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私はあなたの物語。


彼の話


 嘘というものは誰だってつくし、忘れ物だって誰だってするだろう。人間に完璧は求められない。自然とは、この世界とは不完全なのだ。さんざん世間の波に揉まれてきたナワーブ・サベダーはとうに承知している。それでもつい信じ切ってしまって手酷いしっぺ返しを受けるのもまた人生だ。苛立ちながらも受け入れられるようになってきたのは、自分もまた小狡くしぶとくなったためだろう。成長の証と捉えても良い。

始まりは、些細な落とし物からだった。茶色い厚紙に包まれた手帳で、ポケットからこぼれ落ちましたと言わんばかりの様子で廊下の隅に落ちていたのである。ちょうど長椅子の影になるあたりだから、落とし主は気づかなかったのだろう。だだっ広い荘園の館に相応しい大きな長椅子は、まるで寝そべった猛獣のようにも見えた。戦場で培った注意深さがなければ気づくはずもない。

 以前のナワーブであれば、落とし物の一つや二つ、見つけたところで拾いもしなかっただろう。他人の持ち物とは、それすなわち他人との関わり合いを持つということだ。ゲームでの連携以外、なんら交わりを求めなかったナワーブには無用の代物だった。今は――今は、変わっている。自分でも驚いたことに、ナワーブはまるで昔を思い出すようにして人間らしさを取り戻していた。挨拶をし、共に料理をして食事を取る。からかいもすれば笑いもし、遊んで殴り合って泣く。他人がなす全てがナワーブの目に鮮やかに映った。こんなにも世界は暖かかったろうか。そうだったな、と海馬が笑う。ナワーブが置いてきたものだ。

 一度塗り替えられた認識というものはなかなか覆らないものだが、根気強い周囲の人間に絆された結果である。とりわけ筆頭にあげられるのはクリーチャー・ピアソンだろう。胡散臭さを凝縮したような年上の男は、最初から気に食わなかった。たいして歳も違わないと後から分かったが、あからさまに自分を年下の少年のように扱うのはいただけない。懇切丁寧にあれこれ説明し、他の人間と馴染むように仕向けるだなんてお節介にも程がある。クリーチャーなんて、当時のナワーブにしてみればゲームの駒に過ぎない。懐中電灯という、慈善家の肩書に釣り合わぬ彼の道具も、ナワーブの傲慢さを増長させた。確かに自分は幼かったと、今ならば言うことができる。全てはクリーチャーの掌の上で踊っただけの出来事だ。

ゲームにおいて、クリーチャーは打たれ強いナワーブの窮地を救い、起死回生の逆転劇を演じ、その癖体は弱いばかりで強靭さのかけらもない。あれは足掻きだ、と何度目かの怒りと絶望を浮かべて敗北を受け入れたことをよく覚えている。クリーチャーはまさにサバイバーの名に相応しい。生き延びようと、どんな目にあっても活路を見出そうとするしぶとさがクリーチャーにはあった。戦場であれば、背中を預けるには十分な理由だ。負けた。この男のひ弱な腕に寄りかかることをナワーブは自分に許した。そして世界はにわかに熱を帯びたのである。

「誰のかな」

だから、手帳の中を開いたのは好奇心からではなく素直な親切心からだった。きっと大事なものに違いない。途方に暮れる相手を助けてやるのは気分も良い。表紙に名前はなく、ぺらぺらと紙をめくればびっしりと書かれた小さな文字たちが襲いかかってきた。紙を無駄にしないようにぎゅっと詰め込まれた様は圧巻である。何しろ異国の言葉にはまだまだ疎いナワーブなので、思わずうっと喉をつまらせて一度閉じた。こんなにも煮詰まった思いの丈を受け止めるには心の準備が必要だろう。長椅子に腰掛け、深呼吸をする。まずは一ページ。全てはそこからだ。

