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軽食だけじゃ物足りない。


寿司よ、寿き司れ


「小生は猛烈に感゛動゛し゛て゛い゛ま゛す゛!!」
「……違います」

昼時のポケモンリーグの休憩室で、アオキは猛烈な竜の息吹を浴びていた。良い歳をした男――泣く子も黙る四天王の頂点であるハッサク――が年甲斐もなく感動に打ち震えて泣く様は、何度見ても見慣れない。おまけにその対象が自分となれば尚更落ち着かないもので、普通と平穏をこよなく愛するアオキは現実逃避をすべく視線を逸らした。頼むからこのまま自分を見逃してほしい。壁の染みになってしまいたいと思うことも、ぼんやりと次に食べるものを考えることで嵐をやり過ごすこともままあるが、今回ばかりは逃げられそうにもなかった。

「アオキ!恥ずかしがることはありません、高みを目指すのはいつであっても遅くないのですよ!」
「……だから、違うんですよ」

盛大にため息をつきながら、アオキはがしりと両肩を掴んできたハッサクの力強さと熱意に慄いた。ポケモンバトルでもそうだが、腕っぷしでも自分はこの男には叶うまいと思う。もっとも、自分がどうしたって勝ちたいと足掻いて暴れ回ることはすまい。勝たない勝負は基本的にはしない主義なのだ。

 だが、この誤解だけは解かねば後々厄介となる。根本的な思い違いをどう正すべきか筋道を立てながら、アオキはどうしてこうなったのかを思い出すことにした。からの弁当箱から薄桃色のピンと反った尻尾がはみ出ている。全てはここからだ。




 今日も、アオキの営業スケジュールはパツパツでめちゃくちゃな代物だった。時間が埋まっていれば考えることはかえって少なくなって良いとも思うし、仕事だから仕方がない。ポケモンバトルで他人の人生を左右するよりも平和に時間は過ぎてゆく。歯痒いのは、年々自分の体が思うようには動かなくなってゆく燃費の悪さで、オージャの湖で一息をついた頃には青空が目に眩しいほどに疲れ切ってしまっていた。

「お昼にしましょう」

昼休憩をまだ取っていなかったことを腕時計で確認し、草原にハンカチを広げて座る。湖を見ながら休憩するというのもなかなか乙なものだ。おまけに今日は宝食堂の店主が自分を心配して持たせてくれた焼きおにぎり弁当まである。ペットボトルのお茶と、大好物の焼きおにぎり。添えられたレモンを絞った瞬間、爽やかな空気が弾けて胸が空く。湖に吹く風は清浄で、空の青さによく似合っていた。

 ぼんやりと思考を空にしたい時に限って、疲れているためか取り止めもない考えが次々と頭に浮かんだ。自分がこんなにも不毛な営業努力をしてまでポケモンリーグを、ポケモンバトルをパルデア地方に広めようとしているのは何故だろう?始まりは自分がポケモンリーグに就職したからだが、オモダカがトップについてからは全てが一変してしまった。彼女は誰もがひれ伏すほどの強さと熱意を持つと同時に、呆れるほどに真剣にパルデアの未来を憂えていた。ポケモンは生活のそばにいても、ペットに毛が生えた程度、ごく一部で家畜や研究対象として飼育される程度にしか扱われていない。パルデアの大地は肥沃だ、人間だけでほぼほぼやっていく生活で十分ではないかと誰もが考えていた。

 ポケモンバトルなど、ポケモンを酷使するだけで何の意味があるというのだろう。当初、パルデア地方ではポケモンバトルは趣味の延長線として用意された受け皿に過ぎなかった。他の地方ではスポーツリーグにもなるほど熱狂的にもてはやされていると聞き、オモダカの説明にリーグ社員の多くが驚かされたものだ。そうして、別段自分たちには関係ないだろうという意見でまとまりそうになるところを、オモダカが力強く押し流したのである。

「確かに、ポケモンバトルは全てではありません。しかし、ポケモンバトルほど広く一般市民がポケモンの特徴、性質、生活での接し方を学べる機会を得られるものも現状ないのです」

バトルでは自ずとさまざまなポケモンを駆使することになる。知らないポケモンを探そうという考えも湧き、同時に研究も促進されよう。新たなポケモンとの生活は、ひいてはパルデア全体の発展にも寄与するというのがオモダカの言だった。ポケモンという貴重な資源がみすみす使われずにあるというのは勿体無いのではないか。そしてポケモンにとっても、彼らが人間を理解することは種の繁栄を助ける一手ともなりうる。

 ポケモンバトルの面白さを多くの人間が理解し、切磋琢磨する。そして埒外な振る舞いに出ないようにするための模範としてポケモンリーグを確立させる。地域の交流センター化しつつあった各地のジムは見直され、ジムリーダーも一新された。各リーダーに二足の草鞋という二つ名を持たせたのは、知名度を上げることと身近に感じさせる手段だったのだろう。不幸にもアオキは選ばれてしまった。上司命令とあれば仕方がない。

 しかも、各ジムリーダーにはオモダカから厳密な使命が課せられた。ジム挑戦者の足取りを推測し、巡るごとに乗り越える楽しさと辛さ、達成感を得られる道筋をつけようとしたのだ。ただポケモンバトルを流行らせようというだけであれば、遊んでいるだけで良いというのに、いたずらに不出来なものを実らせるだけではいつしか爛熟してしまうと言いたいのだろう。

