4.第一の特別料理は淑女向け
坂本龍馬探偵事務所冒険録〜美食倶楽部の怪
食事とは、歓楽の場であり慰労の場であり勝負の場である。生きる限り何かを食べるというものとは無縁ではいられないものだし、余剰が出れば何事もいらぬ尾ひれがつきがちだ。美食倶楽部とはまさにそういった無駄と懶惰を極めた不真面目で美的で退廃的な集まりだから、龍馬が精神的不健康さを感じ取るのは無理からぬものだろう。
「本日の特別料理は『猿脳』でございます」
壇上に置かれた席に本日の特別料理を食べる権利を得た遊里子が畏まって座ると、厳かに船長が特別料理の正体を明かした。聞くだに恐ろしげな逸品である。これまで龍馬は聞いたことも想像もしたこともない。だが彼らは人を平気で食べるのだ、猿の脳みそ(文字通りの解釈が正しいのであれば)なぞちょっとした変わり種程度に思うに違いなかった。
「おお」
「あの珍味として聞く……」
「生きているのか?いやしかし安全だろうか」
案の定である。恐れおののく人間など一人もいない。ぐるりを見渡し、龍馬は小首を傾げた。一人足りないように思う。もう一度見る。やはり足りない。そうだ、遊里子の連れである書生が足りないのだ。野心と虚栄心が強い友則青年は必ず参加しそうなものだった。そもそもパトロンである遊里子の機嫌を損ねるような真似をいつまでもするほど、頭が足りない風でもなかったと龍馬は記憶している。船酔いに苦しんでいたおうのでさえ来ているのだ。何か良からぬ事故でも発生したのではないか?先ほどは血の匂いの疑いだって馬鹿げた結果に終わったことを思い出すが、それでも胸に引っかかって止まない。
龍馬の懸念を他所に壇上に大きな箱を乗せたワゴンと、ソースなどを乗せたワゴンとが連れてこられる。ビロード張りの柔らかな椅子に座る遊里子の前にテーブルがないのは、この箱を利用するからに他ならなかった。箱の上にあった、間抜けな銀の蓋が恭しく開けられる。
「本当に脳みそですわね。私、自分の目で見るまでは信じられませんでしたわ」
感嘆を漏らした遊里子の前には、生々しい脳みそが綺麗に剥かれて鎮座していた。本当に猿の脳みそなのだ!濡れて光っているのはつい先ほど開けられたためなのか、それとも液体を振りかけられているのかは龍馬の席からはわからない。以蔵にもよく見えなかったらしいが、淡紅色の肉塊に対して吐くようなそぶりを見せていた。
「そうでしょうとも。大陸でも口にできる人間はほんのわずか、そもそも調理法を知る者が実に少ないのです。ですがこの黄は東西全ての料理をものにした男、彼にかかれば食べられないものなどないのですよ」
「……船長さんが羨ましいですわ。邸の料理人を修行に来させたいくらい」
「残念ですが、調理法は全て秘伝のため桂川子爵家であろうと教えることは叶いませんな。さ、この気難しい男が怒り出さないうちにまずはご賞味ください」
武田船長の合図に従い、白い料理人服を着た若い男が遊里子の前にタレやスプーンを並べた。続いて肌の色艶がやけに良い、褐色の肌をした黄料理長が恭しく一礼して卓上の脳みそにナイフを入れた。脳みそであろうと肉片と同じで、下処理のためかバターのように柔らかく切り取られる脳みそは悪夢のようだ。それを喜んで待ち構えている遊里子も、その様を羨望の眼差しで眺めている人々も皆鬼よりも鬼に見えて来る。皿に乗せたそれを遊里子がしばし眺め、スプーンで掬って口の中に納めた。
「如何ですかな」
「柔らかくてまるで……いえ、何かに例えることなどできませんわ。蕩けるほどに美味しうございます。思ったよりも素のままでも味が濃くて、下手な肉よりも余程美味しい」
「喜んでいただき何よりです。続いて更に手をかけて調理したものを味わっていただきましょう。待っている間に他のお客様も猿脳ではありませんが、素晴らしい料理の数々を味わっていただきたい」
下準備のために脳と恐らくは本体が乗ったワゴンが下げられて行くと、同時に給仕とメイドが現れ、飲み物と料理とをどんどん配っていく。龍馬と以蔵の前にはまだピクピクと動くエビが酒に浸かったもの、鯛の活け造りなどが並べられたが、先ほどの生々しい光景のためかどうにも箸が進まなかった。食事とはこんなにも残虐であったろうか?嫌悪感を感じずに済むサラダとパンをごまかしながら口に入れると、龍馬は豆を摘む以蔵を見やった。
「以蔵さん、食べないの?こんなにいっぱい料理が来たんだ、食べなくちゃ損だ。このエビなんて、生きているうちに食べないとかわいそうだよ」
