どうぞよろしくお願い申し上げます
つまらないものですが
がらごろとステンレス製のボウルに砕いた氷を放り込み、間髪入れずに水を流し込む。キンキンに冷えた簡易プールの完成だ。遊ぶ子供達がまだいないプールはそのままにしておいて、モナカは鍋に向かった。先ほどのプールとは正反対に、こちらは地獄の釜が煮え立って早数分、泡の合間に踊り狂う白く細長い生き物たちが垣間見える。するりとすくい取って仕上がりを確認すると、合格を出して火を止めた。火傷しないように丁寧に鍋を持ち、流しにおいたざるに乗客を流し込む。ゆで上げられたそうめんは、生まれた時の姿に戻ってぐったりと横になった。疲れ果てたそうめんをこのまま寝かせるわけにはいかない。美容と同じ要領で、今度は彼らをプールへと招待する。冷たい水の中で舞うそうめんたちの美しさと言ったら!まあ!モナカは感嘆してやまない。
このそうめんたちを見るたびに、モナカはいつかの夏を思い出すのだ。まだ自分が小さい頃、五年ほどばかり起きた出来事のはじまりである。
「こんにちは、野川(のがわ)さん。先日はおすそ分けいただきありがとうございました。宅もそうめんは好きなものでして、あっという間に美味しくいただいてしまいましたよ!」
遊び疲れた夏休み、冷えたスイカでも食べようと台所に回れば知らない人が来ていた。お勝手口に見える顔立ちは真っ白く細くて、少々虫を思い起こさせる。声から女とわかったが、男と言っても通用するような不思議な顔立ちをしていた。どうやら先日、田舎から巨大な桐箱入りで届いたそうめんの片付け先らしい。母が当たり障りのない言葉を述べていると、女はさっと小脇に抱えていた籠を母に手渡した。
「そのお礼と言ってはなんですが、こちらを受け取ってはいただけないでしょうか?奥様は手芸をされると伺っておりますの。私の家ではこれを作る生業をしておりまして、お気に召せば嬉しいですわ」
これは本当の話で、思いもよらぬ気の利いた差し入れに母は殊の外喜んだようだった。女が帰った後飛びついてみれば、母は籠に入ったそうめんのように白く、細く、キラキラと光る美しい糸束を見せてくれた。
「甲斐(かい)さんは良いものをくだすったわね。ねえ、こんなに手触りが良い糸、お母さんは初めてだわ」
恐る恐る触れれば、糸はそうめんのようなやわらかでコシのある手触りだった。母は相当に嬉しかったらしく、夕方に帰ってきた父にも自慢していた。これでハンカチを作ってあげましょうか、襟を作るのもいいわね、などとあれこれ思いを巡らす母は少女のようにあどけなかったことをよく覚えている。
それから甲斐家と野川家の間でおすそ分けのやりとりが始まったのだが、毎度もらうものは糸と相場が決まっていた。同じものでは野暮ったく、飽きるものではと思うだろうが甲斐さんの家の糸はひと味もふた味も違う。毎度色が異なることもあって、母は取っておくべきか使い切るべきか悩み始めたほどだ。
「今日は紫なのね。綺麗だわ、知ってる?モナカちゃん。昔は王様しか使えなかった色なのよ。この糸を見ていると、本当に王様が身につける色なんだなあって納得できるわ」
母は何も気づいていないようだが、モナカはだんだんと分かり始めていた。甲斐さんがくれる糸の色は、こちらがおすそ分けしたものの色なのである。茄子をあげたら紫、かぼちゃをあげたら橙、カーネーションの花は目がくらむほどの赤!あげたもので染めているのかと思えるほどにぴったりの色合いだった。しかしこの秘密はずっとモナカ一人で抱え込んでいた。気づいたら、この面白い関係が消えてしまうような気がしたのだ。機織りをした鶴は正体を見られたらば遠くに飛んでしまったのだし、甲斐さんだってどうなるか知れたものではない。
心配なことに、年々甲斐さんは痩せていくようだった。体をばらして糸にしていく様子を想像し、モナカは寒気を覚えた。もっとものを食べて、その身を肥やして、延々糸を吐いて欲しい。このまま儚くなるとはなんとも脆い。
「甲斐さんのお家はね、家業が傾いたから田舎に帰るんですって」
残念ね、と母がもらった糸を見せてくれたのは五年ほどこの関係を続けた頃だった。もらう糸が細く、切れやすく繊細なものに変わっていたことを母もモナカも気づいていた。母はこれほど高級なものを買う人が少ないのではないか、どうにかしようと糸を細くしているのではないかと思案していたが、痩せ細る甲斐さんを見てきたモナカは違うと叫びたかった。あれは、もう削る身がないのではないか?いずれにせよ甲斐さんは静かに視界から消え、不思議な糸は消えてしまった。母は、その頃に作ったあれこれを今も大事に使っている。
よくしめたそうめんをざるで汲み上げ、そのままテーブルへと連れて行く。待っているのは大葉に生姜、ネギにミョウガに本命のツユと豪華絢爛だ。煮浸しにした茄子を添えたのはちょっとした贅沢である。さあ食べましょうと箸を取った瞬間、ピンポンとドアチャイムが鳴ってモナカは舌打ちした。折が悪い。
「はあい」
「すみません、隣に越してきたものですが、ご挨拶をと思いまして」
一体どんな輩かとモナカはカメラをまじまじと眺めた。野暮な蕎麦やらタオルやらを持ち込まれてはたまらない。早くそうめんに戻りたいのだ。カメラの向こうには、蜂に似た顔立ちの女が、心細そうに立っていた。
〆.