 オモダカは、単純に実りを待つだけの人物ではなかった。摘果している。あるべきパルデアの未来に相応しい人間が育つためには、彼女の筋書きをなぞるより他にない。厳しすぎやしないか、という意見は圧倒的な意思の前に淘汰された。日々をなんとなく過ぎゆくだけの人間にとって、荒波を砕くような岩壁は抗う気さえ起こさせない。

 そして、ポケモンリーグの最高峰を目指す道のりとして四天王が設けられた、そこまでは良い。アオキは何故か三足の草鞋を履かされる羽目になった。上司命令とあれば仕方がないだろう。しかし、自分の疲労度の多くが余計な仕事に起因しているのは間違いなかった。今の自分は、ジムリーダーでも四天王でもない、ただのサラリーマンのアオキである。ずっとこんな風に時間を過ごしていたい。朝に出社して昼休憩を過ごし、定時退社でフィニッシュ。完璧ではないか。

「ご馳走様でした。……うん?おまけをつけてくれたんですね」

焼きおにぎりは大層美味しかった。十分腹が膨れたと思ったところで、ペットボトルのお茶横に薄桃色の物体が目に入った。寿司だ。どう見たって寿司である。焼きおにぎりに寿司までつけてくれるとは、宝食堂の主人はなんと優しいのだろう。次に立ち寄った際に厚く礼を述べようと心に決めると、アオキはしばし寿司を見つめ、弁当箱の蓋を閉じた。今の自分は焼きおにぎりで十分だ。あとは夕方の休憩で自分を慰めるお供にしよう。今日の最後はポケモンリーグでの会議なのだ、絶対に疲れるに決まっていた。




 予定通りに会議は疲れたし、会議後の休憩(終わったらば議事録を提出するのもアオキの仕事だ)で寿司を食べようと思ったのは無理からぬ流れだろう。何故寿司なのかという疑問はついぞ浮かばなかった。疲労だ。全てはこの疲労がいけない。めざとくハッサクに見つかる前に隠せなかったのも疲労のせいだ。

「アオキ、人の話を聞く際にはこちらの目を見なさい」
「これは寿司、です」
「いいえ、シャリタツさんですよ」

そう、寿司はシャリタツだった。寿司によく似たポケモンなんて存在するのか?今では存在することが知られている。アオキも記憶の片隅に留めていたが、弁当箱に入れるほど寿司はシャリタツに似ていた。否、シャリタツが寿司に似ているのか。どちらでも良い、問題はこのポケモンがドラゴン属性という普通の自分には無縁の生き物である点で、ドラゴン使いの男が目をぎらつかせるのは必須の流れだった。腹筋に力を入れる。四天王の間で声をかけるよりも切実さを込めて、アオキは大きな声を上げた。

「間違えて弁当箱に入れただけなんです!寿司だと思って、自分は寿司だと……」
「スシ!」

シャリタツが鳴く。そんな鳴き声なのか、ますます寿司ではないか。ボソボソとことの経緯を興奮するハッサクに伝えるも、十分の一も伝わっているか怪しい。頼むから伝わって欲しいし、自分はドラゴン使いになる気は毛頭ない。四天王用にひこうポケモンを扱う羽目になったが、他の四天王と被らないように細心の注意を払った。中でも、自分をいじってくることが目に見えているチリとハッサクには掠りもしないようにしてきたのである。

「……事の経緯は理解しました。残念ですが、今回は譲りましょう。つまり、食べ物に似ていればアオキは興味を持つという事ですね」
「はい?」
「そうとなればアップリュー……いえ、もっと易しいものから始めるべきですね。宝食堂のご主人とも一度話をしてみましょう」

嫌な話を聞いた気がする。期待していた軽食はなかったし、もう議事録を作ってしまおう。弁当箱を元のようにしまうと、アオキはノートPCを立ち上げた。考え事を始めたハッサクが怒る様子はないので、仕事を進めるならば今だ。恐らく、残業も一時間内で済むだろう。




「小生は猛烈に感゛動゛し゛て゛い゛ま゛す゛!!」
「……違います」

ポケモンリーグの会議室で、ハッサクは心底感動していた。冷静な声が聞こえたような気がしたが、そんなことよりも目の前の事象を処理することで頭も胸もいっぱいだった。チリ曰くは感情がドラゴン並に激しく揺れやすいという評価であり、美術教師である本職を鑑みても申し分ない性質と言えるだろう。ハッサクは今猛烈に感動していた。この感情の荒波を、キャンバスに描いてコルサに共有したい。

 例えて言うならば、長く丹精込めて育ててきた植物がようやっと蕾を膨らませてくれた、そんな瞬間である。アオキの弁当箱にひっそりと可愛らしく鎮座しているシャリタツのつぶらな瞳が告げている。これは天の啓示だ、祝福だ、自分が教師としてもポケモントレーナーとしても情熱を注いできた結果が実ったのだ!植物をこよなく愛し、芸術として昇華させるコルサも大いに同意するだろう。今すぐにでも写真を撮って送ってやりたい。

「アオキ!恥ずかしがることはありません、高みを目指すのはいつであっても遅くないのですよ!」
「……だから、違うんですよ」

しかし小市民然としていることを良しとするアオキの反応はつれないままだった。この味も素気もない男性は四天王という重厚な役割を担っている割に掴みどころがない。チャンプルタウンのジムリーダーをするだけでは飽き足らず、あのオモダカの要望に応えて変幻自在な技で四天王としても活動できる人物のどこが普通たりえよう。幻想もいいところだ。