「ぞうくそが悪いことを言うなちや。おまんかて食い気を失っつろう。そがな理屈で言えば、どんな食べ物もかわいそうでもったいのうてならんくなる。……食べようや、龍馬。食わんと力が出ん」
ほんの少しの間に、以蔵は捕まりかけた泥沼から引き上がったらしい。ピチピチとしたエビを箸で器用に捕まえる目は少年のように生き生きと輝いている。実際、龍馬と以蔵は幼い頃にエビとりをして遊んだものだ。酒に酔ったエビたちが以蔵に捕まり、暗器で押さえるように箸で皿に縫いとめられ、瞬く間に殻を剥かれていく。はらわたを引き抜きぬらぬらしたそれを口にする以蔵はたまらなく生命力を感じさせた。
以蔵に誘われるようにして龍馬も活け造りに箸をつける。まだ生きていた頃の名残を留めた尾っぽが跳ねたが、この程度は見慣れたものなので問題ない。むしろ鮮度を感じさせて良いとすら思えた。ちょっとしたことで非日常の異様な世界から日常に引き戻され、だんだんと龍馬の胸中は穏やかになっていく。以蔵は自分にとってやはりなくてはならないのだな、と和食にも合うと面長の給仕が説明した白ワインで口を爽やかにしながら龍馬は心の中で手を合わせた。
一人で世の中を奔走していた時、充実しながらもどこか焦りが止まらず不安で眠れない夜が幾日もあった。お竜がそばにいてくれるようになってから少し落ち着いたが、それでも彼女自身が非日常であるためか全てが収まる気がしない。以蔵に再会して、龍馬はようやく自分に欠けていたものを見つけたのだ。置いていった時にわかっているつもりであったかの人の大切さはとんだ計算違いというもので、手放すことが間違いだったのである。
と、厨房の方角から怒号が響き、ついで慌てたように先ほど壇上にいた料理人が飛び込んで来た。異様な事態を逃すまいと見ていると、料理人が武田船長に耳打ちし、船長の目に狼狽が走る。そうしてそのまま船長も部屋を出て行ってしまったのを見届けて、龍馬は席を立ち上がった。探偵は登場する場面を逃してはならない。阿吽の呼吸で以蔵も立ち上がり、龍馬と共に静々と部屋を出た。
「為什麼這樣?我説爾把猴子來,為什麼準備”一個人”!他是完全……完全其外人」
「黄、落ち着くんだ!」
厨房に近づくと、南方訛りの中国語が鋭く叫ばれ、ドンドンと床に叩きつけられているような音がする。船長が懸命に止めているようだが興奮覚めやらぬ状態であるらしい。龍馬は中国語は解さないが、状況からうっすらとわかりたくない事態が起きていそうだと嫌な予感に表情を曇らせた。
「すみません、何かお手伝いできることがあるかと思って来ました……お手伝いできそうですね」
厨房の扉を開き、喧騒の真ん中にあるものを見て龍馬は頭を下げた。先ほどのワゴンに乗っていた箱が開封され、中身が床にだらしなくこぼれている。髪の毛が剃られており、あまつさえ脳みそがむき出しになっているが服装からして夕食に来ていなかった書生・神野友則に相違なかった。龍馬の登場に気づいた船長は、安堵と不安の両方を目に浮かべると、雑用係と思しき少年に医者を連れて来るように口早に命じる。
「どうやらそのようですな。先生にはゆっくり寛いでいただきたかったのですが、これでは落ち着いて食事もできますまい」
「構いませんよ。どこであっても必要とあれば僕は働く信条ですから……ぐぁっ痛いよ以蔵さん!」
と、脇腹を素早く以蔵に小突かれて龍馬は噎せた。不機嫌そうな顔からして、どうやら自分はまたぞろ昔を彷彿とさせる物言いをしてしまったらしい。この男はーーお竜もだがーー龍馬が馬車馬のように働く事を、それも他人のためだけに動こうとする事を好まない。苦労せずに安寧のままにいられるのであれば余計なことに首をつっこむなということだ。とはいえ、今回は元々予定されていた仕事内容なのだから怒るのは見当違いではないかと龍馬は思う。それだけ愛されてるからだ、と好意的に解釈し、龍馬は屈みこんで死体を検分した。
実のところ、龍馬がこの書生について知ることは僅かである。桂川遊里子に連れられて来た帝大生で、機嫌を損ねて一人で部屋に戻ってしまうまでの口ぶりからして地方の名士出身の上昇志向が強い男ということくらいだ。正弘がお竜に私たメモ書きにも大した情報は書かれていない。遊里子に聞かなければ素性はわからないだろう。医者の判断を待つべくでもなく、死因はおそらく頭部を開口されたことによる失血だ。念のため転がして見たが、他に外傷もなさそうである。やや長めに伸ばされていた髪は綺麗に剃られており、傷一つない見事さだ。着衣に乱れた様子はなく、薬などで眠らされたと見るべきだろう。指先や目、舌も見たが薬物によるものには思われなかった上に、何かの痕跡などが爪に残されているという期待も見事に裏切られた。体はまだ暖かさを残しており、穏やかな表情からつい先ごろまで生きていたという事実を訴えていた。
