地獄行き
列車は一つの世界だ。外界から閉ざされ、絶えず移動してゆき大地に囚われることもない。ましてや広い広い世界に横たわる大陸横断鉄道の類いともなれば、人々を止める時間の長さからして完全に独立国家と言っても良い。一等から三等まで種々揃えた客室にみっちり相応しい――懐具合の――客が収まり、お仕着せの制服に身を包んだ人々が合間を行き来する。食堂車では豪華な食事を、もちろんシガールームにビリヤードルーム、長旅にはうってつけの書斎も備えている。一日中、どこに至ってもくるくると変わる景色を前にしていれば気持ちも晴れるというものだ。揺れる王国の民たちは、見果てぬ異国の夢を見る。
「泥棒よ!泥棒が入ったんだわ!」
甲高い女性の声と共に騒がしくなったのは二等客室の方向で、ナワーブ・サベダーは喫煙室から戻る足を早めた。場所は大雪原の真上、折しも昼食から今しばし時間が経ったばかりの微睡み時である。国家を担う一大仕事を地味にこなしたナワーブにしてみれば、この旅は優雅な休暇を約束してくれるはずのものだった。たまには休みたい。名探偵と褒めそやされて、事件に巻き込まれる忙しさをしばし忘れるのだ。そんな気持ちを抱えてようやく一週間が経とうかという頃になって、事件はナワーブを呼び戻すことにしたらしい。無視をすることだってできた。が、割り切れぬ心に突き動かされ、ナワーブはガラリと二等客室の扉を開いた。
「何が起こったんですか?」
紺青が美しい制服の車掌に声をかけると、困ったような顔つきの青年が振り返った。しばし、ナワーブを見て一体誰だろうかという表情を浮かべること数秒、青年は表情を明るくして笑顔さえ浮かべた。
「もしかして……あなたは……」
「シッ、俺のことはあとでだ。何が起きたのか、教えてくれないか?」
幸いにしてナワーブの顔は売れていたらしい。青白い顔を微かに紅潮させると、青年は車掌を務めるアンドルー・クレスだと自己紹介した。まるで雪原から掘り出したような白さに、ナワーブはこの国の広さを垣間見る思いだった。
「二等客室にて、盗難が発生したとの訴えが出ました。彼女からの訴えは三度目で、どこまで本気で扱うべきかあぐねているところです。幸か不幸か、この列車には警官も乗り合わせておりますので、彼に委ねるつもりですが」
確かに、コンパートメントから出てきた婦人に寄り添う若い青年は、まるで子犬のようだが立派な警官の装束を身につけている。三度となると流石に奇妙である。傍目にはそうまでして盗み出す価値のあるものを持っているようには見られなかった。
「実は、これまで盗まれたと訴えていらっしゃるものも全て見つかっているのです。おそらく見間違いではないかと思いますが、陛下の犬は考えが違うようです」
舌打ちさえしかねない調子に、ナワーブはおやと首を傾げた。たしかに、ことが荒立てられないに越したことはない。だが警官自ら厄介ごとを背負ってご婦人の悩みを聞くだけで済むならば楽ではないか。不愉快げなアンドルーの様子からして、どうやらこの列車には他の問題が隠れているらしい。ナワーブの意味ありげな視線に応えてか、アンドルーはそっと耳元にささやいた。
「……実はソフィア大公妃殿下とイヴァン王太子殿下が乗車されております」
「な、」
とんでもない事実だった。宮廷のヴェールの向こうで今まさに問題となっているクーデター騒ぎの渦中にある人物二人が揃って乗り合わせているとなると、これはただ事では済まされない。この列車は異国へと向かっている――要するに亡命列車でもあるのだ。一等客室の隅になんとか空室を確保できたものの、矢鱈と他の人間に阻まれて様子が窺えなかった理由にもようやく思い至る。頭の中身をすっかり休み気分にしていたツケが回っていたようだ。