 幼い頃から竜の一族で跡目として厳しく躾けられたハッサクにとって、押し付けられた役割とは確かに重たく窮屈である。しかしそれに適応できること自体がすでに才能なのだと、逸脱した今ではよくわかる。自分は確かに生まれで筋道をつけられていたかもしれない。とは言え他に候補がいなかったわけではないのだ。竜の一族の長になろうという気概を抱く人間はいただろう。押しのけるほどに自分は才覚があった――自分にとっては不要な贈り物だったが。捨て去った道のりであろうとも、他人を押し除けた事実には違いない。故に、強者としてどうあるべきかをハッサクは自覚していた。

 アオキだって、誰かを押し除けてこの場所にいるのだ。ありがたくないこと甚だしいと言うのは全面から滲み出ているので理解できるが、その癖仕事だから仕方がないと言い放って役目だけはこなしてしまうのだから嫌味この上ない。態度と実績が釣り合っていないのだ。全くの異常であり、もっと酷な評価を下すのであれば怠惰である。大樹として育ちうる逸材を目の当たりにしたハッサクの教師魂が、そして強者としての精神が感応しないわけはなかった。

「アオキ、ドラゴン使いになってみるのはいかがでしょう?異なるタイプのポケモンを使うことも良い経験ですよ」
「ご覧なさいアオキ!カジッチュがとうとう進化を遂げて……どちらの実を食べるかずっと迷っていたこの子が自分で生きる道を選んで……健気で、小生は、小生は!」
「もっと大きな声を出さねば聞こえませんよ。あなたならばドラゴンのように吠えることができるはずです」

アオキとのやり取りでは、ことあるごとに熱心な呼びかけを繰り返しているのだが、相手と言えば全くもってのれんに腕押しだった。

「……十分間に合っています」
「おめで「あ゛、あ゛っぱれ゛!!小生は猛烈に感動じでいま゛ず!!」
「まだ耳は遠くなっていませんので」

箸にも棒にも引っかからないとは正にアオキの反応を形容するためにあるのだろう。下手をすればぷいと目を背けて不貞腐れた子供のような顔を浮かべていたりもする。その表情に妙な愛嬌を感じて気勢をそがれるのは、ドラゴンタイプはフェアリータイプに弱いというポケモンの理屈が普遍の事実だからかもしれない。否、アオキは可愛らしいポケモンであってもあくまでもノーマルタイプを使う男なのだが。ともかく、教職者としての道のりを歩んで悟りを開いたハッサクはアオキを前にして惑ってばかりなのである。

 迷惑がられ、鬱陶しいと避けられることは生徒で十分慣れているのでどうと言うこともない。おまけにアオキは同僚として顔を合わせる機会は多い。ポケモンリーグに呼び出されても、自分たちの番まで回ることは稀有であるため、大概は事務仕事をこなすアオキの横でテストの採点をしてばかりいる。合間の雑談もポピーを交えて和気藹々としており、ハッサクは学外の交流で得られる刺激も良いと大いに頷くところだった。

 そのアオキが初めてハッサクに応えてくれたのである。これを喜ばずしてどうしよう。シャリタツが警戒からか尻尾を反らせて懸命に寿司に擬態しようとしている。大きさと言い色艶と言い、確かに寿司によく似ているが、ハッサクにはドラゴンタイプのポケモンにしか見えなかった。アオキはあくまでも寿司だと言い張る。初めてドラゴンタイプを手にした姿を見られて恥ずかしいのだろう。オロオロといつも以上に表情豊かに下がる眉毛が愛らしく、スケッチをさせてもらいたいくらいだった。

「間違えて弁当箱に入れただけなんです!寿司だと思って、自分は寿司だと……」

シャリタツがスシだと鳴いても事実は揺るがない。衝動のままにアオキの肩を掴んで揺すると、珍しくアオキが大声を出したものだから思わず体が固まってしまった。なんだ、やはり力を込めて声を出すことができるのではないか。鼓膜がジンジンとする。血潮がどくどくと音を立てて流れ、ハッサクは自分の耳の先が赤くなっているような気がした。

 固まった隙になだれ込んできたアオキの説明によれば、彼は精神的肉体的疲労の限界に達したあまり、本気で寿司とシャリタツを取り違えて弁当箱にしまったのだという。そんな馬鹿なと抗議しようにも、アオキの必死さが真実であることを物語っていた。あまりにも悲しい話だが、ハッサクが垣間見た蕾は幻であったらしい。柄にもなく長々とため息をついてしまいそうで、ハッサクは意識して大きく息を吸った。深呼吸を一つすれば十分落ち着ける、まだまだ先は長いのだ。

「スシ!」

シャリタツがもう一度鳴くとアオキの肩がびくりと震えた。恐らく空腹を抱えているのだろう。この痩せ型の男性は見た目に合わず大食漢で、隙間時間には必ずと言って良いほど何か食べている。偶に地方廻り(という名の青田買いだ)を共にする際、隠れた名店を探しては食べて回ることを楽しみにしており、彼と出歩く際にはハッサクも何かいい店はないかと探す癖がついたほどだ。美味しいものを食べ、共に満足したあの気分はなんとも言えない。その時ばかりはアオキの表情も柔らかく温かなものに見える。そうだ、食べ物だ。

「……事の経緯は理解しました。残念ですが、今回は譲りましょう。つまり、食べ物に似ていればアオキは興味を持つという事ですね」
「はい?」
「そうとなればアップリュー……いえ、もっと易しいものから始めるべきですね。宝食堂のご主人とも一度話をしてみましょう」