要するに、見た限りにおいてこの青年は調理されながら死に、場合によっては遊里子がその脳みそを抉って食べた辺りで死んだのである。想像を絶する気持ち悪さに、龍馬は胃の中に収めた鯛が逆流しそうになった。気をそらさせるようにして再び厨房の扉が開き、白いモジャモジャした髪を揺らす多田野医師が奥山医師を伴って現れる。往診用のバッグを床に置くと、黄料理長が不衛生だとわめいたことに龍馬は心の中で笑った。不衛生も何も、その極みが床に転がっている状態で今更の話ではないか。
「これはひどい。私は血を見ることが嫌なんだ。仕事でもないというのに……奥山」
「はい、先生」
往診バッグを開いてあれこれし始める多田野たちを他所に、龍馬は何事か話している武田船長たちの方へと向かった。
「このワゴンはどのように使う予定だったのか、どこに置いてあったかなどお話いただけないでしょうか。その……桂川さんが食べたのは矢張り神野さんのものですよね」
「かしこまりました。黄、こちらは帝都随一の名探偵の坂本先生だ。先生が質問することに答えてくれ」
「了解しましたよ、船長」
肩をすくめる黄料理長は、先ほどの怒号とは打って変わって滑らかで美しい日本語を紡いでみせた。こうして間近で見れば驚くほどに黒目が大きく吸い込まれそうなほどに深く暗い。料理人というものは小太りになりがちだという龍馬の思い込みと異なり、黄料理長は背が高く痩せぎすの、どちらかと言えば怪しげな裏街道の呪術師といった印象を受けた。
「あのワゴンは、飼育室で飼っていた猿を入れるものです。両手を縛って、酒で眠らせて頭を剃ったらこの穴に頭を嵌めて調理できるという便利なものですよ。国にあったものを自分で改良したんです。最善の状態でお客様に出したいという気持ちはわかっていただけるでしょう?下準備は全て副料理長の流山(ながれやま)に任せていますから、彼から聞いてください。私は飼育室に置いてあったワゴンをこちらに出して頭を開けただけです。お恥ずかしいことですが、猿と人間の頭を区別できませんでした。……もしかして、これは私が殺したことになるのでしょうか?」
「多田野先生の検死結果次第ですので、なんとも申し上げられません」
不意に黄料理長が見せたしおらしさは、龍馬をさながら陳腐な田舎芝居を見ているような気分にさせた。以蔵も何をぬけぬけと言うのかと言いたげな様子である。
「調理する前に中身を確認されなかったのですね」
「ええ。見てしまうと躊躇ってしまいますから。猿は人に近い生き物です。眠らせてあっても面と向かいたくはありませんよ」
奇妙な話だった。あんなにも燦然と背中が輝くほどに人間を食べている癖に、顔を見て殺すなどまっぴらだという訳である。とは言え躊躇うだけであって目的は必ず達成する男だ、と龍馬は冷静に判断した。目的が明確である人間というものはブレないものだ。続けてしゃがみこみ、全てがばらけたワゴンを調べる。継ぎ目となっていた部分は単純に外側から引っ掛けて閉める程度のもので、鍵は不要である。誰でも開けられて閉じられるので、中身のすり替えは容易だ。底部分は受け皿のようになっていて、今は友則の血がちょっとした血溜りを作っている。お竜はきっと厨房での出来事なので特別視しなかったのだろう。現にこの厨房あらゆる生き物がひっきりなしに調理されているのだ。
「死者は頭部の傷から流れた多量の血液による失血死をしている。服も脱がせて見たが外傷は他にない。毒物を使用された形跡はないようだ。死んだのはそう……おそらくはここ一時間以内のことだろう。まだかなり身体も暖かい。眠らされていたようだな。詳しく知るには陸に上げなければ難しいだろう。冷蔵保存をお勧めする」
ここでは開いても無駄だな、と淡々と話す多田野医師に余計な感情などは存在しなかった。もちろん冷蔵室に食材と一緒に入れておくなど言語道断だという激しい抗議が料理長と副料理長からなされる。実際、生き物は適切に処理されなければ時間を追うごとに不衛生になるものだし、ましてやこの死体は脳みそがむき出しなのだ。死体と一緒に入っていたものを口にするというのは龍馬にしたって両手を広げて歓迎するような事象ではなかった。
「季節柄、腐敗まで時間があるとは言え正確な状態を確かめるために必要なことです。防水シートを何重にも巻けば幾らか良いでしょう。腐らせないことが一番だ」
