかできる。ありがたくもなんともない、君の気持ちは迷惑だ」

知っている。これ以上突き進めば、クリーチャーが覆い隠した傷口の縫い目を解いていくはめになることくらい、わかりきっている。真っ赤な血が跳ね飛んでざくろのように裂けたものをどうにかできると思ったら大間違いだ。ぐ、とへりを掴む手に力を込める。怒りがナワーブを突き動かした瞬間だった。ぽかんとクリーチャーの口が開く。ナワーブの手にロープはなかった。ただ、空中で回転して空を舞うかのごとく落ちる。足元に感じた重みに顔をしかめるも、怪我には至らない。と、近寄ってきたクリーチャーが勢いよく殴りつけたので今度こそナワーブは砂浜に転がった。

「何するんだよ!」
「馬鹿か、君は」

ハアハアと荒い息を吐くクリーチャーの手は真っ赤だった。殴ったくせに痛みを感じる姿は滑稽さすら漂う。じんわりと熱がナワーブの殴られた頭から広がっていった。クリーチャーがナワーブの体を検分してくるのも不思議で、その手をどうとらえたら良いのかわからずまごついてしまう。血潮が高波に乗ってナワーブを茹で上げた。きっちりとボタンが閉められたクリーチャーのシャツに目がいってしまう。

「その、心配してくれて、ありがとう。俺なら大丈夫だから、」
「大丈夫な訳があるか」

ぼそっと呟いた言葉はひどく重たかった。嬉しさに手を掴むとクリーチャーの顔が歪む。どうしたら怯えさせずに済むのだろう。過去に起きた何かと自分は違うのだと証明したくて、ナワーブはそっとその手を自分の額に押し当てた。まるで聖なるもののように。馬鹿げた振る舞いだが、クリーチャーは殴ることはなかった。

「なんだって、君はそんなことをするんだ。私を弄んで楽しみたいかと思ったら、そんな情けない面をするなんておかしいじゃないか」
「あんたのそばにいたいよ」

考えるよりも先に心臓が飛び出た。もし本当に飛び出たら、そのままクリーチャーに差し出しても良い気がした。この唇の端の縫い目を解いて、もう一度縫い合わせてほしい。滴る血を擦り合わせて生きていると実感するのだ。は、と乾いた声が耳元で漏れる。波が、ざぶんと大きくうねった。

「好きにしろ」

縫い目が綻んだ。




 何もかもがおかしい。常に微妙な距離感を保ってそばにいる男に、クリーチャーは小首を傾げていた。自分も、相手も桁外れにネジが飛んでいる。ナワーブは変な男だ。脅威かと思いきや離れ、離れたくないと強請ってくるくせに何もしない。要するに文字通りつきまとっているだけの存在なのである。親ガモ子ガモよろしく歩くクリーチャーとナワーブを、他の人間たちがあれば何事かと話し始めるのは時間の問題だった。

そばにいたいだけ、という気持ちをクリーチャーは理解できなかった。そばにいるだけで何が楽しいのだろう。家庭というものを持った試しはないし、他人と親密になることを避けてきたために愛とやらもわからない。自分を見ないで、世間の道は自分の脇を通り過ぎていくものだ。その方が安全だとも思う。目をつけられないために男であろうとするのだけれども、ナワーブのような接触の仕方への対処は見出せなかった。しかも、ナワーブがまとわりついているおかげで以前よりも周囲の人間の目が温かくなったようである。

「知りたい?」
「今、知りたくなくなった」
「聞いてよ」

クリーチャーの素朴な問いかけにとろけるような笑顔で応えると、ナワーブはあーんと口を開けた。反射的にそばに置いていた紅茶のパウンドケーキを放り込んでやる。終わってからあ、と気づくほどにクリーチャーもこの存在に慣れていた。孤児院の子供たちを相手にするのでもなく、やり過ごすべき人間たちを前にするのでもなく、ただナワーブ一人がいる。あの欲に濡れた目もすっかり消えて、今では大型の犬にも似ていた。今日は寄生という犬めいた服を着ているので尚更そう感じられるのだろう。お礼とばかりに手のひらを舐められて慌てて引っ込めるとケラケラと笑われた。ひどいからかいようだ。