なんと単純なきっかけを見逃していたことだろう!興味があるものを元に始めると言うのは教職者が志す一手ではないか。アオキを前にして熱くなるばかりだった自分に深く反省すると、ハッサクは戸惑いの声を上げるアオキににっこりと笑みを浮かべて見せた。自分ならば、彼を高みに登らせる手伝いができる。遥か天上に舞い上がり、共に澄み渡る青空を見ようではないか。

 根本的に、教職者云々を超えた情熱が籠りつつあるのだが、アオキを食事に誘うハッサクの頭はまるで明後日の方向を進んでいた。カジッチュはどうだろう?先日手伝いに来たボタンが、彼女の実家があるガラル地方では、カジッチュを渡して想いを伝える風習があるのだと教えてくれた。この熱い想いを受け取ってもらうにはこれ以上相応しいポケモンはあるまい。アオキが好きな道を選べるように三匹用意し、シャリタツも色とりどりに揃えたらばちょうど六匹だ。偏るかもしれないがそこはアオキ、きっと自分が想像もしない妙手を編み出して見せるに違いない。

 過大な欲望と情熱はいつしか実を結ぶだろう。だってこんなにも自分の気持ちが育っているのだ。アオキの肩を掴んで焼き鳥屋に連行しながら、ハッサクは近頃気に入ったつくねの種類について滑らかに語った。上辺を装い、愛想良くする術はすっかり板についている。まずは緊張をほぐすところから始めるとしよう。ハッサクの未来絵図は明るかった。




 ポケモンが人間の生活に間近になり、当たり前のような顔をして暮らすのは今に始まった事ではない。アオキも幼少期から家には二、三匹家事手伝いと愛玩動物扱いにポケモンがいたものだし、祖父の趣味は父とのポケモンバトルだった。昔気質の粘り強い、だがシンプルな戦法は祖父の背中を追いかけているのだと今更のように思う。どこにでもいる好々爺然とした祖父が、ポケモンボールを手にするやグッと気合いが入ったのもなかなか良かった。

 さて、シャリタツである。ハッサクに過大な期待を持たせてしまった諸悪の根源、もといアオキの疲労の傑作は今や当たり前のような顔をしてついてくるようになった。ハッサクとのやりとりの末、弁当箱から野に放ってやった(洗って宝食堂に返すためだ)のだが、どういうわけだか鞄に入り込んでいたらしい。焼き鳥屋に行くまでのことなので、ひょっとするとハッサクが無理やり鞄に潜り込ませたのだろうか。ドラゴンというのは気が長いと一説に聞くものの、あれは蛇よりもしつこいという類と言える。

 そんなハッサクが、昨夜強引に連れ出した焼き鳥屋は、空飛ぶタクシーでまっすぐ行かねばならないという紹介制の店だった。隠れ里風に作りたかったのか、田舎道の先にポツンと古民家を改築した店が佇むのも風情がある。肉良し、タレ良し、焼き加減も絶妙で、ハッサクおすすめの月見つくねはドラゴン級の美味しさという前評判通りだった。自分一人では決して入ることのない縁遠い店だけに、こればかりはハッサクに感謝をせねばなるまい。なんやかやと彼が熱く語り出し、感極まって泣くさまはいつもの通りで、周囲の人間の目も気にならなかった。

 遠い別の地方から来た割には、ハッサクは驚くほどパルデア地方に馴染み、自由を謳歌しているようだった。教師としても評判が良いとクラベル校長も話していたし、芸術分野ではネイチャーアーティストで有名なコルサとの競作も期待されている。前途洋々とはまさにこのことだ。彼にはややこしい背後関係があるとはポケモンリーグの履歴書で読んで知っているが、竜の威風堂々たる佇まいには塵も同じだろう。何もかもな窮屈な、小市民的居心地の良さを確保しようともがく自分とは大違いである。

 眩しささえ感じるハッサクは、どういうわけか何かと自分に対して要望を――長い説教を持ちかけたがる。端的に言えば、面倒だ。同じ四天王としてチリにも多少の苦言を呈することはあれども、年齢の近さからなのかどうしたって自分から離れてはくれない。普通で過ごしたいと日々苦労する自分にとって、靴の中に岩が入り込んでくるほどの違和感と重圧に辟易する。大概は社会人経験で培ってきたやり過ごしでかわすも、毎度そううまくは行きはしない。

「アオキ、あなたは小生にとって、煌めく原石なのですよ」
「……買い被りすぎです」
「本人の意思は確かに重要でしょう。アオキにとって、小生の提案が迷惑だということも重々承知しています。ですが、」

酔眼がとろりと揺蕩いアオキの瞳を捉える。こんな時にでも柔和な表情の奥に竜の獰猛さを隠しようともしない。カッと見開いた炎の色に、つい目を奪われてアオキはごくりと喉を鳴らした。例えていうならば、色気だ。酒気に紛れて立ち上るものに目眩を覚えた。

「小生はあなたが芽吹く様を見たいのです、アオキと一緒に、」
「一緒に?」

何をしようと目論んでいるのだろう。先々のためにも酔っ払いから情報を収集しなければと、アオキはハッサクの顔に耳を近づけた。ふう、と吐息が耳にかかってびくりと震える。三秒、五秒、十秒、もう良いだろうと口を開きかけたところで、アオキはハッサクの頭がぐらりとこちらに傾くのを慌てて受け止めた。予想に違わず鍛え上げた男性の体は重たく、潰されないように支えるのが精一杯だ。

 チリを背負って帰ったことはあるが、ハッサクは流石に厳しいだろう。店主に空飛ぶタクシーの手配を依頼し、自分も別のタクシーで帰った。ハッサクの住所地は履歴書に記されていたものを伝えたので、おそらく問題はあるまい。美味しいものを食べた点では実りある一日だったが、普通の生活にジワリと不安がにじり寄ってきたような、そんな心地がしていた。