「わかりました」
尚も抗議しようとする料理長たちを遮って、武田船長が引き受けた。船上において船長命令は絶対である。腹立たしそうに床を蹴ると、黄料理長は初日からめちゃくちゃだ、と罵った。
「飲んだくれの給仕は仕事をサボって行方不明、死体は出る、これではおちおち料理に集中できません。私への質問はもう十分でしょう?流山、後はお前に任せる。私はもう休む」
「はい」
黄料理長が足音も荒く去っていくのを見届けながら、流山副料理長は殊勝にも頭を下げるに留めた。本来ならば泣き言でも罵りでも出たとしてもおかしくはない状況で気丈な振る舞いである。
「私は桂川様に説明せねばなりますまい。……あとはデザートだけだろう?騒ぎが大きくなってはまずい。坂本先生、流山への質問は食事が終わってからにさせていただけないでしょうか。この後の航海にも障りがでますので、余り公にしたくはないのです」
「……船長の考えもごもっともです。事情聴取はまた後で再開させていただきましょう。ですが、思い違いをされているようだ」
「何をですか」
いたって紳士的に返す武田船長の顔には狼狽もなく、凪いだ海のように穏やかだった。相当場数を踏んでいなければこの胆力は養えまい。龍馬が以蔵をちらと見ると、心得た以蔵は頷いて続きを引き取った。
「これは事故じゃのうて、事件ぜよ。船長もわかっつろう」
それも予定されていた通りのものだ、と心の中でつぶやいて龍馬は唇の端を上げた。犯人が誰であれ、痛ましい事件の幕を閉じるのは自分でなければならない。背徳的な感情であるとは重々承知しているものの、自分こそが役に立てる機会だと自覚した瞬間からゾクゾクするような興奮が溢れて仕方がなかった。望んでいた非日常はこれだろうと身の内から叫びが聞こえる。故に全ては解かれなければならないのだ。
「嘘、嘘よ!見せてくださいませ、この目で見るまでは信じるものですか。友則さん、友則さん!」
「桂川様、落ち着いてください」
愛していたであろう男を食べた遊里子が厨房に現れたのは、雑用係や操舵手やらが手伝い、防水シートに友則の死体が収められた頃だった。血も綺麗に拭われ、あとは冷蔵室に運ぼうという矢先である。遊里子は澄ました様子など全て捨て去って、ただの一婦人として半狂乱になっていた。人はこれほどまでに変わるのか、と以蔵は微かに感じ入った。こと華族というものは感情の制御が上手いと聞いていたが、ここぞという時にはやはり人間にすぎないらしい。追いかけてきた船長が手振りで示し、閉じられた防水シートがゆっくりと剥かれる。
「友則さん」
脳みそがむき出しになった青年は変わらず死んだままだ。時間が経ったのでぬくもりはもう失われている。遊里子は床にヘタリ込むとーーハンカチで口を押さえた。咄嗟に流山副料理長が駆け寄ると、バケツを差し出す。間一髪で間に合った吐瀉物は全てバケツに収まり、衛生状態を悪化させることなく終えた。流石にこれまで何人もの人間が同じような行動をとったため、慣れっこになってしまった流山副料理長は自ら聖域を守ることにしたのである。現実に立ち戻ることが上手く、臨機応変に対応できるとは珍しい。
「なんてことなの。私が困らせなければ、もっと強く誘えば死ななかったわ!それに私、貴方を」
死体を再び見遣って口の中に招き入れたもののことを思い出したのだろう、遊里子は盛大にバケツに吐いた。とはいえ殆ど音だけで中身はなさそうである。これは地獄だ。愛するものの肉を知らず知らずのうちに食べてしまったとは尋常の沙汰ではない。武田船長が防水シートを元に戻し、部下たちに運ぶよう指示することを遊里子は止めなかった。彼女なりに現実を理解したのだろう。以蔵は遊里子に対する評価を少しだけ変えた。いけすかない女、ではなく彼女は肩肘を張った女という表現こそが適切と思われる。
以蔵が遊里子に水の入ったグラスを差し出すと、目だけで感謝を伝えてガブガブと野卑な仕草で飲み干す。一通り落ち着いたのを見計らい、龍馬が徐に動いた。いやになる程他人の心の動きを読む男なのである。故に、彼は人の懐にやすやすと深く入り込む。盗み出された心はどこへ行くのだろう、と以蔵はどうでもいいことをチラと考えた。以蔵もかつての仕事柄、他人との距離を詰めることは得意だが、龍馬のそれとは深さが違う。以蔵の心は今でも遠くに龍馬が持ち去ったままだ。
「ご心中お察しいたします、遊里子さん。申し訳ございませんが、少々事情をお聞かせ願えないでしょうか」