アンドルーにしてみれば、大事を前にした些事の連続に苛立っているのだろう。むしろ次の駅で被害者の女性を引き摺り下ろしたそあなの様子である。これまで誰にも話せなかったことで心が塞いでいたのか、アンドルーは滑らかにナワーブに思いの丈を語ってみせた。
「僕がこの鉄道に勤めて以来、こんなことは初めてですよ。首都では何が起きているんです?あの警官が、本当は偶然乗り合わせたのでないくらいは僕にもわかる。陛下と大公の暗殺事件は――大公妃の仕業だと、その証拠を掴みにきているんですよ。陛下は虫の息で、継承権があるのは王太子殿下だけだ。陛下にしろ、王太子殿下にしろ大公妃のご兄弟なのに、世も末です」
王がなくなれば、後継の幼い少年を擁立して王太子が政権を握るのだろう。いかにもこの国らしい古びたやり口だ。現国王に子供がいたか、ナワーブの記憶にはない。いずれにせよこの列車に乗せられているのは次代を担う人物であり、事件を明らかにしたところでこの国の未来はないのであった。自分には関わりのない政治ゲームに肩を竦めると、ナワーブはさらに先を促した。
「僕が気がかりにしてるのは、もっと面倒なことです」
「これ以上に?」
国境を越えるまでの政治的緊張感に上乗せされるようなことがあるだろうか。訝しげに見つめると、アンドルーは何度も唇を歪めては開き、言うべきか止すべきか逡巡を重ね始めた。きっとこの男は誰にも話さずにきたのだろう。彼には列車が全てで、小さな王国の役人なのだ。『他国』の事情など関わり合いになりたくないに違いない。
「た、大公妃は……王冠を持ち出しているともっぱらの噂です」
そして持ち込まれたのは爆弾であった。
今回の上がりも上々だ。スキットルに入れたウォッカをぐびりと飲むと、クリーチャー・ピアソンは窓を開けて熱った肌を冷やした。普段であれば骨まで震えるような吹雪もまるで気にならない。ウォッカは神の水だと聞くが、まさにウォッカ様々だ。誰にでも分け隔てなく与えられる、清らかな水である。もう少ししたらば客室を回ってゴミを回収せねばならない。切符を確認するなどという高等な仕事はまだ自分にはないのだ。
機関室から客室へと勤務変更になったのは不幸中の幸だった。クリーチャーの人生、万事がそうである。故郷で農奴に落ちた家族が仲良く木に吊るされる中を辛くも逃げ出し、鉄道線路を直走って機関室に拾われた。どこも地獄であることに変わりはない。あちらは寒くて死にそうだったが、こちらは熱くて死にそうだ。それでも身分と金を保証してくれたし、真面目なふりをしていれば生きて行ける。元来クリーチャーは頭の周りが良い方だったから、この新しい身分の使い方はすぐに理解した。
この国を端から端まで渡り、異国へと繋ぐ鉄道は、それこそ様々な人間が入り乱れていた。一瞬一瞬で変わる情勢を見抜いて、ほんの少しずつおこぼれを頂戴するなどわけないことだ。大概の人間は忘れっぽいし、旅中ということで忘れようとしさえする。落とし物を届ければ礼を渡されるくらいの気楽さだ。地上で盗みを働く人間の生きづらさよ!ここは楽々と蓄財ができる。いずれ自分もこの列車の果てから抜け出し、自由な空気を吸おう。そんな夢を見るクリーチャーにとって、最後の仕事になるはずの今回は実に不運だった。
莫大な財宝が、人民を踏みにじって踊る王族と共に列車に揺られている。客も貨物もお陰で人の目が厳しい。あんな大きなもの、盗んだところで捌き切れずに足がつくのがせいぜいだ。すぐさま絞首台に続く道のりは望むところではない。自分はもっと堅実なのだ。
「クリーチャー。少し話がある」
「ん?」