 それから自宅に帰って洗濯して弁当箱を洗って風呂に入り、疲れ切りながらもポケモンの世話をして寝た。アオキの手持ちポケモンは多い。幼い頃からそばにいたポケモンも含めれば、部屋中がポケモンだらけと言っても良い。それぞれに良い餌を与えて寝床に配備してやって、一日が完結する。朝は逆の手順で始まり、また元通りになる、そのはずだった。

「スシ!」
「……なぜここにいるんですか」

悪夢は至極元気にアオキの枕元で跳ねている。薄桃色の反った姿のシャリタツは、今日は誇らしげに胸を張って自己主張を繰り返していた。ひとまず無視をし、顔を洗って歯を磨き、朝食を仕掛けてポケモンたちの世話を行う。ついでとばかりに、シャリタツにもどれが良いかはわからないから適当に餌を与えた。ムクホーク用の餌が気に入ったらしく、ガツガツと食べている。小さな体によくもまあ大量に入るものだ。胃袋が破れはしないだろうかと心配になるも、自分も他人に比べて相当に食べると評されることからして案外大丈夫なのかもしれない。

 トーストに目玉焼きとベーコン、昨日道端で押し付けられたレタス(たまに自分を応援する人間が食材を渡してくるのだ)を挟んで簡単なサンドウィッチにする。隠し味は好物のピンクペッパーで、パンチの効いた刺激が体を活性化させてくれるのだ。今日の仕事を思い返しつつ、皿を片付けたらば歯を磨いて身だしなみを整え、スーツに着替える。髪型とネクタイの位置が個人的には一番重要な部分で、今日も追い求める普通を体現しており安心した。

 ポケモンたちをポケモンボールに収め、スーツの内ポケットに入れてゆく。寿司、もといシャリタツが肩に乗って訴えてきたが無視だ。情が湧きつつあるも、異常値とは距離を置くに限る。行ってきます、といつものようにポケモンたちに声をかけ、家を出る。出勤時の朝の空気、人々の熱気と倦怠感と絶望とが入り混じった変わり映えのない風景が心地良い。

 今日はチャンプルタウンのジムで、挑戦者の確認から始める予定だった。周辺のジム通過者から、今日到達する人間が現れそうかを予測し、いないようであればいくつか考えてあった営業に回る。四天王の仕事については適宜臨時召集されるものなので考える必要はない。自席に座ってさあノートPCを広げよう、としたところでアオキの思考は完全に停止した。

「スシ!」

シャリタツだ。なんだってここにいるのだろう。他のトレーナーが持ち込んだわけではないことくらいは流石にわかる。そう人数の多くはない部下たちは、アオキと足並みを揃えようとノーマルタイプのポケモンを手持ちにしている。事務担当者の手持ちのワッカネズミが興味津々といった様子でシャリタツに目を向けた。当然ながら、トレーナーもこちらに注目するというわけで、アオキは眉をひそめた。面倒ごとが普通の日々を崩してゆく。危うさに舌打ちしそうになり、咄嗟にため息にすり替えた。

「スシ!」
「わあ、この子、アオキさんのポケモンですか?アオキさんに似て頭が良い子なんですね」
「……勝手についてきたんです。自分のものではありません。ところで何故、頭が良いと思うんですか」

社交辞令を聞き流して問えば、トレーナーはアオキの問いかけに軽く目を見開くとあっけらかんと告げた。

「普通のシャリタツは『ワォン!』ってパピモッチのような声で鳴くんです。寿司に擬態するポケモンですけれども、自分から寿司だと主張する子は初めて会いましたよ」
「寿司なんですね」

やはりそうではないか、とアオキは心底うんざりした。自分が間違えたきっかけは、このポケモンの自己主張によるものでもあったのだ。ハッサクがまたぞろ話を持ちかけてきたらば、このことも強調するとしよう。シャリタツのことは引き続き無視を決め込み、挑戦者の予測を立てる。今日のところは、自分が居なくとも問題はなさそうだった。現れたとしても、ジムチャレンジで時間稼ぎをしてもらうとしよう。飲食店の多いチャンプルタウンでは、ジムチャレンジで挑戦者が街のあちこちを巡ることがちょっとした観光資源となっている。挑戦者も普段食べない味にも巡り会えて一石二鳥というわけだ。

「……では、営業に出ます。ピケタウンに行きますので、何かあれば連絡してください」
「わかりました。気をつけて行ってらっしゃいませ」

自分なんかに、トレーナーは至極丁寧な対応をするのだから因果な仕事である。好き嫌いで仕事をしない人間を、アオキは素直に敬意を抱いていた。自分も仕事は朴訥にこなすものだと自負している。結果がどうであれ、それが仕事というものだろう。やれることを自分が企図したままに行う。それがオモダカの思惑通りなのかは無関係だ。

「アオキさん、すみません!お客様がいらっしゃいました」
「……わかりました。通してください」

だが、普通へと軌道修正することさえ神は許さないらしい。飛び込んできたトレーナーを追い抜かさんばかりに現れた人物に、アオキはますます眉間の皺を深めていた。ハッサクだ。威風堂々という言葉がこれほど相応しい人間はおらず、四天王であることも知っているだけあり、他のトレーナーが畏怖と尊敬の眼差しを向けている。もはや日常は完全に乱されていた。ぎゅっと意識を絞って、ゆっくりと表情筋から力を抜く。よりにもよって、どうしてこの男性が現れたのだろう。