『九月十日

新しい奴がやってきた。ナワーブ・サベダー、元傭兵らしい。東洋人は微笑みの国から来たと聞いたことがあるが、全然可愛げがない。』

「え」

思わぬところから転がり出た自分の名前に、ナワーブは頭の中で日めくりをめくった。確かに自分が来た日の話だ。とすれば日記で、ちょうど記念すべき自分の来訪時、凡そ半年ほど前からのものであるらしい。日記自体は珍しいことではなく、荘園の主人がゲームに加えて義務付けているものだから、誰しも苦手だろうがなんだろうが毎日記している。ナワーブも苦しめられつつも、語学学習も兼ねて綴っていた。日々のことを書くのだから、当然ながら周囲の人間の名前を出すことも多い。だが、他人の物語に自分が登場するなど、実際に目の当たりにすると驚くほどに胸を打った。

 本来は、ここで切り上げて日記を落とした人間はいないかと方々に尋ねて回るべきだろう。さりとて一度起き上がった好奇心は収まらない。自分の名前が出ているのだ、読むのは必然だろう?わざとらしい肯定をしながら、可愛げがなかったナワーブは文章のしっぽに向かって目を走らせる。

『体つきは悪くないし、言葉はわかるらしい。役に立ってくれると良いが。まあ、道具は使いようだ。どうにかすれば良い』

さながら屠畜場の職人のようだ。品定めされることに慣れているとは言え、今では打ち解けた仲間たちに見られていた事実はあまりにも生々しい。不覚にも背筋がぞくぞくとして、ナワーブは自分もこの日記の持ち主に何某かの鑑定結果を貼り付けたのだと唇の端を上げた。

『九月十一日

ナワーブに声をかけたが無視された。朝食を食べさせるまで骨が折れて参る。怪我した野良犬に似ているかもしれない。セルヴェには程々にしておけと忠告された。逃げるだけのあいつと俺は違う。見ていろ、今に驚かせてみせる』

セルヴェではないらしい。書き手はナワーブに朝食を与えたという大きな手がかりを見つけたが、残念なことに何一つとして覚えていなかった。当時は本当に他人に興味がなかったのだ。

『九月十一日

ゲームに出た。思った通り、よく走る。でもあれじゃ使い物にならない。説明してやるしかないが、聞く耳も持たない。ひどい怪我をして馬鹿な奴だ。エミリーが包帯を無駄にしたと嘆いていた。あいつは治療を拒んだらしい』

思わず笑い声が出そうになった。書き手の指摘する通りである。が、同時に計算づくの態度は鼻につく。最初のゲームのことは、思ったように進まず憤懣やる方ない気持ちになったことしか覚えていない。馬鹿な奴。舌の上で転がして、ナワーブは書き手に親近感さえ抱いた。その響きは随分と甘い。

こんなものは他人に見せるわけにいかない。当初の目的を放り出すと、ナワーブは日記片手に自室に引っ込んだ。夜までは長く、今日の予定は空白だから、何をしたって自由である。例えば、他人の過去を暴くだとか。人でなしの集まりに相応しい所業だろう。無意識に扉に鍵をかけて、はやる気持ちを抑えて椅子に座る。ページを巡る手が止まらない。

『九月十二日

カートが洗濯機を壊した。トレイシーに頼んで直してもらうまで手洗いをしたが、久々にやったせいか腰が痛い。支払いは高くつくぞ』

自分の名前が出ないことに、ナワーブは少なからず落胆した。あんなに事細かに書くほど注視しているならば毎日書いて欲しい。否、それはそれで気持ちが悪いか。カートとトレイシーも持ち主の候補から外し、ナワーブはページをめくった。自分の名前が出るまで、読み方はおざなりだ。自分が荘園に来るよりも随分前から住み暮らす書き手の生活は、ナワーブの想像以上に賑やかであるらしい。おまけに怒ったりせせら笑ったりと素直さを垣間見せるかと思えば、老獪な戦略を張り巡らせたりと振り幅が大きくてチグハグだ。こんな男が(もうこの時点でなんとなく男だという当て推量はできていた)、自分に何を思うのか。早く教えてくれとページをめくり、ナワーブは再び声を失った。