「これから、俺の話をするね」

そうして誰もいなくなった頃、ひそりと言葉が始まる。止める理由なんてない、とクリーチャーは耳だけを貸す。自分のことに触れないならば勝手にしていればいいと思っているのだ。安全なところから眺める地獄は楽しい。そういえばエミリーもいつぞやそんなことを話していたーー全く自分たちは同じ穴の狢だ。

「俺のこの唇はね、昔の仲間がやったんだ」

傷跡の縫い目が綻んで行く。ぞっとするような心地で、クリーチャーはナワーブ・サベダーという人間が解され、するすると一本の糸が流れていくのを耳にした。体の傷跡、心の傷跡、帰るべき場所、帰れない場所。彼に明日はあるようでないのだった。それでも行き場を作ろうとしてここにいる。彼ならばできるだろうな、とクリーチャーはぼんやりながらも確信していた。男だとか女だとか強いとか弱いとか、そんなことなどおかまいなしにナワーブは一人、しっかりと立っている。自分はどうだろう。

「今日はこれでおしまい。また明日ね」
「ああ。おやすみ」

手を振って別れ、食堂から先の廊下をバラバラに進む。二人の部屋はひどく離れているのだ。シャワーを浴びた後の長い一杯を終えた今、残されたのは寝るばかりである。しかしながらクリーチャーは落ち着かない。脅威が過ぎ去った、凪いだ海のように穏やかな日々が舞い戻ってきたというのに腹がぞわぞわとする。内臓に直接外から触れられているような感覚がもどかしい。

「ん」

部屋の扉を閉めて、服を脱ぐ。たったそれだけでも擦れた場所から甘い痺れが走った。シャツを開けば、大きめに膨らんだ乳首がしっかりと存在を主張するように尖っている。上着を着ていなかったらバレていたかもしれない。そう思うだけでぞくぞくするとはなんと惨めだろう。ベルトを抜き去り、ズボンも脱いでしまうと靴と一緒にぽいと放り出す。貧相な体だった。不釣り合いにも膨らんだ胸と、どこか丸みを帯びた尻の具合がクリーチャーの涙を誘う。誰の興味も引かないことを幸せに思っていたはずだった。気づかれた時には怯え、恐れて拒んだのは記憶に新しい。パジャマをまとってもなお、膨らんで行く願望がクリーチャーをせっついていた。どうせお前なんて男を捨てたんだ、楽しまなくちゃ損だろう?

 あんな気持ちには二度となりたくはない一方で、気持ちよさだけ受け取りたいという浅ましさがせり上がって傷口を開いていた。この体は腐っている。無理やり縫い合わせて表面を取り繕ったところで芯のところはもう手遅れだ。両手で顔を覆って、クリーチャーははあと重たい息を吐いた。ナワーブに感じ始めた空気と、この欲望は入り混じって欲しくはなかった。要するに、慣れたこの関係を自分は悪くないと思い始めているらしい。愚かなことだ。

 もし、自分のことを知ったならば彼は変わるだろうか。最初に触れ合った時のような獰猛さで自分を甚振るのか、弱いものだとみなすのか、その変化が恐ろしかった。ナワーブの中身はよく知っている。面白がって覗いて、染み渡ったナワーブという存在にのめり込んでしまったのだ。きっと無邪気そうな彼は何も考えてはいないのだろう。そうでなければ誰が好き好んで弱さをさらけ出すというのか。