「アオキ、朝から失礼しますですよ。あなたに渡したいものがあるんです」
「……これから出かけますので、話は手短に願います」
「ああ、そうなのですか。ではこれを」

自分の懐をまさぐって、ハッサクが取り出したのは艶々とした美味しそうなリンゴだった。それも三つ。大盤振る舞いである。育ちの良い舌の肥えたハッサクのことだ、恐らく美味しいものに違いない。美味しいものは大歓迎だ。肩の力を抜くと、アオキはなんの疑いもなく受け取った。どうして今朝になって渡しにきたのかは不明であるものの、リンゴに罪はない。

「どうか大切にしてくださいね。……おや、シャリタツさんではありませんか。アオキのことを気に入ったのですね」
「そうでないことを願っています。ええと、その、ありがとうございます、ハッサクさん」

リンゴは軽食にするとしよう。仕事先で一つずつ食べるだなんてなかなかの贅沢ではないだろうか。何故だかリンゴが震えたような気がしたが、アオキはハッサクに厚く礼を述べて鞄に詰めた。シャリタツが勝手に鞄に入ったが、もうつまみ出す気力はない。モンスターボールに収めなければこちらの勝ちだ。河辺にでも出たらば放流を試みるとしよう。

「また様子を見にきます。昨晩は醜態を晒してしまい、お恥ずかしい限りです」
「……大したことではありません」

一緒に。彼が自分と一緒に何をしようと望んだのかは不明だが、アオキは次回また美味しい店に連れて行って欲しいと帳消しを頼んだ。これがサラリーマンなりの処世術というものである。教職者のハッサクが社交辞令を解するとは思えないが、美味しい店を紹介してくれることは間違い無いだろう。それに、多少騒がしいものの、彼と飲む時間は偶には良い、ほどほどの刺激だった。




 竜とは確固たる意志の象徴である。故にこれと決めたことを果断に行うべしとハッサクは定めていた。思い立ったが吉日ともいう。ドラゴンの良さについて少しでもアオキにわかってもらおうと語り尽くしていたはずが、泥酔して寝こける失態を演じる羽目になってもハッサクの意志が挫けることはなかった。むしろ名誉挽回、起死回生の一手を放つは今である。

 空飛ぶタクシーに揺られる中で目を覚まし、冷静に頭を動かしてからの動きは退散するコレクレーよりも早かった。空飛ぶタクシーの運転手に、カジッチュの生息地まで飛ばしてもらい、翌朝迎えて欲しいと願い出る。起きたとはいえ泥酔していた人間を置いていくなどとんでもないと粘った運転手の意見は至極真っ当だった。ハッサクとて、無謀と勇敢の違いくらいは理解している。

 しかし、それでも今やってしまいたかった。この機会を逃せば、きっとアオキはつるりと自分の手の届かぬ方へと逃げてしまうだろう。あの男はのらりくらりと逃げ出すのが上手で、本気を出して戦わせるまでに自分がどれほど手を尽くしたかしれない。仕事だからと頭を下げるくせに、心の底に据えたものは頑固にも変えない。変えないために上辺を装うことができるのだ。処世術は人それぞれであるため、アオキをなじるつもりはさらさらない。ハッサクとて、親しんでもらいたい人間には親しんでもらえるように優しく振る舞うことがずいぶん上手くなったものだ。

 ともかく、モンスターボールをお手玉のように操り、自分は完全に素面で問題ないと運転手に認めさせたのはもはや意地だった。根負けをした運転手が、それでは飲み物をとってきますと気を利かせてくれたのは天の助けにして祝福に違いない。アオキにはどんなカジッチュが似合うだろう?穏やかな性格か、控えめな性格か、色味が良いか大きいか、ハッサクはアオキが手に取る様を想像しながらボールを投げ続けた。コルサであれば巧みに口説いて理想のポケモンを手に入れるだろうが、ハッサクは愚直に力で語るよりない。半ば泥試合のような厳選に厳選を重ね、納得のいく三匹を手に入れた頃には朝日が昇っていた。

「お付き合いくださり、感謝しますですよ。小生は帰宅します」
「なんのためだか知りませんが、ご苦労様です。送っていきますよ」

空飛ぶタクシーの運転手が浮かべる笑顔は、ひどく純粋だった。娘があなたのファンなので、とサインをねだられたので快く書き、ついでに妻にもと求められたのにも応じる。おかげさまで心はすっかり晴れやかだった。朝日が眩しい。ふと、自分がパルデア地方を初めて訪れた際、日差しの強さに感動したことが思い起こされた。太陽はどんな地平を彷徨おうとも同じだが、不思議にも日差しの加減は異なる。パルデア地方のそれは強く、明るく、生命を奮い立たせるように輝いていた。余計なことに悩み、鬱屈しかけていた気持ちがくまなく照らし出された時、ハッサクはこの地にしばらくいようと心に決めたのだった。そして今尚、この大地に魅了され続けている。

 帰宅した後は大急ぎでポケモンに餌を与えて一緒に風呂に入り、洗濯も書類仕事も(まあまだ期限は先だ)放り投げて意識を失った。ポケモンたちもぐったりと疲れていたせいか、じゃれつくこともなくみっちりと布団の周りを取り囲んだ。付き合いの長い仲間たちは、かくも察しが良い。新入りのカジッチュを腕の中に抱えると、リンゴの爽やかな甘さが鼻をくすぐった。きっとアオキはこの香りを好むに違いない。香りといえば、アオキはどんな香りを身につけているのかいつでもさっぱりとしている。