もう交代時間か、と振り向けば、お高い車掌のアンドルーが立っていた。後ろにはやや小柄な青年が仕立ての良いスーツを身につけて佇んでいる。すわ警官か、と思ったがあのビクター・グランツでもない。酔眼に力を入れてスキットルをしまうと、クリーチャーはだらしなく開いたシャツのボタンを閉じた。アンドルーの非難を込めた眼差しが痛い。また後でくどくどと苦言を呈されるだろう。
「客室係のクリーチャー・ピアソンです。彼の方が僕よりも客室に詳しい。クリーチャー、こちらはナワーブ
「ナワーブ・サベダーです。よろしく」
探偵をしています、と言いながら前に乗り出してくる青年は矢鱈と目をキラキラとさせていた。思わず一歩下がり、壁にぶつかってクリーチャーはえへんと咳払いした。年下の青年に何を気圧されているのか。もっと厳しい修羅場をくぐってきたろうと自らを叱咤して、クリーチャーは差し出された手を握った。滑らかで、育ちの良さそうな手である。探偵というからには警官よりも小うるさい野良犬だと思っていたが、どうやらお坊ちゃんであるらしい。
「盗難事件について調べてましてね。本当は休暇中ですが、アヴェリナ夫人の依頼を受けまして」
「ははあ、それは大変だ」
本当に。ウォッカで研ぎ澄まされた脳味噌がナワーブの名前からずるずると耳にした話を引き摺り出した。確か東の国で大事件を未然に解決したと新聞に載っていたはずだ。アヴェリナ夫人とは、二等客室の傲慢な中年女性のことだろう。二度ほど『落とし物』を届けてやった相手なので、比較的よく覚えていた。ナワーブのような高名な男が乗り出してくるとは、思いの外あの女性は価値があったのだろうか。まさか自分が疑われているのか、と肝を冷やしつつ、クリーチャーはナワーブを誘って車掌室に向かった。アンドルーは他にもまだ仕事を抱えているとかで、さっさと踵を返してしまう。面倒ごとを押し付けられた気分に重くなりながら、クリーチャーは壁にかかった列車図面を指さそうとし――ぎりりと掴まれた手に青ざめた。
「ちんけな盗みを働く人間を、俺が見抜けないとでも思うか」
「痛っ、お、おいおい、私はただの客室係だぞ、盗まれたら真っ先に疑われる」
「だからやらないって?」
だん、と乱暴に押し倒され、クリーチャーは青ざめた。この男は本気だ。何の証拠を握っているのかは知らないが、本気でクリーチャーを疑っている。鍵が閉まる音がし、ひやりと心臓が冷えた。泳ぐように逃げ出そうとすれば、すかさず腕が伸びて床に押さえつけられる。
「落とし物をよく拾ってくれる、良い客室係らしいな。そんな客室係さんはどうして二重ポケットなんて仕込んでいるんだか」
「や、やめろ」
上着を捲られ、ポケットを弄られる。先程シャツを直していた際に見られていたのだろう。ポケットからは小さな秘密たちが転がり出た。三等客室から掠め取った、古びた紙幣。二等客室からは真珠のついたタイピンに銀時計。一等客室からは金貨。どれも些細で、旅の間ならなくなってもおかしくなく、どこに流れても不思議ではないものだった。
「そ、そうだ。全部私が拾ったんだ!盗んでなんかいない」
「このウォッカ、あんたが飲むにしては上物だろう」
あろうことか、取り上げられたスキットルにナワーブは口をつけていた。げぷ、と吐かれたため息は混じり気なしの満足を物語る。折角のお楽しみを潰されて、カッと腹の底から熱くなった。
「クリーチャーのだ!クリーチャーのだぞ!」
「はいはい、暴れない。良い子にしてたらさ、もっと良いものを飲ませてあげるから安心しなよ」
「何を言ってるんだ……?」
理解が追いつかない。パチパチと目を瞬かせると、得体の知れない青年は顔に似合わぬ邪悪な笑顔を浮かべて見せた。