「……ああ。坂本先生は、探偵でいらっしゃいますものね。見苦しいところをご覧に入れて申し訳ございませんわ。構いませんとも。友則さんに何が起きたのか私も知りたいですからね」
ピン、と背筋が伸びると同時に元々身体のうちに眠っていた華族精神とでも呼ぶべきものが蘇ったのか、面を上げた遊里子は蒼白でこそあったが戦いに出向くかの如く毅然としていた。
「ありがとうございます。ご負担があまりかからないよう、手短にするよう努めると約束しましょう。まずは、談話室から僕たちが去った後のことを順を追ってお話しください」
「坂本先生たちがお部屋にお戻りになられた後、私は他の方々と一緒に撞球室に参りました。葛城少佐が大変お上手で、武藤中佐は愛人の手前どうにか勝ちたいと必死のご様子でしたわ。多田野先生も参加されていましたがお話になりませんわね。奥山先生は武藤中佐の愛人の女が何事か相談しているように見えました」
「よく周りを見ていらっしゃいますね。その後、夕食まで全員一緒だったのでしょうか?」
「いいえ。私は化粧を直さねばなりませんから、夕食の始まる三十分ほど前に自分の部屋に戻りました。私より先にあの芸者が出て行きましたわ。大方化けの皮が剥がれそうになったんでしょうよ」
あまりにも毒々しい物言いに、流石の以蔵も首を傾げた。以前から知っていたのか、知っていたにしても相当の遺恨がありそうである。龍馬も感じたのか、失礼ですが、とおゆうを過去に見知っていたかを尋ねた。龍馬の質問に遊里子の眦がきっと上を向く。
「あの芸者は、元々私の亡くなった父が可愛がっていた女です。父があの女に注ぎ込んだお金と時間と醜聞にどれほど母が苦しんだことか!いくらそれが仕事とは言え、許される女ではありませんわ。美食倶楽部に参加して、何度か顔を見かけましたが毎回違う旦那様に連れて来ていただいている『特別招待客』だと伺っています。この会では招待客なんて今日まで他にいなかったと言うのに。要するに、無節操なのですよ、お金さえあれば構わないのです。おまけに昔見かけた時から少しも見た目が変わらなくてーーあれこそが人魚だなんて愚かなことを話す方もおりました」
「随分とご心労をなされたのですね。僕の父も色情にうつつを抜かして大事を疎かにしてはならないと申しておりました。あちらのご婦人は遊里子さんに気づいていたのでしょうか?」
「いいえ。あの女は自分が不幸にした家のことなど覚えていないでしょうよ。むしろ、あの女が興味を持ったのは友則だわ。もしかしたらーーもしかしたら友則は、あの時部屋にいなかったのかもしれませんわ、坂本先生!こんな卑劣な真似をするなんて、人を不幸にするあの女らしいやり口ではありませんの?いいえ、絶対にあの女ですわ!あの女を捕まえてくださいませ!」
「落ち着いてください、遊里子さん」
突然火を噴いた遊里子に、以蔵はするりと動いて龍馬に掴みかからぬよう牽制した。この程度であれば問題ないことは先刻承知だが、女性に掴みかかられる龍馬というものはあまり見たくはない。
「遊里子さんがお部屋に戻られた後、神野さんにお会いしましたか?」
「いいえ。部屋に入る前にノックして声もかけたのだけれども、返事もありませんでしたわ。私が意地悪しすぎたからかもしれませんわね。これまでも、こういうことがあったものだから……それこそ、私の邸でも。だからもしかしたら、私がノックをした時には部屋にいなかったのかもしれませんわ。あの時確かめれば、引っ張って連れて来れば良かった!」
その可能性は高かった。というよりも、そもそも友則が部屋に戻ったところを誰も見届けていないのである。そうして遊里子は化粧を直し、服を着替えて夕食の席に着いた。先に行っているかとも思ったが友則は現れずーー否、別の姿で彼女の前に現れたのである。必ず犯人を見つけ出しますと約束した龍馬の顔は精悍で、矢張り腑抜けているよりも活躍の場を見つけている時こそが彼の最適な状態なのだと以蔵は感じ入った。惚れ惚れするほどに男前で、この顔を見るためであれば陰惨な事件だって歓迎してしまいそうになる。多分お竜もそう思っているだろうなと嘆じて、以蔵はこんな羽目になるならもっと酒を飲むのだったと今更唇を曲げた。
「坂本先生、流山の支度が整いました。桂川様もそろそろお休みになられた方が宜しいかと存じます」
「気配りいただいてありがとうございます、船長。遊里子さん、ご協力いただきありがとうございました。どうか今日はゆっくりとお休みください」
「……休めたものかはわかりませんわね。先生がたのお力を信じておりますわ」