 チリが言うには、近頃では男性も香水の類をつけるそうで、年嵩の人間は気を配るのだとおすすめを紹介された。あれは遠回しに別の事象を言い表していたのではないかと寝入り端に閃いたが、すぐさま睡魔に闇の奥へと引き摺り込まれてゆく。さりげなく気を使うのだとしたら、確かにアオキらしい。彼は成績が振るわずとも、曲がりなりにも営業マンという稼業を行っているのだ。確か靴底がすり減ったらばどこそこへ修理をしにいけば良いと教えてくれたのはアオキで、彼はそうやって小さな親切でハッサクの日常を照らしていたのかもしれない――

「は」

完全に意識が途切れてしばらく後、ハッサクはガバリと起き上がって壁にかかった時計を確認した。朝の七時。十分支度には間に合う。面白いもので、どんなに疲れても決まりきった時間に目が覚めるのだ。それも歳を重ねると共に前倒しになっているようだが、ともかく起きたのだから良いだろう。ポケモンたちの食事を支度し、自分用の果物を用意する。朝食には旬の果実とバナナを一本食べることにしている。旬の果実は造形を学び、季節を感じるにはちょうど良いし、授業で教える内容のヒントにもなるからだ。

 髭をあたって、髪を梳かしてとワタワタしているうちに心得た様子でポケモンがスーツを一着運んでくれる。シャツにベスト、ズボンにベルト。世話をするどころかされている状態に苦笑を禁じ得ないが、今日ばかりは火急の用事があるので許されたい。そろそろ髪の毛を染め直そうか。帰りに理髪店に寄ろうと決めると、ハッサクは善は急げとチャンプルタウンに向かった。

 アオキの行動は判で押したように決まっている。数年間同僚として働いてきた経験から、ハッサクはアオキの一日がこの街で始まることを知っていた。むしろ、ここで会えなかったらば次に出会えるのは運任せになってしまう。スマホロトムで呼び出したところで、アオキが返事をするとは到底思えない。業務時間中に、私的な会話を避けようとする人物だから、嘘をつかない限りは先送りになってしまう。むしろ、アオキにとってのハッサクの立ち位置が同僚でもあり知人でもある(できれば友人であって欲しいと願いたいが、現実は残酷なものだ)という微妙な状態であるだけに、都合よく解釈されて次回の会議で話しましょうと流される可能性さえあった。

 もし、今回の試みがうまくいけば、もっとアオキと気楽に話せるだろうか。本来その必要はないはずだが、十分な睡眠の取れていないハッサクの頭の中はアオキでいっぱいになりつつあった。スシ・シャリタツ事件以来、この機会を最大限に活かそう活かそうとそればかり考えている。否、本当はもっと以前から考えていたのではないか。アオキと初めてポケモンバトルに臨んだ時、自分は何を感じただろう?

 空飛ぶタクシーを駆使してチャンプルタウンジムに滑り込むと、些か強引とは承知しながらもアオキへの面会を頼んだ。自分の外面の良さは十二分に自覚しているが、やはり急すぎたかと懸念が過ぎるも、ジムの職員は易々とハッサクを引き合わせてくれた。安全面に少々難があるのではないだろうか。パルデア地方では凶悪な事件はそう起きないと言っても、最低限の警戒は払うべきである。次回のポケモンリーグの定例会の議題に挙げるとしよう。

 案の定、当のアオキは愉快から程遠い様子だった。彼は日常を崩されることをひどく嫌う。無味乾燥とした日々が良いのだといつぞや遠い目をして語っていたものだ。ハッサクからすれば、世界は刺激だらけだというのに、どうしたらば無事でいられるのかと感動もひとしおである。アオキは恐らくハイダイが感動に打ち震えた、あの潮風に負けずに咲く花のように強いに違いない。

 アオキの眉間に深い皺が刻まれ、表情筋に力がこもる。真剣勝負に応じた瞬間のように張り詰めた空気は、ほんの一呼吸で和らいだ。流石の早技にハッサクは内心舌を巻いた。緩やかな線を描く眉毛に寂しさを覚えつつも、穏やかさを満面に浮かべて声を出す。

「アオキ、朝から失礼しますですよ。あなたに渡したいものがあるんです」
「……これから出かけますので、話は手短に願います」
「ああ、そうなのですか。ではこれを」

本当はじっくり感想を聞き、押し問答をして見たいところだが、仕事があるのだから我儘は言えない。ハッサクとてアカデミーで授業をせねばならないのだ。自分の分もどうか想いを伝えて欲しいと願いながら、ハッサクは選び抜かれたカジッチュたちをアオキに手渡した。ハッとするほどすっきりとした甘い芳香が漂う。にわかにアオキの眉が緩み、グッと気分が盛り上がっていることが窺い知れた。やはり、好きこそものの上手なれという先人の言葉は正しい。あのアオキがドラゴンタイプのポケモンに興味を抱いている!思わず感涙に咽び泣きかけたところで、馴染みのある生き物が視界に映り、ハッサクは辛うじて正気を保った。

「どうか大切にしてくださいね。……おや、シャリタツさんではありませんか。アオキのことを気に入ったのですね」
「そうでないことを願っています。ええと、その、ありがとうございます、ハッサクさん」

シャリタツが懐いたのも無理からぬことだ、とハッサクは心中密かに頷いた。妙なところで素直なものだから、絡め取ろうと策を巡らせた自分が恥ずかしくなってしまう。鼻歌でも歌いそうな調子で鞄に収められるカジッチュと、滑り込んでゆくシャリタツが羨ましくてたまらなかった。アオキの上機嫌な様子を自分が拝めるのはほんの少しだが、彼らは見た目が食べ物に似ているというだけで難なく受け入れてもらえるのである。