「親切な客室係さん、一緒に落とし物を届けようじゃないか」
地獄だ。地獄が追いかけてきた。託宣を聞きながら、クリーチャーは風に揺れる家族のことを思った。鳥に啄まれて、もうとっくのとうに地面に落ちたはずの人々。ただ拾った落穂が足りなかっただけなのに。
「お前、とんでもないやつだな」
「そう?親切なあんたには負けるよ」
「よく言う」
汽笛を耳にしながら、クリーチャーは大きく開けた窓からスキットルを放り投げた。もうあんなものに構っている余裕はない。これから先はもっと天国の味わいが待ち受けている。埃っぽい貨物室に、しどけなく座り込むナワーブの隣には、何の変哲もない木箱が大事そうに置かれていた。祖母に持ち帰る土産だと言えば信じてもらえそうな見た目である。
ナワーブが、クリーチャーを脅し(本人は友好的な説得だと語っていた、まったくの嘘だ)て実行した計画はこうだ。些末な盗難事件をさらに起こし、人々の目をそちらに向ける。犯人としてクリーチャーがナワーブに捕まり、首都へと戻る列車に乗って出頭するのだ。警官は元々追いかけているものが違う上に、高貴な方々は思い悩むものが取り除かれて安堵する。ナワーブは華々しく喝采を受けて――王冠をすり替えた。かくて王冠は首都に戻り、死を目前とした国王より褒美を賜る。荒唐無稽で、相当の胆力と計画がなければ実現し得ないものだった。
クリーチャーは不可能だと首を振った。だが、ほかに何ができるだろう?ナワーブがクリーチャーを突き出せば、自分はいずれにせよ縛り首だ。この国では平民の命など羽根よりも軽い。
「この後、どうするつもりなんだ」
策はなった。部屋という部屋を知り尽くすクリーチャーの協力で、誰もが何も知らずに終着駅へと向かう。彼らの真実は自分の知るところではない。ナワーブは薄く笑うと、クリーチャーに隣に座るよう示した。
「そうだな、休みを取るよ。もっと暖かい場所でさ――リヴィエラなんてどうかな。金持ちで、賭け事に狂った馬鹿な連中がウヨウヨしてる」
「魅力的だな」
「あんたと行ったら、もっと楽しいよ」
隣に座ると、するりと手が伸びてクリーチャーのシャツをめくった。内側のポケットをまた弄られる。出てきたのは真珠のついたタイピンだ。意味ありげにつまみ上げると、ナワーブは自分のネクタイにさした。
「ね?」
「……負けたよ」
なるほど、それはナワーブのものだったのだ。最初から自分は目をつけられていたのである。盗むべき相手を間違えたな、とクリーチャーは苦笑し、なんにせよ潮時であったのだと思い直した。多分、唸るほどの報償金を賜るだろう。泡銭を弾けさせながら、金持ち連中から真っ当な顔をしてふんだくるのも悪くはない。
「探偵助手っていうのは儲かるのか」
「三食昼寝付きで、お小遣いは要相談」
ちゃんと弾むよ、とナワーブが脇腹をくすぐる。どちらが本当の盗人だろう。運命を変えたあの日、クリーチャーは全てを奪われた。今更何を惜しもうか。
「ところで、なんで私に決めたのか教えてくれないか」
「今更聞くの?良いよ、クリーチャーが気になるなら教えてあげる」
あんたは地獄の匂いがするんだ。どちらが、と鼻で笑って、クリーチャーは盗人のネクタイを引っ張った。
〆.
あとがき>>
探偵小説も冒険小説も好きな私に、次シーズンが刺さらないはずはなかった……合間の細かな実行の詳細は、書いたらまたぞろ終わらないので今回はメインにしませんでした。いやしかしいつかはという気になってしまう……なんて魅力的なんだ!どの衣装も好きなので、これから説明を読むのが楽しみです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!