弱さは、自らを危険にさらす羽目になる。もうすでに一度、自分は暴かれる寸前だった。それを敢えてさらすような度胸も、晒した先に待ち受けるものを受け止める覚悟もクリーチャーにはない。傷口が疼く。この縫い目が解けてしまったら、二度と縫い合わせることはできないように思う。傷を抱えて歩き続けるのはあまりにも過酷だ。生き延びようという気持ちは確かにある。だが、誰だってずっと楽に息をしていたい。ささやかで自然な欲求を持つ事すら自分には許されないのだろうか。

 こんな気持ちのふわふわした状態で何かを欲しがったのは初めてだった。もし、まだナワーブがあの言葉を実行する気でいるならば、今のクリーチャーには守って欲しいことがある。自分の欲望からどうか自分自身を守りたい。だがそれはナワーブにだけはできないことだった。

「一人でいいんだ」

一人がいいんだ、強い人間は一人でも十分である。ナワーブだって、あんな風に唇を裂かれた時に思ったのではないか?仲間なんて嘘だと。裏切りのてひどい仕打ちを受けた男は、なんでまたあんな笑顔を振りまいて皆といられるのだろう。どうして痛みをこらえて庇うのか、いくら体が頑健とは言え中身は誰しも脆いもの、硬い殻の中はぐしゃぐしゃになってやしないか。船の舳先から飛び降りたあの日、クリーチャーは世界一の大馬鹿者を見た気持ちでいた。いくら自分の体が頑丈だからといって、やっていいことと悪いことがある。反射的に殴ったのは、ナワーブなのか自分自身なのか曖昧で、クリーチャーは確かにあの時怒っていた。自分に迷惑をかける男一人を失っても構いやしない、むしろ好都合だと迎え入れても良さそうにも関わらず、クリーチャーは粗雑に自身を取り扱ったナワーブが憎かったのだ。

 今でも自分は正しいことをしたと思っている。彼はもっと自分を大切にすべきなのだ。例えば、自分の傷口を探るような真似をせず、他の人間に愛想を振る舞うだとか。クリーチャーには、何もないのだ。それでいいと思っていた、だが今はどうにもお腹が空く。

ぽっかりと開いた口の中はがらんどうだった。




 正しさは自分で作るものだ。そして自分が敷き直し、歩んでいくものだ。それが責任を取ることであり、自分の人生を独り立ちするということよ、と母は言っていた。ナワーブの何年も何十年も前のとっくの昔に大人になっていた母の背中は、その時ばかりは不思議と分厚く広く見えたことを今だに覚えている。クリーチャーは、多分いびつながらも歩んできたのだろうな、とナワーブはその薄い背を眺めた。ナワーブが理解するよりも素直な唇は、いつだって大事な言葉を吐いている。クリーチャーを守りたい、そばにいたい、でもでもだってどうしたって。きっかけは彼の不揃いな傷だが、もとより自分は気にしていたのではないかと思う。

怯えるのは、知らないからだ。人は暗闇を恐れる。初めて夜を迎えた人間はどれほど恐ろしかっただろう。知ってしまえばなんでもない。あの鳴き声はフクロウだし、死んだ人間は土の下で横たわっている。雷は自然現象で、避けることだって可能なのだ。ナワーブはクリーチャーに自分を知って欲しかった。怖くないと知って、もう一度手のひらの上に乗って欲しい。自分のそばで安心できるのだと、ボロボロのままで無理やり突き進むような痛ましさを安らげよう。その様を見ることが、自分の幸せに通じると気づいてナワーブはふ、と唇の端を上げた。

「楽しそうだな、君は」

靴の手入れから顔を上げると、クリーチャーは呆れたような声を出した。手先が器用な彼は時折こうして人々の靴の補修を行うことがある。注文すれば新品が届く便利な荘園であっても、走り回るにはやはり履き慣れた靴の方が良いだろう。磨き上げ、ほつれを直し、紐を取り替えて結び直す。破綻したものがあるべき姿を取り戻す様は見事で、門外漢のナワーブでさえも感嘆した。せめてもと、靴からブラシで埃を落として布で磨く作業を手伝っているのだが、どうにも彼ほどにはうまくできないでいる。