とは言え、話すだけ話した遊里子の顔に罪悪感はさほど浮かんでいないように以蔵には思われた。もう全て起こってしまった過去のことだとわかっている顔つきですらある。ふと、底意地の悪い質問が頭に浮かんでしまって以蔵は首を振った。自分は人でなしと謗られる真似事を随分としたものだが、踏み越えてはならないものというものはある。それは他人のためというよりも、結局巡り巡って自分のための境界線だ。遊里子の悠然と去っていく背中に、以蔵は心の中でだけ問いかけた。
『好いた人の脳の味は如何?』
今であれば残ったものも余さず食べても良いと言い出しそうですらある。
「以蔵さん、悪そうな顔してるよ」
「そうかえ?こん顔はおまんも好いつろう。えい顔じゃと散々言っちゅうたにゃあ」
「混ぜっ返さないでよ。好きになるのも仕方がないと思って欲しいな。顔にしたって何にしたって以蔵さんなんだからね」
「……おまんはまっこと悪い男じゃ」
「何故そうなるんだい」
困ったように八の字を描く龍馬の眉が愛しい。まず、自分を気にかけていること。少々戸惑うが自分の全てを受け入れてくれているということ。何より必要としている、それが常にわかるというのは幸せではなかろうか。時に以蔵はここがどこであるのかも全て忘れてしまいそうになる。龍馬という男は、いつもいるだけで別の世界をそこに齎すのだ。調子に乗らせて良かった試しはないので黙っているのだが、いつか知られてしまうだろう。その日は少しばかり楽しみで、わずかに恐ろしい。
「お待たせしました」
流山副料理長という若い男がやって来たのは、以蔵が今晩の予定をどうしたものかと考え始めた頃だった。船長は遅いじゃないかと軽く窘めたが、気疲れしているのかそれ以上の小言は紡がれなかった。龍馬がお疲れのようですから自分たちだけで聴取しますよと申し出れば、一にも二にもなく飛びつき、本当に船長は出て行ってしまった。人を散々食べて来たくせに今更何を疲れるのだろうと以蔵は不思議に思う。人を食べるために殺して来たのではなかったのか?恐ろしさを忘れて美味しさだけを貪れるなど虫が良すぎるではないか。
「楽にしてください、流山さん。ここは僕たちだけだ、船長にも言いづらいことでも何でも好きに話してくれないか。もちろん、誰にも話さないと約束するよ」
「おん。わしも口が固いきのう。安心せい」
「ありがとう。おかげで気が楽になったよ。今日は本当についてないんだ。俺は流山清信(ながれやま きよのぶ)。この船で副料理長を……というよりも、黄料理長の手伝いをしてる。十日前に募集を見て、面接に受かったものでこちらに来たんだ。ご覧の通り、黄料理長の腕は素晴らしいが難しい人でね。この船が港に戻ったら最初の契約通り解雇されるだろうよ。願ったり叶ったりさ」
「へえ。なら、これまで船長たちに会ったことはなかったんだね」
「会ったことがあれば乗らなかっただろうよ。長いこと色んな船で包丁を使って来たけどな、こんな気味の悪いものばっかり作るのは滅多にないね。外聞が悪いから、わざわざろくに顔も知らないような奴ばかり集めて来たんだろうよ。船長たちが何を考えているのか知らないが、ここの乗組員はまともに客船に乗った奴はいなさそうだ」
神経質そうに大きな掌を握ったり開いたりする流山副料理長は、これまで話したどの人間よりもまともに見えた。お上品ぶって取り繕っていない姿をまともと見るのは以蔵の物の見方が少々歪んでいることにもよるが、あながち間違ってはいないという確信はあった。
「さっきも料理長が『飲んだくれの給仕が行方不明』と言っていたね。この死体騒ぎの他にも面倒ごとがあったのかい?」
「ああ。給仕の井納っていうおっさんがいるんだけどな、こいつは完全に酒毒にやられてる。何かしら用事を見つけては酒を盗もうとするんで散々追い払ってたんだ。それでもどういうわけか上手いこと盗み飲みしてるみたいなんだよな。昼の歓迎会では一応皿を運んでいくのを見たんだが、夕方に他の奴が集まっても食事が始まっても来やしない。大方どこかで酔いつぶれてるんだろうさ。侍従長ともう一人の給仕だけじゃ回らないから、下の階で休んでいたメイドにも上がって来てもらったんだ。ま、俺としてはまともに仕事ができるんだったら誰だって構いやしない」
「想像していた以上に大変だったんだね。おまけに猿が人になったというわけか」
