Still feel.
カシャカシャ、パンパン、ドスンドスン、カッカッ、トントン、ペチャクチャ、キャッキャ!朝から騒がしい音が階下から響き、クリーチャー・ピアソンは気だるげに瞼を開いた。ベッドサイドの置き時計を見れば、午前五時を指している。習い性で朝の日課をこなすクリーチャーにとっても些か早く、二度寝をしようか迷って結局起きることに決めた。
なんにせよ、こんなにも煩いのでは落ち落ち寝ていられない。他の荘園の住民だって、どんなに図太い神経をしていようともそのうち起きてしまうだろう。それとも、音からして半数以上はもう起きてしまっているのかもしれない。
パジャマを着替えて洗面所に向かい、冷たい水で乱暴に顔を洗う。二月も半ばとなれば、寒さは未だ威勢が良いままだ。髭の具合を確かめ、保湿クリームを塗るに留める。いつぞやナワーブ・サベダーがくれたもので、アカギレやら乾燥でカサカサするクリーチャーの手指や――彼くらいしか気にしない腹部などに塗るよう勧められていた。入知恵をしたのがエミリー・ダイアーでなければ、クリーチャーは大人しく受け取らなかっただろう。役割では似たようなものを務めるとはいえ、女子供と一緒にされては敵わない。ちょっとした矜持くらいクリーチャーにだってあるのだ。
階下に降りながら、音の源を辿る。余ったるい香りが一階かた立ち上り、わずかな焦げ臭さが危険性を孕んでいた。厨房だ、とクリーチャーは自分の推測に安らぎと鬱々とした思いの双方を抱いて苦笑した。半ば自分の城と化している場所だが、公共のものに変わりはない。それに、この日が来ることは前わかっていた。ただ、自分が忘れていただけの話である。
「おはよう、お嬢さん方」
厨房の扉を開けて飛び込んできたのは、賑やかな喧騒にふさわしい荘園中の女性陣で、所狭しと動き回って各々の制作に打ち込んでいた。一部事故が起きているようだが、想定の範疇内である。手を動かしようにも動かせないヘレナ・アダムスさえも、器用にクッキー生地を練っている様は微笑ましい。
「クリーチャー!早いんだね」
「いつも大体これくらいには起きてるんだよ」
訪問者にいち早く気付いたのはパトリシア・ドーヴァルで、甘ったるい香りの中で唯一肉料理を作ろうとしているらしかった。そういえばチョコレートの素から使った料理があるのだといつぞや話していたような気がする。他の皆は菓子を作るのだから、一人くらいは塩っぱいものが良いだろうという提案は、台所の切り盛りに慣れた彼女らしい発想と言えた。
そう、厨房で起きている騒動は微笑ましくも菓子作りなのだった。それも荘園中の女性陣と、なぜだか喜んで下働きをするカヴィン・アユソの総動員という大規模なものである。
「おはよう、ピアソンさん。七時に花が届く予定なの。ブーケ作りを手伝って欲しいの」
「う、ウッズさん」
思いもよらぬ声かけになりを潜めていた吃音が飛び出し、クリーチャーは内心舌打ちした。エマ・ウッズの前ではいつだって格好つけることができない。落ち着いた身の上となった今でも、彼女はクリーチャーの『特別』にして抜けない棘だった。呼吸をひとつして、滑らかさをなんとか取り戻す。彼女に不審がられるわけにはいかない。
「もちろん手伝おう。ウッズさんの花は使わないのか?」
「花壇の花はもう準備ができているの。ただ、普段栽培していない花が好きな人もいるでしょう?今日くらいは特別な花も一緒にしたいの」
パパが好きだったから、と小さく付け加えられた言葉は聞かなかったふりをした。他人の影を眺めたところで、寄り添うほど自分はお人よしではない。『慈善家』稼業は実際的なものなのだ。
イソップ・カールが黄色いバラを好きだと話していた、と適当にお茶を濁して次に移る。ウィラ・ナイエルが紫色のなんとも言えないものと格闘を繰り広げているのが視界をチラついて気になっていたのだ。紫?およそ食欲をそそるとは言い難い。ウィラが好んで身につける服の色でもあるので、彼女の美意識には叶うのだろうが、もらった側はどう感じるものか。
「そんな毒物を見る目で眺めるのは如何なものかな。スミレの花をあしらっているんだよ」
「っ、フィオナか。話しかけるならばもう少し存在感を出してくれ」