『十月二十一日

ようやくナワーブが口をきいた。ゲームも狙い通り勝てて調子が良い。私の勝ちだ。セルヴェとカートから金を巻き上げて良い気分だ。はは、ざまあみろ!』

自分は賭けの対象にされていたのだ。ありうることにも関わらず、ナワーブは緊張から指先がジクジクと痛むものを覚えた。これは、だってこれは、この日記の持ち主は、

「ピアソンさん……」

あの日預けた背中だ。寄り掛かった腕。温かく自分を包んでくれた毛布が、霞だったかのように取り払われる。あの一連のしつこく、献身的にナワーブに接した全てが、ただ自分を『使い物にする』ためだけだったのだ。なんという茶番、なんという策略!ふつふつと腹を煮えくり返らせながら、ナワーブはクリーチャーの面影をなぞるように文字を指先でなぞった。相手の肩を掴んで揺さぶってやりたい。

 今でも彼は自分を道具扱いしているのだろうか?答えは是だ。他の人間に対しては随分柔らかい書き方をするものの、根底には何が得意で何を頼めば良いのか、どうすれば自分にとって利があるかを考え抜いた行動をとっている。全く侮りがたい。頭の回転の良い、勘が冴えた男だなんて、あのクリーチャーの風貌から想像もつかなかった。観察力に優れていると自負した自分は余りにも愚かだ。唸り声を上げながら表紙を閉じ、ナワーブは苛立ちをぶつけるものを探して枕をがむしゃらに殴った。何に対して怒っているのかもよくわからない。甘い自分か?騙したクリーチャーか?わからなくなった幻想も現実もめちゃくちゃにしたくて、ナワーブは思うがままに枕を蹂躙した。

「なんなんだよ」

じわりと胸が熱くなる。ぺしゃんこになった枕を抱え、ナワーブはごろりとベッドに転がった。枕がないベッドは、どんな環境でも寝られたナワーブを跳ね除けるようにしてなかなか寝かせてくれはしなかった。




 仕方がないことだ。怒りを爆発させた翌日、余りはっきりとしない頭でナワーブは結論づけた。ゲームに参加することは、危険な賭けをしてまでも目的を叶えようとする執念からである。何としてでも勝ちたいのであれば、元傭兵の肩書のある自分を含めて、誰をも道具扱いするのは不思議ではない。

「どうした、兄弟。さては欲求不満かな」
「かもね」

最悪なことに、朝一番に顔を合わせた相手はクリーチャーだった。あどけない笑みを自分に向けないで欲しい。自分は――自分は、彼を道具にはもはや見えないのだ。相手の気持ちが明後日の方向を向いていると知っても尚、ナワーブは未練がましくこの『兄弟』に親しみを抱いていた。裏切り者め。舌打ちをしながら、当たり前のような顔をして並んで顔を洗い、髭をあたって身嗜みを確認し合う。いつからこうしているだろう?自然な仕草でナワーブの髪を梳るクリーチャーは甲斐甲斐しく、到底道具に対する冷たさは垣間見られなかった。あるいは彼は誰にでもこんな接し方で、冷静に相手の気を引くのだろうか。クリーチャーを胡散臭いと言いながらも、誰もが彼の頼みを快く引き受けていることを思ってナワーブの心中は一層複雑になった。

「君もこの手の冗談に乗れるんだな。……私は相談に乗ってやれないが、その、その手のことに困ったらばナイチンゲールに頼むと良い」
「あんた、頼んだことがあるの」

ぱちんと思考から目が覚めて、ナワーブは鏡の中の人を睨みつけた。胸がざわつく。これだって、致し方ない話じゃないかという心の意見は耳に入らない。長らく狭い環境にいたならば、煮詰まるものもあるだろう。寧ろ関係を円滑にしたいならば、荘園の人間たちで痴情のもつれなど引き起こさないに限る。あのカヴィン・アユソだって、口先ばかりのナンパに留めているのだ。あれは単純に相手を大事にしようとしているだけかもしれないが、節度ある態度は称賛に値する。ナワーブの勢いに気圧されたのか、クリーチャーは梳る手を止めて目を丸くした。