「猿の脳みそを食べるって話を聞いた時から嫌な気分だったが、おかげで最悪だよ。料理長が支度する前にーー脳みそに酒をかけたり何だりするんだとさーー猿を薬で寝かせて頭を剃って箱に入れたんだ。大体食事が始まる2時間は前だったな。作業は飼育室の隅でやって箱に入れて飼育室に置いておいた。料理長が支度を始めるって言うんで取りに行ったのは食事が始まる30分前ってところかな。黄料理長が頭を開けるのを見ていたよ。脳みそを傷つけずに頭蓋だけスパーッと外すっていうのはなかなかできるもんじゃないな。まるで人を殺すみたいでね。あの時気付いていれば助かったろうにな」
つまり、この男も猿と人の区別がつかなかったのである。どちらにしたって頭を開く様を見たことがないのだから、箱から飛び出た頭の一部分くらいではわからなかったのだろう。自分ならば瞬時に判断できたが、と思って以蔵はニンマリと笑った。これは常人が持つべき技能ではない。龍馬はうんうんと愛想よく頷きながら情報を噛み砕いているようだった。
「流山さんが飼育室で作業を終えてから再び取りに行くまでの間に飼育室に向かった人がいるかわかるかな?」
「わからないな。あそこは鍵がかかってないんだ。世話をするのに一々開けたり閉めたりするのが面倒なんでね。酒も貴重品もないんだ、わざわざ盗みに入る奴なんていない。そうだろ?気になるなら、雑用の餓鬼どもに聞いたらいい。動物の世話はあいつらに任せてある」
「つまり、誰でも入れたし、もしかしたら猿はまだ飼育室にいるかもしれないわけだ」
「かもな。でもさ」
疲れた流山の表情に、一瞬だけ光が灯った。
「もしかしたら、とっくに誰かの腹に収まっているのかもな」
ありえない話ではなかった。つくづく肉類を食べずにいて良かったと、以蔵は正弘に心の底から感謝した。
流山の話を聞き終えた時には大分夜が深くなっており、龍馬たちは調査を一旦打ち切ることにした。お竜が先回りして船内を隅々まで確認して来てくれたということもある。残念だが、猿はどこにもおらず、ついでに言えば正弘以外の鬼ないしは鬼もどきは見つからなかった。部屋で合流した龍馬たちに駄賃分のカエルを受け取りに行きがてら正弘に会いに行こうとお竜が言うと、彼らは一にも二にもなく承知した。
「本当は以蔵さんとゆーっくり休みたいところなんだけどね。人生そう上手くはいかないなあ」
「相変わらずおまんは能天気じゃのう。……こん仕事が終わったら本物の休みを取ればえい話やき、しゃんしゃん解決せい」
「良いことを言うな、ナメクジ。休みはお竜さんも大歓迎だ。次は温泉がいいぞ、龍馬!山の方に行くとカエルもいるしな……おーい正弘、生きてるか」
「こらこらお竜さん、煽らないの」
ゴミ処理場の扉を押すと、葛城少佐と話していた正弘がにこやかに手を振って見せた。どうやら既に内部打ち合わせは終えていたらしい。
「少佐から話をいくつか伺いました。先生がたが早速ご活躍とのことで頼もしい限りです」
「小山内、あまり人を煽るものではないぜ。坂本先生、すみませんね。小山内はまだ半人前なんです」
「僕は至って赤心で話していますよ。少佐こそもう邪魔せずお帰りください」
「へいへい」
飄々とした仕草で去る葛城少佐は何処と無く胡散臭い。そういう人間に見せかけているのか本当に胡散臭いのか、全てが有耶無耶になってしまいそうな人間だった。人間に違いないのだが、この手の人間は何をしでかすかわからないのでお竜はあまり好かない。正弘が要領を得た様子でカエルを差し出して来たので、お竜は謹んで供物を受け取った。
「船の中を全て見て来てやったが、お前に似たような生き物はいなかったぞ」
「そうですか」
がっかりするかと思ったが、意外にも正弘は想定内といった様子である。休憩室に龍馬たちを迎え入れると、正弘は粛々と茶の支度を始めた。龍馬と以蔵にはウヰスキーを未開封の瓶ごと渡す。事態が事態だけに安心させようという配慮からだろう。
「がっかりしないのか?お竜さんはお前ががっかりしなくてがっかりだ。もうちょっと楽しませろ」
「ふふ、がっかりはしていますよ。漸く蹴りがつくかと思って多少は期待していました。ですがあの勝先生が簡単に飴をくれるとは思えません。こう見えても僕は便利使いされる身の上なんですよ……だから時々思うんです。もしかしたら僕の父親なんていう人間はどこにもいないかもしれない、と」
「いないという確証が得られるまで永遠に探し続ける羽目になるからかい?悪趣味な話だね」
「……よくある話じゃろ」