「そう見える?」
「君は楽しくない時はつまらなさそうな顔をするだろう。わかりやすいんだよ」
「……ピアソンさんは、一瞬わかりにくいけど、慣れたらそうでもないよね」
「私は単純なんだ」

すっと逸らされた目の奥に何かが揺らいだ気がして、ナワーブは首を傾げた。今目にしたのはなんだろう?まるで誘いかけるようなーーそんなはずはあるはずもなく、自分の願望だろう。劣情を抱え続けてはいるものの、彼を怖がらせまいと決めて以来きっちり蓋を閉じてきたのだ。肉体は直接的なようで嘘をつく。結局ナワーブが欲しいのは傷を背負った男の心だった。目が、合う。一度。二度。三度かち合った目に込められたメッセージを読み取ってナワーブはぐっと堪えた。嘘は駄目だ。全部失ってしまうくらいなら、今この場のわずかな勝利を見過ごすことくらい容易い。

「これでおしまいかな。俺、終わったやつを戻してくるよ。部屋の前に置いておけば良いんだよね」
「そうだが……わかるか?似たり寄ったりなものもあるだろう」
「それくらいわかるって」

言いながらも、ナワーブの頭からはつるりつるりと答えが漏れていった。いくつか特徴的な靴は除外することができる。革のブーツはカヴィン・アユソのものだし、シルクリボンが取り付けられた豪華な靴はウィラ・ナイエルのものだ。小さなドタ履は庭をいじるエマのものだろう。だが残りは?いささか自信がない。ムウと唸ったナワーブに、クリーチャーがくつくつと笑って選り分け始めた。

「靴が重いのは頑丈さを重視したノートンのだ。こっちは革の質がまるきり違う。洒落た靴だなあ、セルヴェのはさ。ヘレナの靴はすり減り方が均等だからすぐにわかるぞ。あの子は正確に同じ歩幅で歩くと聞いたし、目が見えない分を補っているのかもしれないな」

これは誰の、あれは誰のもの、と次々に捌かれていく靴たちは紛れもなく言われた通りの持ち主のものだというような気がした。ナワーブは正解を知らない。だが、あまりにも多くの人間をつぶさに見てきたセリフにただただ圧倒される。彼の目に、自分はどう映っているのだろうか。もう怖くはないならば、とじっと答えを待つ。クリーチャーの目が、ひたりとこちらを向いた。

「君の靴はこれだな。つま先が一番すり減っているからよくわかるよ」
「俺のことも、見てくれてるんだ?」
「君が教えてくれたからな」

毎日毎日、染み透るように語らった話がこんな形で返ってくるとは思いもよらず、ナワーブは胸がいっぱいになった。そうして軽く、ほっそりと長い靴を手に取る。安いが手入れの行き届いた、長く長く使われてきた靴。

「あんたのはこれだね」
「……知ってたのか?」
「なんでだろうね。見たらわかった」

まるで名前を叫ばれているかのように自ずと知れた。当てられた自分を誇りに思う。彼は何も語らない。それでも自分は彼をそれなりに知って、理解しているのだ。瞬間、クリーチャーから愛想のいい薄笑いが剥がれて蕩けるような喜びが目に浮かび、ナワーブはあっと声をあげた。すぐさま元に戻ってしまったが、もはや見逃しようもない。受け入れられた、そんな気持ちのままに取った靴をクリーチャーに差し出す。