「な、ない」
「本当に?だったらなんで言えるのさ」
「わ、私はその……あまり、そ、そういうことに興味がないんだ」

嘘つきめ。ナワーブは心の中で舌打ちした。彼の日記には確かに性欲の気配があった。とりわけご執心はエマ・ウッズ、だが描写は単に執着にとどまっていたかもしれない。似たようなものだろう?後は、昔のことを思い出して自慰をしたという文言もあった。不覚にも想像を巡らせたナワーブは自分自身の気持ち悪さに辟易したものである。クリーチャーの指先から目が離せない。この手が、彼のものを愛撫したのだ。どんな風に?ナワーブの髪の毛を結ぶように器用に動いたのか、それとも性急にか。クリーチャーのものはどんな形だろう?

「ナイチンゲールは、た、大抵のことは叶えてくれるらしいからな」

ホセ・バーデンに聞いたのだとクリーチャーは言い訳を続ける。眉唾物だとナワーブは切って捨てた。クリーチャーの手が微かに震えるのを見届けながら、紙紐が結えられたことに今日の始まりを受け入れる。もっと知らねば。

「……考えとく」

どうしたのだとクリーチャーが目で問う。尋ねたいのはこちらの方だ。自分をこんな気持ちにさせておいて、今、本当は何を考えている?頭の中で日記が蘇る。続きを読もう。適当に会話をこなして、ナワーブは朝食へと相手を誘った。あからさまにほっとした様子のクリーチャーの様子は可笑しい。今に見ていろ。ほくそ笑んで、ナワーブは今日というページを開いた。




『二月七日

兄弟と呼ばれた。そんな言い方は初めて聞いたから驚いた。東の方ではありふれた呼びかけなのだという。懐かれているのは良いことだが、近すぎるのも面倒だ。聞き流すことにした』

夕刻、一通りの用事を済ませたナワーブはいそいそと日記を開いた。一日中日記のことと、クリーチャーのことばかり考えていたせいで頭が疲れている。だが早速開いた先は冷たいもので、ナワーブは頭から水をかけられたような心地になってしまった。この日のことはよく覚えている。冬の催し物を一緒に乗り越えて、寒さから身を寄せ合った時のことだ。暖炉の前で毛布を被り、まるで獣のように互いにぴったりとくっついた時には随分と安心したと記憶している。クリーチャーだってクスクス笑っていたはずだ――その中身がこんなにも冷ややかだったとは。幸先が悪いとしか言いようがない。

 唇を尖らせて、だが今朝はどうだとナワーブは気を取り直した。確かクリーチャーから自分に『兄弟』と呼びかけてきた上に、このところはずっと甲斐甲斐しく互いに朝の支度をし合っている。距離が近いと言うならば、今こそそう表現されるべきだろう。つまり、未来は明るいと考えて良いはずだ。ページをめくり、めくり、めくる。自分も共に過ごした時間だと言うのに、肝心の日記には少しも出てこない。新参者のイソップ・カールやパトリシア・ドーヴァルの名前が連ねられた時には、ギリギリと歯噛みしてしまった。彼らはナワーブほどではないが、少々手を焼きつつも無事仲間の一員となったとある。思えばあの頃、自分はクリーチャーと顔を合わせる時間が短くなっていた。余りにも自然に潮が引いていたので気づかなかったのである。

「ずるいな、あんた、ずるいよ」

自分の気持ちばかりがかき立てられる。煽るだけ煽って遠のいてしまった人が恨めしい。否、クリーチャーに拘る理由なんてないのだ。それでも最初に目をつけてくれた相手の目が、自分から逸らされるのはどうにも受け入れがたい。

『二月二十七日

酔い潰れたナワーブを介抱してやった。私でなければ動かないと言ったらしい。イライ君も律儀なことだ。何か余計なことを考えている気がする。腹が読めない奴はこれだから嫌だ。

部屋まで引きずるのは大変だった。放り出してやっても良かったが、明日はゲームだ。ナワーブがなかなか離れなくて困る。どうしたら丁度いい距離を取れるんだ?いつまでも私に懐く理由がよく分からない。餌はもうやっていない』