ポツリと以蔵が暗い声を漏らしたが、龍馬は気づいていないらしい。気づけば誰よりも胸を痛めただろう。お竜は胸こそ痛まないが、胸糞は悪くなるのでひどくザラザラとした心持ちになった。お竜が以蔵と出会うまでの間、以蔵の生活というものは実に陰惨を極めていた。もやしだってもっと陽の光を浴びて伸び伸びと育ったに違いない。切れ目からこぼれ落ちそうなカビた闇を無視すると、お竜はその全てを吐き出させるか封じ込めるかを龍馬と以蔵とで選ぶ日がいつか来るだろうと嘆じた。人間の出来事は、結局人間でしか解決できないのである。
「にゃあ、正弘。おまん大陸の言葉はわかるが?」
「多少は心得ています。必要とあれば少佐を連れて来ますが、どのような内容でしょう」
「確か……『為什麼這樣?我説爾把猴子來,為什麼準備”一個人”!他是完全……完全其外人』じゃったか。わしは喋れんき、正しいかはわからん」
「すごいや以蔵さん!それって黄料理長が何か叫んでいたやつじゃないか」
以蔵の口から紡がれた異国の言葉は滑らかで淀みない。この男は一度見た剣技をそっくりそのまま覚えて自得することができるのだが、それは言語にも応用されるらしかった。以蔵の台詞を小さく反芻すると、正弘はキュッと瞳孔を細めて見せた。こんな真似ができるのはやはりひとでなし所以である。
「これは重要な話です。岡田先生は天才ですね!剣技も一目見れば覚えると伺っていましたが、他のことまでなんて……ああ、すみません。つい嬉しくて。訛りからして中国南方の人間が話したのでしょう。意味は『どうしてこんなことに?私は猿を持ってこいと言ったはずだ、何故”人間”を用意したんだ!彼は全く……完全に別人だ』というようなものです」
「完全に別人」
正弘の言葉を繰り返すと、龍馬は何かに思い当たったのか、額に光を巡らせた。同じくくるくると頭を回す正弘が顎に指を当てながら静かに尋ねてくる。
「葛城少佐から神野氏が死亡した件を伺っていましたが、他にどなたか行方不明になっているのではありませんか?」
「井納という給仕の人がいなくなっているらしい。だが正弘君、君の考えが僕と同じならば妙な話になってきたね」
「な、なんじゃ龍馬。まさか行方不明の奴まで殺されちゅうんか!」
「そんなこと、黄とやらに聞けば良い。そいつが全部知っているんだろう?」
にわかに慌て出す以蔵に、お竜は何を無駄に思考を積み重ねるのだろうと小首を傾げた。正弘があまり見たことのない大きいカエルを渡してくれる。ウシガエルを改良したもので、有事の際に食用に適すべく作っているのだという。軍部というのはこういった生き物も開発しているらしい。故に鬼も人魚も必要なのだろう。
「素直に話してくれればいいんだけれどね。ま、以蔵さんもお竜さんもいるんだ。どうにかできるよ」
「父がいない以上、僕も大手を振って歩き回れますからね。必要とあらばお申し付けください」
「頼むよ」
「はい」
正弘の灰色がかった瞳に青い切れ目が入る。まるで海を閉じ込めたような色に、お竜はその向こうに潜む彼の先祖を思った。受けつぐために先人を食べ続けてきた蓄積がこの青年の体を作り上げている。龍馬はこの鬼人が世のために父親を止めようとしていると考えているかもしれないが、お竜は違うように思い始めていた。正弘は鬼だ、この船に乗っている人間の姿をした鬼どもと根底は何も代わりはしない。自分の獲物を横取りされたことに腹を立て、盗人を誅滅しようとしていると考える方が無難だろう。正弘が味付け用のソースを渡そうとするのを断ると、お竜は本日最後の質問を投げかけた。
「お前は父親を見つけたら食べるのか?」
「興味深くはありますね。父の中には母も弟もいます。ですが、僕は食べませんよ」
「何故だい」
以蔵と軽口を叩き合っていた龍馬が不意にこちらを向いた。ひどく真剣な眼差しで、お竜は龍馬がこの人間にとっては禁忌(らしい、今の以蔵が苦り切った顔をしていることからわかる)である質問をしたことに不安を感じた。
「父は僕と一緒になりたがっているような気がしますからね。だったら食べないことがあの人にとって一番の罰ではありませんか。あの人はこれから先の未来のどこにも存在できないんです。全てが無駄だったと思ってもらわなければ罰の意味がない。どこにも残らないように、誰もが忘れるようにすることが僕の望みです」
熱が篭ったのだろう、正弘の額からツノが生えて来る。発言のらしさも相待って、怖気付くようにして龍馬たちは挨拶をして出て行きーーお竜もその背を追う。ちらりと振り返り見た正弘の背中は、まばゆいほどの燐光が覆っていた。
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