「おや、気にしなかったのはそちらの方だというのに失礼な話だ」
ぐるりと振り向けば、フィオナ・ジルマンが星型の何か、おそらく焼き菓子のような漆黒の物体を整えてカラカラと笑う。大概の人間にはそつなく表面的な関わりができるクリーチャーにとって、フィオナは未だにペースを乱される人間の一人だった。恋人よりも余程振り回されると暴露したらば、ナワーブ・サベダーは縫い目だらけの唇を一層歪めるに違いない。
「……君の作っているものが黒いのは何の花が素なんだ?」
「イカ墨だよ。それと、炭だ。どちらも健康に良いらしい。チーズにも合うぞ」
情報源はデミ・バーボンとのことである。即席バーを夜な夜な開く、バーテンダーらしい眉唾物の話だが、酒を売る一手としては正しい。甘いものばかりでは飽きてしまうからね――今日は一日中がチョコレートで埋まってしまうのだから、とフィオナは予言めいた物言いで付け加えた。
「それで君は?今日は何を用意したのかな」
飾り気のない一言は、クリーチャーの体をグサリと貫いた。
***
本日はバレンタイン・デーである。騒音に悩まされて起きる前日から、何ならば半月ほど前からクリーチャーは認識していた。思い合う二人が、恋人だろうと家族だろうと友人だろうとお構いなしに贈り物やメッセージで思いを形にする日である。荘園で繰り返した何回目かのバレンタインにクリーチャーは生まれて初めて思い合って贈り合う日を迎え、そしてそれは習慣と化した。今が何回目であるかは、恐ろしいので数えないが片手いっぱいになろうとしているような気がする。
日々は体を埋め尽くすもので、到底あり得ないと思われたナワーブとの恋人関係はクリーチャーの生活のあらゆる場所を侵食していた。洗顔後のクリーム、バランスの取れた食事、わずかな体調の変化に目を配り、気づけば相手がどんな思いをしているのかを考えるなどする。物を見れば思い出や想像が影のようにまとわりつくのだ。
一体全体自分はどうなってしまったのだろうかと当初は散々悩みもしたが、今ではすっかり諦めて喜びに身を委ねている。慣れとは恐ろしいものだった。人前でお休みのキスを頬にするくらいならば、ほぼ恥じらいもない。幸い、口にさせてくれと堂々と交渉に持ち込むナワーブはどうかしていると思う程度の理性はまだあるので、恐らく大事には至らないだろう。
つまり何が言いたいかと言えば、特別な日に限らずともクリーチャーはナワーブと物や思い出を分かち合っていたという事実だ。ほぼあらゆる手を尽くしたと言って良い。確かに今日は特別だ――無心で女性陣を手伝いながらクリーチャーはワクワク感を全身に味わっていた。だが、ありふれた一品を渡すのは少々物足りなさを覚える。
どうせならば、相手を喜ばせてやりたいと思うのは自然な話だ。ハンカチにクリーム、道具の手入れ用具、服、靴、思いつく限りのものは渡してきた。口にするものは、全員の意見を尊重しつつもナワーブの好みをさりげなく取り入れている。あるいは演出を凝ったものにするなどどうだろう。セルヴェ・ル・ロイににわかじこみの手品を教えてもらうことを想像し、クリーチャーは首を振った。気まずい空気が流れる可能性はできるだけ避けたい。
欲しいものは全て奪い尽くしてやろうと、そんな浅ましくも正しい気持ちを持った男が、何だって捧げてやりたいと思うだなんて事実は本当に小説より奇なりだ。心臓だって抉って差し出せるような気がする。相手が差し出してきたら?ナワーブはこちらの意図をまるで無視して突き出してきそうで恐ろしい。彼は自分以上にためらいがない。
「ピアソンさん、オーブンで焼いていただけますか」
「もちろん良いとも」
ヘレナがこねた葉っぱの形をしたクッキー生地を受け取る。実際に目にしたことがないにも関わらず、驚くほどに精緻な出来だ。棘がついているのは柊の葉だろうか。
「触った記憶を元に作ってみたんです。何かおかしいでしょうか?葉っぱの形をしていると良いんですけれど」
「いや、素晴らしい出来だ。私が作るものより上手いんで驚いただけさ。嘘じゃないぞ」
「本当に?」
「本当だ。何なら、心臓の音でも確かめてみるか?」
からかいも込めて返すと、聡明な少女は慌てて首を振った。普段は大人びたヘレナが、ふとしたはずみに見せる年相応の子供らしさが可愛らしい。