餌。自分は犬か、とナワーブは吐き捨てつつも小躍りしたい気持ちだった。あのクリーチャーが、自分を虚仮にしたクリーチャーが困惑している!そうとも、彼ばかりがこちらを踊らせるわけではない。自分だってできるのだ。もちろん偶然の産物に過ぎないが、ナワーブの気分を盛り上げるには十分だった。泥酔の末にクリーチャーでなければ嫌だと駄々をこねたのは恥だが、その結果がこれであれば申し分ない。自惚れたい気持ちでいっぱいで、ナワーブはヒュウと口笛を吹いた。口をつぐんでいたイライ・クラークには感謝をせねばならないだろう。天眼なるものであらゆる事象を意図せず見通すイライは、今日のナワーブを知っていたに違いない。さらにページをめくる。一枚めくるごとに心臓が高鳴り、最早自分の名前が上がらない瞬間さえものめり込むようにして読み込んだ。

『三月一日

ウッズさんに声をかけたら、助けはいらないと断られた。私の助けが必要なくせによく言う。淑女の振る舞いがわからないのか?ウィラが軽蔑してきたが、いつものことだ。ウィリアムに阻まれたので諦めた、振りをしておく。』

数ページ後、いつもの記述通りに怒りが暴発するかと思ったが、どうやら勝手が違ったらしい。

『いつも通りだ。これで良い。大体私なんかに優しくする奴の気が知れない。慈善活動の見返りなら納得できるし、私は役に立つ。だから一緒にいるならば納得できる。

彼はなんのつもりなんだ?ふざけている!何が狙いなんだ?』

あっ、と小さく声を上げて、ナワーブは今まで積み重ねたクリーチャーの思考回路をようやっと理解した。この男は自分自身をも機能的にしか捉えていない。ある意味では非常に憐むべきであり、どこまでも公平で利己的だ。そうして、自分の価値を試している。得られない愛を、執着のお返しをエマに頼んで返らぬことを『いつものこと』とするクリーチャーはひどく幼く感じられた。愛を試すのは、子供のすることだ。どこまで許されるのか、自分はどの程度の価値があるのかを他人で測ろうとする。不意にクリーチャーが抱える虚さを覗き込んだ気がして、ナワーブはぶるりと震えた。

 クリーチャーが日記の終わりで言うところの『彼』は自分のことだろう。そうでなくてはいけない。怯えるクリーチャーは面白かった。日記にポツポツと顔を出すナワーブに、引き摺られるのはクリーチャーの困惑と怒り、それにちょっとした喜びだと読み取るのは願望の表れだろうか。初めて兄弟と呼び返した時、だんだんと慣れていった自分に気づいた時、仕方がないと思い始めた時――ナワーブと一緒にいて、そのくせまるで伝えられなかった気持ちの揺らぎが、切々と文字に綴られる。その言葉の全てを直接聞きたかった。だって自分のものなのだ、受け取るのは当然の権利だろう。

残念ながら日記はナワーブとちまきを分け合ったあたりで終わっている。次の巻に移ったことは明らかだ。そこに自分はいるか、いるはずだと気が逸る。惚けたように最後のページを眺めてしばらく後、ナワーブは徐に日記を閉じて、代わりに棚からするりと自分の日記を取り出した。

今日の日記を書こう。そして結果を待つのだ。この裏切りの代償はどんな身を結んだのかを。




 日記がなくなった。いつなくしたかも忘れているとは我ながら抜けている、とクリーチャーは心底焦っていた。日記。それは、なによりも生身の自分が綴られた、いわば自身の一部である。見るはずもないが、書いているかいないかだけは何故か把握している荘園の主人を除いて、この日記はあくまでもクリーチャーだけのものだった。一体何冊目に突入したかも、もう覚えてはいない。過去を振り返る感傷的な気持ちはないものだから、書いてしまえばそれまでだ。ただ、自分が生きてきたことを確認する目的で、新しい日記帳に移る時は、書き終えたばかりの日記帳に一通り目を通すことにしている。忘れたことのなんと多いことか!わずか数ヶ月から半年の出来事は、最早他人の物語に等しい。物語ならばそれらしい場所で読むと言うのもまた習慣で、クリーチャーは日記帳を片手に出掛けたのだった。