「あんたが好きだから」
「まさか、」

だって間違っている、というセリフを無視して額に口付ければすぐさま顔が綻ぶ。ああ、傷口の中はこんなにも脆く、ほろほろと崩れ落ちるように柔らかだったのだ。おそらく一度傷ついてから、そう簡単に他人を許さなかったであろう場所に触れる喜びでゾクゾクする。瞼に、鼻に、頬に、髭に口付けるとモゴモゴと所在なさげにうごめく唇に笑ってかじりついてやった。ぎゅっと目を瞑る様子は、先日の怯えとは異なり、震えはしても自ら受け入れているように見える。必要とあらばためらわずに振るわれる拳は穏やかで、ナワーブはうっとりしながら離れた。これらのクリーチャーの反応は自分の思い込みかもしれない。そうであれば簡単に振り出しに戻ってしまう。名残惜しくはあれど離れたナワーブを、クリーチャーが信じられないものを見るように目を投げかけてきた。

「あんたの気持ちが聞きたい。良いのか、嫌なのか、したいのか、したくないのか。どんなのが好きで、どんな風なら楽しい?」
「わかるんじゃなかったのか、色男」
「それでも、聞きたい時だってあるんだ」
「私はーー」

君が欲しい、と糸のようにか細い声が空気の間を抜け出た。一人と一人が、互いのためにいるような錯覚を抱いてナワーブの頭がグラグラする。まるで自分の傷口と彼の傷口とはぴたりと重ね合うためのものだったかのような心地よさで、ナワーブはぎゅっと抱きついた。スリスリと肩口に顔を埋めると、背中に恐る恐る回った手がゆっくりとナワーブを包み込んだ。




 正しい朝が来る。一つとして正しさなんてわからないクリーチャーは、すっきりとした目覚めとともに伸びをした。心身ハツラツとして朝露に濡れたレタスのようにみずみずしい心持ちである。こんな気分はいつぶりだろう。隣に寝転ぶ青年の頭を軽く撫でると、そばにいる安心感からクリーチャーの頬が緩んだ。

「起きろ、ナワーブ。朝だぞ」
「ん」
「仕方ないやつだな」

むずかる額に、頬に口付けて朝を教える。うっすらと目が開いたならばしめたもので、クリーチャーは狙いすまして唇を奪った。実際、朝は朝だがまだ早いのだ。お楽しみには時間がある。それにようやっと落ち着ける関係を見つけたというのに、昨日は結局何もなかった。なかったのだ!初めこそ下卑た真似をしてきたナワーブであったが、どうやらあの振る舞いを恥だと思っているらしい。焦れた自分の方が変人のようではないか。おかしいことはわかっているのだけれども、とクリーチャーは唇を離してナワーブの顎下をくすぐった。真っ赤に染まった顔があどけなく愛らしい。

「ちょ、ちょっと」
「朝から元気でよかったよ」
「ウッ」

すりり、とまたがったナワーブの体を腹筋から下までなぞれば押し殺したうめき声が漏れ出た。こんな風にクリーチャーが他人を求めたのは初めてだと知ったなら、ナワーブは驚くだろうか。シャツをはだけさせて、腰を浮かしてゆっくりとパンツを落とす。騎乗位の悪いところは脱ぎにくいところだな、とクリーチャーは顔をしかめた。下腹部の傷跡にナワーブの手が触れ、それだけで体が熱くなる。

「私のことを知ってくれ」

長い話が始まる。ぐちゃぐちゃになった縫い目を解いて、もう一度縫い直すのだ。何もかもが元どおりとは言わないけれど、前よりも気に入った姿になれるように思う。どうか、自分の情けない醜さをも彼が受け入れてくれますようにと、クリーチャーは切に願った。


〆.


あとがき>>
  ベッドサイドストーリー的なものを書こうと思っていたのにベッドに寝転がる話を書いてしまった……性癖に素直に書いたら長くなったので最後までいかない(いつもの)のはなんでだろう??真面目な話をすると、泥棒はまま男らしさ、男であること、を強く意識しているところがあって、どうしてそんなにもこだわるのかなあと考えて書いたものでした。失ったありえもしないものを手に入れようとすると不格好になるという……そんなものかもしれません。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!