「……良かった。嬉しいです、とっても」
先日トレイシー・レズニックが教えてくれた葉っぱなのだそうだ。思い出を形にしたくて、とは何ともいじましい理由である。思い出か、とクリーチャーは何周目かの記憶を思い巡らせた。
確かに、思い出は特別で決して色褪せはしないだろう。
***
喧騒の一日は大団円を迎え、菓子も贈り物も花束も満遍なく行き渡った。夕食までカカオが大盤振る舞いで、きっと明日は皆身体中からチョコレートの香りを漂わせるに違いない。ごった返す人混みをかき分けると、クリーチャーは後片付けを手伝っていたナワーブについてくるよう声をかけた。
「どこに行くの?」
「ついたら説明する」
昼間に彼から贈り物として帽子(ちょうど新しいものが欲しかったところだ、彼は自分のことをよく見ている)を受け取った際、あとで渡したいと言ったためか、ナワーブは心なしそわそわとしているようだった。館を抜け出し林を抜け、ぽっかりと開いた洞穴が目に入る。ざああ、と寒風が木々を揺らした。
「ここは……」
「ハッチから出た先だ。見慣れた場所だな」
不思議なことに、どんなゲームの舞台であってもハッチの先はただ一つだ。逆を辿ったことはないので保証はないが、摩訶不思議な仕組みでできていることだけは間違いない。幾度もギリギリの勝利を噛み締めた場所である。
だが、クリーチャーにとっては戦友としての生々しい思い出だけの場所ではなかった。風を避けるように洞穴の中に入ると、置いておいたカンテラに火をつけピクニックシートを広げる。シートの上に座り込んで外を見れば、暗闇が溶け込んでゆく中、煌々と灯りを放つ館が熱を持っていた。ゲームが終わった後では、まるで故郷を(そんなものはクリーチャーにはないに等しいが)目にしたように安堵する光景である。
館から出る際に拝借した黒ビールの瓶をナワーブに渡すと、クリーチャーはさっさと歯で自分の瓶の栓を抜いた。湿っぽさに漂う酒気は盛り上がりからは程遠い。しかし、ここでなければならなかった。
「……ここで、君は私に告白してきたんだったな」
「ぶっ」
一口飲みかけたナワーブが思い切りむせこむ。背中を優しくさすってやりながらも、クリーチャーは訥々とした語りを止めなかった。
「君が私を待っていたことにも驚いたが、あれは驚いたな。サベダー君の顔は今でも覚えてるよ。君は泣いてたな」
「泣いてないって!と、と、と言うか覚えてて」
「私は記憶力が良いんでね」
カンテラの灯に照らされずとも、ナワーブの顔が真っ赤に染まっていることは十分窺い知れた。下唇を舌で舐めると、クリーチャーはビールを一口煽った。あの時感じた、訳のわからなさを取り除いた素直な気持ちが泡になって弾けてゆく。
「……あの時返事をしなかったことを、今でも思い出すんだ」
結果よければ全てよし、とおおらかな人は口にする。だが、借りは借りだろうというのがクリーチャーの言い分だった。貸しを作ったままではどうにも落ち着かない。それに、とことん付き合っていこうと覚悟するならば、自分の手の内を洗いざらい差し出したって良いだろうと思ったのである。心臓をあげられるのは一度きり、その先に思い出は生み出しようもない。ならば彼にあげられるものを、彼だけにあげられる物を贈りたかった。
「もっと前から、私は君が好きだ。恥ずかしいからあまり言わないんだが、愛しているとでも言えば良かったな」
「……本当はあそこで言うつもりはなかったんだよ。もっとこう、ちゃんとした場所でさ。色々考えてたんだ」
「うん」
「でも、言ってよかった、って改めて思う」
だってこんな思いを聞けたのだから。だらしなく緩んだ頬が嬉しくて、クリーチャーは確かめるようにナワーブの手を握った。骨ばった、マメだらけの分厚い掌。自分を愛してくれると言った手を、クリーチャーはヘレナのように思い出せるだろうか。
何度でも、思い出せるようになるまで触れよう。気持ちに形はないのだから、何度だって確かめたらば良いのだ、と吸い寄せられるように口付けて思う。
「ありがとう、ピアソンさん」
「どういたしまして」
そして、これからもたくさんの思い出を作ろう。黒ビールに加わった新たな記憶を胸に、クリーチャーはナワーブと肩を寄せ合った。
〆.