 そして途中でいつものように誰かの手伝いをしたり、ふざけたりおやつを摘んだりはたまたゲームのピンチヒッターを務めたりしているうちにポケットの中身を記憶ごと落としてしまったらしい。気づいたのは、新しい日記帳に変わって一週間もしない頃だった。まさか、という思いが一番にやってくる。落とすだなんて間抜けなことがあるだろうか?まずいことは書いていないと思うが、ああしたものは書いた本人ではなく読み手の解釈次第である。余計な疑惑や混乱を生み出して集団生活に影響を及ぼすことは以ての外だ。誰か見つけたろうか?落としたことを尋ねようにも、うっかり余計な詮索をされては困るとしりすぼみになってしまう。夜中に新しい日記を書く時、ようやく思い出して――クリーチャーは落ち着かずに朝を迎えている。

「なんかソワソワしてるね」
「そ、そんなつもりはないが」
「ソワソワしてるよ」

洗濯室でタオルをたたみながら、クリーチャーはナワーブの問いかけに上の空で答えた。今頃誰かがあの日記帳を開いて、クリーチャーの弱みを握っているかも知れない。ナワーブがバスタオルのたたみ方を間違えていることも気づきながら指摘せず、クリーチャーは必死であらゆる可能性を考えていた。現時点で誰もからかいもしなければ、届けもしないことからしてどこかに落としたままの可能性は高い。あるいは拾った人間が忘れたか、ゴミと思って捨てたか。後者は自分のものを勝手に捨てられることに怒りはわくものの、今後の損失は少ない。表紙の厚紙の感触まで生々しく思い出せるというのに、肝腎要の中身は思い出せない上に、どこにあるかもわからないとは!どうしよう、どうしようかと思考はついぞ行方不明である。もう昼過ぎのはずだが、死に物狂いで探し回った以外の記憶はない。クリーチャーは疲れていた。

「ピアソンさん、ずっと渡そうかと思ってたんだけど……これ、渡しておくね。あとで開けてよ」
「君から私に贈り物だなんて珍しいな。明日は雪が降るのか?」
「降ったら嬉しい?」

妙に甘い言葉に、クリーチャーは小首を傾げた。ナワーブにはどうにも調子が狂う。最初に餌を投げて懐かせたのは事実だが、毒を少しずつ抜くようにして離れるよう取り計らいもした。目的を達成することが全てであって、何も人間的な関わり合いは求めてはいない。それがナワーブを前にするとおかしなほどに歪んでしまう。彼の、距離が近いのだ。おかげで自分まで感覚が鈍ってしまう。

「やだね。寒いのはごめんだ」
「あんた、寒がりだもんね」
「一度氷漬けにされたらわかるさ」

荘園の主人の気まぐれで体験した、あの恐ろしい日々を思い返してクリーチャーはぶるりと震えた。ナワーブが差し出した紙包を受け取り、忘れぬようにと小脇に置く。今度こそ置いて行きはすまい。何が入っているだろう。一人の時に、だなんて秘密めいていてぞくぞくする。ナワーブの目を見れば、青空にも似た青が紺碧の海にキラリと煌めいた。東洋人の面立ちは神秘的だと言われるが、この瞳ならば頷ける。まるで魔法だ。

「……今、開けても良いか?」
「何が入ってても、受け取ってくれるなら」
「怖いな」

呪いの道具でも入っているのかと思わせる程に重いセリフに、クリーチャーは思わずふは、と中途半端な笑いを漏らした。この青年は自分相手に何を必死になっているのだろう。そうだ、今ナワーブからひしひしと感じるのは無我夢中の必死さだ。ゲームの最中、何度張り詰めた空気に救われたか知らない。ごくりと唾を飲み込むと、クリーチャーは小さく頷いて紙包を開いた。一度、中身を知れば忘れまいという軽い気持ちが、とんだ展開になろうとしている。その決定打は、転がり出たあの日記帳で決定打となった。