「また様子を見にきます。昨晩は醜態を晒してしまい、お恥ずかしい限りです」
「……大したことではありません」

ここは未練がましく残らず去るべきだ、とハッサクは戦略的撤退を選んだ。今度美味しい店を紹介してください、というアオキの要望は脳裏に刻んでおこう。次はいつ会おうか。明日では気忙しないと思われそうだが、明後日、はたまた明々後日が良いのか、現時点では見当もつかなかった。ともかく第一の任務は果たしたのだから良しとしよう。次は現実に目を向けねばならない――アカデミーの授業開始時刻まであと三十分に迫っていた。




 颯爽とアオキの元を去ったまでは良かったものの、結局ハッサクは一日中気になって気になって仕方がなかった。何を話しても、カジッチュを手にしたアオキの表情がどうなったのか、無限に広がる予想と想像と妄想が頭の中で猛威を振るう。幸にして、生徒には不思議がられることもなく一通りの授業を終えることができた。ひとえに普段から積み上げている人徳の成果だろう。

 最後の授業を終えたところで、ハッサクの意識は急速に現実に舞い戻った。赤と青の印象的な色合いの髪が教室の外に出ようとしている。自分の背中を押すかのような風習を教えてくれたボタンだ。彼女であれば、今後円滑に進めるための助言を得られるかもしれない。

「すみません、ボタンくん。少しお時間をよろしいですか」
「え、うち?な、何かありましたっけ……」
「驚かせてしまったならば、すみません。実は、ガラル地方の風習についてもう少し詳しく聞かせていただきたいのです」

生徒にとって、ハッサクは一個人の前に教職者である。そうあって欲しいと願う大人像に相応しく、駆け引きなしに素直に尋ねた方が良い。先日教えてもらったカジッチュについてだと続ければ、ボタンは警戒の色を解いて応じるそぶりを見せた。大変にありがたい。一癖あるチリや、つかみどころのないアオキ、全く読めないオモダカ相手とはまるで異なる。

「その、想う相手に渡すカジッチュですが、具体的な渡し方に決まりはあるのでしょうか。例えば、何体渡すであるとか、どんな場面で渡すであるとか……本当は前回もっと深く質問するべきでしたね」
「……それってつまり、ハッサク先生が?誰かに?……えっ、ちょっと待って、あり得ないことじゃないっちゃないけど、個数ってどういうこと?片想いの相手って、えー、アオイ知ってるかな」
「全部声に出ていますよ、ボタンくん」
「ハワッ」

ボタンが見るも可哀想なほどにあたふたし始めるのを、フカマル先輩に合図を送って宥めてもらう。さて、断片的に与えられた情報を繋ぎ合わせて考えてみるとしよう。彼女が落ち着いてからは慎重に尋ねた方が良さそうだ。

 まず、渡す『個数』は通常考えられていないらしい。つまりこの風習で願いを叶えるために渡すカジッチュは一体となる。自分は念の為にと三体渡してしまった時点で大きなミスを犯しているが、願望の大きさ故と目を瞑っておくとしよう。次に気になるのは『片想い』という単語だ。片想い。まさに、アオキの無限の才覚に対して花開かせようと情熱を傾ける自分の状況は片想いと表現するに相応しい。しかし、現在の様子からしてボタンはこの手合いの思考では素直な表現を選ぶようだ。

「つまり、カジッチュは恋愛成就の風習として、思慕する相手に一体渡すものなのですね」
「正解です。……ハッサク先生、あの」
「はい。なんでしょう」
「その、気が向いたら教えて欲しいんですけれど……いくつ渡したんですか?」

相手が誰かを問わないのは、彼女なりの優しさだとハッサクにはよくわかっていた。自分とて、そういう相手だとは考えていなかったのである。本当に?自分はアオキについて、ずっとポケモントレーナーとしての期待以上の感情を抱いてはしなかったか。今日だってずっと彼について考えていた。酸いも甘いも噛み分けるだけでなく、そのままの味わいだって大切にして欲しいと願ってカジッチュを選んだのではないだろうか。自然と頬が熱くなり、血がゆっくりと上って行く。

「ええと、小生はその……三体渡しました」
「三体?!重っ」
「……一応、受け取ってはもらえましたよ」

付け加えたのはささやかな見栄だ。実際のところはどうなっているか定かではない。噂の真相が明らかになった以上、いよいよハッサクの頭の中はアオキでいっぱいになっていた。早く会いたい、だがどんな顔をして?自分が今どんな顔をしているかさえも自信がないというのに。感情が迸るままに泣くのは常だが、感極まると泣けないこともあるのだと今初めて知った。

「そっか。うん、大事にしてもらえるといいですね」
「励ましの言葉、ありがとうございます」

気安く大丈夫だよ、などと言わないボタンは本当に良い生徒だと思う。甘味でも奢ろうと心に決めると、ハッサクは両手に顔を埋めた。

 恥ずかしさを誤魔化したくても、どう足掻いても涙は流れ出なかった。


〆.


あとがき>>
 なんやかや続けて書きました!ハサアオ寿司・リンゴ事件はこれにて終幕です。おじさんとおじさんの一日や感情のスクランブルを想像するのがとても楽しかった〜〜もっと何気ない日常を知りたい……自覚したドラゴンは強いと思うので、ぜひ頑固なアオキには頑張って立ち向かっていただきたい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!