「君が拾っていたのか」

口の中が乾きだし、クリーチャーは口の中で舌を転がし湿らせようと試みた。ドッドと心臓が跳ねる。日記帳には、自分の名前を書いてはいない。拾われてもわからないようにという配慮は今や裏目に出ており、今ここにある理由は火を見るよりも明らかだった。

「読んだんだな、人の日記を、私の、」
「ごめん。読まないと、誰のかわからなかったから」

からかうでもない、真剣な口調のナワーブがクリーチャーの苛立ちを燃え立たせる。恥ずかしい。中身を見られた、何を書いたかも覚えていないものを、この妙に近い青年に!彼の眼差しに何の色も浮かんでいないことが一層惨めさを掻き立てる。どうせならばいっそのこと嘲笑って欲しかった。優しさは嫌いだ。自分をどうしたって逃してくれやしない。

「ありがとう……それでこっちは」

ぎしぎしと軋むような声で返し、クリーチャーは包みの中身のもう一つを取り出した。ざらざらとした皮表紙のノートで、ぺらりとめくれば日付が目に入る。さりさりと書かれたひっかき傷のような字を目に入れて、クリーチャーは慌てて閉じた。その様子を、じっとナワーブの目が追っている。

「か、返す!」
「断る。開けるなら受け取るって約束したでしょ」
「君の日記なんて欲しくない」
「読んで良いのに?あんた、俺と距離を取りたいんでしょ」

弱みが書いてあるかもよ、だなんて妖しい毒がばら撒かれる。唐突に本音に触れられて、クリーチャーは髪の毛が逆立つのを覚えた。読み込んで、全て分かった上での態度だなんて屈辱でしかない。おまけに堂々と自分の恥部を晒してくるのだから、敵に情けをかけられる以上のひどさだった。そんなにもでんと構えるならば、きっと弱みなんてかけらも書いていないに違いない。圧倒的に不利な立場だ。下唇を噛んで、クリーチャーはそれでもと諦めずに手がかりを掴んだ。

「あとは君に任せる。か、返せと言っても返さないからな」
「良いよ」

それはあんたのものだから。また四つ折りのところを三つ折りにし始めたナワーブに、クリーチャーはもう何も言わずに顔を背けた。




 クリーチャーに覗き見の趣味はない。ないが、他人の不幸は蜜の味であることはよく知っている。情報は何よりも価値があり、自分の利益を引き寄せてくれるのだ。砂金から星屑までの情報をかき集め、クリーチャーは今日も必要なものをふるいわけている。ナワーブの日記帳についても然りだ。洗濯室に持ち主を置いて行き、お言葉に甘えて自室に戻る。まずは自分の日記帳をあるべき場所に戻そう。ずらりと並んだ、もう何冊あるのかもわからないものたちの末尾に加えると、不思議と気持ちが落ち着いた。隙間が埋まるとはこういうことを言うのだろうか。

次は、と他人の日記帳を見遣ってクリーチャーは躊躇う。読んでも良いと言われた稀有な代物だ、開けるになんら罪悪感など抱く必要がない。だが、まるで彼の内臓に触れるような背徳感と怖気でクリーチャーの手は震えていた。ナワーブはこれを読めと言う。諦めのため息を漏らし、クリーチャーは勝負を受けて立つような気持ちで椅子に座った。脚を崩して、机に乗せる。こんなものは冒涜的な態度で読むくらいが丁度いい。皮表紙を開き、クリーチャーは目を細めて敵に組みついた。

「きったない字だな」

異国の言葉が慣れないのだろう。ペンが逆立つような荒れ狂った字に、クリーチャーは我知らず苦笑した。日記の冒頭は数ヶ月前に遡り、後半は白紙であることから今書いている最中の日記だと知れる。例えば昨日の日記なんて書いてあるのだろうか。まんまと乗せられているような気がして癪に障るものの、クリーチャーの手は素直にページをめくった。昨日。

『やっぱりこれはピアソンさんに返そうと思う。』

のっけから自分の名前が上がり、クリーチャーは無理やり引き寄せられた。組んだ脚が自然と床に降りてしまう。まるで背中を電流が駆け上がるように痺れて、どくどくと血脈がざわめいた。やっぱり?返すに当たってナワーブは躊躇していたのか。したのだろうな、と指先で文字を追う。

『ピアソンさんの気持ちが知りたい。なんでも知りたいし、俺のことも知ってほしい。なんで普段はナワーブって呼ばないくせに、日記だと呼び捨てるんだろうな。『サベダー君』だなんて、俺を遠ざけたいからか?やめて欲しい。

あんたが兄弟って、俺のことを呼ぶのは嬉しいよ。呼ぶのに迷ったんだってね、あんたらしい。もっと俺のことを試しても良いのに、エマと違って俺にしないのはなんで?全部応えられると思う。応える努力はする。

朝、一緒に支度するのが好きだ。いつから始めたのか忘れてたけど、あんたのお陰で思い出せた。こんな風に誰かと寝ぼけた顔で並べるなんて、子供の時以来だと思う。安心するのかな。それとも、俺はあんたが好きだからかな?

あんたに答え合わせをして欲しい。あんたの名前が呼びたい。クリーチャー!』

踊るような最後の字はほとんど叫び声になっていた。耳が熱くてじんじんする。こんな気持ちは生まれて初めてだった。答え合わせだって?自分だって持ち合わせてない答えを、もう照らし合わせれば良いというのだ。聞くより先に正解を決めているような態度が鼻につく。

「馬鹿だなあ」

こんなもの、弱み以外の何者でもないではないか。あのナワーブ・サベダーが、よりにもよってクリーチャーにご執心だなんて口が裂けても言えないに違いない。クリーチャーも傷つく諸刃の刃だったが、それにしたって致命的な問題だ。煮ても焼いても良いと放り出すナワーブの気が知れない。日記を飛び越えた手紙のような内容に、クリーチャーはこんなものも日記として良いのかとどうでも良い感想を抱いた。

「ナワーブ、兄弟、なあ」

立ち上がって、机の隅に置いた新しい日記帳を引き寄せる。わからなくて、どうしようもなくて、けれども突き放せなかった日々が綴られた物語を、クリーチャーは目を細めて読んだ。今日の日付を書き入れる。

『日記帳が見つかった。ナワーブが持っていたらしい。ご丁寧に自分の分まで読めと押し付けてきた。飛んだ迷惑だ。

言いたいことがあるなら直接言ってくれ。答え合わせはそれからだ、兄弟。』

今晩、何食わぬ顔をして渡したらば、いったいどんな反応を見せるだろうか。それまでに読んでしまおうと、再びナワーブの日記に手をつける。ピアソンさん、ピアソンさん、ピアソンさん。他人の物語の中で生きる自分は、まるで自分ではないかのように生きることが上手くて驚いてしまう。ありがたい買い被りだ、本当のクリーチャーは未だに落ち着かないほど不器用なのだ。ナワーブの頭の中に、虚構のクリーチャーが居座ってニヤニヤと笑う。そんな人間などいやしないと、現実を見ろとはっ倒してやりたくもなる。可哀想でなんと可愛らしい。

どれくらいがちょうど良い距離か、なんて今更考えても無駄だ。もう何もかも手遅れなのだとクリーチャーは悟りつつあった。試したくて、でも試してしまったら終わりだとドキドキしてしまう。裏切られ、頭が冷えても尚心臓が高鳴って、この代償は高くつくと宣言するナワーブはなんとも勇壮だ。

「私も知りたいんだ」

文字を飛び越えて、自分の名前を呼ばれたらどんな気分になるのか。紙面に軽く口付けて、べたべたとした感触に顔をしかめる。乾ききっていない、まだ熱を持ったインクはたまらなく苦かった。


〆.


あとがき>>
 他人の発言や文章に、予期せぬ形で自分が織り込まれているとつい気になってしまう、あの感情はなんでしょう?荘園の日記には、さぞやお互いの名前がたくさん記されているのだろうなあと想像して書いていました。楽しい感情が多いといいなあと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!